はてなキーワード: ハウルとは
「100人以上いるトランスフォーマーの名前は覚えられるのに、15人しかいない徳川歴代将軍を覚えられない」問題、どう考えてもトランスフォームしない徳川歴代将軍が悪いでしょ。— 新指導者病患者 (@2Starscream) 2017年6月14日
↓
「151体いるカントーポケモンの名前は覚えられるのに、15人しかいない徳川歴代将軍を覚えられない」問題、どう考えても将軍言えるかな?CDをリリースしない徳川歴代将軍が悪いでしょ。— あれっくす? (@NStyles) 2017年6月15日
元ネタpostに言及もRTも無いようなんですがいいんですかね?(あったらごめんね)
ちなみにid:n-stylesさん、
朝日新聞も記事出したね。ちなみに朝日新聞からは取材を受けておりません。
https://t.co/EN23x443WO— あれっくす? (@NStyles) 2017年5月29日
“オリジナル”のpostをした自分に取材が来ないことに不満を抱いてるみたいですが、そら(カジュアルに人の発言パクってたらオリジナルかパクりか判断つかなくて)そう(なる)よ
結果としてデマとして広まっているわけで、できればあのツイート消したいのけど記事になる予定なのとフジテレビからの連絡待ちなので消すとまた面倒なことになる。— あれっくす? (@NStyles) 2017年5月28日
↓
86年ラピュタ「人生で最高に引退したい気分」
92年紅の豚「86年を上回る引退の意思」
97年もののけ姫「100年に1度の引退の決意」
04年ハウル「ここ数年で最高の辞めどき」
13年風立ちぬ「出来は上々で申し分の無い引退のチャンス」— あれっくす? (@NStyles) 2013年9月1日
http://anond.hatelabo.jp/20160510063734
SKYTECH TECHNOLOGIES LTD
"address":"SHOJI AIHARA 1243-52; KANASAKI; SHOWA KITA-KATSUSHIKA; SAITAMA JAPAN",
internal_id":"304774" 内部識別番号304774
"jurisdiction":"NIUE" 管轄:ニウエ
"struck_off_date":"13-MAY-2002", 2002年5月13日凍結
"service_provider":"Mossack Fonseca" 仲介者:モサック・フォンセカ
"valid_until":"The Panama Papers data is current through 2015",有効期限 パナマ文書データ2015年時点有効
"ibcRUC":"004893",カテゴリーibcRUC? 004893
"original_name":"SKYTECH TECHNOLOGIES LTD.",
"name":"SKYTECH TECHNOLOGIES LTD." 氏名,スカイテックテクノロジースレイテッド
"country_codes":"JPN",国番号 JPN(日本)
"inactivation_date":"20-MAY-2002", 凍結2002年5月20日
"incorporation_date":"13-SEP-1999", 設立1999年9月13日
"node_id":10193590}, ノードID 10193590
"type":"intermediary_of", 分類 仲介者
"source":215429, ソース 215429
"target":193714, ターゲット 193714
SKYTECH TECHNOLOGIES LTDはおそらくペーパー企業の会社名
日本法人とされるアイハラショウジ(相原/藍原/粟飯原/愛原/商事)も
おそらく仮想名。どこかの会社の役員の名前か、完全な偽名の可能性もある。
あたり一帯は標準所得か、標準よりやや高い程度所得層が持つ低層住宅地。
あるいはその役員の親戚の自宅かもしれない。
設立は1999年9月13日となっているが、口座開設という意味なのか
2013年現在のニウエの総人口は1,229人で、世界最小規模の独立国家。
ちなみにニウエはインターネットでは300万ページものアダルトページを有する
だがそれとパナマ文書の会社と関係があるかどうかは現時点では不明。
ICIJ Offshore Leaks Database
https://offshoreleaks.icij.org/
SHOJI AIHARA | ICIJ Offshore Leaks Database
私は別にSMAPのファンじゃないから、キムタクのハウルを「棒演技www」って貶したし、中居の歌を「クッソ下手www」って嗤ったし、稲垣が帽子被ってたら「ハゲ隠しwww」って指差してたよ!!!
草薙の裸踊り事件は爆笑したし、香取の両津姿は煽り画像として重宝してたよ!!!
そうやって私みたいな底辺が遠慮も罪悪感もなく叩けるくらい、SMAPは超トップアイドルだったんだよ!!!
「庶民にクソミソに罵倒されたところであいつら金もコネも女も持ってて人生ウハウハやろがい!!!アンコラァ!!!」ってなもんだったよ!!!
芸能界がドロドロなのは皆知ってるけどさぁ!!!「それでもあいつらなら、あいつらならきっと人生イージーモード」って信じてたよ!!!というか信じていたかったよ!!!
SMAPも普通のサラリーマンなんだなってわかっちゃったじゃん!!!
年功序列の世界だから上にはヘコヘコするしかないあの感じ!!!独立したら元いた会社に嫌がらせされるああいう感じ!!!
若造ごとき、実力があろうが所詮は培った金と権力には勝てないんだよ!!!悔しかったら会社の株買い占めてみんかい!!!できへんやろ、なら黙って働け!!!うちの養分となって死ね!!!
「SMAPってもしかして私と同じ...?」って思っちゃったじゃん!!!「辞めたいときに辞められるだけ自分のほうがマシかも...」とか思っちゃったじゃん!!!
そういうの駄目でしょ!?
SMAPみたいなスーパースターは、常に上に立って底辺を見下ろす存在でなきゃ駄目でしょ!!!?
底辺が共感できる理由で「もしかしてこいつらって可哀想...?」って同情されたらおしまいだろ!!!
SMAPが可哀想がられていいのは視聴率とネットの叩きだけで良いんだよ!!!
事務所のお家騒動でやつれる姿、上司の派閥闘争に巻き込まれて胃痛になってる先輩と被って見てられねーよ!!!
バーーーカ!!!
「謎の女の子との劇的な出会い(空から降ってくるような)から、大冒険に巻き込まれないかなあ」
「ナウシカみたいな神がかった女性と劇的な出会いをして、自分には目もくれないでいいから、戦友みたいな感じで一緒にいられたらなあ」(妄想の中で自分はチヤルカもしくはセルム)
「サンみたいな突き抜けた女性と劇的な出会いをして、住む世界が違っても『そなたは森で、自分はタタラ場で、共に暮らそう』みたいな関係でおつきあいできないかなあ」
「長いつきあいの女性(ほとんどいない)とか、若い娘とかによくわからないけどモテないかなあ」
「ようやく守らなければならないものができた、君だ」とか、ぼろぼろになって帰宅しても翌朝には平気な顔で元気なふりをしたりとか、ハウルの言動がいちいち心にしみて涙腺崩壊
ジブリ映画の中で何が好き?というトピックで自分の中でもこう変わっていったのを考えると、世の中で名作とか駄作とかいう議論は、その人のライフステージとか精神状態とかによって変わるものなのかなあと思う。
これからの人生で、おおかみこどもの雨と雪とかバケモノの子とかで心がしみる様になるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20150525193142
「声優の演技の気持ち悪さ」ってなんだろう。
なんとなくはわかるんだけど、具体的な例をって言われるとうーんってなる。
ただ、声優の評価って個人差が大きいと最近感じる事が多い。
ブコメでもキムタクのハウルも良いって人と、そんな人いるんだ、みたいな人までいて面白い。
「気持ち悪さ」はひとまず置いといて、最近感じた個人差が大きそうなものを挙げてみる。
そこで便宜的にこんな評価項目で分けてみた。
キャラに | 合ってる | 合ってない |
---|---|---|
声優的? | 声優的 | 声優的じゃない |
演技 | うまい | 棒 |
この右側に◯がつくと、個人差が大きくなりがちっぽい。
追記:以下の表の[太字]が◯つけてる体です。わかりにくくてすんません。
個々の項目については以下の具体例を見てもらえるとなんとなく分かってもらえると思う。
某巨大掲示板で「なんか棒だな」という書き込みを見かけた。
その後の書き込みにより、それを書き込んだ人は池田秀一がキャリアの長い人だという事は理解しているようだった。
カイトの声に「合ってない」ならわかる。なぜ「棒」と言ったのだろう。
単純に語彙が足りなかったのか、棒を別の意味で認識しているのかわからないが、とにかくそういう人がいた。
つまり、
キャラに | 合ってる | [合ってない] |
---|---|---|
声優的? | [声優的] | 声優的じゃない |
演技 | [うまい] | 棒 |
個人的には「棒」でもないし「合ってる」し、好きだという人も多い。
が、初見だと違和感を覚える人が多いようだ。二期のニコ生で「初見だけど主役の人棒だね」というようなコメントを何回か見かけた。
よくある声優的な演技ではないのでそれが原因だと思う。
キャラに | [合ってる] | 合ってない |
---|---|---|
声優的? | 声優的 | [声優的じゃない] |
演技 | [うまい] | 棒 |
こういう子役特有の演技に名称があるなら知りたい。
「むかーしむかし、あるところにぃ、おじいさんとぉ、おばあさんがぁ、いましたぁ」
みたいな、音読上手だねぇって褒められちゃうタイプの演技の延長線上にいる感じ。
わかるかな…
蟲師の子役たちもこれ。ただ蟲師はすごく自然だった。
プリキュアの場合は周りが声優声優してる中で突然出てきたから違和感が強かったんだと思う。
子役特有の演技にも「棒」かそうでないかはあって、個人的にももかは「棒」じゃない。コナン映画のゲスト子役の演技がだいたい棒。
キャラに | [合ってる] | 合ってない |
---|---|---|
声優的? | 声優的 | [声優的じゃない] |
演技 | [うまい] | 棒 |
ギンコと同じだけど「声優的じゃない」にも色々種類があるよ、ということで。
あとハウルもこれなんだと思う。「演技」に関しては賛否ありそうだけど。
ラブライブ!(再放送時)の某巨大掲示板で「言うほど棒か?」という書き込みに対し「それは慣れだ」という趣旨のレスが付いてた。ナニソレイミワカンナイ。…じゃなくて、完全に同意。
キャラに | [合ってる] | 合ってない |
---|---|---|
声優的? | [声優的] | 声優的じゃない |
演技 | うまい | [棒] |
演技が棒なら個人差も何もないんだけど、慣れ次第で評価が変わる稀有な例。
あ、なんかdisってるように見えるけど、真姫ちゃん推しです。
キャラに | [合ってる] | 合ってない |
---|---|---|
声優的? | 声優的 | [声優的じゃない] |
演技 | うまい | [棒] |
こんな感じ?
挙げればキリがないのでこの辺で。
つまり何が言いたいのかというと「声優的じゃない」「キャラに合ってない」等の理由だけで「下手」や「棒」と言われることが非常に多い。
そういうのを見かける度にうーんってなる。まあ個人の感想だし、適切な言葉で言い換えようぜ!と言いたいわけでもないけど。
それで、ここまで書いといて「声優的」って一体何だよって話なんだけど、それが所謂「気持ち悪さ」の正体の一つなんだろうなぁと。
じゃあそれを感じる人感じない人がいるのは、単に「慣れ」なんだと思う。
そしてそれに慣れてしまった人たちが「声優的じゃない」演技に対して、逆に「気持ち悪さ」を感じるようになる…という事なんじゃないでしょうか。どんとはらい。
※これらは全て個人の感想です。
15年ぶりくらいに見た。
最後のトンボ救出シーンは不要論もあるらしいが、やはりあったほうがいいでしょ。
このシーンにまつわる素敵なピースが数多くある。
事故を写す白黒の家具調テレビだったり、テレビにかじりつくバーサさんの静かでゆっくりとした興奮ぷりだったり、「夏にたまにこんな風がふく」という窓をゆらす風の描写だったり。デッキブラシのオヤジや、デッキブラシで飛行するキキを写すために画面に入ってくる街の描写。
どれも愛おしい。
チラというよりパンモロシーンも結構あって、これはいかんでしょと思った。
中身が成熟しつつあることを考えると、13歳のパンツはやはりだめだよ、ぱやお。
少女・幼女はぱやおが世界で最も愛するものだから、まあ仕方がないとして。
ナウシカの婆様、ラピュタのドーラ、トトロの「めーいちゃーん」のババア、魔女宅の奥様、紅の豚で働く老婆。
とにかく少女か老婆なんだよ、女は。
ハウルでは主人公がその2つの属性をもつわけで、ぱやおの女に関するある種のこだわりがこの点にあると見て間違いないんじゃないのって思った。
フェミニストに嫌われるわけだ。
上野千鶴子が言うには、13歳は初潮の来る年齢であり、黒い魔女服がつつむキキの体は女性性を帯びてうんちゃら…
というのには、うなづくことはできなかったが。
今回は2度再生したわけだが、1回目は普通にまわし、2回目は人物や筋を見ずに背景の書き込みだけを見た。
圧倒的に美しいな、街も海も空も緑も。
ウルスラが「夏の間は(山小屋に)いるつもりだから」と言ってたり、トンボが「夏休みの間に飛ばすんだ」みたいなことを言っていたので初めて認識した。
お友達の感じはいかにも夏休みを謳歌する富裕層のクソガキドモであるところは記憶にあったが、トンボの「家」そのものが写っていることに改めて気づいた。
あの家は金持ち。
パン屋のオソノさんちや、何度か映る港湾労働者の家とは明らかに違う階層。
いやー映画っていいですね。
声優ファンがジブリは声優を使わないから駄目だと叩いているのをよく見る。
これは間違いだ、だって声優好きじゃない人からの同意を得にくい。
ジブリは声優を使わないジブリらしい雰囲気を既に確立してしまっている。
寺田のムスカ、糸井のお父さん、キムタクのハウル、加藤のジーナ、美輪のモロや魔女、菅原の窯爺、夏木の湯婆婆、我修院のカルシファーやカエル、森繁の乙事主、西村の甲六、山口のリサ、所のポニョパパetc
どれも味のある声で作品と役の雰囲気づくりに大きく貢献しており、声優のくせのないしゃべり方はジブリ風にあっている。
大体普段萌えアニメで媚びた処女膜声を出しているアイドル声優が、ジブリに起用されたら今の役者などよりよほどクオリティの高いジブリらしい作品になる!と思っているのは声優ファンくらいだろう。
そもそも処女膜から声出て居ないなどと普段から声優が売っているのは処女膜、処女膜アピールのない声優は屑以下の存在価値しかない3流アイドルみたいな言動をしているのに、何で声優の技術を持ち上げたがるのか理解できない。
暇を持て余している神々のような方が読んでくださればうれしいです。
http://wired.jp/2012/08/16/disney-vs-miyazaki/
こちらの記事を読んで個人的に感じたことを。
結婚について今更ながら考えるところのある33歳独身の女です。
うちの父にちょっと似てるな、と思い、なんとなく懐かしく思いながら読みました。
本人に育児方針など直接聞いたわけではないんだけれども。
父はとにかく宮崎アニメの大ファンで、わたしが小さいころから、新作が公開されるたびに家族で鑑賞するのが恒例でした。
わたしが初めて風の谷のナウシカの映画を見たのは4歳のときでした。
子どもに聞かせるつもりで話していたのかどうかわかりませんが、父が、クラリスやシータの受動性と対比させつつ、ナウシカの勇猛果敢でありながら豊かな母性に溢れる高潔な精神を繰り返し賛美していたのをよく覚えています。
「ナウシカ=父の理想の女性像=わたしがナウシカみたいになればお父さんは喜ぶに違いない=わたしはナウシカのようにならなければならない」
という式をわたしは自分の中で早い時期から確立させていたように思います。
もともとの性格に加え、夫の転勤について行く専業主婦、という立ち位置が余計に母をそうさせていた面もあるのかもしれません。
「これからの時代は、女性も社会に出て男性と対等に働いていかなければならない。そのためには小さいころから努力しなさい」
「お母さんのように専業主婦になってはいけない、これほどむなしい生活はない」
と母から繰り返し聞かされて育ちました。
ですからわたしは、周囲に比べるとよく勉強していたほうの子どもだったと思います。
ローラ姫を助けたときに抱いた嫌悪感を、今でもわたしはよく覚えています。
「なんて依頼心の強い女なんだろう!こんな女にだけはなりたくない!」
努力が実り、わたしはまずまずの大学を出て、同世代の他の女性に比べるとわりとお金をたくさん稼げて、しかも長く続けやすい仕事に就くことができました。
今の仕事に就くまでにはずいぶんと紆余曲折があり、決して順風満帆ではありませんでしたが、まあとにかく、わたしは母が願っていたとおり、社会的に自立した女性になりました。
このポジションを得てから、わたしの自己肯定感は急激に強く満たされました。
いろいろ考えてみると、そのひとつに
「これで父の期待にも応えられたはずだ」
という達成感があることに気づきました。
この仕事は、女という性の特質、具体的には「母性」を発揮するのに非常に適した仕事でもあったからです。
自分の中で、ナウシカという強く優しい理想の女性への父のあこがれと、母から期待される「女としての自立」という目標とが混ざり合い、そのすべてを叶えることができた自分が、何かすばらしい存在に思えたのだと思います。
念のために書き添えておきたいのですが、多くの若者がそうであるように、親の期待や願望の言いなりではなく、わたしもあくまで、ときに両親に反発もしながら「自分の意志」で道を選び続けてきました。
今から自分の落ち度というか、重大な取りこぼしを書くのですが、それを両親の育て方のせいにしたくて書いているわけではありません。
この文章を書いているのは、幼少期からの親との関係性がどのように「自分の意志」の形成に影響してきたのかを自分なりに分析してみることが、これからの自分の人生にとって、なにかしらの糧になるだろうと思ったからです。
わたしの取りこぼしとは簡潔に言うと「努力が報われるのは、正しい方向に努力したときのみである」ことを失念していたことです。
仕事で成功したいのであれば仕事を頑張ればよい。スキルを上げることはもちろんのこと、上司や部下との円滑な人間関係の構築、根回しのやり方なども含めて、的確な努力を続けていればだいたい結果はついてきます。
当たり前ですが、仕事を頑張ってついてくるのは通常、仕事の成果のみです。
という話は、わりとあるように思えるかもしれませんが、そのふたつは直結はしていないと思います。
仕事を頑張る姿に惹かれて、というのはあくまできっかけでしかありません。
過程には必ず、純粋に「結婚を成功させるための努力」があるはずです。
ここを穿き違えていたことがわたしの失敗でした。
「彼女たちは、男性との関係以外にも、自分というものを持っている。たとえば『千と千尋の神隠し』では、10歳の千尋が両親を助けるために自分の身を危険に晒す。ストーリー構成に含まれるロマンスは、本題から外れており、千尋の生活の中心ではなく、両親を助けるという使命のサイドストーリーにとどまる。こうした特徴は、『ハウルの動く城』など宮崎作品の多くに共通する。
わたしはロマンスに反対しているわけではない。わたしの大のお気に入りである宮崎作品は、『ハウルの動く城』と『耳をすませば』の2作品だ(後者は宮崎氏は脚本を書いたが監督はしていない)。いずれも完全に公式に従った古典的ロマンスだが、この2作品のヒロインであるソフィーと雫はいずれも、異性との関係のほかに、関心事や自分の生活、個性を持っている。」
他ならぬ『風の谷のナウシカ』も、まさにそうです。
多くの宮崎アニメにおいて、ロマンスはサイドストーリーなのです。
わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
その結果、33歳独身、あんまりさびしいから猫でも飼うか、などと考えているマンション暮らしの独身女性がここにひとり、できあがりました。
ナウシカとアスベルは最後まで結ばれません。千尋とハクだって。
ハウルとソフィー、雫と聖司は結ばれますが、後者が前者と違うのは、やはり作中で「恋」「愛」そのものに向かい合った努力をしているところです(耳すまでは、その努力をしているのは主に聖司のほうですが)。
ナウシカや千尋は、恋い慕う相手と結ばれることを努力目標にはしていません。
心が通じ合う喜びを知りこそすれ、そこまでです(ナウシカは原作を読むとその辺の距離感がよりわかりやすいのですが)。
そもそも、風の谷のガンシップとアスベルの赤いガンシップが「おい待てよ~」「つかまえてごらんなさいよ~」なんて楽しく追いかけっこをしているようなナウシカなんて誰も見たくありません。
ナウシカは、みんなの姫様であると同時に誰も同じ境地を理解しえない孤高の存在でいるからこそナウシカなのです。
千尋も「ハクと離れるくらいなら千のままでいい!」なんて言ってしまったらすべてが台無しです。
ともすればストイックなまでの、あの潔さが宮崎アニメのヒロインたちの魅力を何倍にも引き立てているのです。
そしてくどいようですが、わたしは自分の人生において、これをそのままなぞってしまったのです。
そりゃストイックにならざるを得ない人生が待ち受けているに決まっています。
もともと、結婚願望はそれほど強くありませんでした。
でも、したくないわけではありませんでした。
結婚はまさに「サイドストーリー」として、おまけのようについてくるものだと思っていました。
自分の今やるべきこと(=仕事)を頑張っていればそのうち結婚もできる、と、両者を直結させて同一視していたように思います。
ディズニープリンセスも最近ではいろいろで、リンク先にあるように宮崎アニメとはっきり対極をなしているヒロインばかりではないようです。
「伝統的スタイルのディズニー作品は、古くからある「囚われの姫君」モデルに頼っている。『眠れる森の美女』や『白雪姫』、『シンデレラ』といった物語のヒロインは、状況を打開するための行動を、ほとんど何もしない。ヒロインは自分自身のドラマのなかで主体になっていないことも多い。ただ料理や洗濯、掃除をして、美貌で王子を夢中にさせるだけだ。そしてヒロインに夢中になった王子が、ヒロインが受動的に身を委ねている苦境から彼女を救い出す。
ただし、新しいスタイルのディズニー作品では、少なくとも、物語に登場する女性たちも主体になり、しばしばヒロインは王子を救うために行動する。だがプリンセスの行動は、もっぱら王子との関係のために行われるものだ。」
あくまで王子との関係性において力を発揮する、という意味で、ソフィーは極めてディズニープリンセスに近いヒロインだと思います。
そして「ハウルの動く城」のラストは、ソフィーとハウルのキスシーンで締めくくられます。大団円です。
「恋」「愛」に正面から向かい合ってひたむきに(そして的確に)努力し、苦難を乗り越えたからこそ、彼女たちは王子様と結ばれたのです。
彼女たちにとっては、それはサイドストーリーではなく、達成すべき目標そのものだったのです。
ソフィーのモチベーションが「ハウルを助けること」ではなくて「世界平和」だったら、きっとハウルとは結ばれなかったでしょう。
「昔ながらのディズニー・プリンセスも、新しいスタイルのディズニー・プリンセスも、男性を虜にして、ぜひ自分の妻にしたいと男性に思わせるだけの美貌と魅力を備えている。プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。
父親であるわたしがさらに不満なのは、ディズニー・プリンセスの性的魅力が、周囲の男性を変えていくほどの強い影響力を持つことだ。『美女と野獣』や『アラジン』、『塔の上のラプンツェル』といった映画について考えてほしい。ディズニーのおとぎの国では、性欲に駆られた結果として、男性が「いい人」になるのだ。
わたしは個人的に、自分の性的な魅力によって彼らを変えられると信じて、感じの悪い男性と性的な関係に陥る多くの女性たちを知っており、娘たちにそのような女性になってほしくない。これはディズニー映画の問題ではなく文化的問題ではあるのだが(われわれが購入しなければディズニーも販売しないはずだ)。 」
しかし実際、意中の男性を虜にするには、十分な性的魅力がなくては話にならないのです。
「感じの悪い男性」と関係を持つのは確かによくありませんが、だからといって性的魅力がないと王子様とのロマンスも生まれません。
性的魅力を磨くことと、「感じの悪い男性」に引っかかることは直結しません。
ディズニーの王子様達は女性にとっても魅力的な男性ばかりで、このような男性と結ばれるには女性にもそれ相応の魅力が必須である、というメッセージはなんら間違っていないと思います。
このように十分な性的魅力を持ったプリンセスたちがまさに王子様との愛のために奮闘する物語、この要素が、わたしには決定的に抜け落ちていたのです。
リンク先にもあるように、古典的なディズニープリンセスのモチーフである「囚われの姫君」は、極めて非力で弱々しく、受動的な存在として描かれます。
この弱々しいお姫様が王子様によって助けられ、めでたしめでたし。
なんて女性にとって都合のよい展開なのでしょう。
なぜ彼女たちは、助けてもらえるのでしょうか?
プリンセスの性的魅力は、王子様を意のままに操る絶大なパワーを秘めているのです。
そのことに気付いたのは、大人になってからでした。
思春期のわたしが彼女に嫌悪感を抱いたのは、美しいお姫様だから、というだけで周囲に何もかもお膳立てしてもらえるのが気に食わなかったからですが、ではなぜ気に食わなかったのか。
本当は、そういう存在にもあこがれていたからなのだと思います。
自分の中の奥深いところには、ナウシカが理想像として根付いてしまっています。
しかし、小学生女子が当たり前に生活していて、いわゆる典型的な「お姫様」的概念に触れないでいることはまず不可能でしょう。
自分の家にはなくとも、たいていの友達の家には少女漫画がありますし、ディズニーのビデオ(当時はビデオ)だって。
思春期、わたしはまさに、ディズニープリンセスになるべきか、ナウシカになるべきか、で葛藤をし続けていました。
今思えば両立も決して不可能ではありませんでした。
わたしはナウシカを選びました。
そのまま中学生になり、高校生活を過ごし、大学生になり、社会に出ました。
そして、ディズニープリンセス達の力がいかに強大なものかを知ったのです。
彼女たちは、同期ばかりでなく上司や先輩の男性に対しても、強大な力を見せつけてくれたのです。
そして彼女たちはいつでも「恋」と「愛」については全力投球でした。
努力は彼女たちをますます美しく魅力的な女性へと成長させ、そうして十分に性的魅力を獲得した彼女たちは、王子様のもとへと嫁いでいきました。
プリンセスにも、いろいろいました。
賢くて仕事がとてもできる人、そこそこ普通に仕事をこなしてる人、どっちかっていうとあんまり仕事ができない人。
でも、彼女たちの結婚に、仕事で頑張っていたかどうか、は関係しませんでした。
あくまで女性として魅力的かどうか、でした。
当たり前すぎる話です。
もちろん、プリンセス達にも悩んでいる人はいるかもしれませんけど。
かつてのわたしの母のように。
わたしも今の人生を後悔しているわけではありませんし、今からでもご縁がないわけではないのかもしれません。
けれども自分にもし女の子が生まれたら「美しく魅力的な女性になってほしい」というメッセージは発し続けたいと思っています。
仕事を「サイドストーリー」にするかどうかは本人次第だけれども、性的魅力を高めておくことの大切さを知ることは、非常に重要だと考えます。
長すぎました。
申し訳ありません。
そう考えると俺が面白かったというだけの話。長い。呪文唱えとく。ティロ・フィナーレ!
破でシンジが「世界がどうなったっていい!」(だっけ?)と叫んだとき自分は「ポストエヴァがやっと終わった。」と思った。
だからまどかマギカを見ながら、このアニメが終わったときに、いったい何が出てくるんだろ?と思っていた。
でも違ったようだ。まどかマギカはポストエヴァの総決算みたいなアニメだった。
ここで俺の見たアニメを二つに分ける。さすがにこれで全部じゃないが、すごく少ない。
【なんとなく出来た/お題を出した】
【理詰めで作った/お題に答えた】
エヴァはよく分からん。あれはどうも「作っている最中になんか出てきたwよく分からんけど、とりあえず入れとけ。」
みたいな感じで作ったように見える。
でもそれに対して、「あれはこういう意味なんじゃないの?」と答えるようなアニメが沢山作られた。
それがポストエヴァと呼ばれるものだと思う。とりあえずそういうことにしといて。
一方、トップ2!とハウルは分かり易い(と思う)。尺が短いってのもあるだろうが、やりたいことが決まっていて、
(ちなみにポニョは分からん。ちょっと不愉快に感じる分からなさだ。)
で、自分はこの2つをエヴァが出した問いに答えたアニメだと思っている。
この2作には「世界を救わない救世主」が出てくる。最終的には救ったりもするけれど。
まあそうなのよ。別に救わなくていいのよ。
この答えは当初はともかく、今ではかなり受け入れられたんじゃなかろうか?破でシンジもああ叫んじゃったことだし。
(まどかも世界を救った訳じゃない。ストパン2のラストは、今時こんなの流行んねーよって思った。)
でもねえ、あいつら全員すごい力をもってる訳よ。お前らそれでいいだろうけど、俺はどーすればいいのよ、
ってな感じで、まああまり使えない。
横にそれるが、当然トップ2!はエヴァよりも「トップをねらえ!」を意識している。
ところでトップ2!って不人気なのかね?まどかマギカのラストはトップ2!のパク…リスペクトだと思うんだが。
もっとも、俺が知らんだけで、まどかマギカがリスペクトしているアニメ・漫画は他に沢山あるだろう。
ハウルはあれだ、こんなの爺さんに作らしてちゃだめだろって思ったんだが、どうなのかね?
で、まどかマギカだ。
まどかマギカは次のようなお題を立てた。
その答えは、
たったこれだけのことに、なんとも手の込んだことをしたもんだ。でも単純であることと、それが伝わるかどうかは別なわけで。
物語のほとんどの時間を、まどかは泣いたり悩んだり何も出来ずにおろおろしている。
最終的にまどかは神的存在になって魔法少女達を救うけれど、彼女達を救ったのは彼女の力ではなく願いだ。
(別の終わりもありえたけれど、あの願いだからこそあの終わりかたになったわけで。)
そう信じることくらいなら、自分にもできるだろう。
改変後の世界の魔獣は白くて皆同じ姿をしている。あいつら多分感情を持っていない。
それに対してほむらの翼は黒く濁っている。