はてなキーワード: デカルトとは
まず科学というのは17世紀デカルトの明証分析総合枚挙からなり、合理的批判に耐えられたものは正しいというところから始まってる。
逆にそれ以前のこれは正しそうだという知見は多かれ少なかれ、宗教に結びついている。そこも元を正せばブッダやイエスや禅僧など宗教者がこれが正しそうだという自分の経験をもとに正しそうだと言ったのだからね。
マインドフルネスがまだまだ霊魂やあの世やスピリチュアルに取り憑かれやすいのも、根源的な「脳の疲労」なるものを人類が直接観測できないからだ。それは仕方ない側面がある。
血流の中の疲労因子で見れそうというのはなんとかわかってきたものの、複雑な高分子がちょっと変わったみたいなものを、生きている体に対して直接簡単には測れない。
だけど、自分自身の「脳の疲労」なんだから、自分自身の体内の感覚に集中していれば薄っすらと感じられるもの。スピリチュアルとして外的存在に依存する意味はまったくない。
また、霊感商法やら自己啓発セミナーがだめなのは、セミナーに依存させようとするから。問題があって苦しいから瞑想やマインドフルネスやヨガを始めるのだろう。セミナーも商売なもので、問題解決したら飯の食い上げだ。
なので、常に不安を抱えたままで、セミナーに依存してくれる状態を作り上げる。そして、信教の自由があるから、そんなセミナーを潰そうとするやつはもういない。
あからさまに不幸に見えるのに、霊感商法や自己啓発セミナーの勧誘をするという怪しい人間は弱まっているときに、セミナーに引っかかって生まれてしまった。
残念だけど、弱まってるやつが関心を持っているというのは悪徳な人間には知れ渡っている。だから、セミナー関係で学ぶのは危険が大きい。
本やネットで学び、脳の疲労を取り、霊魂やスピリチュアルなど自らの感覚以外の者に結びつけようというやつはまがい物として排除しないとならない。
宗教知識も、今や本やネットで自分がたちが悪いやつと縁遠く明晰な判断ができる状態で身につけるべきもので、セミナーや宗教組織で学ぶべきではないよ。ましてや「キラキラ」なものを求める欲望こそが、悪徳な人間に引っかかる。
今日のコーデ(coord)は、直行する三本の直線をあしらったクールなコーデだよ!
\カーテシアンコーデ!/
「パッカーン! コーデゲットォ!」
今日のコーデ(coord)は、円と直線のをあしらったキュートなコーデだよ!
「パッカーン! コーデゲットォ!」
今日のコーデ(coord)は、球対称が素敵なエレガントなコーデだよ!
コーデ:ファッションのコーディネート(coordinate)と座標系(coordinate)って同音異義語だったんだね
カーテシアンコーデ:みんな大好きX-Y-Z軸の直交直線座標系。名前はデカルトにちなむんだね
シリンドリカルコーデ:茶筒でおなじみ円筒座標系(cylindrical coordinate)なんだね
スフェリカルコーデ:まんまる球座標系(spherical coordinate)なんだね
生まれつき五メートルくらい距離感が狂うメガネ(比喩)を掛けて生まれてきたとしたら、そしてそのメガネが仮に誰の目にも見えないとしたら、そのメガネの存在に気付くのはいつになるのだろう。見えないメガネってことだから、その存在には中々誰も気付けない。自分自身さえも。
でも多分生きてると何となく自分の見方と他人の見方がちょっとちがくね? っていうことに気付き始めるもんで、「あれ? 私の距離感五メートルくらいズレてね?」ということに最終的にはなる気がする。勿論全ての人が正確に物事を認知できるわけじゃないから、本当は五メートルズレてるのに「あれ? 私の距離感三メートルくらいズレてね?」とか、「二メートルくらい(ry」みたいに、その「ズレ」に対する目算というものも人それぞれちょっとズレてたりするわけなんだけど、ともかく、恐らく長いこと生きてたら大なり小なり自分の距離感がズレてるっていうことには気が付き始めると思う。
いや勿論現実にそういうメガネはないし、そもそも「五メートルのズレ」って何を基準にして五メートルよ? みたいな意見が存在しているのも分かる。
でも、本当に俺たちが警戒しなければならないのは俺たちは皆多かれ少なかれ実際にそういうズレたメガネを掛けて生まれてくるということで、何ならそのメガネは場合によっちゃ百メートルくらい狂ってるってことなんです。そして、俺達はそういうメガネのズレについてずっと、人生を通じて考え続けなきゃいけない。
「いやいや! そんな眼鏡ないし! っつーか五メートルだか百メートルだかって何を基準に決めてんの! 人それぞれの距離感はあるよ」とか言ってる人間を片っ端からゴミ箱に入れて封印していきたい。いや、勿論さっきみたいな「いやいや!」ってな発言にも一理や二理以上に真っ当な部分はあるんだろうし、少なくとも、「『ズレ』っていう観念は何らかの『正しい基準』の存在を基に初めて成り立つものであり、そういう基準の実在性の根拠なしに『ズレ』を主張するのはそれこそ『ズレ』てる」、ってな感じでその意見に論理的正当性があるのも十全に理解できるんだけどね。そこに確かにズレはない。
でもね、そんな風に「いやいや!」って大手を振って発言できるあなたと私はズレてるよね。ってなことを思うわけです。あなたのズレと私のズレはあるよね、と。お前のズレと私のズレはそれぞれの文脈でしか語ることのできない深淵ですよね、と。どんだけ人が他人からズレてて、そしてどんだけ自分が奇妙なメガネを掛けて生まれてきたかってことを、本当にきちんと測定する基準というものは基本的に存在していないし、存在していないものを一々考えて勝手に悩む人間に対して、わざわざ「気にする必要ないって!」と声を掛けてくれるだけその人は善良なのかもしれない。あるいは、そもそもその人だって同じようなズレを許容しようとしているか、そうでなくてもどうにかズレと付き合っていこうと一生懸命努力しているのかもしれない。でもね、お前の言ってることはおかしいんだよ。基準は本当には存在していないかもしれない。どこにも「ズレ」と言える概念なんて実在していないかもしれない。でもね、「なんかズレてんな」って気持ちは確実に存在しているんだね。いや、その気持さえ実はズレてんのかもしれないけれど、まるでデカルトの自己反駁みたいに、「『ズレ』てると感じていること事態が、そもそも『ズレ』てる。」のだとすれば、いずれにせよそこにはズレってものが存在しているんだね。存在しないズレを存在しない部分に見出している時点でズレてんだそれは。その存在しないズレみたいな一種の宗教的かつ狂信的な観念を中心にしか人は物事を考えることはできないし今なお人はズレ続けていく。
言いたいことがズレました。僕が言いたいことはね、
皆多かれ少なかれズレのあるメガネを掛けて生きてるってことです
皆さんズレについて日々考えながら生きてますか。
自分がどれくらいズレてるか、そして仮にズレてたら、どうそれを修正すればいいのかについて考えていますか。五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル歩み寄らなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル離れなければならないということ。あるいはその逆に、五メートル離れてるな、と思ったらむしろ五メートル離れなけれなきゃいけないということ。五メートル近いな、と思ったら、五メートル近寄らなければならないということ。ゴミ箱に入れるぞ貴様ら。
あるのか?
あるとすれば「学術として成果を出し続ける。儲かるか?さてね。」だろう。
そう。錬金術師が17世紀のデカルトの方法序説に触発されて、科学的検証手法を取り入れて化学に転じたのと同じようなことで。
無論、学術で成果が出たやつには儲からないものも多いのだから、成果を売上とするのなら、やっぱり殆どはそれをなせないということで大学の先生方や国立研究所職員の方々はやっぱりみんな詐欺師なんだろう。
科学軽視、科学の金軽視、起業だイノベーションだーフンガンガってのはそういうことなんだなーと。科学者と錬金術師の境界が、、、、、消える、、、、。
真正の詐欺師もそりゃ先端分野には混ざってるのだろうね。だけど、その裏にはまだ成果は出せないけど夢を持ってる科学者もいっぱいいるんだろうねー。
哲学というと難解な用語と訳の分からないレトリックだらけの本をイメージする人が多いけどそんなこたぁない。なんならセンター試験の方がムズい、たぶん。
初心者といっても普段本を読まない人をここでは対象にする。本を読む人は偉いのでそのまま自分流に頑張って下さい。
まず、知識として学びたいなら哲学用語図鑑でいいと思う。パッと見れるし漫画チックだし。で、ここで気になった哲学者とかの本読めばいいいじゃん(完結)
で、それもめんどくせーという人間に向けて三冊。
やっぱりギリシャ哲学読まなきゃ始まらんでしょ!という方はこちら。対話形式で読めてプラトン流のソクラテスの考え(所謂イデアってやつ)が書かれてるぞ!でもやっぱりメノンの方がサッと読めるからメノンの方がいいかもしれんわ、選べ。
えっ、あの我思うゆえに我ありの本!?と思うであろう本書、デカルト自ら寓話だと思って読んでくれと言ってるので内容も難しくなく読めちゃう!なんてったって訳を除けば100頁もない!
おいお前マルクス主義者か?と思うのも待って欲しい。というのも第二次世界大戦後の哲学者というのは大抵は資本主義の問題に直面せざるをえなくなっている。そこでやっぱりマルクスが与えた影響というのは大きすぎるわけで、重要な古典でもあるわけです。だからこれからニューアカとか読んでみて~となるなら読んどくべきなんですなぁ。(いかんせん頁数が少ないのでいい)
と、紹介したけど結局は気になる哲学者から読め。あと90分で分かる~とかそういうシリーズもいいとは思うけど原本も読むべき。まぁ、やっぱり頁数が少ないのは正義だよなぁ。
※基本自分用。ついでに公開という体。
元増田の言うところの分解する手法は大変有効で、社会的な事柄のみに限定すれば肯定感は高まる。だけどこの方法では社会の節目が訪れ、概念が180度変わるシーンでは無効化されると思う。例えば玉音放送前と後のショックの大きさについて数多くの証言が残されている。国家というアイデンティティを個人レベルに適用していた人は自信がもろく崩れた。海外でパスポートを失ったとき、辻仁成は、所詮肩書など紙切れに過ぎない。遠く外国において自分は何者でもなかった、と小説の後書きに記した。
自己肯定感を至極真面目に考えると、自己の定義から始まり、自己の発生箇所、範囲、形而上的な自己という精神について絶対に避けられなくなる。デカルト~フッサール~ハイデガーをつらっと見てゆくと、自己とは何かがますますあやふやになってゆく。分子や細胞など、SF的な見地でもいいかも知れない。自己という要素は認識や意識にまで還元され細切れにされる。
相対的な評価は、たとえそれが当時絶対的に見えても絶対性がまるでない。わたしというものを社会性と接続されるあらゆるものから切り離すべきで、そうでないならば、実際のところ自己評価、他者評価とは単なる一社会一形態・一時代のマーヤーに過ぎないことが理解できる。自己がマーヤーであるなら他者もマーヤーであり、そこには般若心経的な世界観が広がってゆくばかりだ。空とはなにもないわけではなく、"ある" と錯覚するものが多数の変じ易い要素によって形成され、例えば社会的な成果や経験に見える、といったものらしい。自己に言い換えるなら、自己が存在しているという実感は単なる各細胞(社会的なレッテルや成果を含む)の成り立ちに過ぎない。自己を考え、また認識することはまるで無意味だ。したがって元増田の希薄さとはまた違い、自他ともに興味が消失するところに真実があるものと思う(あるというより、ないのだけど)。
じゃあなんだ、どうすればよいのか。
自己と他人に無頓着になり、興味のみを追えばいいと思う。これは多少齟齬を含んでいて、他者に興味を持てない状態で他者に興味を持つというおかしなロジックを持っている。言ってしまえば他者に "ある" ものは追いかけなくていい。社会的な地位や金、恋人、そういうものではなく(仮にそういうものであったとしても)純粋に動物的に欲求するということ。たとえば奇妙な話、金という働きに極度の興味があるなら金集めに奔走してもいい。ただしその場合でも金にまつわる "ある" と錯覚する自己認識を持つ必要性はない。それは自己ではないから。
だけどエビデンスとは何か?先に金かけて明証分析総合枚挙(デカルト)がなりたつ調査をして、査読プロセス(他の専門家によるチェック。高いレベルの学術雑誌だと鋭い批判を受ける。これに正しく反論したら論文は受理される)をへて積み重なった知識の集合体。
んだけど、コロナは世界初のことばかりなんだから、エビデンスなんかないものが多数。それでいてもエビデンスがある!と曖昧な調査を元にエビデンス呼びしたりする。
エビデンスがあるものを積み重ねれば正しい結論に導くと、そもそも調査まだしてないからエビデンスがないのに勘違いした行動をする。
エビデンス自体金と時間をかけての試行をしてから生み出されるもの。なのに金と時間をかけて調査する前に調査するエビデンスをという本末転倒な発言が横行する。
また価値判断に陥ると特に評価は難しい。一応は強引に銭勘定に還元して評価させるという手はあるが、銭勘定するまでの準備が整ってないものが多いし、銭勘定できないが社会に不利益な要素が見過ごされる。
広げると偽陽性によってコロナに感染していない人間も陽性として隔離される。狭めるとコロナに感染している人間を見過ごして感染を広げる。
「コロナ感染を広げないこと第一」であれば国民全員に対する定期的な抗原検査だね。偽陽性で巻き込まれて隔離される人間もそうとういるだろうけど、コロナに感染している人間を逃す比率は一番減るから一番早く収束する。
巻き込まれた人間はたまったもんじゃないかとはまあ思うけど、表面的には当人は陽性だから納得はするかもという気持ちもある。
個人的にはある程度偽陽性巻き込みを前提に隔離をしていかないとならないとは思う。さて「どこまでの偽陽性巻き込みが社会的に許されるのか?」、これにエビデンスを元に正しく評価なんてものが「今の段階で」できるのかねぇ。
.
1、2
もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察(デカルト、方法序説)
https://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html
.
これは水です。(David Foster Wallace)
https://j.ktamura.com/archives/this-is-water
.
https://softether.hatenadiary.org/entry/20131125/p1
.
.
.
2
https://softether.hatenadiary.org/entry/20070326/p2
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/tsuredure012.html
https://esdiscovery.jp/knowledge/japan/literature_ja02.html
.
3
自分で思っているより、あなたは頭が良いことを示す13のサイン
https://www.lifehacker.jp/2018/12/18176213_signs_businessinsider.html
.
4
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html
.
1、2
もろもろの学問分野で、正しく理詰めで真理を探究するための方法についての考察(デカルト、方法序説)
https://www.genpaku.org/dcart01/dcart10j.html
.
これは水です。(David Foster Wallace)
https://j.ktamura.com/archives/this-is-water
.
https://softether.hatenadiary.org/entry/20131125/p1
.
.
.
2
https://softether.hatenadiary.org/entry/20070326/p2
.
3
自分で思っているより、あなたは頭が良いことを示す13のサイン
https://www.lifehacker.jp/2018/12/18176213_signs_businessinsider.html
.
4
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html
仕事を終えて家に帰ると待っていてくれる存在がいてくれるのは幸せなことだ。彼女と食卓をともにし、一緒に眠る。満たされた日々だ。
彼女を迎えてから、就寝前と起床後に彼女を着替させ、髪を梳かすという習慣ができた。そうなると自分の身なりも整えようという気分になる。生活も規則正しくなり酒量も減った。健康診断の数字も改善しつつある。
そんな生活をしている自分からすると、「幼女型ラブドールの所有者はやがて実際の幼女を手にかけるようになる」などという主張は、何の根拠もない戯言に過ぎない。
ほぼ完璧な美意識のもとに作られた理想的な美少女が自分のもとにいるのに、なぜ汚い上に泣きわめく現実の幼女などに手を出す必要がある?
自分は中学のときクラスの女子たちに嫌われ、様々な嫌がらせを受けていた。理由は「背が小さいから」。それだけだ。
事あるごとにチビだ短足だと罵られ、すれ違いざまに足をひっかけられる。ドールはそんなことはしない。
満員電車の中で臭い香水をプンプンさせながら、蛾の鱗粉のようなファンデーションと血を吸った直後に潰した蚊のような口紅を人の服にべったりとなすりつけ、挙句にこいつは痴漢だ被害者は自分だこれはその証拠だと鬼瓦のような顔で喚き散らしたりしない。周囲の人が弁護してくれなかったら慰謝料をむしり取られていただろう。無理だとわかるとそいつは金切り声を挙げ、人に唾を吐きかけて逃げていった。
それに比べたらドールはただ何もせず一緒にいてくれる。「自分の思うようになる」からではない。自分に対して敵意を持たない存在というものが、どれだけ温かく感じられることか。
自分の同期は結婚から数年で妻の有責で離婚し、それでいながら娘の養育費をせっせと送金している。月に一度の面会日はドタキャンが多く、思うように息子と会えていない。
上司は中学生になった娘からキモい臭い近寄るなと罵られる毎日だそうだ(飲み会で酔って愚痴っていた)。それでも家族のためにと少ない小遣いで頑張っている。
要するに女が男に性的に搾取されているというのは嘘っぱちで、むしろ女こそが男を蔑みながら搾取しようとどす黒い陰謀を巡らせているのである。世の女性がラブドールを目の敵にしてゴチャゴチャ喚き散らすのは、男の理想を体現した人形が現れれば当然男はそちらに夢中になるため、搾取できなくなるからに違いない。つまり実利の上で脅威を覚え、排除しようとしているのだ。
まあ嘘っぱちというのは言いすぎかもしれない。しかし女を性的に搾取しようとする男に群がる女がいるのも否定できないのではないか。さだまさしの「関白宣言」を女性差別だと叩いておきながら、グループ魂の「君にジュースを買ってあげる」で歌われてるような男に夢中になるような女が。
理想的な美女として作られた人造人間・ハダリーと貴族との恋を描く「未来のイヴ」を著したヴィリエ・ド・リラダンも、「砂男」で美少女人形のオリンピア(オペラではコッペリア)に身の破滅を招くほど恋い焦がれる男を描いたエルンスト・ホフマンも、人形にフランシーヌと名付けて娘のように愛した哲学者のデカルトも、現実の女性に幻滅していたのではないかという気すらする。
レイチェルみたいなレプリカントが目の前に現れたらデッカードならずとも駆け落ちしたくなる。
ラブドールで満足できず現実の女児に手を出そうとする不届き者は間違いなく社会に害を為す変態だからさっさと逮捕し宮刑にでもすればよろしい。