2020年の目標として優しい人になろうと思ったのだが、問題は人に優しくしたとき相手に対して「どうだ優しくしてやっただろう」と心の中で感じてしまうことだ。これまでの人生自分の損得ばかりを考えて生きてきたせいだろうか。
自分の思い描く優しい人は、人に優しくすることに対して見返りを求めず、優しくしたことでおごることもない。純粋に人に優しくすることがこんなにも難しいことだとは思わなかった。まだまだ人に優しくする初心者なので、優しい人になる手段としての『優しくしてあげること』に意識が行きすぎているだけなのだろうか。今のまま続けていつのまにか心の中の優しくしてあげたというドヤ感が表情や態度に出るようになってしまうのではと考えると恐ろしい。毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛いと思っていたが、どうやら自分にはその素養があるようだ。それとも『毎回ドヤ顔で人に優しくするやつは痛い』という感性が自体がおかしいのだろうか。
書いていて思ったが、人に優しくしてやったと思ってることが表出するのが恐ろしいというのは、つまるところ自分のために人に優しくしてあげたいということなのかもしれない。優しい人であることに優越感を感じようとしている。相手に見返りを求めない分、心の中でこうした報酬を用意しているらしい。それでいて自分のために人に優しくするやつは痛いと思っている。やらない偽善よりやる偽善とは聞いたことがあるが、やる偽善よりもやる善が良いに決まっている。
この問題を解決するにはどうしたらいいのか。人に優しくするのが当然の家庭環境に育った人はこんなことを思わないのだろう。この心の中のドヤ感を抱えながら人に優しくすることを続けてよいのだろうか。しかし、優しくすることを当然と思うようになるよりも、優しくすることによるドヤ感、優越感の方を当然と感じてしまう人間になってしまう予感がする。
なんか微妙な時期の置き方の再投稿だな
できる。
カントだったかデカルトだったか忘れたが、 本当はやりたくないけど優しくせざるを得ない! って状況で優しくする、普段は優しくない人間こそ真の優しい人らしい 増田の場合は本...