はてなキーワード: 日本民族とは
日本人男性の平均身長は172cmのはずなのに、180cmが珍しくなくて160cm台が皆無の職場ってある
というか採用面接時に172cmで足切りされたのかなというくらい172~182くらいに身長が集中している
その職場においては平均が178cmみたいな偏り方 日本人男性の身長分布から考えると中央が171~172なんだから自然にこうなるわけがないのに
財閥系に多い気がする ジムに行っている人の率も高くて、体が薄い人が少ない気もする 100%が元運動部
男性が人事で男性を新卒採用しているんだけどルッキズム的なふるいにかけられているというか すごく画一的
男性が男性を見ためで選ぶとこうなるんだな…という ジャニーズ系ではない 細くない 健康的
髪型も似たような感じ 額を出して必ずセットしている 髪質もハリコシのある直毛ばかりというか、同じタイプばかりのような気がする
白人は色素が薄く細いカールした髪が多く、太くてコシがあってツヤのある強い直毛の黒髪は東アジア人の特徴らしいけど、そういう東アジア美意識って感じの髪質
汗だくになってもペタッとしなさそうな髪質とでもいえばいいのか…伝わる? あるよね一本一本にコシがあるせいなのか髪洗ってなくても皮脂でペトっとなりにくい髪質
(実際に清潔かは別として「清潔感」があるように見える髪!逆に、薄毛気味の猫っ毛だとペトっとなりやすく髪を洗ってても不衛生に見えがち!)
そして丸の内勤務の財閥系の正社員の異様なほど画一的な印象と逆で、工場勤務は容姿がばらばら
163cmもいれば181cmもいる すごい不細工もいればイケメンもいてあまり容姿のパターンがみられない バラバラ
「こういう人、工場勤務に多いよね」という容姿の特徴が何もない
丸の内勤務の財閥系の正社員の男性の画一的な印象はナチス親衛隊に近い
ナチス親衛隊の条件、金髪、青い目、厚い胸、23歳から35歳まで、身長180cm以上、「純粋のゲルマン民族」
ナチスとイコールではないけど 長身の筋肉質の健康体の純粋な日本民族という感じのなにか コシのあるツヤツヤの黒髪で額を出した髪型が「美しい純粋な日本民族」の象徴?
忘れてた、あとメガネのひとがいない IT系は眼鏡だらけ、工場勤務は意外と眼鏡がいる、財閥系の若手は本当に眼鏡いない 視力が良いのではなくコンタクトレンズらしい
なんか財閥系にやたらいるよねの容姿を芸能人でいうと、俳優の小泉孝太郎っぽい人と、お笑いコンビ「さや香」の新山っぽい人がいる
顔もそうだしなによりスタイルがあんな感じ スーツ着た感じとか髪型とか髪質とか本当にあんなかんじ
野村萬斎っぽい人もいる YouTuberだと東海オンエアのりょう 典型的なプルゴリより、いかつさが少なくて顔が薄い気がする でも貧相ではない
以下、非武装中立をぶん殴る、日本共産党: 「1970年の焦点 : 日米安保条約をめぐる30問」 (1968)
社会党の「非武装中立」論は、日本が中立化すれば、外部からの侵略の危険はなくなるという希望的・主観的な判断を前提に、中立日本の安全保障の問題について、真剣な追求を事実上放棄しているのが特徴です。そのことは、安保条約を破棄した独立・民主の日本において、外国からの圧迫や干渉、中立の侵害、さらには侵略の危険などからどうして国の主権と独立、中立を守るかという問題にたいして、説得力のある具体的な解答をもちえないでいることにしめされており、そしてまた、そこに社会党の「非武装中立」論の最大の決定的な弱点があります。現に、一九六八年の参議院選挙にさいして、NTVテレビと『読売新聞」が共同でおこなった立候補者のアンケートでも、「非武装中立で万一日本が侵略を受けたとしたら、あなたは、次にあげる態度のうちどれをとりますか」という質問にたいして、社会党の候補者の回答は、「非力でも抵抗する」十四人、「国連、又は第三国の援助を要請する」十三人、「抵抗しないで連命を甘受する」三人、「その他」十一人、「わからない」四人、「無回答」八人と、まったくばらばらで、社会党が中立日本の安全保障の問題について統一したまとまった見解をもっていないことを、あらためて暴露しました。
ところで、社会党はどのような論拠をもってこの「非武装中立」論を主張しているのでしょうか。
社会党は、同党中央機関紙『社会新報」六八年七月三日付に、「事実を歪め、国民を欺瞞するな、日本共産党の非難に答える」というMなる署名の長論文を発表しましたが、そこでのべられている主張は、さいきんの成田委員長の発言や同党の方針のなかでもくりかえされています。それは、第一に、「日本が断固として非武装政策をとることによって」「いかな国も非武装の日本を攻撃する口実をもてなくなり、日本が侵略される危険がなくなる」と主張しています。これはきわめて無責任な議論です。
だいたい、「侵略がなくなる」というこの断定自体、なんの根拠もないものであり、日本が安保条約を廃棄して中立の道をふみだしたからといって、なお帝国主義が存続する以上、アメリカを先頭とする帝国主義陣営が、そのアジア侵略政策のいっそうの破綻のなかで、日本をもう一度アメリカを盟主とする軍事同盟にひきこもうとして不当な圧迫や干渉をくわだてたり、侵略の挙に出たりする危険は、依然としてのこっています。日本が非武装政策をとれば、どんな国も日本を攻撃する口実がなくなるから、「侵略される危険はなくなる」などというのは、帝国主義の侵略性、凶暴性に目をふさいだ、まったくの主観的、希望的な観測にすぎません。
したがって、帝国主義者の干渉や圧迫、侵略の危険などをどのような手段で防止し、日本の独立と中立を守るかという問題は、日本の平和・中立化の政策を真剣に追求するものにとって、けっしてゆるがせにすることのできないきわめて重大な問題です。まさにこの問題で、「侵略の危険はなくなる」などと勝手にきめこみ、なんら現実的な考慮をはらおうとしない社会党の態度が、独立・中立日本の前途に真剣に責任をおう態度でないこと、さらに、将来にわたって「非武装中立」などを固定的な原則として宣言し、あらかじめ自衛の手をしばってしまうことが、真に日本の主権と中立をあらゆる情勢のなかで守りぬく正しい態度でないことは、まったく明白です。
なお、ここでとくに指摘しなければならないのは、社会党の「非武装中立」論が、日米関係についての同党の根本的な誤りと結びついたものであるということです。いうまでもなく、一国の中立政策を問題にするばあい、その国がどんな外国の支配からも解放され、真の独立を確保していることが、その前提です。このことは、第二次世界大戦後の日本のように、アメリカ帝国主義の占領あるいは半占領下におかれている国では、アメリカ帝国主義の対日支配を打破し、真の独立を達成することをぬきにしては、ほんとうの意味で国の中立化や中立政策を語ることはできない、ということを意味しています。ところが、社会党は、「日本がアメリカに本質的に従属関係にあるものとみることはできない」(「旧本における社会主義への道」、一九六六年一月第二十七回党大会)として、日本の対米従属の関係を本質的に否認する態度を公式にとっているのです。帝国主義の存続と侵略性に目をつむるだけでなく、現実のアメリカ帝国主義の対日侵略を否認する立場からは、もちろん、日本の真の独立の達成という課題が提起されることはなく、けっきょく、この課題を軽視あるいは回避する社会党の立場が、真の日本の平和・中立化をめざす態度と両立しえないことは、あきらかだといわなければなりません。
社会党の「非武装中立」論のもうーつの論拠、問題点は、自衛権をめぐる問題です。
結論的にいえば、日本人民が主権者となった独立・中立日本の安全保障問題において、周囲にアメリカ帝国主義のような侵略勢力があるなかでの「非武装中立」という主張は、けっきょくのところ、いっさいの自衛権の発動の手段をみずから否定して手をしばるものである、ということです。さきにあげた『社会新報』のM署名の論文は、独立・中立日本の自衛権についての日本共産党の主張を攻撃して、つぎのようにいっています。
「日本共産党は、……プルジョア国家間の規範である国際法上の自衛権をもちだしている。これを根拠にして自衛軍隊を主張するなら、一国がプルジョア政府であろうと、民主連合政府であろうと、軍隊をもつことができるのであって、主観的にはどうあれ、自民党が進めようとしている自主防衛論、憲法改悪と核武器をふくむ軍備強化に積極的に手を貸すものといわざるを得ない」
まったく乱暴で、おどろくべき議論ですが、独立・中立日本の自衛権を主張した日本共産党の安全保障政策を批判しようとした『社会新報』は、問題の自衛権そのものを、「プルジョア国家間の規範」だという説でどこかにふっとばしてしまっています。しかし、自衛権とは、国家あるいは民族が、外国の圧迫や侵略から自国の主権と独立を守る正当防衛の権利のことです。これはすべての民族がもっている国際法上も広く認められた固有の権利であり、「プルジョア国家」だけにかぎられるものでは、もちろんありません。にもかかわらず、それが『社会新報』がいうように「プルジョア国家の規範」だとするならば、独立・中立日本には自衛権はないことになり、けっきょく、さきに引用したNTVテレビと『読売新聞』のアンケートへの社会党候補者の回答にあるように、「抵抗しないで運命に甘受」しなければならないというようなことになってしまいます。
なお『社会新報』はここで、自衛権についての日本共産党の主張を「自衛軍隊の創設」の問題と同一視し、最近になっても、「共産党は……外交政策における自衛権の主張は武装自衛の方向をとっている」(「一九七〇年安保廃棄をめざす闘争方針案」、六八年十一月社会党中央執行委員会決定)などといっていますが、これは、日本共産党の主張をきわめて一面的にねじまげたものです。自衛権は日本民族が一貫してもっている固有の権利ですが、これを行使する形態は、内外情勢や憲法上の制約などによってちがいます。日本共産党が、現憲法下では、たとえ真の自衛のためであっても国が軍隊をもつことを明確に否定していることは、ここでくりかえすまでもなく、「日本共産党の安全保障政策」および「日本の中立化と安全保障についての日本共産党の構想」にあきらかです。
自衛権をめぐる問題で最後にいっておかなければならないことは、さいきんの成田発言でもくりかえされている、日本共産党が自衛権を問題にすることは自民党の「自主防衛」論に手を貸すものだという議論が、ぎゃくに自民党の「自主防衛」、調をたすけてやる結果になっているということです。
日本共産党が、自民党政府の「自主防衛」論や自衛隊増強に反対しているのは、一般に国を守ることそのものに反対だからではなく、自民党の「自主防衛」論が、日本の主権と独立を守るどころか、反対に、アメリカの指揮下にアジア侵略の「日米共同作戦」態勢を強化することをめざしたものであり、自衛隊が憲法違反の対米従属と人民弾圧の軍隊であるからです。自民党のこの「自主防衛」論を粉砕するために必要なのは、「自主防衛」の名による日米軍事同盟強化、自衛隊増強の危険な実態を具体的に暴露するとともに、アメリカ帝国主義の対日侵略と主権侵略を許している日米安保条約のもとでは、一具の自主防衛はありえず、日米安保条約を廃棄し、日本の真の独立をかちとり主権を回復してはじめて、ほんとうの意味で、日本の自衛や安全保障を問題にすることができるという根本の道理を、広範な国民のあいだで明確にすることです。この意味では、日本の主権を侵害し、領土を侵略しているアメリカ帝国主義を日本から追いはらうことこそ、日本民族の正当な自衛権の発動なのです。
これにたいして、もしわれわれが成田氏らの主張のように、自民党の「自主防衛」論に反対しようとして、日本民族の自衛権そのもの、外国の侵略から主権と独立を守る権利そのものを否認する立場にたつならば、それは、日米安保条約をなくす民族的な権利をあいまいなものにするだけでなく、かえってわれわれの立場を道理のないものにし、自民党が「自主防衛」論を欺まん的にふりまわして日米軍事同盟強化の方針をおしすすめるのをたすけてやる結果になることは明白です。このことは、六八年の参議院選挙中、テレビやラジオの政党討論会などで、自民党が中立政策に打撃をあたえようとして、自衛の問題を無視している社会党の「非武装中立」論の弱点に攻撃を集中する作戦をとり、社会党がこれに明確な反撃をおこなえないできたことにも、はっきりとあらわれています。このように、社会党の「非武装中立」論は、自民党との対決という点でもかれらに乗じられる決定的な弱点をもっています。
FPもとこch
@nao03601
もうナイジェリアの方が女性と子どもに対する人権意識が高い。日本が相対的にダメな国になっていく。ね、森さん、あなたですよ。老害切腹。
Kumiko Inoue
@Kuminxs37
https://twitter.com/nao03601/status/1639898391592443905?s=20
狼長(牡22*マル外)@騎兵復活論者
@wolfleader_0220
返信先: @nao03601さん
FF外から失礼いたしますが、ナイジェリアの人権意識が比較的マシなのは西洋文化圏の南部でも上位層と海外生活してる運のいい人も含まれるぐらいだと思います。
https://twitter.com/nao03601/status/1639898391592443905?s=20
つまりハーフかナイジェリア人ですね。さて、ナイジェリアの法律を持ち上げたファイナンシャルプランナーの発言が次。
FPもとこch
@nao03601
返信先: @wolfleader_0220さん
なんかもうきっとなんJ民なんすよ。コンクリート事件とか好きな人間のクズですよ。人権なんてホントはどうでもいいと思ってるクズですよどうせ。
https://twitter.com/nao03601/status/1639933262385782784?s=20
狼長(牡22*マル外)@騎兵復活論者
@wolfleader_0220
返信先: @nao03601さん
なんJ民という例えがどこにフォーカスしたものなのかは私には分かりませんが、ナイジェリア全土を見ると遥かに日本のほうが人権意識は高いと言えますよ。
女子校のスクールバスの運転手が女学生狩りから生徒を守る為に小銃で武装するというような世紀末的事象は現代日本では考えられないですからね。
https://twitter.com/wolfleader_0220/status/1639934906569719808?s=20
つまりこの馬鹿なフェミキチぶったFPは形をかえた白人至上主義者であり、差別主義者であり、ネオナチです。
FPもとこch
@nao03601
返信先: @wolfleader_0220さん
tiktok.com
TikTokでMotokonyanさんをチェック!
#成田悠輔をテレビに出すな ナチスと同じとか言ってる奴らに教えてあげるよ
https://twitter.com/nao03601/status/1639936059810390017?s=20
見事に噛み合っていませんが、このようなクズが法律を論じるなんてありえないんですね。ネオナチの白人至上主義者のレイシストFPさん。
FPもとこch
@nao03601
返信先: @nao03601さん,
@wolfleader_0220さん
https://twitter.com/otakulawyer/status/1641353777856004097
@otakulawyer
極端に厳しい法律が出来る背景には、非常に悲惨かつエグイ被害実態がうんざりする程大量にあることが一般的だし、実際に適用されるかどうかは別問題だから、ナイジェリアの方が日本より先進的とか女性の人権に配慮しているとか極論に走らない方が良い。
FPもとこch
@nao03601
もうナイジェリアの方が女性と子どもに対する人権意識が高い。日本が相対的にダメな国になっていく。ね、森さん、あなたですよ。老害切腹。 twitter.com/Kuminxs37/stat…
このひとの人権意識、全くありません。これがフェミニストです。
こういう人にファイナンシャルプランナーができるのかな。。。
正しい排便、残便感のないスッキリ排便は、多くの人民にとって興味深い事ではないだろうか。
最近吹聴されている良い排便フォームとして、ロダンの彫刻「考える人」の姿勢をとることが推奨されている。
つまり、片肘を腿に付けるような深い前傾姿勢が排便に適切なのだそうだ。
基本的に牧畜民族であった西洋人と違い、農耕民族である平地部の東洋人は、基本的に姿勢が悪い。勿論モンゴルなど東洋においても中央アジアは牧畜民族であるから、基本姿勢は良い。
牧畜民族は広い平原を見渡しながら羊や牛を追っているので背中はまっすぐに伸びるが、農耕民族は地面に向かって作業を続けるので猫背になる。
だから農耕民族は基本的に姿勢が悪い。その中でも特に床に座って生活する文化の民族はさらに姿勢が悪くなる。床に座って胡座をかいたり壁に寄りかかると、背中は湾曲し猫背となる。
東洋の農耕民族を主体としていても、例えば中国大陸においては床に座らず椅子に座っている地域が多い。これはカンフー映画や中国時代劇映画などを観ると分かるが、室内でも椅子に座っており、床や地べたに座ってはいない。だから自然と姿勢は良くなっている。
東洋の農耕民族でありしかも長年にわたって床に座ってきたのが日本民族である。
日本においては何かというと「背筋を伸ばしなさい」「姿勢を正しなさい」と口酸っぱく言われるのが、それは日本人の基本姿勢が極めて悪いことの裏返しなのだ。元々背中がまっすぐ伸びている中央アジア以西の牧畜民族の世界ではそんなことをいちいち言うことは稀である。
さて、話をうんこに戻そう。
言うまでもないが、「考える人」は西洋の芸術作品であるから、元来は牧畜民族でしかも椅子に座って生活している西洋人の姿勢である。だから実際には背中は比較的真っ直ぐに伸びているのである。あれをリラックスすると自然と猫背になる日本人が真似しても、外見上は似ていても実態は異なる状態になることは最早言うまでもない。
日本民族にとって、もっとも排便しやすい姿勢は、あの和式便器の姿勢である。これは俗に「ウンチングスタイル」と呼ばれていたがこれは不適切であり、より正しくは「ウンチングフォーム」と呼ぶべきであろう。この状態では比較的に背中は真っ直ぐに近くなり、それでいて膝や腿は胸のすぐ前に来るのである。
我々日本民族は、この状態を洋式便器上で再現すべきなのだ。以下にのその方法を示す。
1. 便座に座り、受勲式に望む軍人のように背筋を伸ばし胸を張る。
2. 上半身のその姿勢を崩さずに、乳首を膝の方へ近づけていくように前傾する。
これはロードバイクの乗車姿勢における俗に言う「やまめ乗り」に似ているかもしれない。だから言い換えれば「やまめうんこ」である。
22年2月開戦時、ウクライナの「非ナチ化」「非軍事化」がロシア政府のナラティブだったことを覚えているだろうか。そのために『わが闘争』の本がウクライナ軍陣地跡から出土した、というような馬鹿げたプロパガンダをしていたことも。ウクライナを含めたロシア圏を西側の影響(文化的なそれを含む――LGBTの排除が典型)から守るというナラティブであった。それが「戦争」ではなく、「特別作戦」というネーミングにつながっている。これは不戦条約および国連憲章による武力行使禁止への言い訳に過ぎないかもしれないが※、ここではそれを思想的に少し本気に受け止めておこう。
今は違う。ロシア政府は「戦争」と言い出した。悲喜劇となっているめちゃくちゃな動員も行い、ウクライナ国内への容赦ないインフラへの打撃――戦略爆撃など、本格的な戦争にいちおう移行しつつある。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022102300113&g=int
では、NATOが本格的に軍事介入(空爆にせよ、陸戦にせよ)すればカタがつくかと言うと、そうでもないように思われる。実は、それこそがロシア政府の望んでいる事態なのではないか。上記記事では、現時点でもロシア政府が「戦争の責任を負うのは北大西洋条約機構(NATO)側と主張。ロシアが仕掛けたにもかかわらず、「被害国」だと訴えている。」という認識を示していることが語られている。これは、どう考えても欧米諸国に向けられたメッセージではない(彼らも、本気でこういう認識を欧米諸国が認めてくれるとは思ってはいるまい)。ロシア国民に対する敗戦の言い訳である。そしてNATOが本格的に軍事介入すれば、この言い訳をNATO自らが裏書きすることになる。
この戦争の思想的原動力になっているのは、要するにロシア民族優越主義であることが指摘されている(例:イリインの思想についてhttps://book.asahi.com/article/14612140。小泉悠氏の著書やフォルカー・ヴァイスの『ドイツの新右翼』を読むと、かのドゥーギンの思想は、シュミットのグロースラウム論の応用のようだ。それも結局一言でいえば自民族優越主義だろう)。他方で、この戦争の敗戦の原因になっているのもロシア民族優越主義である。弱い(ということになっている)ウクライナ如きに敗北するから、国民の士気が下がる。士気が下がるからまた負ける。
NATOが軍事介入した場合、NATOが完全に結束し続ければいずれすべての戦場で優勢となるだろうが、ロシア人は、強いアメリカと戦っているから負けているのも無理はない、と考えることができるようになる。これは1941年12月8日の状況と似ている。弱い(ということになっている)中国に全然勝てず、不平不満が鬱屈していた日本人が、相応の知性あるはずの者も含めて対米開戦に快哉を叫んだ※のは、もちろん主力艦を奇襲攻撃で大破して望外の大勝を得たこともあろうが、他方で戦場での劣勢への言い訳が見つかったからではなかろうか。
※ 「一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ」(坂口安吾35歳)。「みんな万歳を叫んだ」(井伏鱒二43歳)。逆に、理性を失わなかった例として、「僕達が努力しなかったのが悪かった」(ジャーナリスト・清沢洌51歳)。
https://book.asahi.com/article/11852364
戦争の哲学者クラウゼヴィッツによれば、攻撃にとって最も重要なのは敵の重心(Schwerpunkt)への打撃である。重心とは、敵軍のすべての要素がそこでバランスを保っている一点である。それは戦場の軍勢とは限らない。敵国首都とも限らない(ナポレオンはこれを誤った)。クラウゼヴィッツの洞察が正しければ、今回の場合、ロシア民族優越主義が破滅するような道筋をつけるべきなのだろう。つまり、「弱い(ということになっている)ウクライナ※がロシアを倒した」というナラティブ、これである。NATOの介入はかえって害悪になるかもしれない。帝国日本は対米開戦から3年半以上持ちこたえた。むろん、ロシアの軍事力は当時の帝国日本よりもアメリカに対して不利だとは思うが、それのみならず、「中国に負けた」ことを受け入れられない日本民族優越主義者がけっこう多いことにも注意したい。このような観点からすると、バイデン大統領――彼は連邦議会議員としては上院外交委員長を長年勤めた老練政治家である――がロシアと直接交戦はしないという態度を開戦前から決め込んでいるのは、きわめて適切な対応のように思われる。さすバイ
※客観的に考えればウクライナは別に弱い国ではない。中東欧では最大クラスの軍事大国と言って良いのではないか? ヨリ客観的にみれば、この紛争の根源は地域大国ウクライナと地域大国ロシアの、ロシア語地域圏におけるシマ争いという風に考える余地がないではない(なお、武力衝突に至った責任は大方ロシア政府にあるから、ウクライナ政府を非難するつもりはない)。
そもそも日本においてなぜ共産主義や社会主義が保守派の目の敵にされたかといえば、それらの思想が天皇を頂点とする国家観を脅かすものとして見なされたからなわけで。その意味でアメリカにおける資本主義と共産主義、自由主義と社会主義のような構図から出てきた反共と日本のそれは全く違う。
なので、アメリカの保守派が文一族を頂点とした疑似家族的共同体の中に全人類を包括することを目的とする統一教会と、反共を基点に結託することはまだ理屈が通る。
しかし、日本民族のアイデンティティとして皇室の尊重を掲げる日本の保守派が統一教会と結託することは、本来であれば彼らが反共という態度を採っている理由ゆえに容認されえないはず。
したがって、自民党にはそもそも反共とか保守とかいうイデオロギーは存在せず、ただ金と権力の維持にしか興味がなくそのためにはカルトとも結託する極めて俗物的な政党と考えたほうが理屈が通る。
id:xevra 諸君!日本人が憎いか?日本を滅ぼしたいか?よろしい、ならば自民だ!日本人を根絶やしにしたいなら自民!30年間の日本民族浄化計画の実績を共に誇ろう!日本人に絶望を!凄惨な絶望を!自民!自民!自民に投票だ!
https://b.hatena.ne.jp/entry/4721434916474874818/comment/xevra
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https://b.hatena.ne.jp/entry/4721690855330408642/comment/xevra
他多数
第九条の発案者であり時の総理大臣・幣原喜重郎のことを知らない日本人があまりにも多すぎる
彼がどのような考えで第九条を思いつくに至ったのか、それを議論せずにして憲法の議論なんかできるはずがない
なぜ政治家も、評論家も、社会学者も、そして我々国民も、九条を作った当人の言葉を話題に挙げないのか
彼の考えのどこが悪くて、どこに不満があって、現代社会に通用するのかしないのか、なぜ誰も語らない?
少しでも多くの人に、我々と同じ日本人が考案した第九条を、この埋もれてしまった歴史的憲法の成り立ちについて知ってほしい
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ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ。もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら ー
最初それは脳裏をかすめたひらめきのようなものだった。次の瞬間、直ぐ僕は思い直した。自分は何を考えようとしているのだ。相手はピストルをもっている。その前に裸のからだをさらそうと言う。何と言う馬鹿げたことだ。恐ろしいことだ。自分はどうかしたのではないか。若しこんなことを人前で言ったら、幣原は気が狂ったと言われるだろう。正に狂気の沙汰である。
しかしそのひらめきは僕の頭の中でとまらなかった。どう考えてみても、これは誰かがやらなければならないことである。恐らくあのとき僕を決心させたものは僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つ秋ではないか。そのために生きてきたのではなかったか。そして僕は平和の鍵を握っていたのだ。何か僕は天命をさずかったような気がしていた。
非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが今では正気の沙汰とは何かということである。武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考え抜いた結果もう出ている。
要するに世界は今一人の狂人を必要としているということである。何人かが自ら買って出て狂人とならない限り、世界は軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができないのである。これは素晴らしい狂人である。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。
日本民族は幾世紀もの間戦争に勝ち続け、最も戦斗的に戦いを追求する神の民族と信じてきた。神の信条は武力である。その神は今や一挙に下界に墜落した訳だが、僕は第九条によって日本民族は依然として神の民族だと思う。何故なら武力は神でなくなったからである。神でないばかりか、原子爆弾という武力は悪魔である。日本人はその悪魔を投げ捨てることに依て再び神の民族になるのだ。すなわち日本はこの神の声を世界に宣言するのだ。それが歴史の大道である。悠々とこの大道を行けばよい。死中に活というのはその意味である。