はてなキーワード: 学問とは
まあその趣旨での理系なら高専→修士のコースでいいよね。というか修士取る必要あるか?資格とというか箔として求められてるだけじゃね。実務パフォーマンスの相関取ってるのか知らないけど。
同じことは官僚やら役人やるにも法曹やら士業やるときの文系科目にも言えるんだけど、それだって突き詰めれば専門学校でええわな。国1なんてもろ専門で勉強するのが通例だし。資格としての学士修士は問われるが、学問的実績を問われるわけではない。ロースクールだって試験突破して卒業することが重要なわけ。
https://togetter.com/li/1698356
キャンパスは同じでカリキュラムも概ね社会科学・人文科学系なので多少は共通項もあるはず
国際教養は1学年600人くらいで、政治経済は1学年800人くらい
https://waseda.app.box.com/s/mm9excnx8y4qfd92ls95bqzbtx5lpm51
https://waseda.app.box.com/s/6jfnkx02vtydrgbxm8xrzb7mdshufppc
あと「留年」という言葉で誤解されがちだが、早稲田の学部は基本的に年度取得0単位でも進級はする。その代わり、5年生以上を「延長生」と呼称する。俺は詳しいんだ。
→定員分を吸収できるだけの講義数があっても、多くの人が取りたがる特定の人気講義に人が集中したら抽選にせざるを得ない。それは早稲田に限った話ではない。
→選外となった希望者にオンライン聴講権限を付与するような制度はあっていいと思うが(あるかどうかは知らん)、
いくらオンライン講義とはいえ質問への対応や課題の採点、単位認定等は担当教員が行うわけで、限度がある。
その辺は大学教員の多忙さに理解のあるはてなブックマークユーザーの皆さんならご理解いただけるかと思いますが…
・定員が多すぎるのではないか
→定員が多すぎるから抽選になるのではなく、募集数を超えて人が集中している講義のみが抽選になる。
・必修が抽選なんてひどい
→例の学生は必修の抽選に落ちたなんて書いてないように見えるんだけど、どこかにそう書いてあった?
必修が自動登録されて、空いたところに教養科目とかを入れるのがよくあるパターンだと思う。
同じ必修でも担当教員を選べるタイプの科目であれば、当然教員や内容によって人気の差は出るので抽選は発生し得る。だとしても全員を受け入れきれない必修科目なんてまずないと思うけどなあ。
→申請した科目が抽選ばかりで、それに落ちまくったらそうなる可能性はある。
ただ科目数自体は確保されているはずなので、本来は2次や3次登録でそういう学生を吸収しきるという仕組みになっている。
件の学生の場合、1次で半分以上落ちたとはいえ2次で十分挽回できる範囲のはずなので、なぜベストを尽くさなかったのかという気持ちもある。
https://www.waseda.jp/fire/sils/assets/uploads/2021/03/Schedule_Spring_CurrentStudents_J.pdf
n次登録が終わった時点でまだ空きのある講義の情報(現在の履修者数/定員)が掲示板やポータルサイト(全学共通)で提示され、学生はそれを見て次の登録申請を行うのが基本的な流れ。
全てが抽選というわけでもなく、担当教員が選考を行うこともあるが、そこは人による。
自分のいた頃は3次登録が終わってもあぶれてる人はかなりレアケースだった記憶があるし、全登録期間が終了して全講義の定員が埋まってるなんてことはあり得ない(必修科目なら尚更)のでどこかしら滑り込めた。
そもそも人気講義は選外になることを織り込んで「取りたい講義」「取れそうな講義」を組み合わせて申請するものなので、件の学生は不運とはいえその辺もちょっと不器用だったのかなという印象。
ただ…推奨17単位で、3次登録の申請が全て通っていたとしても合計18単位というのはちょっと履修計画に余裕がなさすぎると感じた。
窮状を訴えるのに2次登録の結果だけ触れてないのが引っかかるんだけど…申請忘れてたりしないよね…?(他人のことなのに止まらない冷や汗)
先行:0(1科目限定)
1次:9/19
2次+3次:5/9+?
大体の人は1次で落とされまくっても2次で半期20単位分くらいの履修を確定させる。(年間取得上限は必修込みで40)
1次よりも2次や3次の方が通る可能性は高いだろうに「1次の登録数>2次+3次の登録数」になっているのはさすがに2次+3次の申請自体が少なすぎるような気がする。
これだけ見ると典型的な「人気講義ばかり申請して抽選で爆死する人」のようにも見えるが、今年の講義実施状況が分からないのでそこは何とも。
とはいえこういう人は少数ながら毎学期必ずいる。自分がいた頃も、履修登録を忘れていて自動登録の必修以外ゼロ単位になった奴がいるなんて話も聞いたことがある。(真偽不明)
件の学生は期間内に登録自体はしてるようなので憤懣遣る方ないというのは分かる。なので問題は抽選云々というより救済措置の方にある。
定員が多すぎるというブコメが多いが、普通に定員を吸収しきるだけの講義数はあるよ。履修登録の度に全講義が定員いっぱいになる学部が回るわけないじゃん。
だから登録期間終了後にあぶれた学生を定員に余裕のある講義に受け入れるくらいの融通はきかせてあげてほしい。
個人的に優先してほしいのは
って感じ
自分がいた頃は学部事務所に行けば誰かしら履修相談に乗ってくれたが、今のご時世でそこのバックアップがうまくいってない、行き届いてない、周知されてない可能性は大いにある。
特に「抽選で選外になる可能性を織り込んで履修計画を立てる」のは基本のキみたいなものなので、各学部はそこをもっとフォローするべきだと思う。
(選外になる可能性を考慮しろという注意書きはシラバスに明記されていたし、今もされているとは思う)
国際教養の細かい事情は分からないが、一般的に1年生は必修が多いのであぶれることはさほど多くない。
(必修科目が定員超過することはまずないし、そもそも自動登録されることが多い)
件の学生は新2年生とのことなので、去年と同じ感覚で取りたい科目を申請していった結果、抽選で爆死したのではないかな~と思った。
従来は2年次に1年間留学する学部だと思うけど、コロナで留学できてない分国教で履修登録する学生が例年より増加している可能性もあるのでは。学部内履修学生数の増加に対して開講科目は増えているのだろうか。
国際教養学部というのは早稲田でも少し特殊な学部で、学部生は原則として2年次に海外留学する必要がある。
ところがこのご時世で留学生の行き来が殆どなくなってしまっている。
これは推測だが、
・本来であれば留学で国外にいるはずの日本人学生が、学部内の講義に集中して抽選が多く発生してしまった
・コロナ禍において、急に学部内の講義を増やすことができなかった/オンライン対応で定員を増やすことができなかった
この辺りは要因としてあり得るのかなと思う。
Add-Onlyというのはおそらく国際教養学部独自の制度だと思うが、これがコロナの影響でなくなったというのはよく分からない。
https://twitter.com/naataso_wsd/status/1382293955446902792
ただまあ、政経には元々そんな制度なかったので、救済措置として登録期間終わった後も空きの残っている講義にぶち込める制度作れや!というのは賛成。
1次でどれが抽選になるか分からなくて選外いっぱい出るのは仕方ないし、自分も経験がある。ただ2次以降は充足状況が公開されるので、それを加味して計画を立てるんやで。
2次は…?
人気講義が既に埋まっている段階ではもはや公平もクソもないので
選外になった講義の資料を融通してもらうくらいええやろがい。皆大体同じ額払ってんだろ
(このご時世でアレだがメールだけでなく直談判も意外と通ったりする)
(この時期は履修専門のアドバイザーがいた気がするけど今もあるんだろうか…?)
「戦略が悪い」という話にしてしまうと「人気のない講義に余裕を持って申し込んだけれど、本当に運が悪く低確率で全部落ちてしまった」人も自己責任になる。あなたは運悪い0.01%だから留年ね!で納得できるか…
そもそも人気のない講義は抽選になりません!!!!!!!!!!!!ストレートインです!!!!!!!!!!!!!!
人気がなさすぎてマンツーマンみたいになることもあります。(胃痛)
だからこそ「取りたい科目」を軸に「人気や日程を鑑みて取れそうな科目」を組み合わせて申請すればほぼ問題なく単位数確保できます!!!!
オンラインの授業なら物理的に講義室が足りないってこともないはず。何故対応できないのか/調べたら毎年600人以上入学してるのね。それは確かにオンラインでもパンクするわ。でもだから対応できないはおかしいよね。
確かにオンラインでもパンクするわ→だからといって対応できないはおかしい
「パンクするから対応できない」は成り立つだろ???何が言いたいんだ???
上でも書いたけど、聴講生としての視聴権限を与えるのは良いと思うしやるべきだと思うよ。
受講生として受け入れるのであればまた別の話だけど
獲得した科目数の少ない生徒を優先的に当選させればこういう事は無くなりそうだが何故そうしないのか?
履修科目数までは考慮してないと思うが、年次が高い方が優先になるというのはあったと思う(うろおぼえ)。4→3→2→1か4→1→2→3
より良い、より偏りの少ない抽選システムがあり得るのではないか?というのは同意するし、件の学生もそういう主旨の発信だと思う。
授業料ほしさに、教えられる分以上に定員増やしすぎたのかな。
定員100名の人気講義を希望者全員が受講できるように学部定員を100名にしました!
かくして不人気講義は廃止され、それに伴って学部の研究領域も縮小し、研究能力も低下しましたとさ。めでたしめでたし。(これは皮肉です)
総合大学を選ぶメリットはカリキュラムの選択肢の多さで、カリキュラムの選択肢は多ければ多いほど履修希望者の偏りが「人気」という形で生じるわけ。
だから登録期間終了後の救済措置や聴講制度の導入には賛成だけど、抽選が発生すること自体はある程度避けられないんですよ。
人気講義なら増やせばいい!って言う人もいるけど、ぶっちゃけ講義の人気なんて楽単か教員個人の人気に拠るところが大きいので、例えば同じ「政治学」をA先生とB先生がそれぞれ受け持ったところで、結局教え方の上手いA先生の講義に人が集中するだけなんだよね。
沢山の授業を開講し、管理する立場からすると、「人気科目だけでカリキュラムは作れない」「カリキュラムは学問の体系の表現である」から、全体として万遍なく履修登録されて学問を身に着けて欲しいとは思う。
そう思います。人気科目だけでは学部、ひいては学問も成り立たない。
救済措置云々とは別の話としてね。
マイルストーンなんか見て、楽単、人気講義だけ取っていったら、抽選外れまくった時はこうなるよね。過度の集中を促すマイルストーン誌が元凶のひとつ。
学生の有志団体がアンケート等を基に集計・出版している「マイルストーン」という情報誌があって(毎学期周辺の書店や大学生協に平積みされている)、
シラバスと見比べながら大体どういう講義があって、どれが人気で、どれが楽単で、どういう試験方式で…といった口コミ情報を新入生でも入手できる。同学科の友人が少なかったので大変お世話になりました。
ただその一方で、楽単や人気講義への過集中を促した面も否めないとは思う。
今はそれに加えてSNSの発達が一部講義の人気先行に拍車をかけている面もある…かもしれない。
自分の時代も人気科目とそうでないのがあって、落ちた科目は他で我慢して、最低限の科目数は確保できたのに、今は違うのか?/ドラフトではないが、ある程度抽選で落ちたら、他を優先的に選択できるようすべき。
※何かしら理由があって医者の道を諦めたが、やっぱり…ということで社会人になってから受験した人を除きます
ここでいう多浪というのは、受験初年度から数えて何年合格までかかったかということ。
1年2年なら難関大学の他学部でも見るが、医学部の中には4浪5浪、10浪もいると聞く。
なぜ信頼できないかと言うと、多浪は高校レベルの学問を何年もかけないと習得できなかったと言っているのと同義だからだ。
高校3年の倍以上かかってるんだぞ。
なぜなの?なぜそれでも受からない人が、医者になって人を診れるの?
学費のためのバイトをしたのかもしれないが、記憶力というのは年々衰えるもので、多浪すればするほど医者になるための知識は身につけづらくなる。
なんだかなぁと思う。
なんか人を良いモノとし過ぎている気がする
エリートの差別を批判したら、その先に反知性主義というか学問は格差を助長するものだ!とかエリート狩りが始まってもおかしくないよ
だってみんな同じ教育を受けられるようになったとしても、能力差は絶対あるし上と下はできる
そんな中で、上と下の差を縮めようなんて上は認めるのかな
こんなこと言うのあれだけど、俺、頑張ってないよ?
能力による格差を埋めるには、みんな頑張ってる社会じゃないと納得は得られないんじゃない?
それでも上下の差を縮めてくれるっていうならウェルカムだけど、上の人いいの?
正直サンデルの思い描いていることをまとめると人類補完計画しかないじゃんってなりそうなんだけど
低能はそんな綺麗で真面目なモノじゃない、スキあらば引き摺り下ろすよ?
低能は頑張らないよ?
そして有能もそんな奉公してくれないよ?
願いを叶えることに対する罪悪感は、この世の中に根強く息づいている。
例えば、願いが叶えられると同時に、代償として何らかの罰を受けるという物語は古今東西、様々な例が見受けられる。
しかし、願いと罰がセットであるのは、願うことが道徳的に罪深い行為だからではない。
すなわち、その願いが叶った上でも、願った人間の意図せざる結果としての不幸が成立してしまう余地があっただけだ。
願うことで「罰」を感じる人間は、その不幸が成立しうる未熟な願い方をしているだけなのだ。
そのことはこういう例が分かりやすいだろう。
例えば、「お腹いっぱいにお菓子を食べたい」という願いが叶ったとすると、
体重が増えたり、ともすれば生活習慣病などの病気になったりすることがある。
別に、願いを叶えたことに対し誰かが道徳的な罰を付与したわけではない。
単に、その「罰」が成立するような未熟な願い方をした本人が悪いのだ。
(まあ、最近のネットだと、ネット上に何らかの意向を示して、将来的にそれに自縛されるパターンの方がわかりやすい例かもしれない。)
未熟な願いであれば、その願いが叶うことこそ「罰」になりうる。
その「罰」は、知らずに自らに願いとして仕込んだものに過ぎない。
さらに言うなら、物語化されるほどに、願うことが「罰」を誘発する行為だと勘違いされるのは、
これまでの願い方には何かしら「罰」となりうる隙があったからなのだ。
だから、この世界はその願いが叶った上でも「罰」に転じることのない願い方を求めている。
それは「罰」が生じない点で、それ以外には自分のためにも世界のためにも願う必要はないのだから、
いわば「最後の願い」と言ってもよいものだろう。なんなら、世界平和や人類繁栄とでも言い換えてもいい。
そして、その「罰」となる隙を埋めるためには、科学なり思想なりの目標であるだろう、
世界を最終的な解決に向かわせるという願いと同様、学問的な追及や社会との争いの解決など、
その願い方を、内(語意)からも外(状況)からも合理的に詰める努力が必要で、
それこそがこの世界の本当の意味での「進化」の方向性なんだと思う。
つまり、「罰」を受けない正しい願い方のために世界は歩んでいくのだ。
そもそも、これまでの歴史というのはつまるところ、本当に正しい願い方を実現するためにあったのだから。
それは科学なり思想なりの目標に至る過程でもあるが、何よりも個人がその願いを不足なく伝える語法を得るための営みだったのだ。
高校までの数学、物理、化学は役に立つし、英語が読み書きできないと本当につらい
でも、最近の中国では、英語はあんまり勉強せんでええで、という話になってる?らしく、
どうせ自動翻訳がやる、バンバン名著は中国語訳されるし国もバックアップする、
どうせ中国が世界征服したら英語より中国語の方が世界の共通語になるから、
みたいな話らしい
あと、ちゃんと日本語で思考できないと英語やっても無駄と同じで、
ちゃんと中国語で思考できないのに英語やっても国語力、読解力がなければ無駄、
ということでもあるのだろう
本当に要領がいい人はこだわりがなく、卒なく何でもこなすものである
寧ろ、学校の勉強ができない人の方がこだわりがある、ということの方が多いように思う
学校の勉強ができない人は、〜はできるが、学校の勉強はできない、とか、
なんかよくわからんが、自分は学校の勉強ができない、と思い込んでいる節がある
小手先のテクニックだけでも行けるところまで行けるのに、先入観があるからか気が付かないのである
安野モヨコ氏が庵野氏がズッキーニとか知らない食べ物を食べないとテレビで語っていたと思うのだけど、
こだわりが強いと、こだわっていることには強いが、
自分は学校の勉強ができない、と思っている人は、まずそれが思い込みでないか疑ってみることである
もしかしたら他人に、親に、教師にそう思い込まされてるのかもしれないし、
ちょっとでも疑問に思うことがあるとそこで止まってしまう、というのがある
というか、自分にもこの毛がある
要領のいい人は、その疑問をとりあえず飛ばして、これはこういうものだ、と理解するのではなく納得するに近い形でスルーする
スルーしないと先に進めない
なんかよー分からんが、えらい人がこれでオッケー言ってるんだからオッケーなんや、
と思って、細かい疑問は飛ばし、それを定着させる練習問題を多くこなすとか、とにかく先に進めることである
しかし、要領のいい「だけ」の人は、この自分で考えて疑問に思う、ということに無頓着であるため、
社会に出てから意外なことでトラブルを起こしてしまうこともあるように思う
上述のように、えらい人が言ってるのだから間違いない、というのが実際は罠であることが社会では往々にしてあるため、
要領がいい「だけ」の人は何の疑問も持たずにそれを信じ、結果としてトラブルに繋がってしまうのである
まず、いわゆる受験勉強、試験を突破するためには要領が良くなければ駄目である
学校の勉強を真面目に学問として考えすぎてしまうと、試験を突破できない
試験を突破するのは要領であり、テクニックの面が強いからである
しかし、要領がいい「だけ」の人には学問、学術的な思考ができないのである
そうでありながらも、詰め込み教育で英語や数式に慣れていなければ、学問や学術にも支障が出てしまう
詰め込み教育を否定しすぎても、結果的には学問や学術ができない人を生み出してしまうだけである
どうしても学校の勉強が自分はできない、苦手だと思う人は、ここまで述べてきたことを逆に考えるならば、
寧ろ何か学校の勉強以外にこだわりがあったり、特技がある可能性があるかもしれない
しかし、そのフィルターにはじかれたとしても、それはマイナスなことだけではないはずである
自分に向かないということが分かるだけでも、人生は前進したと考えるべきである
「弱者男性」みたいな典型的な「定義のないネットスラング」が、それなりに歴史のあるフェミニズムと「5:5で完全に同等」なわけがないだろうに。わけのわからん「ミラーリングっぽいもの」をいくら量産しても何の議論の取っ掛りにもならないことを理解して欲しい。
しかしまあ、学問はそれ自体が権威であり権力であること、歴史のあるフェミニズムもまた権威と権力を持ちうること、なども意識しなきゃならんだろうね。都合よく悪意を捏造しないで、弱者男性論者の実態をフェアに判断するのも、社会学者やその他論壇の義務だろう。
「弱者男性論」それ自体を議論に持ち込むべきだとは思わないけど、弱者男性論者の訴えをすくい上げる必要はあると思う。まあそれは「社会的強者」の役割だと思うけどね。白饅頭みたいに「弱者男性論」で金稼いでタワマンに住むのも、上野千鶴子みたいに弱者男性論者を蹴っ飛ばしてタワマンに住むのも、まあいい加減辟易するわけです。
英語版のQuoraを見ていたら心理学は役に立たないから専攻してはいけないという意見が書かれていた。
言われてみれば確かにその通りだと思う。私も自分を救うために心理学の勉強をしてみたがそこに書かれてあることは何の役にも立たなかった。役に立ったのは金儲けに関する知識とコンピュータのスキルで面倒な人とは関わらず金を稼いでいれば楽しく暮らせることがわかった。
今思うと心理学者や精神科医には変な人が多い。彼らがコミュニケーションの達人ではない。どちらかと言えばコミュ障だ。そのことに早く気づいていたら自分はもっと早く楽になれたかもしれない。
ツイッターには、男が女に説教したがるのには生物学的基盤があるからかもしれないと主張しただけで発狂して否定にかかるフェミニストがいるらしい。生物的基盤があるからこれは仕方がないとか許容されるべきとかは一切言っていないにも関わらず。
フェミニストはいつも、議論に社会的に構築された有害な男らしさを持ち出す。結婚したいと思うのも、競争して自分の地位を得たいと思うのも、有害な男らしさを社会から押し付けられたせいであり、降りれば楽になる。降りずに不幸になるのは馬鹿だからで、自己責任。降りるべきだと。いつだって悪いのは男なのだと。
一方でフェミニストは、女が出産とキャリアアップを両立できないのは制度が悪い!改善せよ!と叫ぶ。これは矛盾した態度ではないのか。
出産もキャリアアップも、べつに誰も誰にも強要していない。個人が社会的に押し付けられた偏見から来る欲望であって、それを無反省に受け入れているのは女であっても同じだろう。出産もキャリアアップもやめようと思えばやめられるし、なくても幸せになれるのだから、片方だけにせよ両立したいにせよ、やろうと思ってしまうのは自己責任であり、欲望を捨てられないお前が悪いと言うべきじゃないのか。降りて幸せになるべきじゃないのか。
フェミニズムは自分が仏教徒やストア主義者であることを自覚すべきだ。人間の全ての活動はどこかから押し付けられた人工的な欲望であると考える限り、人工的ならば解体されるべきだという考えに必然的に陥る。役割規範に限らず欲望に拘束されるのが不幸を導くのならば全て捨てるべきであり、何もせずとも精神的に充足した状態である解脱やアクラシアやアタラクシアを目指すぺきだと言うべきだ。反出生主義にも賛同すべきだ。子供を持ちたいなどと欲望を持つから不幸になるのだ。何もこの世でなせなかった自分の代品として人間ペットを作り出し、搾取はダメだけど自分の子供はより低い立場である保育士に預け自分はホワイトカラー労働でさらなるキャリアアップを目指し、多様性は大事だけど自分の子供は塾に入れて私立の上流階級の上品な空間で育て、生産性差別はダメだけど自分の子供は社会で貢献できる素晴らしい人材になってほしいと考えるような、そんな思考は今すぐ捨てるべきだ。やめるべきだ。さっさと全ての欲望から自由になれ。捨てられるんだろ?降りられるんだろ?降りないのは有害な男らしさにとらわれてるからなんだろ?嫌だとは言わせないぞ。
大体、昨今の生産性がなくてもいい!みたいな議論にも無理がある。社会の中で何の役割も果たせなかったら無力感で強い苦痛を感じるに決まっている。生産性とは社会の中で役割を果たすことに他ならないのだから。そんな人たちに居場所を与えない社会が悪いと言うかもしれない。だが、そんな居場所でやるべきことが何もできないからこそ弱者なのだと言うこと、誰かがその負担を引き受ける必要があるということを忘れている。生産性がなくても肯定されるべきというのは、あなたがバリバリ働く横でとなりのおっさんがもたもたもたもた、機械は苦手、ミスも多発で全体にダメージ、それでもその男を会社に必要な存在として同じ給料で受け入れることを意味する。精神的に受け入れるなんて絵空事で、カネがなければ生きていけない以上カネを払わないなら受け入れないのと同じことだからだ。同じ給料なのは、競争志向は有害な男らしさである以上それを促進する効果を持つ社会制度は撤廃されるべきだからだ。能力に応じた地位配分であるメリトクラシ―は撤廃すべきだ。そもそも能力なんて、生まれと育ちに大部分決定されたものである以上、個人にその果実を与えるのはおかしいのだ。もしこれを拒否するなら、フェミニストはこれを利用して、自分たちはフェミニズムという学問を修めた以上それにふさわしい支配階級としての地位を求めるに決まっている。他の人に競争させたくないのは、自分達こそが高い地位を独占してカネを手にし支配力と欲望を思うままに発揮しホストを侍らせ酒池肉林をやりたいからではないのか。そうでないなら、全ての人は全ての欲望を捨てろと言うべきで、男は有害だとばかり言わず女にもカレシ作るな、競争志向やめろ、そんなものはいらないはずだと主張しゆるやかな社会の滅亡を目指すべきではないのか。女の欲望はこれまで優先されてこなかったのだから優先して叶えられるべきだなんて差別論理で女が全肯定されるとでも思っているのか。女批判は全部ミソジニ―でマンスプレイニングだと言えば聞く必要がなくなるのか。男批判も女批判も平等にツイッターで叫ばないのはなぜか。生産性がなくてもいいなら、出産と労働への欲望だけ特別の地位を与える必要はあるのか。わきまえていないのは社会に対してでなく、自分の叶いもしない無際限の欲望に対してではないのか。
フェミニズムは生産性を拒否した果てに、相互承認の相互ケア社会を夢見ているのかもしれない。そんなものは無理に決まっている。誰が、何日も風呂に入っていないホームレスの人間を受け入れ、肯定し、ひいては抱き締めるようなことができるのか。フェミニストはそれを積極的にやれているのか?誰も何の役割も求められない社会で、承認を得る手段として家族も労働も拒否するなら、相互ケアしか道がない。なら、キモくてカネのないおっさんおばさんクソガキ不良反社不潔人間障害者重病人外国人、ケアする能力を持たない不幸な孤独者を誰がケアするのか?女にだけ求められていると誤読される恐れがあるから、フェミニストも、男も、LGBTも、社会の全ての構成員が全ての構成員をケアする義務を持つ社会と化す、と強調する。解決策としてケア役割を職業にしようとするならば、結局自分はフェミニズムという上流学問を修めた以上上流階級がふさわしくそんな下品で誰もやりたくない仕事はフェミニストはやらなくていいはずだという傲慢ではないのか。社会から疎外された弱者がその役目を負うことになることに目を向けるべきだ。相互ケアなんてできるわけないのだ。誰もがケアされる側になりたいに決まっていて、他人のケアなんてまっぴらごめん、誰かに押し付けたいに決まっているからだ。念のため言うがカレシカノジョパートナーを作って承認を得るなんて可能性があるはずはない。好みの顔面や肉体による他者選別なんて、誰も配慮する必要のない社会的に構築された欲望でしかないからだ。欲望する存在としての人間は全て否定されるのだ。
以上見たように、「社会的に構築された欲望」理論からは、全ての人間は全ての役割規範と欲望を放棄し、全ての承認の根源を失い、静かに死んでいき社会を滅亡させるのが善だという結論以外はあり得ない。東京スカイツリーの展望台から、一人一人丁寧に飛び降りるのだ。環境問題も少子化問題も解決され、最高の未来が約束されている。死は救済だ。