願いを叶えることに対する罪悪感は、この世の中に根強く息づいている。
例えば、願いが叶えられると同時に、代償として何らかの罰を受けるという物語は古今東西、様々な例が見受けられる。
しかし、願いと罰がセットであるのは、願うことが道徳的に罪深い行為だからではない。
すなわち、その願いが叶った上でも、願った人間の意図せざる結果としての不幸が成立してしまう余地があっただけだ。
願うことで「罰」を感じる人間は、その不幸が成立しうる未熟な願い方をしているだけなのだ。
そのことはこういう例が分かりやすいだろう。
例えば、「お腹いっぱいにお菓子を食べたい」という願いが叶ったとすると、
体重が増えたり、ともすれば生活習慣病などの病気になったりすることがある。
別に、願いを叶えたことに対し誰かが道徳的な罰を付与したわけではない。
単に、その「罰」が成立するような未熟な願い方をした本人が悪いのだ。
(まあ、最近のネットだと、ネット上に何らかの意向を示して、将来的にそれに自縛されるパターンの方がわかりやすい例かもしれない。)
未熟な願いであれば、その願いが叶うことこそ「罰」になりうる。
その「罰」は、知らずに自らに願いとして仕込んだものに過ぎない。
さらに言うなら、物語化されるほどに、願うことが「罰」を誘発する行為だと勘違いされるのは、
これまでの願い方には何かしら「罰」となりうる隙があったからなのだ。
だから、この世界はその願いが叶った上でも「罰」に転じることのない願い方を求めている。
それは「罰」が生じない点で、それ以外には自分のためにも世界のためにも願う必要はないのだから、
いわば「最後の願い」と言ってもよいものだろう。なんなら、世界平和や人類繁栄とでも言い換えてもいい。
そして、その「罰」となる隙を埋めるためには、科学なり思想なりの目標であるだろう、
世界を最終的な解決に向かわせるという願いと同様、学問的な追及や社会との争いの解決など、
その願い方を、内(語意)からも外(状況)からも合理的に詰める努力が必要で、
それこそがこの世界の本当の意味での「進化」の方向性なんだと思う。
つまり、「罰」を受けない正しい願い方のために世界は歩んでいくのだ。
そもそも、これまでの歴史というのはつまるところ、本当に正しい願い方を実現するためにあったのだから。
それは科学なり思想なりの目標に至る過程でもあるが、何よりも個人がその願いを不足なく伝える語法を得るための営みだったのだ。
なるほど コピペして保存しておきます
だから初詣とかでよい願い方を訓練してるんやで