はてなキーワード: 原理主義とは
Aqoursがμ'sより売れないのはAqoursやサンシャインがμ's、無印より劣ってるからじゃない。
曲は確かに劣っているが売上ほどの差はないし無印時代も後半はとても素面で聞けるレベルの曲なんてなかった。
では何が劣っているのか。
盲信的に金を出し声優や作品をひたすらに礼賛するラブライバーが減ってしまった。
無印時代にその層だった何割かがμ's原理主義と化して減ってしまったのだ。それが原因だ。
ファンの根拠のない絶賛と無謀な投資がなければ全く評価の対象になることはないどうしようもなく見所のない作品だ。
ファンが頑張らなければダメだ。頑張れラブライバー。みんなで叶える物語は魔法の合い言葉だ。
運営や監督、脚本家、声優なんかのせいにしてはいけない。運営や監督、脚本家、声優がクソなのは無印時代だって同じだろ。
変わったのはクソを絶賛せず金を出さなくなったラブライバーだけだ。
ただ名前がラブライブ!からラブライブ!サンシャイン!!、μ'sからAqoursに名前がちょっと変わっただけだというのに。
はてなユーザーのWebプログラマに尋ねたいのですが同一内容で"http:"と"https:"とURLの頭だけが異なるサイトについたはてブのブコメページを合体もしくは関連させることは、そんなに難しい技術なのでしょうか?
例えば、今話題の塚本幼稚園と稲田朋美防衛相について書かれたこの2015年11月10日の記事。
稲田朋美と「軍歌を歌う幼稚園」を結ぶ、「生長の家原理主義」ネットワーク ――シリーズ【草の根保守の蠢動 第22回】 | ハーバービジネスオンライン
https://hbol.jp/67110 http://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/67110
http://hbol.jp/67110 http://b.hatena.ne.jp/entry/hbol.jp/67110
上のリンクが、"https"から始まるURLと、そのページについたはてブページ。7ブクマしかついていません。全部今年に入って、森友学園の疑惑が出た後についたブクマです。
下のリンクが、"http"から始まるURLで、そのページについたはてブページ。こちらは64ブクマもついています。記事が発表された直後についたものが多数です。
今は自動的に"https"のURLに飛ばされるので、意識的に、"s"の有無を確認しないと、過去にブクマされた"http"のコメントは全て無視されることになってしまいます。
chromeのはてなブックマークの拡張機能だと、URLの後ろに余計な英数字が付く場合は、「このページには別のURLが提示されています。」と注意表示がされて、他にたくさんの人がブクマされているページがあることに気がつくことができます。
このように「このページには別のURLが提示されています。」の表示を、"http"と"https"のブクマページの違いにも適用することは難しいのでしょうか? 何かできない深刻な理由でもあるのでしょうか?
前から、このことを不便に思っていて、でも何か放置されているようで、すごく気になっています。
追記:
「s」の意味について尋ねているのではありません。
「s」の有無で分割されたブクマページを統合したり、お互いに関連づけたりすることがWebプログラマ的に難しいのか、と問うているのです。
ハルキストだ。
目覚めたのは高校生の頃。
たまたま手にしただけなんだ。嘘じゃない。
ちょうど年頃だったので恋愛やらセックスやらの話が読みたかったんだ。
1q84は楽しかったし、多崎つくるは80点くらいで正直あの話題になったアマゾンレビューの方がクリエイティブだったかな。
彼女には俺がハルキ好きなこと伝えている。好きになった経緯も、好きなところも。
でもだめだ。
もうハルキをディスるのが体に染みついているみたいで、ご飯食べて仲良しムードになった帰り
「どこが楽しんだろうね」
とディスってきて、俺は「そうだね」と返した。
それ以外返せなかった。
「ハルキストの男たちはみなセックス下手って友達と言ってるw」
「ハルキストは厨二」
そういう言葉に俺は心えぐられてきた。
もう、たくさんだ。
どうやら俺はここまでだったようだ。
あとは任せた。
本当に好きだったんだよ、嘘じゃない。今でも目をつむればあのころのことを思い出せる。
でも思い出すのに時間がかかるようになっただけなんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20170226130630
この主張に異論はないが・・
本田の主張はセンセーショナルだった。熱狂的に受け入れるものもいたし、極論だと反発するものもいた。是か非か、で論争となり、当時の主要な思想家は彼の考えに言及した。ほとんど彼を批判するためだけの本も出た。
こういう紹介の仕方は、同時なにがベタでなにがネタだったのか誤解を招くのでは。
REV 「思想を立ち上げ時代を変えた人(極めて稀)」と、「変わっていく時代を感じて(たまたまかもしれないが)、表現したり、論評したり、上手い名前を作った人」と、区別がつきにくかったりする
kotobukitaisha 今から10年前くらいって、「オタク」というワードは、蔑まれながらも一定の地位が出来つつあって、人に何かを語らせたくなる言葉だった。地方自治体が地域振興に萌えキャラを作る今は、そういう熱はないけど。
t714431169 この人とか非モテ論壇とか、イヤな時代でしたねえ。「純粋さ」「潔癖さ」は持ち上げるもんじゃない。ジャンル違いだけど佐々木俊尚と同じ箱かなー。/ 時代と寝た人として、賞味期限の短さはむしろ勲章では。
本田透は喪男を自称していたが、当時の喪男板とその周辺は今の2chと違って紛争が絶えなかった。独身男性板から分裂し、さらにモテたい男性板、孤独な男性板などに細分化しているのも内紛の結果である。
はァ?…根っからの反フェミだけど本田透は死ぬほど嫌いですが何か?(苛)
あの男の本質は所詮「極左のフェミニスト」に過ぎん。単にそのフェミにすらミサンドリー喰らっていじ
人大杉な時代の喪男板の内紛とはおおまかに言えば「宅間守はネ申」「女ども死ね」「俺を愛さぬ世界は滅びろ」みたいな喪男道覚悟系、はてな風にいうなら非モテロリストと、「二次元があれば幸福」「モテないものはしょうがない」みたいなオタク系とのdisり合いである。テロ派の勢力はまだまだ強く、またテロ派を生み出すような世間のモテ派的空気(「恋愛しなければならない、できない者は人格破綻者。」「努力すればモテるはず」「孤独な者は一生不幸」等)もまだまだ強かった。オタク系の喪男としてはどちらも大変うっとうしかった。テロ派もモテ派も同じような批判(「お前らは世捨て人」、「人間やめてる」、「やせがまんしてるだけだろ」等)をしてくるので、両者はコインの裏表だろうと思っていた。実際テロ派は世間を批判していたがルサンチマンがあるのは世間の価値観にどっぷりつかっていたからなのだ。そうこうしているうちに、本田透のサイト「しろはた」が立ち上がり、オタク系の主張を集めたような本、電波男が出版されたのである。そこで形勢はオタク系に一気に傾いた。これはこれで電波男の売り上げが~とか世間様的評価を利用している感があるのだが。
要するに、本田透が教祖で多くの信者がいたわけではない。喪男板住民にとってポジティブに言えば「本田透はわしらが育てた」のであり、ネガティブに言えば「パクられた」のである。
『電波男』を真に受けたのって、現在アラサーの世代だけだという話をされたが、たしかにそうなりそうな感じはある。『電波男』のあとにきたのは、オタク恋愛マニュアル本ブームだったしなあ
でんぱおとこに、まじになっちゃって、どうするの /「かつて、ネタ・メタ扱いされていたものが後発世代にはマジになる」を地で行くような捉え方だと言いたいが、当時もマジになっちゃってる人は結構いたなぁ。
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/835815900590686208
電波男以降、明らかにオタク系が優勢になったので鞍替えや新参もあっただろうと思うが、しろはたと喪板についての私の記憶は上記の通りであり、間に受けるもまじもない。むしろテロ派やモテ派の恋愛原理主義に対する相対化、ネタ化の機能を果たし、且つ喪男における安全な適応作法を提示したのがオタク系であり電波男である。
なので、電波男やら喪男を指してパラノイックなるものを言われても正直困る。脱オタとか言ってた人(id:p_shirokuma)のほうが全然ベタだったのでないか。当時については。
『電波男』を書いた本人は、もはや『電波男』の話などしなくなっているが、ここにきて『電波男』の主張を本気でする人が出てくるのは、昔の人が適当に書いた本を元に宗教が立ち上がったりするようなものなのだろうか
tukanpo-kazuki 若い男性がしれっと自然に何の気負いもなく恋愛から離れていってる現代において、暑苦しく「脱恋愛!」とか「解脱!」とか叫ぶ本田徹は時代遅れになった。生まれるのが早すぎたのかもね。
二次元もいらないという現在にあって電波男をガチで受け止められてもそれはそれで正直困る。ありもしないものについて「脱!」と叫ぶことは逆効果にもなりそうだ(とはいえいまだにベタな恋愛至上主義者もいるにはいるようなので仕方ない気もするが)。
suna_kago 実のところよく知らないけれど、10年前と比べて情報技術などが進歩した現在、彼が唱えたユートピア思想(二次元主義)は当時よりも現実味があるのかもしれない。
反電波男勢の方々は、二次元もいらないという風潮をもって電波男の主張の失効を唱えるかもしれないが、電波男の主張がはるかに追い抜かれた今となっては(なったからこそ)カウンターとしてでも脱~のためでもなくより一層純粋に二次元に没入できる、ベタに電波男的な時代になったとも言えるのではないか。
宗教について考えるとき、歴史的なさまざまな経緯(虐殺や迫害など)があったことは分かる。だからそれを狂信的に信じて、他人をどうこうしてきた経緯があるから、善悪っていう基準が出てくるのも。
ただ、そういうものを原理主義的に考えても仕方ないんじゃないのかなあと思う。
例えば母親が子供が無事に生まれてきますように、育ちますように、って祈るためにあったり、苦しいときに自分だけじゃなくて神様も一緒に苦しんでくれるとか、苦難にぶつかったときに神の試練なんじゃないかと意味を見出そうとしたり、そういう「弱さ」(ここにはいろんなものが入る)に寄り添ったりしてくれるものなんじゃないのかな、と思う。
我々は別に神学者や哲学者、あるいは原理主義的なテロリストじゃないんだから、善悪っていう一面的な捉え方をする必要はないんじゃないかなと思う。
うまく説明できないけど。
前者の言う本は知識を得るためのツールで、それは仕事で使う参考書や自己啓発本の類。あるいは、読んでいることがステータスになる本。
本とは情報をインプットするためのもので、入手が簡単でアーカイブ性が高い方が使い勝手がいいから電子書籍を好む。
後者の言う本はアート体験。映画好きが映画館のポップコーンの匂いをひっくるめて映画を楽しむように、書店で本を選ぶ手間暇と装丁や紙の手触りをひっくるめて本だと思っている。
私は「紙の本」原理主義者で、だからはてブに上がってくる電子書籍万歳エントリーにいまいちピンとこないし、
電子書籍至上主義者も紙の本の「良さ」を熱弁されたところで頭に?が浮かぶだけだろう。
結局、何が言いたいのか自分でもよくわからないのだけれど、電子書籍の普及で紙の本が衰退することはあっても完全に代替されることはなくて棲み分けが進むだけかなみたいな、ふわっとした話。
http://anond.hatelabo.jp/20161228170808
ブコメやトラバ含めて「正しさ」という言葉を無邪気に受け入れてる人がちらちらと散見されてビビる。そんなものを自分たちは判別できると信じてる人がいるんですね(そうじゃないブコメもあるけどね)。原理主義がなくならないわけだよね。
何度か増田にも書いた事あるけど,「正しさ」というのは有限時間を生きる我々には判別し難いものなのですよ。
典型的なアポリアであり「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」だったり「ゲーデルの不完全性定理」などを参照してみると良いんじゃないだろか。
論理構造を考えればこれは自明ではあるのだけど一応ざっくり書いておこう。分野を問わず物事の正しさを充足理由律(事象Aの理由はBという構造)で語る場合、我々は議論の俎上で次の問題にぶちあたるでしょう。
増田の言う「暴力」とは「独断」の事なのだろうから,それが暴力であるという指摘ならある意味当たっている。こうした馬鹿げた「独断」を排除するために数学は公理系という協約(いったんここで理由の遡りをやめましょうという約束事)を敷いてるし実験科学は観測結果の有効性を定義する要件と協約を設けている。それは目的上「正しそうな」物に近傍させる為の道具でありそれがid:turanukimaruの言う合意なんでしょね。
なので「正しい」と言う事をベースに論を展開してるお話を見たら人並みの教養がある人はうさんくせーこと言ってるなこのバカって思うので気をつけましょうね。
11月〜12月で炎上、というより「コミュ力の圧倒的足りなさ」から揉め事や騒動を起こしている人たちが軒並み40代だった。
SQLおじさんこと生島勘富は40代(クラウドワークスのページより)
ちょまどの例のスライドを作ったおっさんこと山本康彦は1957年生まれの59歳。
その酒巻裕一を擁護しつつ自身もアドベントカレンダーで特定人物の攻撃記事を上げているRichMikanことシェルショッカーこと松浦智之は1975年生まれの41歳。
職人エンジニアみたいな言葉を使ってエンジニアにコミュ力を求めない風潮を是とする記事を読んだことがあったけど、こんな若気の至りでやるような揉め事をいい年したオッサンたちがやっているのを見ると、コミュ力0のまま一定の年齢を超えたエンジニアは、社会と完全隔離させないと誰かを不幸にするだけの存在になるんじゃないかって気がしてならない。これは社会人全体にも言えるが。
ゲームの現場は平均年齢が30くらいなので、フリーランスで40越えたときには周りがみんな年下で、そこに同対応してゆくかというのはある。というか、対応できずに昔のままの感覚で腫れ物扱いや疎まれていく(もちろん、本人には言われない)というのを最近たくさん見てつらい。
https://twitter.com/obenkyounuma/status/806253887036366849
あとドラえもんの「大人ってかわいそうだね。自分より大きなものがいないもの。よりかかって甘えたり叱ってくれる人がいないんだもの。」っていう台詞を思い出した。もうこんなおっさん達を正しく叱ってくれる人間はいないだろうから、やはりただちに現実からもネット上からも隔離するしかないんじゃないか。
http://qiita.com/mesaka/items/41ec09a4dae3fba6dd6c
Qiitaに登録しているGitHubアカウントを見ると、たしかにGitやGitHubが苦手なんだなあというのを感じる。
それはまあともかく、プロフにあるURLを踏むと合同会社を設立されていることがわかる。
ついでに言うとWantedlyにも企業ページを作っていて、そこのプロフ等にも不穏なことが書かれているのだけれど割愛。
ここまで公開している立場で、あのコメント欄の態度は自分の首を絞めていないか?という疑問はさておき、GitHubの名前を検索したらTwitterアカウントが出てくる。
https://twitter.com/mesaka2009
いろんな人間に裏切られて鬱病になりました。もう人生に疲れています。 PHPは大好き!早く正社員になってもいいです!! ※このツイートはフィクションが含まれています。検挙件数稼ぎの警察の方の自宅に来襲はご遠慮下さい。
bioの内容が不穏すぎるがさておき、このTwitterアカウントを検索するとDMMの面接で落ちて逆恨みしたり、コロプラの面接で号泣していたことが既に増田でヲチされていたことが分かる。
すでに指摘されているが、妻子持ちでTwitterにはこの時期かなり不穏なこともつぶやいていたらしい。
件のQiita記事に関しては「書いてあることが事実ならチャットワーク社が反省すべきことはあるけど、この人の数年レベルの普段の言動から見ても、書いてある内容をそのまま鵜呑みにして語ることはできない」と思った。
ちなみに去年のカレンダーにはこんなこと書いてたのに、どうしてしまったんだろうなあ。
http://qiita.com/advent-calendar/2015/free-engineer
(追記)該当の記事を見たら、コメントにフリーランスおじさんを焚き付けてるおじさんが新たに登場してた。調べたらこの人も特定人物にケンカ売りたいだけの記事をQiitaに書いてた。
品位が問われるAdvent Calendar -- シェルスクリプトはどこでも動く! - Qiita
http://qiita.com/richmikan@github/items/5f53a14a79874d56a2ff
http://togetter.com/li/1056218
ちなみにこの人は松浦智之氏で最近『Windows/Mac/UNIX すべてで20年動くプログラムはどう書くべきか』という本を書いている。著作者情報によれば1975年生まれの40代。ついでに言うと、件のフリーランスおじさんはWantedlyに生の職務経歴書のpdfを公開していて、そこから年齢が40歳であることがわかる。なんだ、プログラマーは40超えたらこんな風におかしくなってしまうのか。プログラマー35歳定年説は正しかったのかもしれない。
先日「この世界の片隅に」の感想を書いたけど、その際引き合いに出した「平成狸合戦ぽんぽこ」について、
せっかくだから何となぁーく感じてたことをだらだら記してみるよ。
↑自分の書いたもので恐縮だけど、自分は「ぽんぽこ」のテーマは「(それでも)生きていく」だと思っている。
自分たちを取り巻く世界(環境、価値観、社会、文化)の変化の中で、人はどう生きていくのか、
またどう生きてきたのかを、狸に託して描いているのがあの映画だと考えてるよ。
(学生運動とかの風刺ってのはその通りだと思うけど、少なくとも自分はもっと普遍的なものを描いていると思う。)
自分たちを取り巻く世界の変化(この映画では迫りくるニュータウンの開発だけど)に対して、
狸たちはいろんな立場をとるんだけど、この映画の場合はそれぞれ分かりやすく、
化けられない狸=世界の変化についていけない、取り残される弱者。
正吉(主人公)=世界の変化に(望む望まざるを問わず)適応する、適応せざるを得ない者。
てな感じで描かれていると思う。
別にどれが良くてどれが悪いとかじゃなくて、それぞれが世界の変化に対して「(それでも)生きて」
いこうとした形の現れ方の違いなんだろう。(人間もそうじゃないすか?)
で、本題に戻るけど、映画で権太率いる強硬派が機動隊とガチンコでやりあうわけ。
そしてそのやりあう場面の視点が変わり銃声がした後、画面が切り替わって、機動隊が狸の死骸を
山積みにする場面がくる。これ、映画の見せ方としては明らかに「死」を意味するもの。
権太たちは確かにここで死んだはずなんだが・・・
しかし、狸の死骸はその後むくむくと動き出し、権太たちは復活して、最後に大きな首(釣瓶落とし)と
なって工事現場で再び暴れるのである。そして迫ってきたトラックの前に立ちふさがり、キッと睨みつけるのだが、
無惨やなそのまま轢き殺されるのだ。これで本当に死んじゃったわけ。
正直なんでわざわざ復活させてまた殺すのかよく分からなかった。
「狸寝入り」の伏線を回収するためなのか、「特攻」のメタファーなのか…。
ただ、この映画を「自分たちを取り巻く世界の変化に対する云々」という視点で見れば、
きっとこんなじゃないかなぁ~と思うんだけど、つまりあれはもう互いに相容れない世界同士のぶつかり合い、
原理主義同士の争いってなわけ。そういうものはどっちかが滅ぶまで戦い続けます。
それまでの狸vs人間の戦いは、狸が化かして人間が驚くって構図だったんだけど、
狸と人間は対立していても、狸も人間も化け物は「怖いもの、驚くもの」という価値観を共有してたわけ。
対立はしてるけど共有もしている、ある意味矛盾を抱えながらバランスとってた関係。
機動隊との戦いはまだその段階だったってこと。
でも、最後のトラックは、あれは価値観の共有ができない完全に対立した存在。
だから、化け物をみても怖いという反応がない。今までだったらトラック側が「うわぁーー」とか言って
ハンドルを切っちゃうんだけど、こいつはそのまま突っ込んじゃう。
そして権太はこの相容れない存在同士の文字通りの死闘に破れ、本当の死を向かえることになる。
でも、これは映画の話だけど、同じような構図は、グローバル化だとか移民だとか領土争いだとか格差社会だとか、
まさに今の世の中のいろんなものに当てはまるんじゃないかなぁ~。
凄まじい勢いで身の回りの世界が変化していって、いたるところで侵食や衝突が起きている。
そんな中で自分たちはどう生きていくかってことを、実は無意識にみんな不安に思ってるんじゃない?
そして、かつて戦争という、それこそ圧倒的に自分たちを支配し大きな変化を強いてきた存在があった。
そんな時代に「(それでも)生きて」いた人たちがいた。
「この世界の片隅に」を観て、なんかよく分からないけど心にグッと来るものがあるのは、そんな無意識に訴えかける何かがあるからじゃないか?