先日「この世界の片隅に」の感想を書いたけど、その際引き合いに出した「平成狸合戦ぽんぽこ」について、
せっかくだから何となぁーく感じてたことをだらだら記してみるよ。
↑自分の書いたもので恐縮だけど、自分は「ぽんぽこ」のテーマは「(それでも)生きていく」だと思っている。
自分たちを取り巻く世界(環境、価値観、社会、文化)の変化の中で、人はどう生きていくのか、
またどう生きてきたのかを、狸に託して描いているのがあの映画だと考えてるよ。
(学生運動とかの風刺ってのはその通りだと思うけど、少なくとも自分はもっと普遍的なものを描いていると思う。)
自分たちを取り巻く世界の変化(この映画では迫りくるニュータウンの開発だけど)に対して、
狸たちはいろんな立場をとるんだけど、この映画の場合はそれぞれ分かりやすく、
化けられない狸=世界の変化についていけない、取り残される弱者。
正吉(主人公)=世界の変化に(望む望まざるを問わず)適応する、適応せざるを得ない者。
てな感じで描かれていると思う。
別にどれが良くてどれが悪いとかじゃなくて、それぞれが世界の変化に対して「(それでも)生きて」
いこうとした形の現れ方の違いなんだろう。(人間もそうじゃないすか?)
で、本題に戻るけど、映画で権太率いる強硬派が機動隊とガチンコでやりあうわけ。
そしてそのやりあう場面の視点が変わり銃声がした後、画面が切り替わって、機動隊が狸の死骸を
山積みにする場面がくる。これ、映画の見せ方としては明らかに「死」を意味するもの。
権太たちは確かにここで死んだはずなんだが・・・
しかし、狸の死骸はその後むくむくと動き出し、権太たちは復活して、最後に大きな首(釣瓶落とし)と
なって工事現場で再び暴れるのである。そして迫ってきたトラックの前に立ちふさがり、キッと睨みつけるのだが、
無惨やなそのまま轢き殺されるのだ。これで本当に死んじゃったわけ。
正直なんでわざわざ復活させてまた殺すのかよく分からなかった。
「狸寝入り」の伏線を回収するためなのか、「特攻」のメタファーなのか…。
ただ、この映画を「自分たちを取り巻く世界の変化に対する云々」という視点で見れば、
きっとこんなじゃないかなぁ~と思うんだけど、つまりあれはもう互いに相容れない世界同士のぶつかり合い、
原理主義同士の争いってなわけ。そういうものはどっちかが滅ぶまで戦い続けます。
それまでの狸vs人間の戦いは、狸が化かして人間が驚くって構図だったんだけど、
狸と人間は対立していても、狸も人間も化け物は「怖いもの、驚くもの」という価値観を共有してたわけ。
対立はしてるけど共有もしている、ある意味矛盾を抱えながらバランスとってた関係。
機動隊との戦いはまだその段階だったってこと。
でも、最後のトラックは、あれは価値観の共有ができない完全に対立した存在。
だから、化け物をみても怖いという反応がない。今までだったらトラック側が「うわぁーー」とか言って
ハンドルを切っちゃうんだけど、こいつはそのまま突っ込んじゃう。
そして権太はこの相容れない存在同士の文字通りの死闘に破れ、本当の死を向かえることになる。
でも、これは映画の話だけど、同じような構図は、グローバル化だとか移民だとか領土争いだとか格差社会だとか、
まさに今の世の中のいろんなものに当てはまるんじゃないかなぁ~。
凄まじい勢いで身の回りの世界が変化していって、いたるところで侵食や衝突が起きている。
そんな中で自分たちはどう生きていくかってことを、実は無意識にみんな不安に思ってるんじゃない?
そして、かつて戦争という、それこそ圧倒的に自分たちを支配し大きな変化を強いてきた存在があった。
そんな時代に「(それでも)生きて」いた人たちがいた。
「この世界の片隅に」を観て、なんかよく分からないけど心にグッと来るものがあるのは、そんな無意識に訴えかける何かがあるからじゃないか?
「この世界の片隅に」 何となく評判が良さそうなのと、こうの史代が原作だというのとで、 北海道じゃ知る限り今のとこ札幌の1つの映画館でしかやってないけど、観に行ってきた。 ...
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言いたいことは理解できるが、平成狸合戦ぽんぽこの方は学生運動かぶれの左翼アニメないし、それを皮肉ったアニメでしかないからなあ。 あの生き残ってる狸って結局赤軍とかになっ...