はてなキーワード: 信頼関係とは
なかなかやばい。
やばすぎて死にたいとか辛いとか言ってられない。
この世は地獄なのかもしれない。
良いこと何にも起きない。
本当に全然起きない。
世の中にはラッキーな人もいるが、どうも俺はその星の下には生まれていないらしい。
結局、自分の努力や実力が正当に反映されているだけの現実って感じだ。
最近はPCで文章書く機会が減ったからタッチタイピングも下手くそになってて、原因があって結果があるだけって感じ。
何十人もの女の人と話すというのは、俺のスキルに何か寄与したかというと、特に何もプラスになってないな。
むしろ他のことにエネルギーを割けなくて無駄に歳を重ねた分、マイナスまである。
他人との信頼関係築くのって、難しいな。自己開示は必要だと思うけど、ただの甘えって言われちゃうこともあるもんな。
だから基本的には、他人と信頼関係築くことに期待しないことだ。
結局全部自分でやらないとって、10代のころからたいして成長してない気がするけどな。
自分で全部やれない人間は他人と信頼関係築けないということか。
それはあるかもしれない。
自分で全部やるとなると、やることたくさんあるな。
しかし、誰も信用できない世の中に、生きる価値なんかあるのだろうか。
宅配便が指定した時間に届くとか、電気が日々供給されているとか、住むところがあるとか、うまいものが安価に食べられるとか、
隕石でも落ちねぇかな。早く世の中滅んでほしい。
私もそこまで性欲が強くないけれど、パートナーの性欲には向き合っているよという話。
パートナー間で熱量差があると、熱量の多い方は「立場ある大人なんだからひたすら我慢するか自分で処理しろ」
という話になりがちだよね。
確かに本能を理性でコントロールできるのは人間の良いところでもある。
睡眠不足を無視して働き続けたり、空腹感を無視して無理なダイエットをしたりしたら身体に悪影響を及ぼす。
なぜ性欲だけは「そうではない」と言いきれるのか。そんなことないよね。
睡眠欲、食欲より短期的に生死につながらないからって軽視されていると思う。
ただ、実際にセックスとなると身体への負担が異なるから、負担が大きい方の意見しか受け入れてもらえないことも多いよね。
疲れてるからどうしても無理とか。
そうなると無理強いはできない。
でも、体力を使わずに少しでも精神的な満足感を満たすことはできると思うんだ。
裸になって抱き合ったり、キスをしたり。身体を撫でたり。オナニー自体をしてあげたり。
これで生殺しと言われるなら仕方ないけど、限られた体力と時間の中で最大限の愛情表現(あなたに興味があり、性欲への理解があり、協力的であるという意思表示)をしているつもり。
私の場合、持病の薬の副作用なのか、昔より感じにくくなったから、準備に時間がかかって相手をすること自体が少しつらいんだけど、だからといってパートナーに愛情を交換できない辛さを強いるつもりはないから。
挿入は準備も最中も体力が要るし、事後の処理も大変。翌日も腹痛や腰痛、ダルさが残ることが多い。
正直、自分がベスト体調で、相手が独りよがりのセックスをせず、少しは気持ち良いと思えないと、セックスは完全に「肉体奉仕労働」になってしまう。
「自分は大丈夫」と瞬間的に思った人ほど要注意。特にテクニックに自信のある人。
人間は変わっていくもの。気持ち良い場所、触り方、加減は変わったりする。
常に相手の反応をよく見て、より良いセックスを2人で探していくつもりでいないと、すぐセックスレスになるよ。
だってあなたが性欲を我慢していたように、相手は疲労や睡眠不足を我慢して奉仕させられることになるのだから。
もちろん、「気持ち良くない」を相手に伝えられる信頼関係も重要。気持ち良いフリを続けないと不機嫌になる人に言えるわけないからね。
あと、これが一番重要だけど、パートナーが愛情表現をしたいと思える相手であり続けること。
普段からデリカシーのない言動をしたり、快適な共同生活に積極的でなかったり。
そういうのはお互いに心が少しずつ離れていくので、もしあるようならひとつずつ解きほぐすのが良いと思うよ。
長々と書いてしまったけど、本当に満足できるセックスは相手との関係性の中にあると思う。
手っ取り早く挿入できれば良いんだと言うなら何も言えることはないけど、
そうでないなら、たとえばパートナーさんにこのページを見せて、自分の欲求と相手の考えを確認してみても良いのではないかしら。
死んでなお他人に都合のいい姿を想像され共感される人は哀れだ。
相手の心情を推測して思いやること全てが悪ではない。
どころか相手を救済することもあるだろう。
ただしこのような救済――私はこれこそが愛だと思っているが――が成立するのは、
お互いの関係の積み重ねがあり、相手にとってあなたの言動が悪意に基づくものや想像上の自分に向けられたものではないと信じられる場合のみではないだろうか。
私は愛は友人、恋人、家族との間にのみ、それも稀にしかありえないと思う。
あなたはそのバンドマンとどれほど信頼関係を築けていたのだろうか。
仮にあなたが生前そのバンドマンに対面して時を過ごしたとして、
相手は愛を感じただろうか。
同人女は等しくえらくねーよ!正当化すんな!っていう全方位に向けたお気持ちなので良い人もいるんだけど…みたいなのは省きますが、同人女じゃないと女オタク生きにくいなって思う個人の私怨です。(ここでは見る側作る側を問わず夢女子・腐女子・男女CP厨を同人女と定義します)
オタク女のコミュニティではこの3つのどこかに属してる前提で話が進むのでめちゃくちゃストレスです。そのため「好きな漫画?鬼滅の刃!流行ってるよね〜」みたいなファッションオタクとしてお茶を濁したり、オタクであることを隠すようになったんですけど、Twitterがあまりにも同人女のるつぼ。検索すれば何かしらの二次創作がヒットするの、全然森とタタラ場で暮らせてなくないですか?こっちは公式アカウント見たいだけなのにちょっとリプライを遡ると「〇〇くん幼女すぎ」みたいなえぐめのツイートが目に入るのめちゃくちゃ嫌なんですよね。性別知らずにゲームしてるのかな。
他にもやりたい放題してるので、同人女は他人の作品の二次創作で承認欲求を満たすために鍵パカのアカウントを使ってるのかと邪推してしまいます。本当に何で鍵かけないんだろう。
嫌なら見るなってゾーニングされてることが前提の発言じゃないんですか?
三者三様に嫌いなんですけど腐女子が特に苦手です。高校で私がオタクって分かった時に当然のようにその作品のBLの話をされて、さらには馬×男のCPについて話されたトラウマがあるんですけど、ジャブとしては重すぎるでしょ。初手から人外てなんなん?
・腐女子
男キャラ同士で妄想してる人と話してるとすべての展開がCP妄想に終着したり、キャラの会話を燃料とか言われたりで話が合わないんですよね。
中でも嫌なタイプが配慮したつもり腐女子とマウント腐女子です。
前者は腐女子の配慮って腐女子同士のことしか考えてないのかなって感じるあれです。
度々Twitter上で議論になる腐女子の自衛問題あるじゃないですか。例えば赤くんと黄色くんっていう苗字のCPに対して「赤くんと黄色くん最高!(画像の添付)」に赤黄とか黄赤ってつけろ、とかどんなシチュエーションか明記しろ、みたいな。
じゃあ腐女子じゃない人が自衛するためにCP名に赤を使うなよ!っていうのはあんまり言われてなくないですか?
どんなに公式名称で呼ばないとかの配慮をしてるつもりでも漢字一字の苗字や名前のキャラをCP名にしてる時点で無意味ですよね。
マウント腐女子は顔カプって言って作中で交流の少ないキャラをCPにしてる人をディスる腐女子のことです。確かに顔カプも理解に苦しみますが己を振り返ってみた時に笑える立場でしょうか?信頼関係が描かれているから、交流が多いからといって別にそのキャラ同士は恋愛関係ではないことがほとんどです。
この手の腐女子は厄介なことに多くが関係性厨を自称しています。しかしキャラ同士の関係性を重んじるなら原作以上の関係を望まないと思います。
親友なのが良いよね、ライバルなのが良いよね、みたいな話をしてるのにそこでCPに発展させられてもついていけません。
あと現実の性的指向の問題と混同する人多くないですか?今あなたのことは呼んでないんですが…
それとクラスメイト同士のBL小説みたいなのをメールで送られたことがあって、それも鳥肌ものなんですけどわりと対象の男子が寛容で「こういうのが好きなんだろ?」て腐女子相手に面白がってやるノリあるじゃないですか。キショ・キショ・キショ!需要ないわ!
・夢女子
いわゆる乙女ゲームを通っていないのでキャラと恋愛する感覚がよく分からないのもあるんですけど、夢女子と腐女子兼任してる友人に見せられた夢小説がまったくピンと来なかったんですよね。
そもそも俺TUEEE的な傾向のものが苦手なのでキャラのセリフや立場を乗っ取って無双する話にいまいち魅力を感じません。
・男女CP厨
自分の所属は一番ここが近いと思います。ただ明確に矢印が出てたり成立してるCPを応援してるのであって、原作にA男←B女の描写があるのにC男とB女をカプらせたりするのは違くないですか?パズルすな
上記の理由から同人女が苦手なんですけど、だからって他者の嗜好は変えられないのでブロックに勤しむしかないんですよね。この三つ巴でぶつかり合って消滅しないかな(カロリー0)
的外れな反応があって驚きました。タイトルは「死んでくれ同人女 人の目に触れないまま」とかの方が良かったですか?私は性別問わず作中で明確に恋愛関係になってない二人の二次創作CPが嫌いなので(作品の主題から逸れてると思う)、人を勝手に天邪鬼みたいにしないでください!
[B! 裁判] ふるさと納税訴訟 大阪 泉佐野市勝訴 市除外を取り消し 最高裁 | NHKニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20200630/k10012489311000.html
黒人「ヘイ、ジャップ! どうしてはてなブックマークのブクマカたちはイズミサノ市に『ごめんなさい』が言えないんだい?
平等であるべき法よりもムラ社会の慣習や空気を優先するなんてそれでも本当に日本は近代国家と言えるのかい?
BLM運動のスローガンは『I can't breathe』だけど、そんな日本社会に疑問を抱かず国にお追従するだけだなんてYouたちはとっくにbreatheをcanしてなかったようだね!
ブーシッ!」
何も言い返せなかったわ、、、
TakamoriTarou そらそうだろ。これで泉佐野の主張が認められたら、ガチガチに制度を固めたら運用が難しくなるから、趣旨を説明した上で信頼関係に基づき罰則等は設けない、と言う運用が全滅する。
RRD だからさあ、法ってのは条文の文字を国語辞典的に文法解釈して読むものじゃないんだっつーの。趣旨や前提条件ってのも法なのよ。後だしじゃんけんだの素人の法律談義はネットで腹一杯。
Gl17 条文のスキマを突いて主旨を逸脱するのは脱法というやつでけして合法じゃないので裁判では通用しない、仕方ない事情があるとかならともかく。関西なら維新系等が法曹出身でもよくやらかすけど。
augsUK 泉佐野市のイメージは、あの自治体ねという感じに固定化されたな。恥ずかしい人たちの街
ryun_ryun 泉佐野市は全国からふるさと納税を集めたが、日本中のヘイトも集めてしまった感。この汚名はずっと残りそう。
[B! 裁判] “ふるさと納税訴訟” 泉佐野市の訴え退ける 大阪高裁 | NHKニュース https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20200130/k10012265041000.html
daruyanagi 泉佐野のやり方が正しいと思ってるなら頭おかしいと思うで(歴史的経緯も含めて
ken-skatan 自業自得かと?>泉佐野市。国は府に呼び掛けて納税者から奪い取った交付金を没収するようにしないと。
ryun_ryun 法律ってのはそもそも一から百まで全部細かく規定できない。泉佐野はそれを踏まえて抜け穴を悪用しまくり、より厳しい規制を招いて他の自治体に迷惑を掛けたので一切擁護はできん。
furyrage どっちもだめだなあ どっちかって言うと泉佐野がだめ
[B! ふるさと納税] 総務省の「泉佐野市いじめ」が止まらない…!ふるさと納税の報復か(磯山 友幸) | マネー現代 | 講談社(1/3) https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/70259
irose 地場産業でも何でもないんで、こういうevilな自治体はいったん枯れた方がいい。/改定制度では地場産業活性の指標提示が義務化されるだろうね、泉佐野市のせいで。
ken-skatan 市長の発言に(すぐに他人に責任を押しつける)韓国臭がするなw。 泉佐野市不祥事クズペテン師うそつき
taruhachi 私の中で泉佐野市という名前だけでもう居直り強盗と同じ扱いになってしまった。
eiki_okuma 子供じゃないんだから、明文化されてなくても分かるでしょう……。
Panthera_uncia 吉野家の生姜全部食べちゃう人と同じだから(規制されても)仕方ない
hate_flag 法律というのは立法意図に即して条文を解釈しないといけない。脱法的な運用は条文に違反していなくてもやっちゃダメ。なのでこの処置は当然なのである。(ふるさと納税制度そのものの異常さはさておき)
blueboy 「もっと他の自治体の金を盗みたかったのに」という泥棒の弁。もう盗めなくなって、残念だね。 (おれは泥棒のルールを守っていた、と威張る泥棒。) → http://openblog.seesaa.net/article/451158022.html
[B! 泉佐野市] 痛いニュース(ノ∀`) : 【ふるさと納税】 泉佐野市「後出しジャンケンで条件を付けてきた政府に腹わた煮え繰り返る」と怒りあらわ - ライブドアブログ https://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1990127.html
個人的にはむしろ差別的なのを茶化したり誤魔化したりするときに使うけどね。
「ジジババは(熱中症になったら困るから、歩かず)まとめて車で」って言うと相手を老人扱いしてるのを冗談にできる。信頼関係ありきだけど
あえて言うまでもないけど。
俺の場合は、異性と信頼関係が結ばれることで、自分の中で色々な考え方の変化が生じた。異性は、自分とは異なる人生を歩んで来ていて、性格が似ていると感じる人でも、やはり異なる視点を持っている。異性と、様々な問題に対してじっくりと話をすると、自分とは異なる視点が得られて、価値観が変わったり、一つメタになったり、成長したりするきっかけになった。異性から見たジェンダー論は全然違う話だ。
もちろん異性との関係だけが成長の唯一のきっかけではない。多様化の時代で、性も色々、個人の関係も色々だ。性の関係以外でも、学びのきっかけはたくさんある。ただ、それは綺麗事とも言えると思う。他にどんな社会的関係があれ、異性を嫌悪することで様々な機会を失うことは事実だ。その事実を認めたくないからこそ、言葉にならない不満が溜まり、他者への攻撃的な感情を持つのだろう。(でなければ単に異性と関わらなければいいだけで、わざわざ異性に近づき、攻撃し、不快な感情を持ち帰るのは賢い行動とは言えないからだ。)
端的に言って、異性嫌悪者は可哀想だと思う。人を憐れむとは何様かと言われそうだが、でもやっぱり可哀想だ。人はなぜ異性嫌悪になるのだろうか。彼ら/彼女らの攻撃的な発言は彼らの本心だと思うべきでないし、取り合うべきではない。彼ら/彼女らは、自分の可哀想な境遇を受け入れたくないので、本心を認めない、話さない。異性に対して攻撃的な人には、まずはひたすら優しい言葉をかけるしかないのではないか、とよく感じる。
「権利の主張は、通常の愛のある結婚の文脈では、ほとんど演じるべき役目を持つべきではない。もし一方のパートナーが婚姻条の権利の否定や撤回について他方のパートナーに対して不平を言っているのを耳にするなら、パートナー間の欲望と愛情の相互作用がどこかすでにおかしくなっているとわかるのだ。」 ージェレミー・ウォルドロン 『リベラルな権利』372ー
件のスウェーデンの記事のブックマークコメントを見ていると、賛否いずれの立場に立つかによって、同意の捉え方が違うことが読み取れるように思う。
賛成側は、「単に一言確認するだけだ」と表現し、反対側は「同意書に押印でもさせるのか」と表現する。この表現の違いは賛成反対双方が実のところこの「同意」が何を問題にしているかを理解していることによるのだとう思う。
詰まるところこの問題は「信頼」や「愛情」の場に「権利」や「法」を持ち込むことに対する見解の対立なのだろう。賛成側は同意を取ることになんのデメリットもないはずだという。
私はそうは思わない。どちらから同意の確認を持ち出すにせよ、双方が背景に法的な要求があることを知っているならば、相手に完全な信頼をおいていないことを伝えるに等しいからだ
(もちろん同意をとる場合でも、同意を後で翻さないという「信用」は双方に必要である。信用すらないなら性交などできない)。
反対側が「同意をとる」を「同意書にサインさせる」と拡大解釈するのはまさしくこの点を大きく見せたいからだろう。
口頭ではなく書面という形式に置き換えることで一層契約や権利に基づく関係であり、信頼や愛情に基づく関係から乖離していることを強調する手法だ。
イマヌエル・カントは結婚を「性的機能の、生涯続く相互所有」のための契約だとした。婚姻は契約であるからして、このような側面を完全に否定することは難しい。
しかしこの定義が婚姻のすべてであると主張することもまた難しいだろう。
性交時に同意をとることで守られるものはある。他方で毀損されるものもある。
その点については賛否とも明確にする必要があると考え投稿した次第である。
最後に私としては導入するならかなり要件を明確にした、事後的に検証可能な形で同意をとることを希望したい(書面のみでは一部ブックマークコメントにあるように強制の問題が避けられないと思う。)
未だに中学生の記憶を思い出しては夏の入道雲のようにモクモクと怒っている.
特に中2,中3の担任の先生は自分の部活の顧問でもあり,強く当たられた記憶がある.
典型的な管理教育と体育会系のノリの教員で,僕は当時から反発していた.しかし中学生である.
その言いくるめられたときの悔しさを未だに思い出している.
授業の予定と宿題,連絡事項とともに5~10行程度の日記(生活記録)を書くのである.それを担任に提出し,担任は生活記録に対してコメントを書くことが多い.
現在では生活ノートはTwitterで凝ったイラストや文章と教員の反応がセットになった画像がバズることもあるし,
担任とのやりとりが小説家を志すきっかけになった人もいるらしいので全国の学校で広く行われているのだろう.
ただ,私はもともと,小学生の頃から生活ノートが苦手だったこともあり,中学生のときもずっとやらないでいた.
中学生の頃の私はいろいろと反発するタイプだったので,よく教員からの呼び出しを受け,その際,生活ノートの提出がないこともついでにとがめられたものだ.
担任は
「みんなきちんと提出していて,君だけが提出しなくていい理由なんてない」
といったことを何度も主張した.
今思いつく反論は
「教育の名の下に異常なあるいは,非科学的な,不合理な,非人道的な,反社会的なことが行われていたとき,声をあげる人でありたい」
「生徒に悩みを書いてもらうことがあるといいながら,学級通信に引用したり,生徒に返却を手伝わせたり,プライバシーは確保されていないじゃないか.」
「どんなことでも書いてといいながら,学級通信にそのまま書き写したり,担任が私の記録に対してコメントするなんて,生徒側が秘密にしてほしいと考えているのに担任の勝手な判断で書き写されるリスクだってある.」
「『はー。』だけが書かれた生徒の生活記録さえ学級通信に書き写されている.」
「書き写すだけで学級通信書いたつもりになっているのは時間の無駄.教員の労働時間は税金である.無駄使いするな.」
「読者が想定できない.」
こういう記事を目にした。ちなみにこのQuoraというサイトについては初めて見るのでQAサイトなんだろうなという事以外は何も分かっていない。
上司に工数を出したら「私なら半分で終わる」と言われ工数を削られました。それならあんたがやれと思うのですが、こんなときどう捉えるべきですか?そもそもあんたが作ったんだから速いだろと反論したくなります。
(本当はリンク先の該当する回答を全て読んで欲しいのだが)
私が覗いた時点で1番上に来ていた松本 祐司さんという方の回答(この表示順のルールについても知らない)を読んで自分なりに思うことがあったのでそれを書きたい。まずは客観性のない私の主観でその方の回答を要約してみる。
・確かにその上司はコミュニケーションスキルが足りない
・逆の立場になって考えてみると相手はあなたに期待していたともとれ、結果的に残念に思われたとここでは規定する
・残念に思われた結果、回される仕事は雑務、誰でもできることになっていき、次第に年齢がいけば、リストラ候補にもなりうる
・上司の期待に応えられていない現状を素直に認めて、自分の能力を上げることを勧める
・最後に「上司を避難する気持ちで仕事をするな」という言葉を教えてくれた(今では成功して偉くなった)昔の上司とその言葉をまもって今のポジションにいる自分自身の美談が語られている
よく見る模範解答だと感じるし、正直なところ5年前や10年前であれば特に違和感もなかったろうと思う。
現在の私はこの回答自体にも違和感を感じるが、この回答が1番上、つまり1番多く見られる(おそらくベストアンサーだろうと思わされる)回答になっていることにも違和感を持った。自分が働く側にまわってそれなりに経ったからだろう。この方が会社や上司側の視点で多くを書いているので私は個人や部下側の視点で書いてみようと思う。
端的に「能力を上げることしか解決策がない」とする意見だが回答に書かれている文脈においてこれは非常に危険な考えだと思っている。
確かに質問者にとって現実的で有効であると思われる解決策であることには同意するが、能力をあげることしか解決策がないというのはいささか恣意的ではないだろうか。そして「能力をあげる」という言葉の方向性は最終的に上司の想定の半分の期間でものごとを終わらせることを目標例にしている。つまり上司の意向に沿って現在の仕事で成功していくことを質問者が望んでいる前提となっている。
質問自体も前提条件や背景など分からない部分が多いのである程度想定で書くしかないということも分かっているが
こういう上昇志向と個人の能力を鍛えることで何でも解決しようとする考えを勝手にドラゴンボール思想と読んでいる。
質問者が本当にそれを望んでいるならそれで構わないし、そうであればこれ以上ない最良の回答だろう。
質問者がドラゴンボールで言うZ戦士の系譜であれば少なくとも質問者と回答者という単位では問題ない。
そして実際にZ戦士達はそのせいで(おかげでとも言えるが)永遠に続く戦いの螺旋に身を投じることになる。
しかし多様性が叫ばれ、日本の経済も落ち目となり、これまで力を持っていたものが弱体化し、疑われ、多くのものが見なおされている昨今、日本で働いている人間の多数派が悟空やベジータのように己の適正を理解し、適切な職場や業界に位置しており、そこで仕事における能力の(殆ど無限と言ってもいい)上昇とそれによる出世を望んでいると同時に望める状況にあるとは到底思えない。
そもそも人間が自分自身の求めていることを正確に把握していることの方が稀だとすら思っている。
そして我々の世界はマンガではない。我々の肉体をはじめ、現実のあらゆるものは有限だ。
そして最後に加えられた物語(美談)がより一層この回答の訴求力を強めている。人間にとって物語というのは劇薬だ。
しかし人生というものを物語で解釈、意味づけしようとする考えに対してそれは物語である限り間違えているとユヴァルノアハラリ氏は21Lessonsの中で説いている(たしか)。
大事なのは上司と部下、組織と個人がいかにバランスを取っていくかに思えてしまう。
信頼関係を構築するには適切なルールやシステムが機能していることが必要だ。
例えば頑張ってもそれに見合った対価がもらえなかったとしたらどうだろうか。
仕事は多くの場合上司や社長、株主がおり、ある種彼らの都合のいいように時間や能力のリソースを奪われていると考えることも出来る。
仮に上司が人間的に信用できたとしてもルールやシステムがそれを阻む場合もある。
昔から言われている昇給と昇格が切り離されていなかったらどうだろうか。
会社側で重要なポストというのは限られているし、自分の適正が管理職にあるとは限らない。
そもそも成果の分だけきちんと利益が還元されるというのは基本的に国や世界の経済が上向きになっている必要があるし、人間による評価というものは構造的な欠陥を持っている。
つまり以前は有効に機能していたとされる構造やシステムに問題が生じてきていることの方が多いのではないかと思う。
そしてそこに健全(であると思えるよう)なシステムや環境がないと人間の行動はなるべくリスクを取らず、なるべく仕事の量を増やさず、なるべくストレスを避けるといったものになるか、あるいはその逆になるのは自然だろう。いずれにせよ多面的かつ長期的な利益追求のために目指すべき形ではない。
もちろん営利組織は利益を拡大していかなければならないので能力向上や納期短縮は重要だろう。
それを否定するつもりもないし、不真面目な社員がさぼるのを助長するという意見もあるかもしれないが、まずそんな人間を採用する仕組みに何かしらの問題がある。
個人の持つあらゆる能力をあげておくに越したことはない。それには自分も同意する。
しかしそれと同時にお互いの利益がなるべく一致するような新しい評価や報酬のシステムや環境がつくられ、健全なコミュニケーションや信頼関係がなければいけないはずだ。
それにはトップが牽引して組織的に動く必要があるし、個人の能力向上だけでは解決できないだろう。
個人のレベルでは比較的それらのシステムが整備されている場所へ移ることも手段の1つだ。