はてなキーワード: 菓子とは
将棋は崇高な文化である。棋士は日々己の頭脳を磨き、それを魂を削り、命を傾けて対局に挑む。盤上の勝負だけが彼らの生きる縁(よすが)であり、生きる意味と将棋が同義になるほどに没入して闘う。その生き様に、そこから生まれる珠玉の棋譜に魅入られたもの達が価値を見出し、やがて国が誇る文化のひとつとして昇華した。
…したはずだった。
全人口からすればほんの僅かな選ばれた者たちだけがなれるのが棋士。誇らしく、また、ある程度、将棋をするだけで生活が保障されるという夢。巨大なスポンサーと太客に支えられ、ボードゲームで生きていく。そういう類の夢の職業であるはずである。
世の中、しがないサラリーマンだけで構成されたら面白くもなんともない。己の才能と矜持と努力で夢を掴む職業がある方がいい。それに大企業や市井の人々が金を出すのもまた夢のひとつである。
棋士は崇高な職業であるが故に、彼らのことは彼ら自身で決める。団体は煌めく脳細胞の集合体なのだから、律するルールは己らで決定するのである。そうしてきたし、そうしているし、これからもずっとそうする。自分らで決め、自分らで裁き、勝ち、負け、蹴落とし、蹴落とされ、また這い上がり、生きていく。
昔は新聞とテレビが国民の情報収集と娯楽を担っていた。家庭内ではサラリーマンが専業主婦と子を養えるだけの給与があったため、家長の力が金銭的にも精神的にも強く、将棋はそこにおいては祖父や父親の文化的な嗜みとしての強い立場がある程度存在していた。新聞は将棋の強い親となり、国営放送は積極的であった。そういう時代があった。
人間が鎬を削って苦しみ抜き、勝ち負けを決める盤上の駒を使うゲームは、金を払う価値があった。
あれから随分と時が経った。新聞とテレビだけで満足する時代は終わった。家長だけが働いても食える時代ではなく、家庭のバランスも変わった。メディアと父親はもちろん、どちらも生き残ってはいるが、台頭するスマートフォンやタブレットに、男女が働く時代に、馴染まないと生きてはいけない。将棋自体は、スマートフォンで気軽に指せる時代にもなったが、気高く素晴らしい棋士の存在は、意義を問われることとなる。
新聞が金を出しきれなくなった。テレビで流すことも極端に減った。他業種のスポンサーは追加され、ストリーミング再生の放映権を売った。
どうせ親が金を出すから将棋だけしていればいい時代が終わった。現代に馴染むためにはエンタテインメント化されるのは必然だ。あるときは道化となり、メシを食い菓子を食い、ついでに将棋を見てもらう。若き救世主が地球を侵略しに来たことによって、それは加速された。
メシアはAIという集合知を連れて侵略にとりかかった。それは将棋の内容においての改革を意味していた。向上しようとするもの、必死に縋り付くもの、諦観を持って見守るもの、利用して他の切り口を模索するもの…。面白くなった、つまらなくなった、指すものからしても、観るものからしても、取材するものからしても、どう思うかは人によって違う。
そしてメシアは強烈なファンダムをも従えた。アイドルとは偶像崇拝を示すのが元の言葉である。新時代では避けて通れないSNSというものの圧倒的な力で振りまわす、いや、振り回されたのか。
繰り返すが、太い親とパトロンで保たれていた内側の秩序は崩壊した。
ひとつひとつの力は小さいが、集まれば世論をも左右するファンダムをコントロールしなければこの星は滅びへと向かう。メシアが星を滅ぼすのではない。彼はどうやら将棋を心の底から愛していそうで、まだ、メシアで居続けようとしてくれている。まだ。
滅ぶのはファンダムをコントロールできなくなったときだ。ファンダムはある時は鮮烈に良さを訴え社会現象を作りだすが、ある時は量で圧倒してスポンサーをも非難する。諸刃の剣に近い。
ファンダムは集合体であり、それぞれの知性もまちまちだ。ひとつ事件が起これば、愚鈍な発言がもてはやされる場合だって大いにある。SNSで取り上げられるのは、必ずしも論理的で倫理観のある発言ではないからだ。
文化という話に戻ろう。文化とは何か。それは半永続的な魅力のある、それ自体は一般市民の人生に必要のないものだと定義したい。生きるのに必要はないが金を出す価値がある。卑近に言えばそういう類のものだ。
将棋で生きている、または、将棋に関連して飯を食っているものからすれば噴飯ものの言いようかもしれない。だが、一般社会ではそういうものだ。将棋が無くなって、困る人の方が少ない。世界には多くの人間が存在していて、多様な娯楽があり、人生があり、他の仕事がある。
将棋と関わり、生きていくものにとって生きづらくなった、と思われるかもしれない。そう。いま、生きるとはそういうことだ。何かすればすぐに炎上し、働き方は厳しさを増し、対面での人間関係は難しい。他の人々も何かしらの生きづらさを抱えて生きている。それが現代社会だ。認めなければいけない。
身分や全てを隠した故、自分がここに書いたことを卑怯で誤謬や脚色に満ちていると思われてもいい。ただ、将棋を棋士を素晴らしいものだと思っている。たった1人の棋士の存在が自分の将棋への見方を変えた。メシアでもない、かつてのメシアでもない、残りの棋士のひとりだ。自分は彼に将棋を指し続けて欲しいからこれを書いた。
どの立場からも、互いに歪み合っている場合ではない。不用意にお気持ちを述べることも、ただ黙って推移を見守ることも、それぞれのファンダムが暴走することも、形勢を有利にはしない。
匿名はてブで書くのは非常に遺憾だった。しかし、それにも、それでもきっと書く意味はある。職業・年齢・性別・棋力は伏せた方がよかった。たとえば、
会社員で30歳で男でウォーズ四段だ。
この5つの前提で同じ文章を書いた時、それぞれ違った先入観が発生する。そういう階層や区別が罷り通るのがこの素晴らしい文化だからだ。(なお、一例であり、上記のどれかが自分に当てはまるわけではない。)
何かが変わるだろうか。この星はどうやって滅びるのか手をこまねいて見ているだけはもどかしい。
将棋を次の100年へ。
もう友人の縁を切りたい。
私はオタクで、同じジャンルが好きな友人がいるんだけど、乞食がすごくてしんどい。
私はレートの高いキャラが推しで、残業も夜勤も休日出勤も推しのためになんとかこなしてる。
オタクなので転売ヤーが釣り上げた金額ではフリマサイトで買いたくないんだけど、推しのレートが高すぎてTwitterでの交換も大変だから、金でどうにかするしかない。
飲食店とコラボしたら毎日のように通うし、グッズはいつも上限×複数回買ったりする。
友人は派遣で働いててお金がないので、運試しに~みたいな感じでランダム商品を数個買うだけ。
私は上限買ってるので当然のように友人の推しが出るんだけど、レートが低いからか無料か定価以下で譲ってもらえるのが当たり前だと思われてる。
せめて私の推しと交換してほしいし、定価は払ってほしいんだけど、交換の約束をしていても黙っていたり、嘘つかれたりする。
私は一応マイカーがあるので、何処にでも車で行くし、コラボの店が郊外だったりすると公共交通機関の便が悪かったりもするので、いつも送り迎えしてるんだけど、ちょっと気持ちでガソリン代出すとか、ランチを多めに払ってくれるとかも全くない。本当に全くない。
私は車出してくれる友人がいたら、お昼奢ったり、カフェ代くらいは出すんだけど、私の友人は今度コーヒー奢るねって毎回言って一回も奢ってくれたことない。
「あっ今の出せばよかったね~」って時々言われるんだけど、何のアピールなのか分からない。
私が車を買ったのは私の勝手だし、好きな車だから外車買ったのも私の勝手。別にガソリン代の気持ちも、ランチ奢ったりちょっと多めに払ってくれる気持ちもないからと言って家計は傾かないんだからいちいちケチ臭いな、と自分に対して嫌な気持ちになる。友人には全く関係のないことなのは分かってる。じゃあ乗せなきゃいいだけの話しって言うのも。そうなんだけど、今日は迎えに来てくれるの?って聞かれると、現地集合でっていいずらいし、迎えに行くよ~ってどうしても言ってしまう。意志が弱いんだよな。
1日で200kmくらい運転させられた時も、高速に乗った時も、コンビニのペットボトル一本すら買う気がなかった。高速代払うよって話しもなかった。普通高速代くらい割り勘するよな。しないのかな。そっちが高速乗ってほしいって言ったんだから。もしかして高速道路って無料で乗れると思ってるのかな。ETCカードが魔法のカードだと思ってる?
今のガソリン代いくらか知ってるのかな。フルで入れたらいくらするか知ってる?あなたが行きたいって言った場所だからしょうがないから車出してるんだよね。車種的にハイオク入れなきゃいけないんだわ。別にガソリン代を何千円も払えって言ってるわけじゃないんだよ。今度コーヒー奢るね、の今度はいつなのかな、っていつも思ってしまう。気持ちすらないなら、言わなきゃいいのに。
私は推しは持ち歩く用、飾る用、保存用、祭壇用で5個~10個欲しいタイプなんだけど、1個譲ってほしいとか平気で言ってくる。
私が何のために上限複数回、無駄に送料払って買ってると思ってるんだろう。コラボ菓子のパッケージも、複数個買ってたら、「一つ外箱譲ってほしい」とか言われる。私は根っからの辛党でデザートの類が嫌いなので、甘いお菓子なんてパケのためでもなければ買わない。中身のお菓子は、同棲してる彼氏が甘いものが大好きなので食べてもらってる。
最近はやっと飲み物一本くらいは買ってくれるようになったけど、お茶2本と、おにぎりと、運転中の眠気覚ましにガムを持ってても、飲み物買うよってプライベートブランド税込み68円みたいなお茶を1本しか買ってくれない。2本買ったってコンビニの600mlのお茶と1本と大して変わんない金額なのに。別にたかが1,000円にも満たない金額自分で出せないわけじゃないんだけど、それくらい出すよ~って言って一番単価の安いもの1つだけ選んでくるのが滑稽なんだよね。
ブラインドのグッズを複数個買って有人の推しが色々出たので譲ろうか?って聞いたら、欲しいって言われたので合計金額伝えたら、「梱包費とか手数料で10円取られるなら定価じゃないなら要らない」って言われたときは本当にびっくりした。梱包費でも手数料でも定価じゃなかったわけでもなくて、単純に消費税だった。消費税だよって言ったらじゃあ欲しいって言われたけど、普通金額見たら端数消費税だって気付かないのかな。消費税8%の時代ならいず知らず、10%なんて商品の1割なんだから感覚的に分かるでしょ。いかに他人から施しを受けることしか考えてないのかな。
一番くじでロット買いしたら、私の推しのフィギュアが2個アソートされてたりすると向こうも私の推しが好きだから欲しがって来る。でも、無茶苦茶なレートの高さなので普通だったら抱き合わせが5個くらいするのが当たり前なのに、当たり前に定価か無料でもらえると思ってる。
ご飯食べた時も個別会計できない店でまとめて払った分もらう時、「ごめん今●円しかない」って必ず言ってくる。端数要らないよって私が言ってくれるのを待つポーズなんだよね。私も小心者なので、じゃあ◎円で良いよって切り上げた数字を言うことができない。割り勘は1円単位、私が負けるのが当たり前。何なら◎円で良いよって向こうが数字を切り上げてくることもある。私が一日中運転手して、ビールも飲めないのにね。二十代半ばで1円単位で割り勘したり、値切ったりしてくるやつって何なの?高校生じゃないんだからって思ってしまう。まあ私もたかがその1円とか10円ごときでこうやって増田に愚痴を書いてるから同じ穴の狢なのかなとも思うけどね。
美味しいご飯が好きだから本当はトモサンカクとかミスジとかきれいなサシが入ってる肉が食べられる焼き肉とか、アフタヌーンティーとか、見た目がおしゃれなご飯かちょっと値段張っても美味しいご飯が食べたいのに、いつもデニーズかサイゼかマクド。「マクドも私にとってはごちそうだ」って言ってたな。別にホテルのディナーが食べたいとか懐石料理、フレンチのフルコースが食べたいわけじゃないんだよね。サイゼで豪遊するのも楽しいけど、毎回だと食べるものない。ドリンクバーくらい付けたいけど、向こうはもったいないから水で良いっていうタイプなのでつけられない。別にスタバでランチレベルでも良いんだけどね。マクドが高い人にとってスタバがどんな位置づけなのかは分かる。
何で友だち続けてんの?って別の友だちには毎回言われてる。
何でこの人を切れないんだろう。私も別に金持ちっていうわけじゃない。老後2,000万とか言われてるし必死にお金貯めながら、推しに貢いでる。
子供の頃に読んだ少年誌が正義感に与える影響はめちゃくちゃ大きいか、というのが論旨?
「めちゃくちゃ大きい」ってどれくらい?3割以上?半分以上?8割以上?
そもそも割合で言うべきなのかが合ってるかもよく分からんけど。
まあとりあえず、「18歳までに読んだ少年誌は正義感に影響を与える主要因になるか?」って読み替えとくか。
少年漫画と一般的に解釈される漫画は、18歳までにそれなりの数を単行本で読んだ。
これが論旨に当てはまるのかどうか。
とりあえず元増田はガッシュという単一の少年漫画で育ったと書いてるので、まあ単行本でもギリおけ、ということに勝手にしとく。
あと、「正しい正義感」って表現がなんかふわっとしてるので、元増田の主張に則って「善意を良しとする考え方」と読み替える。
自分の半生でもって賛成か反対かを述べて欲しいと書かれているので、反対する。
つまり「主要因にはなっていない」ということで。
一応18歳までに読んだ少年漫画を思い出せる限りで列挙しとく。
やべえ、思ったより思い出せねえ。
16歳〜18歳くらいまでは、もしかしたらジャンプ・マガジン・サンデーを不定期に買って読んでたかもしれない。買ったら載ってる漫画は全部読む派だったから、当時の3誌のタイトルとかあらすじは大抵分かる。
まあとにかく、これらの少年漫画は、というか少年漫画関係なく「あらゆる娯楽を直接的に享受する行為」は、善意を良しとする考え方どころか、考え方そのものにさえほとんど影響を与えてない。
この記事のタイトルに書いたように、俺は善意を絶えず疑ってかかっている。
善意ってのは自分から与える善意と、他人から与えられる善意があるだろう。
そのどちらも絶えず疑ってる。
今でもたまに思い出す。俺は小学1年生の頃から、「なぜか」人には優しくしようと思ってて、実際周囲に対してそのように振る舞ってた。
この時点ではもちろん、少年漫画なんて読んでない。
だけどその一方で、小学生時代には色々と悪いことをやってた。ピンポンダッシュとか、空き家侵入して(経緯は忘れたけど)ボヤ騒ぎ起こしたりとか、親のお金を財布から盗んで菓子買ったりとか、友達のポケカやゲームパクったりとか。とにかくひたすらシンプルに、純粋に悪いことだ。
同調圧力に関しては、ここ2年くらいでやっと克服できたと感じられるレベルになったけど、欲に関しては今でもものすごく脆い。
どれくらい脆いかっていうと、ゲームやりたくて仕事を無断欠勤してそのままバックレるレベル、無職で実家にいても(流石にお金出したり最小限の家事手伝いはするけど)ひたすらオナったりこうやって増田に張り付いたりして日々を過ごすレベルだ。
良かれと思って衝動的に起こした言動さえ、実は欲に由来してたって後から気づくことが何度もあった。それを見透かされて相手からはねつけられたことも何度もあった。
要するに、俺はこの抗いようのない欲と、これまでの半生そのものを主要因として、自分の善意を全く信用してない。
悪いことをする動機に比べると、善いことをする動機ってのは実に分かりづれえんだよ。
ふと頭の中に善意みたいなものが生まれることがあっても、実はそれ、欲に由来してるんじゃね?と考え続ける。で、突きつめるとやっぱり、漏れなく全部、欲由来だ。
小学1年生の頃の俺が、なぜ人には優しくしようと思ったか。それは単純に、好きな女の子がいたからだ。その子に振り向いて欲しかったからだ。少年漫画だとか関係ねえよ。本当の最初からずっと、その根源は欲なんだよ。くだらねえ。
俺に対して与えられる善意。
俺は俺自身を善人だと思ってないし、見た目や性格やコミュニケーション能力が魅力的な人間でもない。なので、初めて会った人やろくに交流してない人から善意を与えられたら、まず疑う。
世の中に善人がいるのは否定しない。だけど俺にとって、善人と、善意を隠れ蓑に俺を騙そうとしている人を見分けるのにはときに時間がかかる。だから考える。前者なのか、後者なのか。
疑いを向けたままその人と表面上親しくすることもある。こういうときは非常にストレスが溜まる。
必然的に、善意の由来が欲であると自覚していて、それを自ら開けっ広げにしていて、長い付き合いでその態度が真であると判断できる材料が揃っている人たちとの親交だけが残る。そういう人たちとはある程度本音が話せるので付き合いやすい。
唯一の例外は俺の父親だけだ。彼は、少なくとも俺にとっては紛れもない善人だ。
それよりも(これは悪意に関してもだけど)「そいつの言ってることが一言一句事実であるか?言動が理にかなっているか?」みたいなことが気になり、疑う。
身振り手振り、口調、表情、見て取れる感情、一連の言動などから、矛盾や嘘や破綻がないかをはっきりさせたくなる。
だから元増田にもこうやって突っかかっている。これも俺の一つの欲なんだろなと思う。
今回自分の欲に素直に従ったのは、悪いけど、自分のことを善人って言う奴のことは信用ならないからだ。
自分の善意は本当に善なんだろうか?自分は本当に善人なのか?そもそも善意ってなんだ?とか一生懸命考え続けてる奴の方がまだ信用できる。
小学6年生[4]の少女・ふうちゃんは、神戸の海岸に近い下町にある沖縄料理店「てだのふあ・おきなわ亭」の一人娘。両親は沖縄出身で、店には母の遠戚に当たるオジやん、鋳物工場で働く青年のギッチョンチョンとその先輩の昭吉くん、左腕のない溶接工のろくさん、父の親友のゴロちゃんといったやはり沖縄出身の人々、そして神戸生まれで艀乗りのギンちゃんといった常連が集まっていた。神戸で生まれ育ったふうちゃんは自分のふるさとが神戸と沖縄のどちらなのだろうかという思いを抱いていた。
初秋のある日、ふうちゃん一家は神戸の山の方にいた。ピクニックの趣だったが、それは神経科を受診する父の付き添いだった。ふうちゃんの父はこの半年の間に精神を病んで家族ともほとんど会話しなくなった。父は発作を起こすと「ふうちゃんが殺されるやろが」とつぶやいたり、ふうちゃんを抱きしめて泣いたりした。ふうちゃんを気にした担任の梶山先生は、沖縄の草花遊びの載った雑誌を贈る。ふうちゃんは草花遊びを店に飾って父を喜ばせようと考える。
ギッチョンチョンは沖縄出身のキヨシという少年を店に連れてくる。キヨシに沖縄の言葉を教えようとしたギッチョンチョンは、言葉の問題で自殺した沖縄出身者を軽蔑したギンちゃんを殴った。店で喧嘩した罰としてふうちゃんは二人に草花遊びづくりを手伝わせた。ギッチョンチョンは、キヨシが金を持って出ていったことや親と離れて育ち「捨てられた」と誤解していることを明かし、「肝苦(ちむぐ)りさ」[注 3]だと話す。草花遊びで店を飾ると常連客は歓迎したが、ろくさんは店の外でアダンの葉で作った風車を握って泣いていた。ふうちゃんは母からろくさんが戦争で子どもを亡くしたと聞く。だが、それ以上の戦争の話は「悲しいことは一日も早く忘れてしまいたいやろ」と教えてもらえない。ふうちゃんはギッチョンチョンに頼んで沖縄戦の写真の載った本を見せてもらう。しかし集団自決の写真を見て嘔吐してしまう。
ふうちゃんはキヨシが勤めていた料亭で「オキナワ」と蔑まれていたことを知る。ギッチョンチョンの金を返しにきたキヨシを追いかけたふうちゃんは右足のアキレス腱を切って入院した。ふうちゃんは父がなかなか見舞いに来ないことを不審に思う。病院で付き添ったキヨシはおきなわ亭で働くことになる。沖縄出身の若い女性が孤独死したという新聞記事をきっかけに、キヨシは自分の姉が19歳で自殺したことをふうちゃんに打ち明ける。それ以来、キヨシは進んで沖縄料理を覚えたりするようになった。
全快後、ふうちゃんは自分の入院中に発作を起こした父が同級生の家に現れ、警察に通報されたあと病院に5日間入れられたことを知る。キヨシはふうちゃんを元気づけようと、沖縄菓子を作ったり、ギッチョンチョンからふうちゃんが付き添いを頼まれたデートを実行するなどした。
梶山先生が授業で自分たちの歴史をたどる勉強をしようと呼びかけたのに応じて、ふうちゃんはもう一度沖縄の歴史を調べようとする。だが周囲の人に話を聞けば相手の辛い部分に触れてしまうことに悩み、先生に手紙を書く。先生はふうちゃんの気持ちを思いやれなかった自分を恥じる、いっしょに勉強したいと返事に記した。
ふうちゃんの父が一人で外出して不審な行動をしているという話があり、その現場である明石市の海岸に行ったふうちゃんの母やゴロちゃんは、その場所が父が少年時代に戦火にあった沖縄本島南部の海岸に似ていることに気づく。父の発症の原因が戦争と関係しているとわかったことに周囲の人々はショックを受ける。キヨシは自分の姉の死や母が家を出て行った理由を考えるようになる。キヨシは所在のわかった母親にふうちゃんと会いに行き、その疑問をぶつけた。母は今は話せないが必ず手紙で説明すると涙ながらに答える。まもなく手紙が届くが、キヨシはいつもの通りだった。
その矢先キヨシはかつての不良仲間から、グループを抜けた制裁として殴打を受ける。キヨシは抵抗せずに耐えていたが、沖縄を侮辱する言葉を聞いて相手を傷つける。重傷を負ったキヨシは入院して二度にわたる手術を受けた。キヨシが回復に向かうと警察が事情聴取に病院に来る。過去の前科があり、今度も相手に傷を負わせているという理由だった。居合わせたろくさんは「警察は公平な立場」「沖縄も関係なく法の前には平等」という警官に根元しかない左手を見せ、日本兵の命令で幼いわが子をこの手で殺し集団自決に参加したことを告げて、これでも平等と言えるのかと尋ねると警官は沈黙した。その夜、ふうちゃんの母は父が幼少期に辛い目に遭ってきたことをふうちゃんに話す。翌日、キヨシは自分で書いた手紙をふうちゃんに渡した。その中にはキヨシの母の過去について触れられていた。
ふうちゃんの卒業とキヨシの退院に合わせ、ふうちゃんの母は一家とキヨシで父の故郷である波照間島に行くことを決める。だが、出発前夜、父は急逝する[注 4]。物語は、ふうちゃんがキヨシと冒頭の「ピクニック」の場所にもう一度来た場面で幕を閉じる。
そういう一般名詞的でジャンル名としても成立するものを登録商標にして独占すると
たとえジャンルとして確立してもそのジャンルの中には一社の商品しかないことになるんだよな
それってジャンルの広がりが貧しくなるというか、裾野の広い山ほど高いみたいにいうように、結局ジャンルが成長しなくなると思うんだよな
そもそも一社しかない状態でジャンルとしてわざわざ棚用意してくれる小売もないんじゃなかろうか。まずそれがジャンルであるという認識も起こってこないかもしれない。
そこは誰もが帰属意識を持っていい一般名詞のままとしていろんな会社に参画させたほうが結局今登録商標してる会社も含めた多数の利になると思うんだよなあ
①お礼の言葉をしたためた便箋と封筒(カッコイイ=儀礼様のやつ)
①
人間、なんだかんだで口頭よりも形に残した方が記憶に残る。それは手元に残ったアイテムを見て、元増田との思い出を反芻することで記憶が強化されるからだ。
1枚でも良いし、10枚の長編でもよい。出来る限り綺麗な字で、実筆署名入りで書くとよい。もちろんおしゃんな封筒に入れて、可能なら封蝋印も出来ればより丁寧だ。
②
そして記憶は五感によってより強固となるため、友達が好きな買い物を種類豊富に山ほど届けろ。物でもいいが、相手の好みで好き嫌いが明確に分かれることとも場所を取るのはよくない。消えものが良い。
イメージがつかないなら、デパートで全国各地の名産(贈答用)を肉、海産、菓子をそれぞれデカいの一箱ずつ買ってみろ。友達の家に着いたときにきっとその感謝の大きさに驚きをもって迎えられるだろう。こんなに大切に思われていたのかと…個人でこんなに感謝したりお祝いするひとはいないからな(笑)。迷惑にならないように、もちろん友達と奥さんに事前に連絡入れてくれよな。
③
そして大切なひとを大事にしてくれることは嬉しいことだ。友達は大切な嫁を大事に思ってくれて嬉しい。嫁は夫の友人(という女性にとって怖い外戚的な人物)から親交の礼儀を受けて嬉しい。おまいも喜んで貰って嬉しい…の、三方良し。
女性はそのときどきに必要とするものが、男よりシビアに判別される。お菓子だって適当に高級なものを買えば良いわけじゃない、だから選んでもらえるカタログギフトだ。これもデパートいけば売ってるし、ネットでももちろんいろいろ検索出来る。
…
電源が切れた瞬間にどんどんぬるまっていく
「停電でも開けなかったら2日はもつ」なんて言説はうそっぱちじゃんってぷんすこしだすアホが生じる
こんなこともわからないアホはアホなりに収納方法でも工夫してろ
ちなみに先に回答いっちゃうと「すべてのものをこちらに賞味期限が見えるように収納する」が正解だぜ
牛乳パックは未開封の間はこちらに頭をむけて倒して積んでいくんだ
あと入れなくていい酢・みりん・油、未開封品(ギョニソー、レトルト、未開封調味料など)を冷蔵庫にいれないこと
入れたほうがいい開封品(醤油、マヨ、小麦粉、のみかけ食べかけ)はちゃんと封をしていれる
そしてなにより「冷凍庫もう一台買ってヤバそうになったらつっこめ」が効く
上の階に引っ越してきた4人家族のお母さんが、頻繁に謝罪に来る。
お子さんは小学生男児2人で、お母さんは手を焼いているみたい。「昨晩はうるさくしてすみませんでした」と上等な菓子を持って謝罪にくる。
お母さん、申し訳ないけれど、なんのことだかさっぱりです。
今の賃貸物件は作りがいいのか、隣接する部屋の生活音が聞こえない。「今お隣さん洗濯機使ってる...かも...?」という程度。
そもそも、ここは空港も電車もトラックが日夜問わず走る国道も近くにある。子どもの出せる音なんてたかが知れている。
早寝遅起きがモットーだから、お子さんがドタバタしているときに寝ている可能性すらある。
だから、1ヶ月に7回も謝罪にくるのはやめておくれ。申し訳なさそうな顔をさせるのが申し訳ないのよ。毎回いただく高級なお菓子も7回目となると持て余すのよ。
いちおう毎回「全然気づきませんでした〜」とか「飛行機の方がよっぽどうるさいですよ!」とか言ってるけど、建前だと思われてるんだろうな。
引っ越し前になにかあったのかな。子どもの足音ひとつに鬼クレームをいれる人が下の階にいたのかな。私もそう思われてるかも?と考えてしまうからこうも頻繁に謝罪されるとモヤモヤしてしまう。