はてなキーワード: 生き甲斐とは
お前ら誰に吹き込まれたか知らんけど、最低賃金を上げるのが絶対正義みたいな扱いしてるよな
悪く転べば、失業者は出すし、人員削減による現場の仕事量増加で過労死まっしぐらまであるんだぞ
デメリットを相殺するだけの準備をしなきゃいけないのに、お前らの結論はそんな会社潰れてしまえじゃん
最低賃金で働いてる奴らをなんだと思ってるんだよ?最低賃金労働者が、失業してそんな簡単に次の仕事見つかると思うなよ
失業後に待ってるのは、路上生活かもしれないし、家族の崩壊かもしれないし、生き甲斐喪失からの自死かもしれない
国立は落ちた。
卒業時点で25歳。
しかし、私には欲がある。
8時間労働で年間休日130日で年収1千万が欲しい。東京に住みたい。
図々しい理屈ではあるけど、高偏差値の入試を突破したのだからそのくらいのリターンは当たり前だと思ってる自分がいる。
8時間労働年間休日130日は諦めるとして、年収1千万は勤務医のままでも可能かもしれない。しかし、当然ながら激務であり、勤務医のまま2千万に届くヒトの医師のような生活はできない。
正直医師が羨ましい。年収2千万に届くなら私立の医学部だって十分にペイできるように思う。まあ、1番は医師になりたいかどうかだろと言われたらそのとおりで、医学部ではなく獣医学部を選んだ自分のせいなのだが。
金より生き甲斐を選んだんだろ?と言われればそれまでなんだけど、ヒトの医者ほどでなくてもいいので、中堅のサラリーマン以上の人生を求めたいと思うのは贅沢なのだろうか。
入学の時は、動物のお医者さんになれればそれでいいと思ってはいたけど、やっぱり生活は大事だと思う。
私だけでなく、たぶん獣医学部に入学した学生全員がそう思ってるはずで、入学時は9割以上は臨床獣医師を志望して、卒業時に臨床獣医師を選ぶのは半分程度。
臨床獣医師を選んだ彼ら彼女らも、そのうち数割は数年以内に臨床獣医師の道を諦め、数年遅れて公務員になり、屠畜場や保健所やらで働く。
臨床獣医師を続けるか、安定ほしさに公務員に潜り込むかを決断しなければならないリミットが29歳のようだ。
ところで、臨床獣医師を続けるとして、開業を目指すなら東京に住むのは諦めないといけない。都心で動物病院の開業はレッドオーシャンすぎる。
あるいは、公務員も潜り込めるのも地方に移住できるならという条件付きなので、やはり東京は諦める必要がある。
東京で暮らし続けたかったら、動物病院の勤務医をし続けるしかないのだけど、たいした給料も福利厚生も期待できないなら、動物病院なんかに就職しないで、なんとか一般企業、製薬会社とか食品会社に入れないかと考えてしまう。
これだけ図々しいことを言いながら、他にも夢がある。実は、獣医師になる夢は叶えたいけど、結婚はしたいし子供も欲しい。
それも贅沢なのか。
今の趣味はオートバイと自転車。冬はスキーをやる。来年社会人になるのでお金ができたらクルマも欲しい。
手で数えられる程度の趣味しかねえじゃねえかと思われるかもしれないが、一つの趣味でも様々な指向がある。
ひとえにオートバイと言えども、高速を多用したロングツーリングをするのと、サーキットでタイムを追求するのと、オフロードバイクで泥々になるのとでは全く別の趣味と言っていい。
それぞれの趣味で色々な指向を追求したいと思っており、膨大な時間と金がかかるので、結婚や子供は後回しになると思う。
リスクとしては、アウトドアな趣味が多いので体に何かあると多くの趣味に支障が出る。足を切断して義足になる程度なら何とかなりそうだが、目をやってしまうと非常にまずい。
今の最高のエンタメは映画だろうか?日本人にとっては漫画だろうかアニメだろうか?
何でもいいんだが、人によって生み出される作品に救わてるんだよ
人に影響を与えたいと思う気持ちが凝縮された“それ”を見たいんだよ
明日発表されるものは見れるけど、100年後発表されるそれはどう頑張っても見れないんだよ
それが悲し過ぎてつらい
漫画だとなんだ?ワンピースか?当たり前だけど、それ以上の作品がはつされてるんだよ
それを見たいんだよ
けど、見れないんだよ
それをどうやって消化すればいいのか分らないんだ
そうじゃないと嫌だろ
自分の事を最高に救ってくれる何かを示して実感させてくれよ
じゃないと、し
人はすべからく熱意を持って賃金労働に励むべし。自己実現は賃金労働ないし結婚によってのみなされるべきである。
その土俵に立とうとしないのは逃げであり、くだらないプライドであり、特別な人間などではないのに理由をつけて逃げようとする奴は自意識過剰のゴミだ。
そんな反抗期はさっさと卒業し、社会にコミットする努力をすべきなのだ。
こういう社会教の信者になるのが、弱い人間にとっては結局一番ラクだし幸せになれる可能性が高いんだろうなって思う。
もちろん社会教の教義としてではなく、趣味というか純粋に好きなモノ、心からそれに価値を感じるモノとして労働や結婚を愛する人もいるのかもしれんけど。
妥協して「好き」を「出来る」に合わせて矯正する事だってあるだろうしね。それがいつしか本物の好きになる事だってあるのでしょう。私はそういうの嫌だけど。
近代以降の大前提としてニヒリズムがある。これは冷笑でも何でもなく、あらゆる規範を論理的に、誠実に紐解いていけば当然ここへと行き着く。
その足元もおぼつかない出発点から、人生を通じて何を選び取っていくかは各々の判断。これこそが現代に生きる我々にとって最大の内的な課題。
そんな出口のない抽象的な事を考えるのは拗らせた中二病のする事だと蓋をするのも良いし、そもそも疑問や関心を持たない、というのも一つの回答。
別に働きたくもないが、自分のしたい生活を成り立たせるには働かなければならない。
といったように何かしらの信仰を持っていれば「でもやらなきゃ」となる。
しかし、信仰がなければ「やらなくていいのでは?」と思い至る。
面倒な事をしてまで生きる動機がない。
そこまでして生きたいか?生きたくないな。死の。
と思ってこの間首を吊ってみた。
これが宗教を持たない恐ろしさだ。
まあ結果としては縄代わりに使った延長コードが切れて失敗に終わり、ただただ苦しいだけだった。
これをもう一度チャレンジするのも嫌だなと思い、もう少し生きてみようと決めた。
痛みは怠惰に勝つ。
私は関心のない事について恐ろしく怠惰なので、存在しない志望動機やウケの良さそうな「学生時代に力を入れたこと」をこさえるにも全く腰が上がらない。
このまま働かず生活保護でも受けてみようかと思うが、それも中途半端に内面化された社会教が邪魔をしてくる。
そこで、死にかけていた趣味教への信仰に賭けてみた。好きだった映画を観て、好きな音楽を聴き、久々にベースをいじってみた。
やっぱりここには少しくらい生き甲斐があるかもしれない。
どうにかやりたくもない賃金労働の職を得て、ズルズルと生きてしまった。
趣味教はなんとなく自分に誠実に生きている気分になれるから好きなのだけだ、なにぶん個人の気の持ちように依存する宗教だから、ある時ふっと信仰心が薄れてしまう事がある。
生きてて楽しい事はあるし生き甲斐みたいなのも持ってるけど、それ以上に面倒臭い事が多すぎる。
独身をバカにしたくてたまらない人に言わせれば「責任のない人生」特有の考えなんだろうね。
でも私は大人やら社会人やらの責任とかいう謎ワードから活力を得られるほど社会性を内面化していない。
資本主義、というか賃金労働にコミットする事に対して謎の忌避感がある。
さりとて働かなければそこそこ以上の生活はできない。そこそこ以上の生活はしたい。でも働くのも面倒くさい。
自殺をしよう。でも進撃が完結してからにしよう。エヴァが完結してからにしよう。
そんな考えを繰り返しながら生きてる。
別にいつ死んでもいいけど、せっかくならあれを待ってから死んでもいいかなと思う事で精神的イニシアチブを取ってる。
今は再販されたみそきんを食べてから死のうかなと思ってる。おれは今みそきんに生かされている。
今までは漫画や映画に楽器、好きだったもの、憧れていたものに生かされていたけど、生きる事へのどうでもよさが如実に表れてきた。
20代ならまだギリ自殺してもかっこいいから死ぬなら早めに死にたいね。
この間足を床につけたままドアノブで首吊るってやつ試したんですけど、あれコツがあるみたいで苦しいだけでしたね。
多様性を「認める」って承認じゃなくて認識するって意味だと思うんですよね。
そもそも誰の承認を得ようが得まいが世の中は事実として多様なんで。
生き甲斐が家庭だろうが趣味だろうが何もなかろうが、ネオリベだろうがコミュニストだろうが、そのどれを選ぼうが勝手。
ブスも美形もチビもハゲもいるし、整形するも異性装をするも勝手。ヘテロもそうでないのもいる。
自由である「べき」なんでなく事実として自由だし、だから多様な状況が発生する。
色んなのがいればまあ衝突もおきるだろうから、その辺上手くやっていこうねって話の大前提である多様性を認識しましょうって話だと思ってる。
別に気に入らない属性の人間がいるのは当たり前だけど、世の中の人間は多様であるという事実を捻じ曲げて「劣った個人」に責任を押し込むのは違うよねって。
■一位:暴走族
まるで暴走することが生き甲斐かのようなクールなイメージがついてしまっている。
不良漫画が原因の一端を担っていると思う。
あと集団的なイメージが強くて社会のはぐれもの達を集めてしまう印象があるので、
単純に「違法運転者」として個々の迷惑な人間が寄り集まっているだけであることを強調する呼び名に変えて欲しい。
■二位:いじめ
ボス猿が他の猿をしいたげるかのような。いじめられた方も悪いと言うか。
人間は猿じゃなくて放置国家の一員なので、単純に「学生暴行罪・学生ハラスメント」として、
やった側が悪人であり誤っていることを強調する呼び名に変えた方が良いと思う。
大人がやったら犯罪なことが、この言葉のせいで仕方のない存在かのような印象を与えている
■三位:
思いつかないんですけどなんかありますかね?
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。
いい加減生き甲斐を決めたい。
生きるとはなんぞやと言う事を思春期の頃にずっと考えていた。勉強より遊びより人付き合いより、何より大事な問題だった。
50周ほどして結局生きる意味などない、自分で作らねばならないという結論に至った。
納得だ。「納得」は全てに優先するぜッ
人は理屈で喜び、理屈で苦しみを感じる訳ではない。いつだって感情が先だ。感情が論理に先立つ事はない。
いつかは人の頭が解き開かれ、全ての規範は記述に塗り潰されるかもしれない。でもそれは今じゃない。「今」は今考えられる事が全てだ。
何を拠り所にするのか。他者からの承認か、存在も確かめられない神様を信じるのか。
どれも腹落ちしない。内から発せられる心の底からの確信、納得でなければ。
どれだけ強固に思えた確信でも揺らがないとは限らない。年老いるごとに考えが変わってしまった、今までの人生とは何だったのかとこぼす者も少なくない。肩肘張ったって幸せになどなれない、気楽に生きようと言う人もいる。
私の軟弱な心とて、価値ある人生を追い求める疲れに耐え切る保証などどこにもない。結局私も同じ結論に至れば、車輪の再発明だと笑われるかもしれない。
しかし彼らの結論は彼ら自身の経験を踏まえてのものだ。彼らには納得を与えても、私にはそうでない。私の人生の当事者は私だけだ。
こんな事を真面目な顔で人に語れば、ナイーブすぎるんじゃないと引き気味に諭されるだろう。それはきっと間違いない。だからどうしたというのだ。
価値ある人生などという幻想を捨て、凡庸な人生しか送れない事を受け入れる。諦める。それを、折り合いをつけ大人になった事だと言い聞かせる。
それはきっと賢い生き方だ。
しかしその口ぶりはまるで、禁煙した人間がタバコを執拗に非難するかのようではないか。
生き甲斐などという考えは毒なんだろう。少量の毒が薬になるだとか、そんなレトリックはいらない。心の蓋を抑え続けた方が楽に生きられるだろう。
しかしそこから溢れ出続ける一抹の迷いから目を背けて、納得ある生き方をできるだろうか。
今際の際に、生きていて良かったと思えるだろうか。
ニヒリズムなど拗らせるものではないという反省は、人生を使った経験で納得を得るまで何の実感も伴わない。そんな考えは後回しにすればよい。
では、私の心は何を囁くのか。具体的に何をしたらよいのか。
根拠などない。凡庸な発想だ、くりえーたーになってチヤホヤされたいというだけかもしれない。
答えは知らぬ。時間もない。そのどれもが誤りかも知れぬのだ。後悔は死んでからすればよい。
生活の気晴らしの趣味は持っている。しかしそれは、生き甲斐と呼ぶにはあまりに心許ない。
生き甲斐なくして生きる価値などない。とはいえいくら生き甲斐が全てに優先すると言っても、目の前の生活をこなさなければそれもままならない。
趣味に没頭したいが、いつもそれらが頭を過ぎって水を差してきた。いずれは結婚を焦る事もあるかもしれない。
常に先を考えろという父の教えがなければ今はもっと惨めな生活を送っていたかもしれない。しかし、生き甲斐に殉じようという確信にブレーキをかけてくる。何をするにも、こんな事をしている場合だろうか?と。
楽器をいくつかやってみた事もあった。中級者の壁を超えられるかどうかという境界を彷徨っていたが、超える事なく人生のイベントを機に中断してしまった。
小説でも書いてみようかと思ったが、これも結局最後まで形になることはなかった。
色んな映画や本に触れてきた。色んな事を思った。そうやって感情を揺らし続けるだけでも人生は満たされるかもしれない。でももう一歩、まだ何か足りない。確信と納得には届かない。
世の優れた表現者達は、きっとこんな人生論をこねくり回す暇があれば手を動かしている、動かさずにはいられないのだろう。純粋な喜び、人生の焦り、衝動、憧れ、何かの感情に突き動かされて。
たった一度限りの人生だ、何かが欲しい。しかしこれきりの人生で何かを捨てるのも嫌だ。大切にしたいからこそ、中途半端な事もしたくない。
自分の可能性を疑うのも嫌だが、しかし私はきっとダ・ヴィンチのような万能人ではない。なにか一つに人生を丸ごと捧げて、ようやく自分一人を納得させられる域に至れるかどうか。それだって分からない。
アンビバレンスに挟まれ、決断しかねて長い時間が経った。10代の頃、価値あるものだと確信できる生き方を決意し、もう10年近くの時が経っている。モラトリアムの終わりも近いが、未だ私には何もない。慰めの趣味だけだ。
絵を描くだっていい。物語を書くでも、楽器を弾くでも、曲を作るでもいい。
後世に名を残す傑作など目指さなくていい。ただ、人生これで良かったと確信できるだけの自己満足であればいい。
選ばなければ始まらないが、捨てなければ選べない。あるかも分からないちっぽけな可能性だって、私にとっては大事なものだ。
しかしいつまでも迷ってはいられない。今の時点で納得ある決断をする事は出来ない。納得できるかできないか、それは後からついてくる。決断しない事には何も始まらない。
しまいにはタイムリミットになるかもしれない。ネットに掃いて捨てるほどいる、何者にもなれかったディレッタント崩れになってしまう。既に片足を突っ込んでいるのかもしれない。
自分には何もなく、評論家を気取って批判にもなっていない難癖をネットの方々に書きこむようになってしまうかもしれない。
でないとオレは「前」に進めねえッ!「どこへ」も!「未来への道」も!探す事は出来ねえッ!!
「納得」は必要だッ!
『納得』は『誇り』なんだ!
母は痴呆でほぼ空気、ていうか、成人病でカラダ壊して実家に戻った弟がそれから数年して両親の痴呆と末期癌に降りかかられて独りで奮闘している
ワイふくむ兄連中は地理的に遠すぎるためスルーてか世話は押し付けてお任せしとる
消化器系の癌切除をしたあと味覚がほぼ失くなり食事が摂れず体力が落ちた父にリンパ腺癌がみつかり再入院したが治療の苦しみに嫌気がさした本人が緩和ケアにしてくれと要望すると病院側は家族の同意を得てくれとのこと
弟としては何年も面倒をみて世話(食事を作るのが生き甲斐のようだ)をして来ているので諦めきれないらしくまだ頑張ろうといい、父と平行線
父からは弟を説得しろと電話がかかってくるし、弟にそう突き付けるのは彼の人生を否定するようでしたくない
父はちゃんと兄弟で話し合ってるのかと電話でツメてくる、医師からは家族で統一見解を持って来てくれないとどちらにも進められないと言われているそうな
お互いに地理的に離れて生活も離れてなん十年間、それって家族かねぇ…
身近なひとがしんでいくのってなんてめんどうなのか
最近父と大学生の弟の会話は仕事とお金の話ばかりだ 〇〇(企業名)は何年目で1000万に乗るとか、出世ルートがどうこうとか、云々
私は社会人だが、アシスタント職系なので働き方はゆるふわだし、正直経済ニュースとか全然わからないし自分は世間知らずだと思う 父と弟の会話を聞いていると焦りを感じるし劣等感を覚える 自分には手の届かない領域だと感じる
そういう話題に嫌悪感を覚える部分もあって、世間知らずならいっそそれを貫いてゆるく生きていきたい、と思うけど、お金は大事・仕事第一でなんぼ、という価値観は今までの人生でたぶん私に染みついてしまっている 人生をかけたいと思うような趣味も生き甲斐もないし、私の語れる話題があるかと言われると思いつかない
『フェイブルマンズ』で「芸術」と言われていたものは後者の類と言える。仕事や、家庭を持ち人を愛し愛されるという事がそれに取って代わる、ないし併存するという人も多数だろう。
生き甲斐とは現実に即した、社会と密着したものでなければならないというボンクラも世の中には少なくない。そんな人間達の目を憚って、社会性として「趣味」という言葉でカモフラージュされた生き甲斐なのかもしれない。
なぜ趣味に留めるのか、仕事にしないのか、と言えば、それに越したことはない。好きな事で生きていけたらどれだけ良いだろう。しかし当然、また残念ながら、好きや憧れが人の役に立つとは限らない。要求される水準の技量があるとも限らない。いや、役に立たないからこその趣味なのではないかと思う。
総じて気晴らしの趣味は消費的、生き甲斐のそれは生産的とでも言われるようなものだろう。
前者であれば、生活の延長にあるものが多い。着飾って出掛けて美味しいものを食べ、温泉に浸かりスッキリして、思い思いの快適な部屋でゆっくりと過ごす。刹那的な快楽を得て、日々の生活の活力を補充する。
対して後者は、表現にまつわるものが最たるものだろう。音楽、美術、文藝、写真、映画、……etc. 美や善なるものの存在を信じ、それを描き出す。自身の人生の固有性と真摯に向き合い追い求める。他者に何かを訴えかける。あるいは、ただ純粋に好きや憧れを追求する。その中で、たった一度の人生に意義を見出す。たとえそれが自己満足に終始するものであったとしても。
無論、衣食住が必要十分の域を超えて、また低俗な娯楽と軽んじられるようなものの中でも、生き甲斐を見出し得る領域に及ぶ事はあるだろう。芸術作品もまた、鑑賞してただ「あー良かった」で終わる満足であれば消費的と言えるだろう。
生き甲斐を求める趣味においては、時に義務感を抱き、疲れてしまうような事もある。趣味なのにイヤイヤやるだなんてナンセンスだと思う人もいるかもしれない。しかし人を納得させ得るような「意味」など問題ではない。胸の内の無根拠な確信と納得、それだけで突き動かされ、追い求めずにはいられないのが生き甲斐というものだ。
世の中には、気晴らしの類の趣味のみを糧に生きる人もいるようだ。人生の意義やアイデンティティなどといったナイーブな考えは捨て、日々の些細な満足を拾い集め続ける事に重きを置く人も、むしろそういった人の方が多いだろう。それが納得を伴っているのなら、いや伴っていなくとも、それに口出しする道理は無い。
が、根本的な人生観において異なる価値観を持った両者は分かり合えないのではないかと思う。私は生き甲斐のない人間を理解できないが、彼らもまた全く同じ気持ちをこちらに抱く事もあるだろう。
しかし、双方が子供じみたナイーブな考えだ、凡庸さに屈した気晴らしにかまけるだけの生き方だ、などと互いに罵り合わないようあって欲しいものだ。