多様性を「認める」って承認じゃなくて認識するって意味だと思うんですよね。
そもそも誰の承認を得ようが得まいが世の中は事実として多様なんで。
生き甲斐が家庭だろうが趣味だろうが何もなかろうが、ネオリベだろうがコミュニストだろうが、そのどれを選ぼうが勝手。
ブスも美形もチビもハゲもいるし、整形するも異性装をするも勝手。ヘテロもそうでないのもいる。
自由である「べき」なんでなく事実として自由だし、だから多様な状況が発生する。
色んなのがいればまあ衝突もおきるだろうから、その辺上手くやっていこうねって話の大前提である多様性を認識しましょうって話だと思ってる。
別に気に入らない属性の人間がいるのは当たり前だけど、世の中の人間は多様であるという事実を捻じ曲げて「劣った個人」に責任を押し込むのは違うよねって。