はてなキーワード: 普段とは
個人的な率直な気持ちなんですが、全部自分のコンプレックスに紐付けられてお話されると鬱陶しいし負担です。(鬱になった人間にこんな事言う人間は怖くていないので、指摘されることもないと思いあえて言います)。で、それを重く考えすぎなくてよいことです。ご友人が目の前にいるなら、ご友人が喜ぶこと考えてやってれば楽ですよ。普段もそうです。自分のこと考える暇を与えないほうが良いですよ。ましてや増田は完全に精神的に毒なのでやめたほうがよいです。
普段結構冷静そうで大炎上してるようなエントリにはブクマしたりコメしたりしてないブクマカさんが、フワちゃんの話題にはほとんど上がってくる全部のエントリにって勢いでブクマもしてコメもしてるの見てどうしたんだろう?って困惑してる
いったいなにがそんなにひっかかっちゃったんだろう……
好みはそれぞれだから、自分に合う合わないはあるんだろうけど、店の味とか人の好みを否定するやつは全部クソ
へー、スタバのでまずい奴もおるんや、普段何飲んでんねんやろなーでストップ推奨
そもそも味の好みなんて、生存のために食っちゃならんもんを避ける、生存に有利な栄養を好んでとるとこから始まって、
幼少期から食べてたものに慣れて、味覚が衰えて、癖のあるものになれていったりなどの
特に嗜好品とかは、慣れた、権威に従い経験を積んだ、元々備わってた好き嫌いのどっかをねじ伏せたか特化させたか
で、まあその時代のその国で流行ってたり良いとされてるものへの評価が適切かという意味では無意味ではないんだろけど
幻想なのよね
中学生の頃から、はてな、なろう、Twitter、個人ブログ、note、某ゲームのファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンルの文章を書いてきた。主戦場を匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。
このような過去から察せられる通り、自分は文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説やはてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。
最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときはサービスのアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。
このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分は文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロの小説家先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリーの矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントはストーリーの構成がしっかりしていて、論理的に妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。
しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主の自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品を主観的、客観的に分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである。
このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分の意見を表明する場合でも、脳内にある自分のアイデアはパソコンのディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分の脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分の脳内にあるものと自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内にしかないもの、書いたものにしかないものも無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行の名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色、スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分の意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。
そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかったことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分は普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたものを100%他人のものであると断じてしまうことである。中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去の自分と現在の自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分の文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法は文章を100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章とにらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分の意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分の意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分の脳内と文章が一致する。
根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分の意見が初めから脳内に整然とした文章で存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分の意見は言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章を100%自分のものにする方法の最後で、自分の意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分の意見を言語化するあいだに自分の意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。
増田は風呂キャンセル界隈になりそうな要素だらけの人間である。(未診断だがadhdの傾向があるので)ただし、衛生観念が戦ってくれているおかげで次の日家出る予定がない日以外は今の所キャンセルせずにすんでいる。とはいえ「風呂はいらなきゃな」と思いながらダラダラスマホみて睡眠時間が極端に削られたり、もしくは寝落ちしてしまって次の朝慌ててはいることも多いのだが…
週に何度かはすんなりと風呂に入ることができる。最近は風呂に入るコツを掴んできて、それは「風呂に入ろうと決意した瞬間全ての服をぬぎスッポンポンになること」。普段ベッドで永遠に寝転がってスマホをみているが、全裸で寝転びたくないという気持ちになり、じゃあ風呂に入るかということになる。フェイスタオル2枚(バスタオルは乾かないから使わない)と下着だけ準備して、何も考えずに風呂場に入り、シャワーで頭を濡らせばもう引き返せない。こうして増田の清潔は保たれている。
さて、表題の件。そうやって風呂(というかシャワー)が終わり、フェイスタオルの1枚目で体を拭き、2枚目で頭を拭く。そして2枚めを頭にまき、下着を着る。問題はこのあとで、すぐにドライヤーすればいいのに、タオルを頭にまいたままスマホを見はじめて、平気で1時間とか放置してしまう。頭皮に悪いんだろうなと思いながら、どうしても洗面台に戻る気になれない。
ドライヤーほど面倒くさいものはない、頭は熱くなるし、時間もかかるし、ドライヤーって地味に重いし。多分風呂キャンセルしている人たちもキャンセルの理由の1つってドライヤーなんじゃないかと思う。今は少しでも時間を短くしようと家電屋にあった中で一番風が強かったちょい高めのを使っているが、それでも面倒くさいものは面倒くさいのだ。頭にタオル巻いておけば少しは時短になるのだが、それにしても1時間も巻いている必要はどうしたってない。
まあ1時間後にドライヤーするのはだいぶいい方で、たまに頭にタオルまいたまま寝落ちしてしまうことがある。正真正銘ドライヤーキャンセル界隈。目が覚めて気持ち悪く湿った髪に気がついたときの絶望は半端ない。風呂入り直そかな?と思うが、それはそれで面倒くさいし……結局ちょっと不衛生な状態で、朝から適当にドライヤーしてやり過ごす。生臭くないといいな、とおもいながら、結局自分の匂いなんて自分では気がつけないから、そのままやり過ごす。
今こんなことを書きながら、頭の上にはタオルがのっている。「この内容を登録する」ボタンを押したら、すぐに洗面台に行ってドライヤーするんだ。絶対に、絶対に今日はやり遂げてみせる、ここに決意を表明する。
家にひとり残された増田は一人でいることを利用してダラダラと過ごしていたんだけど、ふとYouTubeでカレーの動画が目に入ったんだ。
それは大食い系のYouTuberが特大大盛りカレーを食べるという企画の動画で、大食いだけど結構旨そうに喰うんだよ。
それで完全にカレーの口になってしまって、カレー喰いてぇ…てなった。
でも妻は出掛けてるし…どうしようか。
と、ここで「そうだ、作ってみるか」と思い立ったわけだ。増田は普段家事力ゼロで料理なんて全然したことがないから、そんなこと思うこと自体稀で、でも暇だったしたまにはいいかなと。
軽い気持ちでネットでレシピを検索。意外と簡単そうじゃん。台所を見てみると玉ねぎがあった。あとにんじんも。続けて冷蔵庫を開けると豚肉もある。小間切れって書いてあるやつで、まだ未開封。それにバーモントカレーを発見!!
材料あるなら楽勝でしょ。そう思って、既に勝った心地でスマホ片手に料理を始めてみた。
まず玉ねぎの皮を向いてカット。流石に料理番組みたいにタンタンタンとスムーズに切れはしないけど、手を切らないように慎重にカットはできた。あと予想外に涙も出なかった。俺は料理に向いているのかもしれない。
そのあとにんじんを洗って、これは粗めに切って、それから再度レシピを確認。玉ねぎを飴色になるまで炒めろとある。
ふむ。
サラダ油を敷いて、弱火でじっくり炒めることにした。時間は…二十分!?
いやいや長過ぎんだろ…と思いながらも妥協はしたくない。仕方がないので弱火でじっくり炒め、その間退屈なのでYouTube観ながら炒めてたら焦げた!!
でもちょっとなのでセーフだよね。続けてにんじん、豚肉を加えて炒めてたら箱にかいてある分量の水を加える。これは500mlのタンブラーがあったので無事にクリア。それから少し煮る。
沸騰してきたら一旦火を止めてカレールウを投入。じっくりことこと煮込んでいけば…カレーの完成だ!
なんだ、カレーって簡単じゃんというのが第一印象。試しに味見してみると、悪くない。
どうせならとご飯も炊こうとお米を研いで…ってうち無洗米だったんだよ袋を見て初めて知ったけど。お米の計量カップあったから、それで何度か掬って、あとは水の量をググって入れて…あとは炊飯器のボタンを押すだけ!
そんな感じでカレー作って米炊いて、あとはそわそわしながらネットやって時間を潰した。
夕方になると妻と子供が帰ってきて、台所見てビックリしてた。俺は内心笑いながらも冷静を装って「ん?どうかした?」って聞いたら「これ、あなたが作ったの!?」だって。あまりに驚いてるからおかしくって、思わず吹き出した。
そのあと三人で晩御飯。息子は「おとーさん、これおいしーよ!」って言って、俺はもう得意顔よ。
そうかそうかお父さんはカレーのプロだからなって言えば妻も吹き出して「なにそれ」って笑い出した。
皆で食べ終わったあと、子供が席を離れてから妻が「美味しかったよ」と言ってくれたのが正直一番嬉しかったかもしれない。
柔道、レスリングに比べて、勝敗が圧倒的にわかりやすくて試合時間が短くて、普段は見ないけどオリンピックにのときくらいは見るかってライト層には人気が出やすいと思うけど、オリンピック種目になってない。
俺はね、普段からガラムマサラとかナツメグとかスパイスを使いまくってんのよ
そうしたらチコちゃんで「スパイスでカレーを作っているあなた、匂いでスパイスボーイって呼ばれてますよ」とか言って揶揄してんの
○すぞ
匿名であることは、自由に意見を述べる機会を与えてくれるが、同時に無責任な発言が生まれやすい環境でもある。
匿名性がもたらす二面性であり、利用者はこの点を理解しておく必要がある。
自由な表現を楽しむ一方で、自分の言葉が他者に与える影響を考慮することが重要だ。
自分の考えを整理し、筋道を立てて伝えることで、他者に理解されやすくなる。
匿名の日記では、他者からの批判的な意見や、時には非常識なコメントに直面することもある。
これを避けることは難しいが、建設的な意見を見極め、自分の考えを再評価する機会とすることができる。
普段は意識しない感情や考えを言葉にすることで、自分自身をより深く理解することができる。
書くことは、物事を深く考える機会でもある。
表面的な事象にとどまらず、その背後にある理由や意味を探ることが求められる。
はてな匿名日記は、自由に考えを表現し、深く考えるための場である。
面白かったから過去の動画色々漁ってるけど5年前のとかで今回出た人と同じ人たちが、ああ今のがずっと洗練されてるなっていうのとか、逆に5年前ならメダル取れてたんじゃないかこの人はみたいのとかあって競技化されるタイミングの残酷さみたいの感じてしまった
でもまあ普段の舞台の方がさすがにみんな場慣れしてるのかなって感じだしオリンピックが全部じゃ全然ない世界なんだろうからいいのか
これを機会にもっと見てみよう
なぜ女性差別をめぐる論争はたびたび炎上するのか。性問題の解決に取り組んでいるホワイトハンズ代表理事の坂爪真吾氏は、「多くの問題は、原因をジェンダーに還元するだけでは解けない。しかし『ツイフェミ』と呼ばれる動きは、すべてをジェンダーに還元するため、『被害者/加害者』という二元論に陥っている」
ここ最近、「ツイッターフェミニズム」(ツイフェミ)と呼ばれる動きが一部で広がっている。一見すると、ツイフェミはミサンドリー(男性嫌悪)によって突き動かされているように思える。だが、ツイフェミ=ミサンドリストという理解は、決して正確ではない。
ツイフェミの言動が過激化する背景には、「男が許せない」という怒りに加えて、もう一つの大きな怒りが存在する。
ツイフェミが攻撃するのは、女性嫌悪に満ちた男性だけではない。女性嫌悪に染まっておらず、フェミニズムに対して理解を示すリベラルな男性たちもまた、彼女たちの攻撃対象になる。女性への性暴力に反対するデモやイベントに来た男性に対して、主催者が「男性の方もこんなに来てくださった」「賛同してくださる素敵な男性もいらっしゃった」と感謝の意を述べると、「少しでもまともな男に出会った時に感謝する癖は見直すべき」「被災者がボランティアの接待をさせられているのと一緒だ」といった批判が飛び交う。
フェミニズムから派生した学問であり、男性に対して「男らしさの呪縛を解き、女性とお互いを尊重する対等な関係を築こう」という視点から啓発活動を行っている男性学も、一部のツイフェミからは「男性がフェミニズムの言葉を簒奪して自己弁護をしているだけ」と、親の仇かたきのごとく敵視されている。
なぜ彼女たちは、女性を搾取するヤクザやホスト、DV夫といった「明らかな敵」ではなく、「明らかな味方」=自分の身近にいる、フェミニズムに理解を示すリベラル男子たちを執拗に叩くのだろうか。
最大の理由は「自分たちの攻撃が最も通じる相手だから」である。「何でも斬れる刀」としてのフェミニズムは、基本的に近距離戦でしか使えない。フェミニズムの理論は独特の言い回しや専門用語に満ちているので、使い道を間違えると、同じ文脈や言説空間を共有している人(=フェミニスト!)にしか届かなくなる。
そのため、フェミニズムに親和的なリベラル男子は、ツイフェミの言葉を理解・共有できてしまうがゆえに、最もツイフェミからの被害に遭いやすい。
2020年4月22日、馳浩元文部科学大臣を含めた国会議員らが、一般社団法人Colaboが虐待や性暴力で居場所を失った少女たちのために運営しているカフェを視察した際、10代の少女に対するセクハラ行為があったとして、同法人代表の仁藤夢乃(@colabo_yumeno)は、参加した議員ら全員に文書で謝罪することを求めた。
この事件はツイフェミの間で大規模な炎上を巻き起こし、安倍晋三首相は同月29日の参院予算委員会で、馳元文部科学相を厳重注意する意向を示した。
女性支援に取り組んでいる男性の政治家や社会起業家、ジェンダー平等を目指した政策提言や署名キャンペーンを行う男性の社会活動家やジャーナリストは、ツイフェミにとって格好のターゲットだ。
彼らの言動や事業の一部を恣意的に切り取って、「差別に無自覚」「儲け主義」「自己顕示欲を満たすために、女性を利用している」といったレッテルを貼って炎上させる。
燃え盛るタイムラインを眺めながら、「コスト優先で人権感覚のない人たちの運動って、やはりこういうことだよね」「化けの皮が剥がれたよね」とうなずき合うことが、彼女たちにとって至福の時間になる。
しかし、ツイフェミが最も激しく攻撃するのは、女性差別に無自覚な男性でもなければ、リベラル男子でもない。フェミニズムそのものである。
ツイフェミが抱く「フェミニズムが許せない」という怒りは、「男が許せない」という怒りと同様、あるいはそれ以上に激しく燃え上がる傾向がある。
著名なフェミニストによる記事がウェブ上でアップされると、待ってましたとばかりに、すぐに発言の一部を切り取ってSNS上で拡散させ、「この発言は、○○への明らかな差別だ!」「こんな人がフェミニストと名乗るなんて、絶対に許せない」と一気に怒りをヒートアップさせる。
普段は「女性はこうあるべき」という性規範を否定的に捉えているにもかかわらず、「フェミニストはこうあるべき」という規範にがんじがらめになってしまい、その規範から1ミリでもはみ出した言動をする人が許せなくなる。
ポルノや性産業を批判しない者は、フェミニストではない。女性の客体化を批判しない者は、フェミニストではない。男性の性的なまなざしに迎合する者は、フェミニストではない。性暴力被害者の声に共感しない者は、フェミニストではない……などなど。
そして、「誰が本当のフェミニストか」という問い=「何でも斬れる刀」の正当な使用権や相続権をめぐって、フェミニスト同士で壮絶な斬り合いを演じるようになる。
土日休みの私と、シフト制で共働きの妻は、休みが被らない。だから休みの日はワンオペで子の面倒を見ることはよくある。
いつも遊んであげているからか、子は私によく懐いていると思う。
だから休みの日になると、「だっこ」「読んで」と絵本を差し出してくる。
普段、なるべく子どもに構ってやりたい、と思って色々と連れまわしてあげていたりするものの、やはり試験直前期ともなるとそういう訳にはいかない。
渋々子の希望に応じて抱っこをして、絵本を読み始める私の気がそぞろであることを1歳ながら子は鋭敏に察する。そして、スッと別の部屋に行って、一人で絵本を読んでいたりする。その背中が切ない。私が不甲斐ないばかりに、早く大人になることを強いてしまっているような気がして、「ごめんね。」と背中越しに声なく語りかけるが、そんなことを子は知る由も無い。
結果は判り切っているのに、勉強なんてさも正当な理由があるが如く振る舞い子をおざなりにしてしまうことに罪悪感がある。そもそも勉強自体、好きじゃない。
だけど、しかし……。
冒頭で書いたように私は薄給なのであって、どうにかして現状を脱するには資格に依るしか途が無い。長い目で見たときに、この苦しみが結実することを祈る。そしてこれはイズムの問題だと自分に言い聞かせている。
短期的に子を慈しみ、今の生活を良くしようとすることは妻がすればよく、今を苦しんで長期的に何とか生活を良くしようとする行いは、苦しみを飲み込む器のある側がやるしかない。
子は父の心を知らず、私のことは嫌いになっても構わないし、妻が私のことを「役に立たない」と思い恨んでも構わない。しかし勉強した世界線と勉強していない世界線では、前者の方が(私自身は嫌われているものの)妻子の幸福に寄与するはずだ。少なくともそういう姿勢で暮らしていくことが、生活の全てにおいて溶け込んで良い方向に作用するはずだ。
そして私は、家父長としてそれを受け容れなければならないのだ!
とポエミーに語ってみたものの、どう自分の中で折り合いをつけたところで妻子の側からは、1年後、2年後の結果で私の行いを裁くのだろうなと思う。
もう何千時間も勉強してきた。全部がムダだったなんて思いたくない。何とか受からないと。
実際には清潔であっても服がよれよれで髪がぼさぼさだったら嫌だろとかよく言われるけれど、
別に…。ちゃんと毎日洗濯してて風呂に入って洗ってさえいれば別にいいんじゃない?
実際に清潔かどうかは気にするけれど、それと直接関係ない見た目の部分は別に気にしないよ。
その代わり自分でも、よれよれで染みがついた服とか平気で着るけどな。メイクも普段はしないし。髪はいつも1000円カット。
歯は毎日フロスまでして手入れするし定期的に歯医者に行くけれど、ホワイトニングとかは特にしてないし。
何よりもそもそもの顔がブス。
でも清潔感という言葉に大騒ぎして被害者面している男達は絶対に、私みたいな女は対象外なんでしょ?
「清潔感」なんて備えているのは当たり前で、そもそもの容姿スペックが高く、「透明感」まで兼ね備えた女を当たり前のように求めてる。
あからさまにはしゃぐ、ということが苦手ということに気づいたけど、自分なりに色んなものを見て感じて楽しんでた。
普段なれない場所に行くから疲れやすいのはあると思うけど、まさかそんなつもりも無かったのに、そんなこと言われるとは思わなかった。
今でもずっとその言葉が頭に残ってる。
この人は一緒に旅行来て欲しくなかったんだろうな、ということは理解出来た。
何かとセクハラしてくるのをいつも流していた。過剰に反応せず、相手の望み通りになってたまるかという気持ちもあった。
いつも上から目線でもっとこうしなきゃダメだよ、と言われたりもした。
たぶん、容姿含め舐められてたんだと思う。
昔からそうだ。
弱男という言葉があるけど、女にはないのかな。
女は体売れるからいいよね、女は〇〇で羨ましい、それどれにも当てはまらないんだ。
男女とかなく遊びたかったのに、性別が違うだけで遊べない、仲間はずれということもあった。
理由は気を遣うから。なんで?他の男の子と同じように遊びたいだけなのに。
でも、理性は育つし、術も覚える。
対処法も増える。
今の自分は楽しそうに見えるのだろうか。
「カチカチ山」とかいう和製サウスパーク、いつからヌルくなったのか
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.youtube.com/watch?v=paCPv0-jB5w
VTuberの月ノ美兎がカチカチ山という民話を論評する動画で、
普段はVTuberに関心を示さないはてブユーザーにも好評だ。
「奇声と馬鹿笑いだけがとりえの youtuber たちより面白いな」
こんな感想があった。
デイリーポータルZ的な、テキストサイトを思い起こさせる知的なエンタメだけは認めてやろうという、歪んだ自意識が透けて見える。
バカ高いテンションや当意即妙なリアクションこそがYouTuberやVTuberの面白さなのだが、
それを楽しめない陰気な人間からすると世間的には人気な配信者が気に入らないらしく、
霜降りではなく、筋肉を食べてる!と感じることができるガツンとした赤身の旨みを感じると同時にどこか上品さもあり、普段食べるステーキとは別物で美味しかった
ただ食べに行ったのはコロナよりもっと前で、今は東京からも離れている
そんな中東京に出かける用事ができ、久しぶりにアメリカンなステーキを食べたいなとウルフギャングを予約しようと思ったら、どうやらピータールーガーというお店もあるらしいことを知った
東京に頻繁に出かけるつもりが無いのいうのもあるが、美味いとはいえ、あれだけたらふく肉を食ったらもう数年はアメリカンステーキ食う気にならないということもあり、店は慎重に選びたいと思っている
イスラエル、パレスチナの問題になると、途端に欧米の立場叩き出すやつらなんなん?
蝉時雨がアスファルトの熱気をさらに増幅させる。ジリジリと焼ける陽光は、容赦なく俺のくたびれたアパートにも侵入してくる。窓を開ければ騒音と熱風、閉めれば息苦しいほどの密閉感。どちらを選んでも、孤独だけが濃縮されていくようだ。
夏期休業。世間は浮足立っている。家族連れの声、若者たちの嬌声、テレビから流れるバカンスのCM。それらはすべて、俺には無縁の世界。俺にはただ、静寂と、汗ばんだ肌に張り付くTシャツと、底をつきそうな財布だけがある。
冷蔵庫には、賞味期限切れ間近のヨーグルトと、しなしなになったキュウリ。テレビをつければ、眩しい笑顔と楽しそうな会話。それを眺めていると、俺の胸は鉛のように重くなる。
孤独は静かな猛獣だ。普段は大人しくしているが、この灼けるような季節になると、牙をむき出しにして襲いかかってくる。誰もいない部屋で、ただただ時間が過ぎていく。時計の秒針だけが、残酷なまでに規則正しく時を刻む。
ああ、このまま時間が止まってしまえばいいのに。何もせず、何も考えず、ただこの孤独から解放されたい。夏期休業。それは俺にとって、終わりの見えない苦行の始まりを告げる鐘の音なのだ。
外では子供たちの歓声が響いている。彼らの未来は、きっと希望に満ち溢れているのだろう。俺にはもう、そんな未来を想像することさえできない。ただただ、この暑さと孤独の中で、朽ち果てていくだけだ。
窓の外の蝉時雨が、俺の心をさらに掻き乱す。この暑さはいつまで続くのだろうか。この孤独は、いつになったら終わるのだろうか。答えのない問いだけが、俺の頭の中をぐるぐると回り続ける。夏期休業。それは俺にとって、孤独の牢獄なのだ。