はてなキーワード: 帝王切開とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/353071057/comment/ht_s
http://b.hatena.ne.jp/entry/353071057/comment/takhino
まあ、どう考えるのも自由だけど、産声は肺呼吸切り替えのために起こる現象であり、激痛で泣いてるわけじゃないので(帝王切開でも泣く)、自説補強のために疑似科学を使うのはダメです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/353071057/comment/yambb
帝王切開でも泣くだろ
あと「産まれてくる時,新生児に苦痛を与えるから出産は悪」(まあその「苦痛」とやら自体が,上のブコメを見るに単なる妄想という可能性が高いのだが)というなら,苦痛を与えない方法(例:帝王切開)ならOKなの?
そもそも「産まれてくる時,新生児が苦痛を感じている」とする根拠は?
このあたりの疑問に「論理的」に答えてほしい。
バカは知らないだろけど、産婦人科は「産科」と「婦人科」が強引に一緒にされてるのであって、基本的には医師としての技能が必要になる職業だからな。
助産師が取り扱うことができるのはあくまでも正常な分娩が可能な場合のみであって、逆子や帝王切開のような分娩に特別な医療措置が必要なものは「産科」がある医院でなくてはいけないことになっている。
助産師が女性のみの資格となっているのはもともとが「産婆」という地域で独自に行なっていた仕事を無理やり資格業務にしたという流れがある。
もちろん男性助産師がいないのはおかしいと主張して資格取得条件を広げるのはいいだろうが、実質的には実用性のない制度変更になるだろうな。
金と手間をかけて男性助産師を誕生させても「やったー男女平等!女尊男卑の是正!」とか喜んでそこでおしまいであって、世の中のためにはならないことは間違いない。
09:30
今朝起きたらまた鮮血のおしるしが出ていた。
前駆陣痛も続いていたから、「がんばっていたんだね。残りはお母さんやみんなでサポートするからね」という気持ちで家を出発。
快晴でとてもいい日。
10:00
到着後の内診でかなり子宮口を強くかき回して刺激され、その刺激で破水。
周りのスタッフさんが若干わたわたする中当人は「ああ、これが破水なんだ……」と思っていた。
そこから、部屋に移動して促進剤投与を始めた。
促進剤は、それによって産まれる、という効能ではなく、子宮を柔らかくして子宮口を緩めてそこから陣痛を呼び込むためのものだそうで、20からstart、120まで上げても進まない人もいるよー、と。
とにかく無事に産まれられれば、と、「何でもいいからお産に繋がりますように」という気持ちでどんどん追加されていく促進剤の値を見ながら過ごしていた。
11:00
胎児の心拍が落ちることが何度かあり、酸素マスクをつけて深呼吸をする時はさすがに緊張した。
でもまた数値が戻ったのを見て安心して「私がリラックスしなきゃ子宮も柔らかくならない」と過ごしていた。
15:00
100あたりまでは前駆陣痛の痛みとあまり変わらなかったけど、そこからは前駆陣痛は越えた痛みが始まった。
17:00
看護師さんに「今日は一旦終わりにして様子を見て明日またやって、経過によっては帝王切開で産んであげることになるかもね」と言われて投与は一旦stopした。
投与してもあまり変わらず、「私が堅いことで子宮口が開かないんだ」「私がリラックスできないから入院の日が増えてお金をかけさせてしまうんだ」と「私のせいだ」の思考が一時止まらなくなって涙が出た。
胎児の心拍が落ちること、胎便が羊水にかなり混じっていること、心拍が急に上がること、陣痛がこないこと、いろんな焦りや不安に対して「母の私が◯◯しないからだ」という思考が出てしまったけど、そんな中でも夫が一緒にいて笑ってくれていることに本当に救われて、いろんな不安もあったけれど1日過ごすことができた。
20:00
母が夫を迎えにきて帰宅。体勢変えたりしながら、落ち着いてから21時過ぎに寝る体勢に。
21:08
何人も看護師さんが入ってきて再度酸素マスクをつけ、内診をしてもらい、「もう赤ちゃんの負担が大きい」ということで、クリニックの先生にも診てもらった上で、緊急帝王切開をして胎児を出してあげることに。
21:32
酸素マスクをつけて深呼吸をして「帝王切開になります、急いでパパを呼んで」と言われ、さすがに焦りすぐさま夫に電話をして来てもらい。
色々なリスクの説明も受けたが、もう皆どうでもよくて、ただただ「無事に産まれられればそれ以外は私の子宮やら体やら命やらどうなってもいいから」という気持ちで、早く外に出してあげてほしくて、急ぎ足でope室に入って横になった。
22:00
何かの数値に対して先生やスタッフの方々が緊張した面持ちで観察して指示を出したり動いたりしていたが、あれはなんだったんだろう。
バタバタが続いてすぐには開始しないことに不安を感じつつ、その間に落ち着いて来て「もうすぐ会えるんだ」「やっと会える、がんばろうね、大丈夫だよ」と幸せな気持ちが高まり、ope開始後も私はずっと笑顔で耳を澄ませ。
麻酔が効いてくると血圧の変化によるのか、頭もぼーっとしてきた。目を瞑ることに吸い込まれるような。
コッヘル、クーパー、などの機械出しの指示でなんとなく何を切開しているのか把握しつつ、足から胸にかけての感覚はもうないのに何か自分の中を弄られているような感触に奇怪な感じを抱きつつ。
22:57
胎児を取り出す時になると胴体を中から大きく揺さぶられ(感覚はないけど子宮を直接揺らされているのはすごくわかった)、少し泣き声が聞こえたのと同時に「おめでとうございます〜!男の子ですよ!」と。
その瞬間ザーッと涙が出そうになったものの、最初の一瞬の後に全く泣き声が続かないので瞬時に不安感に襲われ、産まれた喜びを味わいつつもそれだけの気持ちは束の間、取り上げられてもしばらく泣かない赤ちゃんが心配で気が気でなくなった。
自分からは布で隠れて見えないけど、向こう側で明らかにスタッフさんたちが焦って赤ちゃんの背中を叩いて刺激していたり懸命に気管内の吸引をしていたりしている。
先生も、取り上げた後はすぐに私の縫合に取り掛かりつつも、赤ちゃんを見て緊迫した声色と口調で指示を続ける。
「サチュレーション反応しません」「小さい方に切り替えて」「小さい方反応ありました」「こっちはどう!?」「◯◯じゃないよ、そっちを◯◯して」「◯◯さんこっちきて!」と何人ものスタッフさんが赤ちゃんの方から私の頭上まで動き回る。その間も赤ちゃんは泣き声ほとんどなく、たまに「ふぇっ」と聞こえるか聞こえないかくらい。
赤ちゃんが泣かない。泣かない=呼吸ができない。呼吸ができない=酸素がいかない。酸素がいかない=死んでしまう。
一瞬でそんな考えが脳内を駆け巡り、「私はお腹開いた母でも放っておいていいからみんな赤ちゃんを早く助けて下さい!」と叫びたい気持ちを抑えながらこわくて仕方がなくて、「赤ちゃんは大丈夫ですか」と何度か聞いた以外ただただその場を見守っていた。
そのうちになんだか意識が遠のいていくような感覚から強い吐き気が出て何度か嘔吐し、そこからは遠目に赤ちゃんの様子を見つつぼーっと手術の終わりを待つしかなかった。
私の腹部縫合中、赤ちゃんの泣き声が聞こえない時間。きっと数十分あったかなかったかくらいだったろうけれど、この時間がこの1日の中で一番長く感じられた。私には何時間も縫合されているように感じられた。
私の腹部縫合が全て終わり、ope室を出る時にスタッフさんがぱっと赤ちゃんのお顔を私の方に向けて見せてくれた。
むちむちでまあるくて髪がフサフサでかわいい。濃い顔じゃなくて私似?なんて思いながらope室を離れる。
外では夫と母が待っていたけど、熱発もあったからかとにかく頭がぼーっとして「目を閉じたい、でも赤ちゃんが気がかりだ、でも目を開けていられない」というぼやけた意識で過ごしていた。
時系列はきちんと記憶できてないが、部屋に戻ってから夫と母が荷物を運びつつ座っていてくれて、赤ちゃんの顔の話などをした気がする。
自分で何を話したかよくて思い出せないけど、夫が深く呼吸して緊張していたことはすごく覚えている。
今思うと、私は赤ちゃんのことも考えつつ意識がぼやけていたので、その場を冷静に見れていた夫は本当に不安だっただろう。
術後は姿勢の不快さが強く、度々左右に体位交換をしてもらった。
赤ちゃんを救急搬送することに決まったと先生から話を受け、夫たちは救急車より早く出て向かってあちらで対応すると。
お腹を切った身と言えど、この状況で動けず何もできずに横になっているのが悔しかった。
無駄だとは分かりながらも、麻酔で動かない・司令の伝わらない脚先を動かそうと何度もやってみたけど全く足は動かなかった。私の分まで夫に託して手を握ってお願いした。
夫と母を見送ったら一気に意識が遠のいて来て、そのあとまた夫が来たような来なかったような……
そんな中、救急車に赤ちゃんを乗せる直前に助産師さん(看護師さん?)が赤ちゃんを抱っこして私に会わせに来てくれた。
移動前に目の前で会えるなんて思ってもいなかったから歓喜して一瞬で意識が戻り、赤ちゃんをぎゅっとしてちゅーして「がんばろうね!」とほっぺを撫でて送り出した。
涙が止まらなかった。
24:30
サイレンの音の位置が赤ちゃんと私の距離を表しているから、サイレンが遠のいていくと赤ちゃんとの距離を感じて、ただただ「がんばれ!お父さんもお母さんもいるからね」と祈ることしかできなかった。
25:00
その後また意識がぼーっとして、何度か看護師さんが巡回に来てくれたのもあまり覚えていない……
2時台にiPhoneが遠くに移されたのでLINEを確認できずそわそわ。
体位交換をお願いしたりしながらいつの間にか寝ていた。2時間ほど寝ただろうか。
起きてから夫からのLINEに気づき、赤ちゃんが無事なことを確認して本当にほっとした。
こんなに遅くまで夫と母が対応してくれているとは。本当におつかれさま、ありがとう、それしか出て来なかった。
夫から送られて来た赤ちゃんの写真がかわいすぎて、うるうるしながらしばらくずっと見ていた。
かわいすぎていくら見ても見飽きない。早速待ち受け画面に設定した。
夫がもう帰路にあると分かって安心して私もまた休憩。
でも頭が冴えてしまってもう眠れず……
29:00
巡回の夜勤の看護師さん&助産師さん達が検温や創部の観察をしに来つつ何度も話しかけてくれて、明るく笑わせてくれて元気付けてくれた。
もう麻酔は切れていたので、「どんどん回復して赤ちゃんに会いに行こう!」と勝手にベッド上でリハビリ開始。足の指先から、体幹部から、痛み・貧血・血圧を観察しながら進めた。
外が明るくなって落ち着いて来ると、赤ちゃんが無事に産まれてきたことの安堵感、今生きているのかどうかという不安感が一気に現実味を帯びて心に流れて来て、赤ちゃんの写真を見ながら唇を噛み締めて泣いていた。
それに気づいた看護師さんが私のそばに寄り添ってくれ、スタッフのみなさんが赤ちゃんをその後も気にかけてくれていたこと、その方もお子さんが苦しい状態で産まれて来たこと、昨夜赤ちゃんの直後にもう一人赤ちゃんが病院で産まれて、そのあと陣痛の人が来て不思議とお産が重なったことなどを明るく優しく温かく話してくれた。
「泣きたい時は泣いていいんだから。心配だよね、泣いていいんだよ。」と言ってくれて一気に号泣して、話をして落ち着いた。
日勤に交代する時間帯、夜勤の助産師さんが何人か来てくれて赤ちゃんの写真を見て「母そっくりよね!」「かわいい〜❤️」「がんばるしかないね、赤ちゃんくん!」と声をかけてくれた。それと一緒に絶対安心する温かい言葉もかけてくれる。その度にうるんでしまった。
私は術後あまり痛みを感じず動くのが得意なようで、夜中に自分でクッションを動かして体位交換したり足を動かす練習を始めたりしているのを褒められた。
どんどん動いて行くぞ。
https://anond.hatelabo.jp/20171121162134の増田です。
嫁も出産当日(大半は思い起こしながら翌日)に日記を残していたとのことで。
10:00
この日段階で予定日を10日過ぎていた。これ以上は延ばせないということでクリニックに入院開始。診察中に破水し先生方慌てるものの嫁は平常心。
診察の途中から私も参加、促進剤についての同意書にサイン、入院部屋に行く。
3人部屋だがカーテンで仕切られており、なにより今は私ら夫婦しかいない。
窮屈さはないし清潔感あって居心地悪くない。
入って早々地元訛りの助産師さんから説明、促進剤の点滴開始。まずは20mlから。
11:00
自体は当面は動きそうにないので、ここで一人散歩に出かける。薬局でマスク買ってファミレスでカツ煮定食を食す。アラサー、カツ煮定食のコスパに感動。
途中で胎児の心拍低下による促進剤停止という事態があり飛んで戻る。
12:00
嫁ランチ。野菜カレーとカレイの揚げ浸し、スープ、サラダ、パイナッポー。目を閉じ多幸感に包まれながら食事を楽しむ嫁。
あまりに美味し過ぎたためか完食した嫁、お腹いっぱいになりすぎその後やや後悔したようだ。
13:00
Toco値(なんの値かよくわからなかったが出産までの進行度合いと解釈した)を注視してみたが高い値になっても「生理痛よりはマシ」とのこと。
やはり痛覚は個人差あるのかな。
入院開始時は前駆陣痛が5〜7分間隔だったものがこの時点で3分間隔に。まだまだ笑顔。この時点で促進剤60ml。
14:00
2度目の外出。動けない嫁に雑誌を買おうと近くのコンビニを探す。
地元で有名な産科が近いからか出産関係雑誌が1角を占める。澤穂希表紙が目立つ。
めぼしい雑誌はなくクリニックに戻ると駐車場から車が消えていた。どうやらこの日は通院する人が少ないようだ。
15:00
16:00
18:00
嫁と食べ物縛りしりとりをしたりアキネイターごっこをしたりして穏やかに過ごす。
20:00
面会時間が終わったためお義母さんに送ってもらい一時帰宅。明日再度促進剤投与をする方針になった。
21:32
嫁から電話。胎児への負担を考慮して急遽緊急帝王切開を取ることになったと嫁。
一時的に心拍がかなり下がったこともあり無理はできないという医師の判断だった。
急行。
「ハンカチある?ないなら貸すね。何用かって?出産後に感動した時用よ」とお義母さん。ハンカチを受け取る。
22:00
オペの説明を受けて嫁は早速手術場へ。
元々立会い出産を希望しビデオカメラを持参していたが、使うこともなさそうだ。
廊下でオロオロしながら歩き回る昔ドラマでよく見た典型的なパパっぽい感じになる。
22:17
手術開始。手術室前のロビーにてお義母さんと二人。時間が永遠に感じる。
しかし胎児への負荷が大きかったようで、胎児に呼吸器をつけてなんとか酸素補給をしている状態とのこと。
23:50
手術後の胎児に対面する。
顔が青ざめており、ひゃっくりのような小さな呼吸をかろうじてしている状態。
我が子への最初の声掛けは「頑張れ」だった。
産後の嫁に付き添う。労いの言葉も胎児の容態が気になりトーンダウン。もうここは祈るしかない。
しばらくして先生から緊急搬送を取ることにしたと説明。救急車で隣町の大型病院へ。
25:30
お義母さんの運転が優秀だったのか、救急車より早く着きすぎる。書類を記載して提出。
緊急病院の待合室は独特のピリピリ感があって苦手だ。
この日はなぜかオカマさん(顔以外は限りなく女性に近い)がいて視線を奪われる。
26:23
26:33
カンファレンスルームへ。ここからどれくらい待っただろう……時間が永遠のように感じられた。
部屋には山ほどの赤ちゃん関係の本が。その中には「赤ちゃんの死を乗り越える」というタイトルのものもあり思考のネガティヴループが加速する。
気づいたら私もお義母さんも文字通り祈るポーズをとる。ただただ生きていてくれ。ネガティヴモードを振り切ろうと廊下を散歩する。
27:30
病院の看護師さんに呼ばれて私一人でNICUへ。熱を計り徹底的に手を洗い清潔な状態で入室。
胎児は全身を管に繋がれながらもさっきより顔色のいい状態でスヤスヤ寝ていた。なんと可愛い寝顔だろう。
全体的にむっちりしていて丸顔で。天使ってほんとうにいるのだなと確信した。
「触ってあげてください」と看護師さんに促され頭を撫でる。剛毛で真っ黒でややパーマ。これはお母さん似かな。
よく頑張ったねと声が自然と口から漏れた。看護師さんも笑顔だ。
息子は「胎便吸引症候群」により体に強く負荷がかかり、更に肺炎を併発させて窒息ぎりぎり手前状態だったという。
クリニックの先生の緊急搬送判断(別のお母さんがその時間に手術予定だったが、我が家を繰り上げで対応して下さったよう。感謝しかない)、
大型病院のベッド空き状況/立地……などなど様々な幸運が重なったことによって生きることができた息子。
まだ頑張るところだがまずは人生のスタートラインに立てたぞ。本当によかった。
27:50
NICU責任者の先生から契約書類の説明を受けサイン。息子の名前を初めて書面に記す。出生届よりも先に書くことになるとは。
「**(名前、産前にもう決めていた)っていい名前ですね!私の親友が同じ名前なのですよ。いいやつでね……」と先生。この人は信頼できるとなんとなく感じた。
具体的な検査結果は翌AM11時に説明させてくださいと先生。先生も寝る時間がほとんどないじゃないですか……おつかれさまです。
看護師さんから書類を受け取ったのち「忘れてた!」と息子の写真を渡してくれた。
「処置中は目を開けてて「ここはどこなんだろー」って周りをキョロキョロしていたんですけどねー」と目をつむった胎児写真を説明する看護師さん。
ここにいる人はみんな味方だ。
28:30
安心感からか涙が滴り落ちる。自身がめちゃくちゃ強張っていたことにやっと気づく。
iPhoneを起動、嫁と使っていた妊娠/出産情報管理アプリを開くと表紙が親子3人になっていてまた涙。
「ハンカチ、ここで使うべきなんですかね」と涙を拭いた。
その後息子2ヶ月弱の入院を経て帰宅、順調に成長し、障害もなく元気に育ってる。
帝王切開をする羽目になってしまった人というのはけっこういるようだ
あんまり普通のルートではないセンシティブなものだということを知ったのは子供の時分でテーオーセッカイだったとぺらぺら喋ってたずっと後のことである
この間子どもを産んだよ。
でも、なんか突然破水して救急車で総合病院に運ばれて出産する羽目になっちゃったよ。
早産だからって子どもはNICUに入ったよ。新生児集中治療室って言うんだって。
なんでだろうね。産む3日前の妊婦健診では「順調ですね」なんて言われたっつーのにね。
なんて思いつつも、なぜこうなった!?って思ったよね。
同時期に子どもを産んだお母さんたちが集められたよ。
そこで助産師さんが
なんて言い出して、おいおい私救急車で早産でーす、なんて恥ずかしくて
言いたくないわとか思ったよ。
でも話し出したら、その場にいた全員トラブル抱えた出産だったわ。
前置胎盤で帝王切開、切迫流早産で5ヶ月以上管理入院、五十路間近での出産。
逆に元気に何事もなく産む人のほうが少ないんだねきっと。
っつーか、何事もなく普通に産めると思っていた自分は思い上がりも
何を持って十月十日お腹の中で育てて、ひっひっふーで安産で埋めると思っていたのかと。
とりあえず子どもの命があってよかった。
早く家に連れて帰りたい。
母子が危険になりやすいのと第二次成長期を終えた女子が危険出産になることは医学的に全く根拠がない
ただそういったほうが世間の親から評価が高くなるからそう言ってるだけ
大人で華奢な女が出産するときは生まれ持った体が原因だと思われるけど
成長期が終わった体からデブになっていく過程で産んでも大丈夫、危険度減るなんてことはまるでない
高校生の時点で危険なやつは、何歳になっても危険だから帝王切開になる
これが分かってないやつが未だに16歳以降での出産で若年出産リスクとかほざいてる
12歳とかまだ体が大きくなる前の話なら分かるがとっくに成長期終わってる体で
元々は子供は要らなかった、つーか喪女で結婚も出来ないと思ってたしどうでもよかったが妹が子供を産み、その赤子が超絶可愛かった。
この子の為なら死ねると言ってたら妹から「そういうのは親がやるからおばさんが重い愛をそそがんといて自分の子供を作れ」と言われた。
それもそうだ子供が欲しいと思ったのでギリギリ二十代で結婚する事にし、幸い母親の新しい友達にお見合いおばさんがいたので紹介してもらい結婚、相手も高齢童貞だった。
毎晩頑張ったが痛そうな顔をすると夫が萎えて終了を半年ほど毎晩続けた。
子供はまだなの?若いから気楽に思ってるかもしれないけどそろそろ孫が見たい。と言われる度に処女懐胎は無理と思ったが高齢処女で旦那も高齢童貞なのでやり方が解らないのは人には言えない話題だった。
一人で行ったそうは手術の麻酔からさめたら、カーテン越しに妊婦さんが血液検査で明るく「血管には自信があるんです」と笑っている声が聞こえて辛かった。
最初は辛い程度だったのがぶどう子で異常に分泌されてた妊娠ホルモンが一気に消えた影響と流産のショックでその晩から不眠に苦しみ鬱のようになり、死ねお前のせいで子供が死んだと夜中に幻覚幻聴が聞こえ気絶するように眠り朝起きたら絶望を感じ地獄だった。
悪阻がきつくて妊娠してない体に戻りたいと思っていた事を思い出しては泣いた。
旦那の親に妊娠を伝えた直後の流産だったので旦那に流産を伝えるように頼むと「病気で流産した」と電話で話しており、その言い方だと性病と勘違いされるだろうが!!!と腹が立ったのを覚えている。
その後ガンになる危険があったので検査のために医者に子作りをしばらく止められ、やっと出来たがまた流産をしてと数年経った頃に旦那が睡眠時間も足りない程の超激務になりセックスが出来なくなった。
親は孫を見たそうだったが、セックスせずに子供は出来ないとは言えなかった。
その後運よく正月休みに体力回復してやったセックスで子供を授かったが、ある日夜中にトイレに行くと真っ赤な血が大量に出てきた。
旦那は過労死が心配になるレベルの睡眠時間だったので伝えてから家で寝かせて、母に電話をして泣きじゃくりながら病院に行きそのまま入院、看護婦さんがお腹を温めるカイロを持ってきて聴診器で赤ちゃんの心音を聞かせてくれた。
また長期の入院になり今度は退院したらそのまま私の実家で寝たきりになるように指示された。
薬は飲んだら冷や汗が出るくらい副作用が強い、横向きになったら腹がはるので上向きで姿勢が固定され、トイレ食事風呂以外ずっと寝てるので大きな腹に圧迫されて背中やお尻は真っ赤に腫れて痛かった。
ギリギリで子供が逆子になり帝王切開で出産、顔を見た瞬間に幸福ホルモンが脳に溢れて物凄い愛しさと幸福感に包まれ涙が出た。
今日、上の子を幼稚園に送っていった後に下の子を連れていきつけの子育て支援センターへ行った。
そしたらフロアの片隅で赤ちゃんが哺乳瓶を抱えて一人でミルクを飲んでいた。それをちょっと離れたところから職員さんが見守っていた。
赤ちゃんはとてもご機嫌そうに足をバタバタさせていて、見守り役の職員さんや通りすがりの私と私の子供と目が合うとニコニコ笑った。赤ちゃんっていうのは何故かミルクやおっぱいを飲みながら人の顔をよく見るものだ。
そういえば私が子供の頃もこんな風に一人でマグマグを抱えて飲んでいたなぁと思い出した。
普通、3歳位までの記憶は綺麗サッパリ忘れてしまうものらしいけれども、私は、薄暗い部屋、ベビーベーッドに寝転んでマグマグを抱えて熱心にチューチュー飲んでいた時の事を覚えているのだ。しかしその映像を覚えているものの、当時何を思いながらそうしていたのかは覚えていない。しかし不幸せというよりどちらかといえば幸せだった様な気はする。
赤ちゃんのお母さんは、上のお子さんの遊びに付き合っていた。上のお子さんはまだ2歳になるかならないか位。まだまだお母さんに甘えたい盛り。たぶん年子の兄弟なのだろう。
どこんちもそうだろうけど、下の子が生まれた時は上の子が赤ちゃん返りをして大変だった。
当時の事は疲れ過ぎてたせいかあまり覚えていないのだけど、一日の大半を上の子に振り回されていた。
下の子は常に腕に抱きかかえておっぱいにぶら下げてはいたものの、あまりかまってあげる事は出来なかった。
慌ただしい日々のなかで強烈に覚えている事がある。それは夜、寝る前になると上の子が決まってママが良いと大泣きをしたので、下の子は夫に任せて私は上の子の寝かし付けにかかりきりになっていたときの事だ。
上の子は、下の子が泣き止んで静かになるまで眠らなかった。一方下の子は、私がだっこしておっぱいを与えるまでずっと二時間でも三時間でも、声が枯れるまで泣き続けた。
上の子がまだ赤ちゃんだったときは泣いたらすぐおっぱいをあげていたし、オムツでもなんでも待たせた事がなく、常にご機嫌でいさせる事が出来たから、下の子の、枯れ枯れの弱々しい泣き声を聞くと、罪悪感に胸を締め付けられる様だった。
下の子とも一応ずっと一緒にいたのはいたけれど、私は下の子がおっぱいを飲んでニコニコしているところを見た回数は案外少ないのかもしれない。
かといって上の子だって私は可愛いのであり、下の子が生まれた事で辛く寂しい思いはさせたくなかったのだ。
二人目を生んだ後、私の周りの人達の多くは「上の子を優先にするように」と言った。
上の子優先。
育児の常識はたった数年でコロコロ変わるので今はどうか知らないけれど、私が下の子を生んだ当時はなんだかやたらと言われていた様な気がする。
あまりにも言われているから、下の子を生む前は、それは多大な努力をしないと出来ない大層難しい事なのかと思ったが、いざ生まれてみたらさにあらず。
実際は、いやがおうにも上の子優先で全てが回った。
あまりにも上の子ばかりで下の子は放置しまくりだったのがずっと心に引っ掛かっていた。
上の子も可愛いけど、下の子にも上の子が赤ちゃんだった時の様にしてあげたいとずっと思っていた。
でも、子育てを助けてくれる人達は皆、私の意に反した手助けを申し出て来たのだった。
「赤ちゃんは見ててあげるから、たまには上の子ちゃんと思いきり遊んでおいで」
と家族に言われて、まだ帝王切開の傷が痛いのに、元気をもて余した上の子を連れて運動公園へ行き、滑り台やボール投げで遊んだり。
寝不足でフラフラしながら子育て支援センターへ行くと、口を開く前に下の子を連れていかれ上の子に「良かったね。久しぶりにママと二人きりの時間を楽しんでね!」と言われる。
違う、違うんだって!
……とは、あまり主張出来なかった。
たまに言えば、新しい赤ちゃんが可愛すぎて上の子のことが疎ましくなって締まったのか?と極端に取られてしまい、要らぬ心配をされたり非難されたりした。
どちらが可愛いかとかいう問題ではなく、私はフェアじゃない事を気にしていただけなのに。
一人目と二人目以降を同じくらい手をかけて育てるのは無理なのは分かっているけれど、あまりにも上の子優先に偏り過ぎており、私にはもはや「上の子優先」というのが宗教か何かの様に感じられていた。
皆、盲信しすぎ。
そんな、上の子無双だったあの頃の事を、床に寝転がって一人でミルクを飲んでいる赤ちゃんを見て思い出した。
その赤ちゃんのお母さんは久しぶりに上のお子さんとの二人きりの時間を楽しんでいたのか、それともかつての私の様に後ろ髪を引かれる思いなのかどうかは知らないけれど、ともあれ幸せな育児生活を送れますように。
ブクマ90くらい付いてて、知り合い同士と思われるのお祝いコメントばかり。
「転勤が多い夫がいる妻、2016年に生まれた娘がいる」というプロフィールだった。
それが「彼女ができた」記事を書いた男と知り合って、skype会話をわざわざようつべ動画にして男がブログにアップ。
女には赤ん坊がいるはずなのに、トータル2時間くらいのトークで不気味だった。
「旦那とはセックスレス。女でなく子供の母になってほしいと言われた」
「不妊治療のために義務的な性交をした。そのときできた子供だから愛せない」
などと病みはじめ、旦那に女として見られないことへの不満、露骨な下ネタ、ついには
「子供は義母が育てることになった。離婚した」と自分のブログで報告。
生まれて一年にも満たない我が子を手放してせいせいしている奴が、誰かに愛されると思うのか?
こんなことを気にしている奴はいないのか。
どのみちそんな奴に育てられるほうが不幸だったから、子供を手放したのは見ないふりして周りも祝福してんのか?
そんな女と男がくっついてどうすんの?
僕には父親がいない。
大人になって、特に子どもが嫌いというわけでもなく、好きでもなかった。
「僕はちゃんと父親になれるのだろうか」
「これから何をすれば良いのだろうか」
「大人が何なのか分かっていないのに子どもなんて育てられるのだろうか」
そんな不安な日々が続き、僕は奥さんを気遣うことができなくなってしまった。
ある日、奥さんとケンカした。
なんでケンカしたのかはもう覚えていない。
気まずい朝を迎え、僕はそそくさと出勤した。
しばらくして、お昼を過ぎたあたりだっただろうか。
「入院することになった」
ケンカしてすっかり忘れていたけれど、検診の日だった。
検診で血圧が高くなりすぎてしまったので、入院することになった、と。
血圧計まで買って、毎日血圧を計っていたけど下がらないので、産婦人科のおじいちゃん先生から紹介状書くからすぐに大学病院に行けと言われて翌日行った。
だけど、大学病院の先生には少し呆れ顔で、まだ大丈夫だと言われた。
産婦人科のおじいちゃん先生が、危険かもしれないと判断したけど、大学病院の先生は問題ないレベルだと言ったのだ。
そんなことを思い出しながら、僕は急いで病院に向かった。
病院に向かう途中、何故入院になったのだ、いやきっと大丈夫、ケンカしたせいかもしれない、いやきっと大丈夫。
そんな自問自答を繰り返した。
病院につくと、大丈夫だと言っていた先生から「検査入院」だと言われた。
やっぱり血圧下がっていない、と。
だから、安静のために入院してほしいと言われた。その時、子どもはまだ31週だった。
生まれるにはまだ2ヶ月くらい早かった。
僕は少し安心しつつも、これから2ヶ月間しばらくは病院通いかなと思いながら家に帰った。
奥さんからは、「部屋が暗い」だの、「周りがうるさい」だの、「安静にしなきゃいけない妊婦ばかりで気が滅入る」だの、文句ばかりのLINEが送られてきた。
あまりそういうことをLINEで送ってくるような人じゃないので、きっと精神的に疲れているのだろうと思ったのを覚えている。
3日後。
朝、電車が会社最寄り駅に着いてすぐに、奥さんからLINEが送られてきた。
僕はパニックになった。
理解ができなかった。
血圧が下がらず、最悪は胎盤が剥がれて、赤ちゃんに酸素が行かなくなり危険になってしまう。
また、お母さんも血圧が上がりすぎて良い状態じゃないので、妊娠を終了させるためにも今日帝王切開します。と言われた。
その時丁度妊娠32週目の日だった。
僕は子どもの名前も考えてなかった。いや、二人で大体考えていたけれど、年末ゆっくり考えればよいかと思って、まだちゃんとは考えてなかった。
義理のお母さんがやってきた。
何を話したかは覚えていない。だけど、最悪なことも考えないといけないとは言われた。私たちがしっかりしないといけないと言われたのを覚えている。
だけど、早く産まれてしまったというのは僕の周りでは聞いたことがなかった。
調べなくても良いのに、僕は思わず、妊娠高血圧症候群について調べてしまった。
胎盤剥離が発生すると、数十パーセントの確率で赤ちゃんは亡くなってしまうこと、10%の確率で奥さんが亡くなってしまうこと、数%の確率でどちらも亡くなってしまうことを知った。
僕は絶望的な気持ちになりかけたけれど、やっぱり先生を信じるしかないと思い、マイナスに考えるのをやめた。
夕方予定されていた手術は17時までずれ込んだ。
それまで僕は祈る以外に出来ることがなかったので、子どもの名前を考えた。
そして、待合室で祈った。
18時過ぎ。
待合室の他の患者の親族の人から、「◯◯さん、今赤ちゃん通りましたよ!」と言われて、慌てて廊下にでると、そこにはとても小さな赤ちゃんがケースに入っていた。
「赤ちゃんは小さな声だったけど、ちゃんと泣きましたよ」「これからちゃんと検査しますからね」「お母さんも元気です」と言われた。
僕はその場で泣いた。
暫くして、奥さんが運ばれてきた。帝王切開は半身麻酔らしく、意識はあったけどぐったりしていた。
先生から、胎盤が剥がれかかっていて、いつ全部剥がれていてもおかしくなかったこと、剥がれる前に出産できたからまずは安心だということを言われた。
まず、最初の検査では問題は無かったけど、これからもう少し詳しく調べますということ。赤ちゃんは産まれて3日間が一番大きく変化があること、その3日間で問題が発生する可能性があることを聞いた。
かなりの数の承諾書にサインをして、唯一肉親の僕だけがNICUへの入室を許可された。
時間はもう21時。
NICUは僕の想像していた赤ちゃんの部屋とはまるで違う世界だった。
暗く、無数のセンサーやランプが繰り返し点滅し、頻繁にアラート音がなるような場所だった。
僕のこどもも、大きなセンサーがつけられた保育器の中で寝ていた。
触って良いと言われ、アルコールで消毒したあと、僕は自分の子どもに初めて触れた。
どこを触っていいかわからず、足だけを触っていたら、子どもが小さな声で泣き出してしまった。
どうして良いかわからず、看護師さんに助けを求めたら「大丈夫ですよ」と言われ、安心した。
しばらく触れていたら、また涙が出てきた。
僕は何を不安に思っていたのだろうか。何も悩むことなんてなかった。
僕はこの子を守るために生きるんだと。どんなことがあっても守るんだと心の底から思った。
自分の想像していた父親像とかどうでも良かった。ただ、子どもを守るために頑張るだけだった。
帰りの電車。
大学病院からは数駅だけだったけれど、電車の中で僕はまた泣いた。
家に帰って、布団の中で僕はまた泣いた。
あれから2年。
息子はもうすぐ2歳になる。
産まれたときの体重が1,600gしかなかったのに、いまでは11kgくらいある。
もう抱っこするのもしんどいくらいだ。
息子がお昼寝のときに、突然起きて泣いてしまうのを見て僕も泣いてしまう。
2年前のこのことをふと思い出しては泣いてしまう。
僕は泣いてばかりだ。
でも、息子も奥さんも元気だから良かった。
ただ、それだけ。
もう生きるのに疲れた。
マジしんどい。
もう終わらせてください。生きるのを強要するのは勘弁してください。
いや、そりゃ、全く楽しいことがなかったわけじゃないよ。ただ、よかったことがあっても、でも、僕が生きるにはこの世界はきつすぎる。うまくこなせないことばかりだったは。
人とコミュニケーションは苦手だし、人より勉強も生活もなにもかもうまくこなせない、さらにはゲイってなによw
消え去りたいと思うけど自殺する勇気がなく、今まで死ぬことができませんでしたが。
もう終わりにすることができそうです。
頭つかって考えるのほんっっっっとうに嫌だったんだ。考えること自体が本当に面倒くさい。
生きるって行為が、生きている間は悩みが尽きないってのが生き地獄にしか思えなかった。
今までみなさん本当にお世話になりました。ありがとう。
こんな自分でも友人になってくれた方々、お世話になった仕事の方々、家族に対しては本当に感謝しています。
はーやっと終わりそうだわ。
予定日より2週間早くおしるしの出血があり、陣痛が始まり、夜中に入院。
医師が吸引を試みるも、やっぱり出てこない。
赤ちゃんの心拍が弱くなり「帝王切開に切り替えます」という医師の声。
スタッフが慌ただしく手術の準備をする中、看護師長から「あなたは十分頑張ったわ、あとはこちらに任せてね」と言われた。
夜中の入院から7時間以上経過しており、眠っていない私の意識は朦朧としていた。
麻酔科医からの質問にもうまく答えられず、付き添いの母が代わりに答えてサインしていたようだ。
とにかく、陣痛の痛みを何とかしてほしいのと、赤ちゃんを助けてほしいだけ。
しばらく待って麻酔の効き具合を確認され、感覚が残っている箇所があったけれど、赤ちゃんが危ないので切開することに。
メスを入れられたのは分かった。
下に降りていた赤ちゃんをグイッと取り出すのも分かった。
私は後処理と縫合。
少し痛みを感じて、麻酔を追加で吸入した。
麻酔科医がずーっと話しかけて、眠くて仕方なかったので「眠っていいですか?」と聞いたら「ダメです」と言われた。
手術が終わり、医師から「あなたは今後も普通分娩では産めないから、次は2年ぐらい空けるように」と言われた。
児頭骨盤不適合とのこと。
やっと病室に戻れたものの、しばらくは麻酔のチューブが付いたまま、体を起こすこともできない。
医師が新生児室で赤ちゃんの写真撮って持って来てくれたので、それをずっと眺めていた。
「おまえ、頑張りが足りなかったね」
第一声にわが耳を疑った。
この人の子どもは二度と産まないと心に誓った。
私のいた病院では、帝王切開だと点滴が外れるまでの間、赤ちゃんは新生児室で過ごし、母乳の時間だけ看護師さんが連れて来るというスタイルだった。
「この部屋にはどうして赤ちゃんがいないの?」
「ふーん、部屋に赤ちゃんがいないから産んだ気がしないでしょう?」と私を向いて言った。