はてなキーワード: マグカップとは
習作スケッチ
条件:
16時19分から17時19分までの1時間以内に書きあげる超短編
女子がスタバでカフェラテを頼む確率は70%を超えてると思う。
けど、いまぼくの目の前でカフェラテを飲んでいるのが女子かといわれると70%の確率で男子だ。
「ウィッグ、めずらしい?」
こともなげに、っていう単語、こういうときに使うんだな、とか思った。
「似合ってると思います」
そう言うと、くくるはけらけら笑った。
「だっよねーほんと、だと思ってたー」
くくるはおなじ調子で、蛍光グリーンと蛍光ピンクの爪を自慢した。
「これジェルネイルっていって、両手で2万円くらいしてさ。2万円だよ?かわいいけど、かわいい税のっけすぎじゃない?経済なんとか大臣も考えてくれないかな」
黒いメガネに黒いカーディガンに白いブラウス、葬式帰りみたいなカッコのぼく。
きれいなパールグレーのブラウスに、ゴージャスな毛皮のマフラーのくくる。
嫌でもくくるが目立つ組み合わせだった。
なんかのコンテストならぼくが引き立て役になって、くくるが優勝まちがいなし。
思わずまわりが気になってちらちら目だけ動かしたけど、だれもくくるを見てない。
ぼくだけがキョドったフクロウみたいで、なんかかえって死にたくなった。
新宿ルミネに着てる女子たちにとって、くくるの登場なんてたいした事件じゃないのかな。
それとも、見て見ぬふりをしてるだけなのか。
ほんとに気にしていないのか、見なかったことにしてるのか、おしゃべりしてる女子たちの顔からは分からない。
くくるのくすくす笑いが聞こえてきて、さっと意識がもどってきた。
「えっなに?すいません、なにか言いました?」
くくるは笑いながらカツラをかぶりなおし、マグカップを片手に言った。
「飲んだらちょっと歩こ」
「え、まだどっか行くの?」
「だってぼく中2だよ、おカネ持ってないし」
「わたし21歳で、何もしてない。正確には女子しかやってない」
くくるはそう言って歯をいーっとすると、マグカップをかつーんと置き、旅行かばんみたいに大きなショルダーバッグをかついで、くいくいっと手まねきした。
そう言って、くくるはエスカレーターに飛びのった。
青いミニスカートから、うそみたいに細い足がしゅっと流れていた。
もう秋で、しかも雨なのに、くくるを見ていると、なぜかいまがまだそういう季節だったような、タイムスリップした感じがする。
なぜか急にいけないことをしてるような気がして、どきどきしてきた。
ただネットで知りあった人とスタバで会ってただけなのに、ほんとは絶対に親や学校に内緒にしたらいけないことを、こっそりやってしまったみたいな気がした。
「くくるさん」
ちょっと大きな声を出すと、くくるはエスカレーターからこっちを見上げた。
何も言えないままくくるのそばに歩いていくと、くくるはぼくの手を握った。
からだが思わずきゅっとする。手をふりはらえずにいると、くくるは手に手をのせた。
「つっめたいでしょ、わたしの手」
たしかに手は冷たかった。けど、それよりも手のひらが大きいこと、それと、くくるの目がきらきらLEDみたいに光ってることにびっくりした。
「冷たいですね」
小さい声で返事しながら、くくると一緒にいる自分がふしぎに思った。
くくるは――この人は、ふだんからこういうことをしているんだろうな、と思った。
もし誰かがくくるに恋をすることがあったら、その誰かは、この大きな手に何を期待するんだろう。
ぼくの手を握っている手で、どこに連れていかれてしまうんだろう。
ぼくはぱっとくくるの手を払った。
くくるは一瞬アニメっぽく目を丸くしたあと、けらけら笑って、ショルダーバッグをかつぎなおした。
「ごめん、もうやんない」
くくるはそう言い、ぼくは何も答えられない。
エスカレーターの手すりをぎゅっとつかんだまま、くくるの方を見ないよう、自分の安っぽいパンプスを見つめつづけた。
16:58 終了
反省点:
→はじめにコンセプトだけではなく、ざっくりとストーリーを決める
・人物が2人しか登場しない
→家族、友だち、同僚、犬、恐竜、神、霊、火星人、何でもいいから関わらせる
・ストーリーの背後が見えない
→出会いのきっかけとか、なぜそこにいるのかとか分かるようにする
・ワンシーンのキュートさが活かされていない
・結局なんなの、男の娘なの?
もちろん、仰るとおりなんですよ…。
「スマホでサンプル用として出る画面を撮影する=設備にかかる費用・運用費にタダ乗りする行為=万引き」ってのは分かる。
スマホの普及(とカメラ撮影のしやすさ)と、SNSに日常の写真をアップするのが当然という感覚の中で
「写真を撮る」ってことの、敷居がどんどん下がってる気がするんだよね。
メモ感覚っつーか、なんつーか。自分のことを考えても、何かに使うという訳でもなく料理の写真は一通り押さえてたりするし。
それに伴って「写真を撮ってもいいですよ」という場所も増えてるし。
「撮影禁止」という設定自体が、無理がある時代になってきたのかなと思う。
1. アトラクションの後に写真ブースを設け、全ての写真を展示する
1. 写真が欲しい人は、アトラクション開始前に +100円を払えば、JPEGをメール等を使いデジタルデータで貰える。
2. 気に入れば、印刷物 / マグカップなどを追加で購入する。
(アトラクション後に、写真が欲しくなった人は、スタッフにサンプルを見せて貰って購入)
そもそも、現状のビジネスモデルを諦めて
アトラクション中の写真データが貰えることを、遊園地自体の差別化として使うとか。
先月くらいにこんな記事がsnsでかなり拡散されてて、思ったことがいくつかあったので誰も読まないと思うけど。
http://irorio.jp/sousuke/20130509/57662/
SNSで食べ物に関する内容ばかりアップしている人は心理的な問題を抱えている可能性あり
もしかしたら自分のことなのかなっていう心当たりしかなかったので書いてみます。
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私は23歳で、高校生の頃に不登校になったりしたけど結果的に大学を卒業して
今は普通に働いてる。
幼い頃から、父親の返ってくる時間がかなり遅く、母もストレスが多い職場に勤務していたために、
食事の場所は母親のストレスのはけ口になっていたこと、ご飯を食べながらテレビを見て、
あまり会話することもなくて、小学校の頃からご飯時間が嫌いだった
家族とご飯を食べる時間が揃わず、冷えたご飯を電子レンジで温めて誰とも会話をすることもなく
ごはんを食べる生活をして「孤食」っていうと、まさにこの事みたい。
学校で弁当を食べるときも、1人で食べて、誰かと一緒に食べた思い出も辛い記憶しかない。
家でも学校でも外食しても、次第に自分の中からはおいしいっていう感覚はなくなって、
ご飯なんて流動食的に、短時間で安くお腹と適当に栄養だけとれればいいんじゃないかと感じた。
ご飯を作ることは美味しく作るということは、考えたこともあったかもしれないけど
適当に作れば食べれるし何も苦労しなくなり
マグカップが8つとか集まったり、体重が2ヶ月で10キロ増えたり、
その後ご飯を全然食べられなくなって、1ヶ月で15キロ減った。
学校に行ったら先生が「だだだだだ大丈夫?」って声をかけられた。
薬の副作用でもあったみたいだけど、
過食と拒食の摂食障害があるくらい普通でした。(今はだいぶ治ってきてます)
そして、
「何を食べても、美味しいと思わない」
ずっと、おいしいって言ってるのが偽りだったり、お世辞だったり、みんなそう言っているから
と合わせてたことの方が多かった。
ご飯を食べられない人がたくさんいるということももちろん知っているけど、
私は何を食べても美味しいって思わないし、
人並みの生活もできていた。
って言われた。
おいしいっていう喜びを感じてるのかもしれないし、
誰かと一緒に食べることで、話す能力が上がったりするのかもしれないし、
お互いをわかってあげたりするのかもしれない。
きっと世の中は、私みたいな人が少数で
ほとんどの人は美味しいと感じているのかもしれない。
でも、その女の子はすごいご飯を食べてる時、
笑っていたし幸せそうだった。
世界には松茸とか、フォアグラとか色々高い食べ物があるみたいだけど、
きっと、世の中にこういう人が溢れてくるのかもしれない。
でも、こんな風になる人を1人でも減らせたらいいのにと思う。
プログラマーだけどここ1ヶ月くらいオートミール(ときどきフルーツグラノーラ)ばっかりメインで食ってる。
昼:オートミールをそのままマグカップ一杯分くらいもさもさ食う。レンチンとかお湯入れたりもしない。
夜:オートミール+コンソメorめんつゆorみそorカレールウ+卵(あれば)でレンチンしたものを食う。あとは納豆(あれば)、ヨーグルト(あれば)。たまにオートミールに飽きたらフルーツグラノーラ。
惣菜をよく食べたり松屋に通い詰めていたときには3日か1週間以内に必ず悩まされていた口内炎もできない。
飲み物は基本水かお湯。たまにコーヒーとかはちみつをお湯にとかしたやつを飲む。
体調はめちゃくちゃいいという感じはしないけど、悪い感じもしない。
食べることがめんどくさいからこれでしばらくいってみるつもり。
GIRLS und PANZER/ガールズ&パンツァー(ガルパン)同人
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/doujin/1362582150/
よりコピペ
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649 名前:カタログ片手に名無しさん[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 20:16:31.24 ID:???
うちは薄い本出す予定だったが無理
74 名前:ガルパン[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 22:36:51.08 ID:NrCjtkIw0
これマジ?
うち超エロなんだけど、辞退すべき?
75 名前:ガルパン[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 22:42:52.72 ID:1ymrIKd60
まー出されても文句言えないねえ
77 名前:ガルパン[] 投稿日:2013/04/08(月) 22:46:47.88 ID:F08g83ZP0
通ったらサークルカット差し替えを拝み倒して、一般本出しなよ。
78 名前:ガルパン[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 22:51:18.25 ID:lvNXXrTg0
どういう警告だったのか内容次第じゃね?
エロで怒られたのか
グッズで起こられたのか
オンリー開催で「やっぱりオタは怖い」的に気まずくしないことだけ祈ってるわ
80 名前:ガルパン[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 01:03:42.91 ID:pdkZJvXb0
出すものの内容以前に同人誌、同人グッズは常にグレーな存在なんだから版元からの警告は常に覚悟しとかないと
81 名前:ガルパン[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 01:10:50.73 ID:RkNYd2Py0
校章マークそのまま使ってなんか
作ってるようなトコとかじゃね?警告
なんか大洗マークそのままレベルのマグカップみたぞ…ストパン時もああいうマークとか使ってたワッペン揉めたろ
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正直情報が少なすぎてなんとも
スレ保存しとくの忘れたんでアレなんだけど
そっちでは「ガルパンキャラの抱き枕カバー作ってた同人サークルが
どうなんですかね~
あんまりおおっぴらにやらずにコソコソ作戦が大勝利なんじゃないですかね
はてな民はたぶんみんな料理の腕が上がったんだと思う2012年。
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
七月くらいに振られた大学の友人に、十一月の終わり、二四日の夕食と、二五日の昼、一緒にどうかと誘いのメール。
私は都内在住で、彼は都心から特急列車を使って片道四時間以上かかるところに住んでいるのに、「用があって東京へ行くのでもしよければ」と添えられていた。
用というのは、私に会うための口実だな、フンフン、かわいいじゃないのさ。
と舞い上がって天狗になって、二つ返事で了承。
その後はダイエットしたり、髪を染めたり、服を買ったりした。ダイエットは成功、服もなかなかいいものが買えた。
そしていよいよ二四日の晩。待ち合わせの前に、プレゼントを買った。他愛のない話をぽつぽつした。彼がB'○のファンだということを知る。
私「へえ、B'○の」
彼「そうそう。イ○バさんかっこよかったなあ」
私「…あっ、もしかして、『用』って」
彼「うん、B'○のライブ。親と一緒に来てるんだ」
私「あっ、あー。そうか。いいよね、いいと思うよ、B'○。うん。…あっ、プレゼント買ったんだけど…」
彼「俺も買ってきたよ、はい」
開けると、マグカップとボールペン。たぶん、千円できっちり収めるつもりだったんだろう。そうか、そうかあ。
終電ぎりぎりの電車で、彼とは電車内での別れだった。三度手を振ってくれた。その後は満員電車でひとり、そうか、そうか、とまだ繰り返していた。駅から家まで歩くときも、それを繰り返して、半ベソで帰った。翌日、クリスマスの日も、待ち合わせの約束をしてしまった。明日も会うのだ。ぼーっとしながらシャワーを浴びて、考え事をしていたら、三時を回ってしまった。また少しべそをかき、それから寝付いた。
クリスマスの都心は、カップルだらけだった。みんな恋人つなぎで、指を絡めあっている。私は彼と、手を繋げなかった。午後まで買い物をしたり、食事をしたりして、なんとなく、どういう会話をするでもなく、そのまま、別れる駅のホームまで来た。
彼が、右手を目の高さくらいまで挙げた。別れの合図だったんだろうが、私は何を思ったか、ハイタッチした。同時に、「ういー」とスポーツ部のような掛け声。その後、彼が「じゃあね」と言ったか「またね」と言ったか、は覚えていない。けど、私は確実に「バイバイ」と言った。彼は、二度振り返った。私は、ニ度手を振った。
彼が人ごみに消えてゆくのを見ながら、結局告白のこと、私が彼に一年以上片思いをしていたことについては一切触れなかったし、クリスマスに誘ったのはB'○のついでじゃないよ、ということも口にしなかったし、なんだったんだろう、という思いが残った。
私の自尊心はズタズタに蹂躙されたし、それで勝手に傷ついて、放心状態でバイトに向かう自分も腹立たしかった。期待なんかしなけりゃよかった。彼の無神経さと図太さと行き過ぎた天然、精神年齢の低さを認識しておくべきだった。そもそも、割り切れていないのに、二つ返事で了承するんじゃなかった。
ニ度振られた気がした。
最低のクリスマスだ。サンタは来なかった。性の六時間もなかった。虚脱感しかない。どっちが悪かった、というのはもうどうでもよくて、ただ、自分に腹が立っているし、とりあえず、彼氏が欲しい。