はてなキーワード: ボリュームとは
ベーシック・インカム論争で思ったことを忘れる前に書いとく。
ベーシック・インカムっていう発想は、田舎もんの私からすると、とても都会的な発想に見えた。なんでかというと、田舎には「天の恵み」というベーシック・インカムがあるのだが、最近盛り上がった議論の中では、それについては触れられていないようだったから。
田畑で働くのはもちろん「労働」だが、田舎には労働しなくても手に入れられる食べ物は色々ある。庭先に柿の木を1本植えておけば、何も世話をしなくたって秋になれば柿が食べられる。いろいろ食べたいなら色々植えておけば良い。スーパーに行くより簡単に、色々な食料を調達できるようにする工夫は、田舎には色々ある。
もうちょっとボリュームのある所で、例えば稲作の場合、田植えと収穫は重労働だが、それ以外の数カ月間の世話というのは、手を抜こうと思えばかなり手を抜くことが出来る。もちろん手を抜いた分、収穫は減ることにはなるだろうが、ゼロになることは稀だ。この「手を抜けるだけ抜いて、それでもなお得られる収穫」というのが、農家にとってのベーシック・インカムみたいなもんである。 実際、高齢者がやっている農地というのは、しばしば入院なんかで放置状態になってしまうことがあるのだが(!)、それでも時期がくればちゃんと農作物は実をつけるのだよね。偉いもんだ。売り物にはならないけどね。
つまり農家にとっては、十分に広大な農地と水源があれば、食料というベーシックインカムが保証されているも同然なのである。そのために、長い時間をかけて農地や水源の整備を行ってきた、というのが、田舎の歴史そのものだと言っても良い。
で、これが近代日本でどのように崩壊していったかというと、決定的だったのは人口増加の問題だ。急激な人口増加により、深刻な農地不足が起きた。戦前・戦後すぐのころは10人ぐらい兄弟がいる家も珍しくなかったわけだが、そういう家庭では親の農地を10等分したって、大人1人が食っていくことはできない。長男だけが田畑を受け継いで、残りの兄弟はどっかへ行かなくてはならないのだ。それで、南米の方に移民して農業をやるとかいう話が政策として行われた時代もあったし、あるいは、農業をやるための農地が持てないので、やむをえず上京し、工業製品を作って輸出して外貨を稼いでなんとかする、という流れが出来たわけだね。
つまり、現在都心部で生活している人達というのは、元を辿れば十分な農地を持てないために、都心部に出て仕事を探さざるを得なかった人たちが多かったということ。「天の恵みというベーシックインカム」を諦めざるをえない人たちだったのだ。だから、「田舎には天の恵みと言うベーシックインカムがあるよ!」なんて話をしたって、都心部の人には意味がない。東京の天の恵みなんて、日向ぼっこするぐらいしか役に立たないもんね。だから、都会は都会なりの方法で何らかのベーシックインカムを実現したいという心情はわかる。
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「食料は十分にあるのに、分配の仕方がわるい。だからベーシック・インカムで改善」という話では、重大な問題を1つ見落としているようだ。「食料が十分にある」という前提は、一部の人達が頑張って労働するからこそ、実現出来ている。「十分な食料」は農家の労働だけによるのではなくて、肥料だったり農薬だったり農耕機械だったり、かなり色々な産業の労働の結果として実現できているわけだ。
この人達が「ベーシック・インカムをお金で貰えるから、労働を減らしても良いよね?」なんて言い出したら、「労働を減らす=食料生産を減らす」だから、「食料は十分にある」という前提は、たちまち崩れるじゃないか。それで食料供給が減って相場が高騰したら、都市部の人たちはすぐに、もっとベーシックインカムを増やせ、なんていう話になるに違いない。農産物の相場の変動がどれぐらい恐ろしいもんかってことを、知らない都会人が多すぎる。
「食料は十分にある」という前提を崩さないためには、食料生産に携わる人達は制度としてのベーシック・インカムが実現しても否応なく、従来どおりの労働を、なかば強制的に続けて、都市部に食料を供給し続けなくてはならない。食料生産を請け負っているのは田舎だから、そういう人達の立場というものが見えていない議論だと言う点で、やっぱり制度としてのベーシック・インカムは都会の人達の発想だよなぁ。
そういう訳で、制度としてのベーシック・インカムの話は、全自動農業が実現・普及して、それで都市部の人の食料までまかなえるような時代になってからにした方が良いと思います。。何でも金で解決すると思ったら大間違いだぞ。
一気に秋めいてきたので、
衣替えも兼ねて服の整理をしました。
など、4着を手放すことにしたので
その断捨離記録です。
これはもともと、昨年娘を妊娠して
夏の間ラクに着れる服を…と思って
今夏は授乳があるので着ませんでしたが
“来年着るかな?”と考えたところ、
これは今年の春に購入したのですが
汗をかくと、胸元が痒くなってしまい
肌に合わなかったんですよね。
良いかと思って買ったのですが…
結局夏に着ることはできませんでした。
涼しくなってから着ようと思っていた
のですが、着られる時期が短いし、
・紺のロングスカート
昨年の秋に購入したもの。
ボリュームがあって丈も長くて
とっても可愛かったのですが…
冬にボリュームのある服は苦手だなと
感じたので、手放すことにしました。
これは、“1枚あると便利”と思って
ずっと手放せなかったのですが、
そもそも私には似合わない形なので
無いなら無いで、なんとかなりそうです。
断捨離のチャンス。
衣替えで服を全部出した時が
断捨離のチャンスですよね。
“もう着ないな”と感じるものは
潔く手放し、クローゼットの
中心はアラフィフ(45~55歳)なら、「いわゆる」団塊ジュニア(1970年代前半生まれ)とかぶっちゃうじゃないですか~
まあでも、この年代よりずっと歳上の百田や高須、逆にずっと歳下のKAZUYAなどもいるから、確かに「1970年前後生まれ=ネトウヨ」とは限らない
ただまあ、2ちゃんねる発のネトウヨブームてだいたい2002年ごろで、その頃の2ちゃんねらーの中核て1970年代生まれなんだよね
おかげでどうしてもネトウヨの最大ボリューム層=「いわゆる」団塊ジュニアというイメージが……(俺もそれは否定したいんだけど)
色々おちつけ、どこで何を見て何を思い込んでるのかさっぱり分からないのだが、ちょっと前の弁護士懲戒請求事件で行動してたネトウヨは一番年齢が低くてアラフォー、中心はアラフィフで70overもいたとかじゃなかったか。
人口ボリューム層=ネトウヨなわけじゃなく人口が多いから観測するとネトウヨになってる他世代と比較して頭数が多く見えるだけという可能性は。
「この世界の片隅に」のドラマ版が今週日曜最終回を迎えた。自分にとっては呉旅行に行く前日に見てドハマリし道すがら原作コミックも買い、舞台となった街を散策できた思い出深い作品だった。
映画版では尺の都合から削除せざるを得なかったリンさんとの物語もしっかり描かれ、さらに原作であまり描写されなかった近所の人々にもしっかり焦点が当てられ、よりボリュームのある物語に仕上がっていたと思う
各話も緩急を付けて見どころを設けすずさんと周作さん、二人の関係性も深く描くことに成功していた
アイスクリームのシーンは二人の仲睦まじさが伝わり絆が深まる姿を丁寧に描いていて「砂糖の配給が停止になって、闇市で配給の50倍の金額で取引されてる時期にアイス食うのはいくらなんでも不自然すぎる」という違和感もまぁ気にならないレベルに収まっていたと思う
いままで現代編については否定的な意見もあったが、最終的には今現在そこにいるすずさんを描く形に集約し映画とは違った余韻のある良い最終回を迎えたと思う
途中どうしても見ることができなかった回はあったが
概ねドラマとして大成功の部類だろう。ネットでの評判も上々でツイッタで感想を検索しても「泣いた!」「感動して目が腫れ上がった」「ラストにはほっこりした」と大絶賛だ
実に素晴らしい作品になったと思う
…これが「この世界の片隅に」でなければ
実のところ第一話が始まってから猛烈な違和感を感じてこれは本当に「この世界の片隅に」なのか疑うくらいだった
最初の違和感は兄洋一の出兵が決まったシーンでの家族のやり取りで母親であるキセノが涙を流したことだった、ここで泣くのは「この世界の片隅に」としては違和感があった
それ以降でも北條家へ嫁ぐことが決まった前日に不安を母親に漏らし泣き始めるすず
2話以降でも、広島産業奨励会館前で周作が子供の頃ばけもんに誘拐されたとき一緒にいた少年だったことに気がついてすずは涙を流し
それ以降も母親との別れを告げるすずの甥に当たる久夫が帰り道涙を流し、洋一の戦死の報を受けて石一つしか入ってない骨壷を抱きかかえて母親が号泣し
毎話毎話何かにつけて涙を流していた
自分にはこれが猛烈に違和感に移り最終話前の話まで見るのを止めてしまった
原作で涙を流したシーンはギャグとしてオチに使った空襲で義父円太郎がすずさんと晴美さんを庇ってそのまま寝てしまった回を除けば
晴美さんが亡くなった時限爆弾の回と終戦のときだけでそれは意図的にそうしているのだ
戦中においては、自分たちが正しいことをやってるからこそ理不尽な暴力には屈しないって共通した考えがあったからこそ人前で泣くことはせず(時代的に人前で泣くと反戦を疑われてしまうって事情もあった)
その日常を支えていた信念が飛び去ってしまい、自分たちの耐えてきた日々が誰かを犠牲にした上に成り立っていたことに気がついてしまったからそこで涙を流し
戦後は居なくなっていった人たち会えない人のために自分が笑顔の入れ物になりたい、なによりも泣いたら勿体無いという気持ちから泣くことを止めるのだ
それは作中物交で漁村に向かう帰りの道すがら刈谷さんと話す中で
「生きとろうが死んどろうが もう会えん人が居って ものがあって うちしか持っとらんそれの記憶がある
「晴美さんとは一緒に笑った記憶しかない じゃけえ笑うたびに思い出します」
という会話でも明らかで
辛い時代の中戦中耐えてきた理由、それが飛び去った後また泣くのを止めた理由
そこは物語を描く上でいちばん重要なポイントで原作を読んだ人や映画を見た人なら違えることはない
翻ってドラマ版だ
ドラマは泣く、事あるごとに泣く、誰もが皆辛い時には涙を流す
ドラマで泣いて泣いて泣く理由が一般視聴者向けにわかりやすい表現にしたから、とか実写にするにあたって原作や映画の通りだと不自然に見えるからという改変なら良かった
脚本担当が原作をあまり理解していなくて、分かりやすいドラマに組み直した結果だったのなら許せたかもしれない
脚本家は原作の内容を理解してそのテーマもわかった上でそれに対してダメ出しして改変したのだ
「泣いてええよ、我慢せんでええ、ここはあんたの家なんじゃけえ、我慢したらおかしくなるよ」
ここで理解った
脚本家はテーマを違えてたわけでも、分かりやすい安易な改変をしたわけでもない
テーマについて理解したうえでそのテーマに、「この世界の片隅に」が「この世界の片隅に」である根幹にノーを叩きつけてるのだ
はっきり言えば脚本家は「この世界の片隅に」が嫌いだったのでは無いかとさえ思う、少なくとも作品の重要なファクターの一つについて否定的だったのは間違いないだろう
結果的に見ればドラマは大成功の部類で多くの人の心に残る名作となった
でもこれは「この世界の片隅に」ではないし、「この世界の片隅に」を否定する物語だ
もちろんそれが必ずしも悪いわけではないし原作が好きな人にもドラマ版に満足してる人もいるだろう
ひょっとしたら原作が嫌いだったからドラマ版の改変でようやく自分の求めてるものが出てきたって人もいる
少なくとも真逆のことをやって多くの人の心をうった名作を作った脚本家の実力は極めて高い
そんな自分の数少ない楽しみが、同僚(異性/既婚)とのコメダ喫茶だ。
お互い全く恋愛感情などはなく、仕事や趣味の話をだらだらして笑いあっている。
先日も仕事が終わってからコメダで喫茶してたのだが、隣の席にサラリーマンと思しき3人組がいた。
いつも通ってるコメダ喫煙席はかなり席間が近く(1mちょっと?)話が丸聞こえである。
そのリーマン達は株か何かの話をしているようで、しきりに「中国はハード面で云々、ソフト面では云々」「韓国はソフト面が云々」というようなことを言っていた。
ソフト面という言葉がツボってきた私は、当然会話が聞こえているであろう同僚に
ソフト麺
メールを確認した同僚は何を思ったか、隣どころか喫煙席全体に聞こえるほどのボリュームで
「そふとめん」
と読み上げた。
その瞬間、隣の3人はピタッと会話をやめ、おそらく「!?」という顔でこちらを見ていたと思う。(私は知らん顔してスマホを見てるふりをした)
しばらくして3人はまた会話を始め、同僚からは「声に出してしまった」と返信が来た。
この出来事が面白くてしょうがなかったので初めて増田に書いて見たのだが、書いた途端何が面白いのかわからなくなってしまった。
読んでくれた人申し訳ない。
「可愛い眼鏡ッ娘が眼鏡非装着時に微妙になる原因」について述べる前に、
まずは眼鏡ッ娘には数種類あるということを先に言及しておきたい。
④眼鏡をかけててもかけてなくても可愛くない人
⑤ダテ眼鏡(論外)
まず①については、ただの選ばれし者、ただの可愛い人なので何も言えることはない。
よく漫画などでは③のケースが王道として存在しているが、実際のところ都市伝説なのでは?と個人的には思っている。ガチのマジで見たことない。
ホントの私、デビュー!のCMだって絶対に眼鏡装着時のほうが可愛いし。
だが、これについては僕のフェティシズムが大いに関係しているので、主観が入っているとは思う。
眼鏡をかけている人で、一番多いのは④の人だろう。それが普通だ。
ちなみに、近眼でもないのに、ブルーライトや紫外線をカットするのでもないのに、度の入っていない眼鏡をかける人には怒りを覚える(⑤)。
足が悪くない人があえて車椅子に乗っているような感じに思えてしまう。
それはさておき、ここで焦点を当てたいのは②の眼鏡ッ娘だ。
非装着時には実にパッとしない顔なのに、眼鏡が異様なほど似合い、装着すると途端に堰を切って魅力があふれ出す稀有なタイプだ。
ちなみに、同志ならわかってくれると思うのだが、真の眼鏡ッ娘フェチになってくると、非装着時に微妙な顔であること自体も興奮材料となる。
前置きが長くなってしまった。
僕は二次元でも三次元でも可愛い眼鏡ッ娘が大好きなので、今までたくさんの眼鏡ッ娘をじっくりと観察してきている。
(個人的な見解に過ぎないが)その経験から導かれた、②眼鏡をかけていると可愛いが、はずすとあまり可愛くない人 の共通点は
(a)面長で下膨れ
(b)顔のパーツ1つ1つの主張があまりない(いわゆる薄い顔)。そして配置バランスがあまりよくない
まず(a)については、眼鏡をかけると、眼鏡フレームで顔が横方向に分断され、
おかげで顔の下半分の長さとボリュームがごまかせているのではないかと考えている。
そして(b)については、僕自身が濃い顔の可愛い眼鏡ッ娘を見たことがないのと、
パーツのバランスが眼鏡ありきで成立するという逆に奇跡的な現象が起こっている可能性から挙げた。
それから、近眼の人はだいたいあてはまると思うが、裸眼では目つきが悪い(睨んでいるように見られる)人がかなり多いと思う。
これも、裸眼の眼鏡ッ娘を微妙なものにしている大きな原因だろう。
残念なのが、少女漫画やアキュビューのCMや世の中の風潮に踊らされ、
せっかく眼鏡をかけてこそ可愛いタイプなのにそれをきちんと自覚せずコンタクトにしてしまう女の子だ。
その過程を目の当たりにしたとき、僕は心の中で豊田真由子のあの台詞を叫ばずにはいられない。
あなたの周り可愛い眼鏡ッ娘が居たとして、その子が上記(a)(b)に当てはまっていたら
「ちょっと眼鏡はずしてみてよ~」などと言ってはいけないので十分注意してください。
私はフルメタはアニメ1期の時に惚れて、それまでラノベは一切読まなかったにも関わらず原作にハマったタイプの人間です。
ふもっふ(アニメ2期)やTSR(アニメ3期)も楽しく拝見していたが、その後アニメの音沙汰がなくアニメ新作に期待しながら余生を過ごしていました。
そんな中、TSRが放送された2005年の10年後、の2015年に新作アニメが発表され胸を踊らせていました。
翌年には製作スタッフが発表され、京アニじゃないのかーというのが率直な感想。まあ、近年の京アニの傾向と違うのかなーと。
それでも名の知れたスタッフによる気合の入った制作陣の発表に期待していました。
有名原作が故にクオリティのハードルが高くて、さらなるクオリティの向上を目的として延期したのかなーと、プラスに考えていました。
そして半年後、2018年の春についに待ちに待ったアニメ放映!
おなじみの声優陣。
それまでのフルメタは日常と非日常が交差した話だったけど、フルメタIVからの話はその日常が破壊され、絶望の中で足掻いて希望を求めていく話。
原作を読んでいた時は「えー!」とか「このあとどうなるんだろう!」というドキドキした気持ちだったことを思い出しました。
アニメの序盤はそれまでの期待もあり、とても楽しみながら拝見していました。
そして突然の別れ。
よくある展開ではあるが、リアルな描写と演出により胸が熱くなります。
更に追い打ちをかけるのが、宗介の所属している軍隊ミスリルが襲撃されて解体。
隊員が散れ散れになるという絶望的な展開。
そして、突然の総集編。
一度放映延期したにも関わらず総集編?
よくわからなかったです。
プラスに考えると、それまでの展開が複雑で説明が必要だと考えたのかな・・・という気持ちもなくはない。
その次の話は個人的にすごく好きな話。
それまでは超ハイスペックな最新鋭AS、アーバレストに乗って強敵と戦っていた宗介だが、
ASは精巧な3DCGによって描かれているので、きれいでかっこいいけど渋い感じはない。
このときの舞台はハードボイルドな世界観なので、うーん・・・といった感じでした。
そしてちょっと期待はずれだったのがこの後の展開、闇バトル。
大好きだったので期待が大きすぎたのかもしれないです。
強敵を倒しながらゴールを目指していく展開。
宗介の操縦テクニックはかなりのものだけど、次世代のASとの戦闘では一筋縄ではいかない。
ASはマッスルパッケージと呼ばれる、伸縮するワイヤー?を束ねた筋肉のようなもので体を動かしています。
敵ASの攻撃による被害や、想定を超えた無茶な操縦によりマッスルパッケージが一本、また一本と引きちぎれていく。
装甲も破壊されてボロボロになりながらもなんとか敵ASを殲滅することに成功するが、その時にはサベージのマッスルパッケージは完全に引きちぎれて動かなくなってしまう。
ともに戦った愛機が満身創痍になりながらも最後まで活躍する、いい話です。
アニメでは (個人的に重要だと思っていた) マッスルパッケージに関する描写はありません。
3DCGを使うと完全な状態の表現は得意だけど、徐々に破壊されていく、という表現をするのは難しかったんだと想います。
原作の賀東さんは無念だったんじゃないでしょうか。
1クールで2回も総集編をする作品は他にあったんでしょうか・・・。
その後は物語も佳境に。
と思ったらテレビ放映終了。
4クールくらいやると思ってたので衝撃。
呆気にとられました。
その後、製作が遅れたことで放映できなかった残りの2話を特番で放映したけど、
続きはまた今度。
うーん、最初の期待が大きかったからか尻すぼみで期待感が薄れていきました。
でもおもしろかったですよ!
発表時点では鳴り物入りで作られることになったという印象だったので、少し残念でした。
元々フルメタは円盤やグッズが売れない作品として有名だったので、資金調達ができなくなってこういう結果になったんですかねー。
人気があるだけじゃ商売は成り立たないんですね、勉強になりました。
引き続き、続きに期待します。
明るい話題を振りまいて~
ヘイヘイヘイ!
見なくちゃいけない感じに迫られてしまうんだけど、
どうなのかしらね?
とりあえず
私の街ではなんかツクツクボウシがまだ鳴いてないんだけど、
それを夏の黄昏にでも聞くと、
なんか夏終わって過ぎ去ってしまうような気がするわ。
私は夏が終わる前にやり遂げたいことがあるの!
1回ああやってスイカを贅沢に食べてみたいのよね!
1玉買っても良いんだけど
うちの冷蔵庫じゃ入りきれないのよ。
どんな小さい冷蔵庫かよ!って思うかも知れないけど
そう言えばさ、
子どもが中に入って遊んでて中に閉じ込められたって話をよく聞くんだけど、
本当に内側からじゃ開けられないのかしら?
構造的にどう考えても押したら開けられるものだと思うんだけど、
実際にはどうなのかしらね?
うふふ。
たぶんそう言うパンダと思うんだけど、
思いのほか1個でもなかなかのボリュームよ。
パッケージに書いてある用量の2倍を使ってみたんだけど、
まだ薄かったので、
また試すわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
クリアするだけでプラチなもらえるのじゃないと俺は一生プラチナとれないな
クリアするだけといってもそれが結構ハードル高くはあったけど、
難易度変えてもOKだったから、普通にプレイするよりかはだいぶゆるくプラチナとれたと思う
いやーダンジョンrpg部分も良かったしキャラとストーリーも最高だったわー
魔女と百騎兵もキャラとストーリーよかったけど、あっちはなんとなくボリューム不足というか物足りないところがあったからなー
今回はストーリーがっつりあるし、裏面でのおまけもかなりボリュームあるしで製作者がこれでもかとばかりにサービス精神満点で作った感ありありですごくよかった
最初ルカが男の子だとおもってたからおねしょたものだと思ってたら違った
エログロ最高ですわー
正直クリア後は悪くはなかったけどそこまでよくもなかったといえばそうなんだけど
今日の夕食は珍しくほっともっと(以下ほも弁)の弁当で済ませた。
自分でほも弁を買うのは久しぶりなので、ちょっと感想を残しとく。
やよい軒では野菜食べたいときに頼むメニューとしておれの中では有名な肉野菜炒め。
頼むと肉野菜炒めと米が別々の容器に入れられて出てくる。500円。
ボリュームは個人的に丁度いい感じ。缶ビールを合わせながら食べてもおかず切れまたは米切れは起こらない。
むしろ、店では行儀が悪くてできない「野菜炒め汁ぶっかけ飯」まで繰り出す事ができます。
肝心の味については、飯はべしゃべしゃで残念。野菜炒めは一味足りない印象。
飯については、買って帰宅するまでにドラックストアへ立ち寄ったのが悪かったかも。直帰して食べればまだひどくなかったのではないかと思う。
野菜炒めについては、豆板醬等の辛味噌を足すといいかもしれない(やよい軒並の感想)。
また買うかと言ったら正直微妙。家に辛みそあったら敷居が低くなるかな。
一応想定としてのvtuberのカジノでの利用パターンは2つだ。
1つは、カジノで間断なく開催されているだろうショーのキャストとしての参加。
インターネッツを「TV」このカジノでのショーを「ライブ」とするなら十分プレミアムはある。まあ、この席にはそのものHIKAKINだったり吉本興業だったりが奪い合いしてるから実際はそんなに席は空いてないかもしれない。
でも、ボリュームを求めるのならばそこそこ席はあるかもしれない。(ステージが一つとは限らんからな)
2つ目はコンパニオンとしての利用。
これは今まさにビックカメラだったりドスパラだったりの店舗に設置されてる奴に近いんだが、人的資源を必要とする「ぬいぐるみ」の代替として使う。カジノそのものの案内役としても利用する。正直これが一番可能性が高いと思われる。
吉本とかじゃこの席埋められないしな。
vtuberって人間の中身が必要じゃん? って話に関しては、まあ、その。AIスピーチ的なのでなんとかなるキャラを使おう。
いづれにしても、ジャパニーズサイバーパンク感を出すためにもカジノはデジタルサイネージで埋まってるデザインになってると思うんだよね。
そこでそのディスプレイを埋める役になるのがvtuberだっていうのはある程度納得がいくはず。一つのカジノ設備ごときがディズニー級のキャラクタを揃えられるわけねーからな。