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はてなキーワード: 古典芸能とは

2018-06-10

anond:20180610023546

そういった古典芸能庇護者がいなくなったから消えた・より優れた(時代に合ったもの)が現れたから消えただけでしょ。狂言も元々は大衆芸能だったけど歌舞伎に取って代わられ、その後庇護者だった武士階級がいなくなって衰退したわけで。今の映像文化だってやがて取って代わられるでしょうよ。

2018-03-20

anond:20180320155715

Twitterでは今でも争ってる奴いるじゃん

あいつらは古典芸能伝承活動でもやってんのかな

2018-01-31

anond:20180131102251

「女以上に男女平等を目指す男」ってのがそもそもほぼいないからなあ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/fujipon.hatenablog.com/entry/2018/01/30/171224

も、これが問題にならないのは古典芸能からではなく

童貞いじりを問題視する男ははてなの外では殆どいない」ってだけでは。

現代設定に置き換えて吉本芸人ライブでやってても普通に許されそうだし。

しろ女の方が不愉快になる人が多そうなネタだけど、元々落語なんて男性中心の世界だし

最後童貞若旦那の方が遊女モテて、遊び人男がふられる」と言う展開は女性受けしそうだから相殺されてるんだろう。

(勿論そもそもそれが嫌な人は最初から見に行かないだろ、ってのもあるが)

2018-01-05

でもさ、これって最後の行が

「またオッサンと一緒にパチンコに行く」

だったらここまで評価されたかって話だよ

古典芸能だか義太夫だか京都だか知らねえが

なんか違うんじゃねえの

俺はそういうことを言いたいね

https://anond.hatelabo.jp/20171129221230

2017-12-28

ワンセグでも受信料払えっておかしくありません?

使ったこともないワンセグで望んでいない機能なのに機種に勝手についてきておいて、受信料払えというのは矛盾に感じるのはおかしいのかな?と疑問に思う。

メーカー勝手に付けてきておいてお宅の携帯ワンセグ付いてるでしょ?受信料払ってよというのは、いささか乱暴じゃないのかなって感じます

そもそもそれを成立させるのなら、まず携帯会社ワンセグ付いているものNHK受信料がかかることを客に案内してねっていう事を

NHKから携帯キャリア会社に言うべきじゃないのかなと思うのです。

その上で契約の際にワンセグ使用するか使用しないか機能ロック携帯キャリアで出来るようにするのは筋じゃないのかなと。

それを行わないで、ワンセグから徴収しようぜっていうNHKのやり方は横暴極まりない行為じゃないかなと感じました。

東京地裁判決ではワンセグ持ってるなら払うのが当たり前っていう判決になりましたが、そもそも「設置」という考えであれば携帯は設置するものではないのではないでしょうか。

ここ最近NHKがらみの裁判を見ていると裁判官の気分でNHK側に勝訴を言い渡している感があります

たぶん、これは私がワンセグ受信料を支払えという考えに疑問を感じているからだと思いますが…。

我が家では家庭用TVがありますのでNHK受信料は支払っています。これは昔からの名残で払うものだと思っていたからです。

しかし、ワンセグという別に要らない機能を付けられている携帯を所持しただけで受信料の支払い義務を課せられるのは、おかしいと感じます

前述したように徴収するにしても、携帯キャリアから事前の説明必要ではないでしょうか?

機能が使える使えないというロックシステムがあるだけでも、このような問題は避けられると思うのですね。

使いたい人は使います。そういう人はロックをしなければいい話なのです。

選択の自由使用者に与えずして不要機能受信料徴収をするというのは、どうしても正しいように思えないのです。

ロックシステムに限らず、ワンセグに関してはスクランブル放送にするという事も出来ないことは無いと思います

そもそも家庭用TVでも散々話題に出ていましたが、NHKスクランブル放送にすれば良いのです。

それを頑なに行わず、このようにワンセグという機能が付いているだけで受信料徴収する姿は金に汚いだけの協会しか見えないです。

仮にNHK以外のchを視聴していたとしてもスクランブル放送にすれば、わざわざ引き起こすことのない諍いを引き起こさず、裁判らする必要もなくなるでしょう。

そのスクランブル放送に対してNHK公式HPで回答を出していますが…これにも疑問を感じます

NHKは、広く視聴者負担していただく受信料を財源とする公共放送として、特定利益視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割を担っています

望んでいる人向けで良い話です。

緊急災害時には大幅に番組編成を変更し、正確な情報を迅速に提供するほか、教育番組福祉番組古典芸能番組など、視聴率だけでは計ることの出来ない番組も数多く放送しています

災害時はどのchも迅速に情報提供していますNHKけが特別ではありませんね。

教育番組などは良いとは思いますが、それもまた教育chの契約スクランブルで行えばいい話です。

スクランブルをかけ、受信料を支払わない方に放送番組を視聴できないようにするという方法一見合理的に見えるが、NHKが担っている役割矛盾するため、公共放送としては問題があると考えます

NHKが担っている役割とはなんなんでしょうね。現在NHK受信料搾取に躍起になっているだけに見えます

その結果が、現在話題になっている受信料裁判などではないでしょうか。またNHKの集金人も問題を起こしていますよね。

契約強要、集金の横領訪問時に人様の家に立ち小便をする人もいますね。問題が有るのは日本放送協会内ではないでしょうか?

また、スクランブルを導入した場合、どうしても「よく見られる」番組に偏り、内容が画一化していく懸念があり、結果として、視聴者にとって、番組視聴の選択肢が狭まって、放送法がうたう「健全民主主義の発達」の上でも問題があると考えます

「よく見られる」番組に偏るのはNHK面白味のない放送を垂れ流しているせいではないでしょうか?

それはどのchにも言えることで、視聴者にとって面白く感じない、または実にならないような放送は当たり前の事ではないかなと思います

健全民主主義の発達」など、どの年齢層に訴えかけているのでしょうかね。よくわかりません。

これらを見ても、元々スクランブルにしないようなやり方で無理に金銭徴収を行うのは変じゃないかなと私は感じました。

今回のワンセグ記事を読んで思いましたが、事前に用意するべき説明などもないまま、少しずつワンセグ所持者に詰め寄って受信料を払えと強要する姿は不良がカツアゲするようなレベルです。

それを今回地裁が認めてしまうという事に対して、これらの裁判を務めた裁判官は袖の下を握らされてNHKを勝訴に誘導したのではないか邪推されても変じゃないかなとも感じています

支払っている側ですら、おかしいと感じるのにTVを持っていない人たちがワンセグという望んで組み込まれているとは言い難い(もちろんワンセグ機能を求めている人もいると思いますが)もの

支払いを義務とされるのは、可哀想と感じてしまうのです。

2017-11-29

ネカマをやっていた頃

俺はこれまでの人生半年だけ無職だった時期がある。ネカマをやっていたのはその頃のことだ。26才だった。小人閑居して不善をなす。まったくその通りだと思う。つまらない人間に暇を与えるとろくなことをしない。

きっかけは2ちゃんだった。当時、俺は2ちゃんに入り浸っていた。ある日、表現規制について議論になった。その時に誰かが俺に言った。

「だから女はダメなんだ」

面食らった。俺を女だと決めつける奴が現れたのだ。その時はネカマだったわけではない。向こうが勝手勘違いしたのだ。俺はなんとなく楽しくなり、そのまま女として振る舞った。すると誰もがそういう前提で話しかけてきた。議論のものよりそっちが楽しくなった。

それから俺はネカマに目覚めた。しばらくは2ちゃんが主戦場だったが、やがて色々な場所に書き込むようになった。ツイッターチャットルーム増田ネカマをやっていていちばん驚いたのは、なんと言っても食いつきの良さだ。ツイッターでの反応はたぶん男女で百倍ぐらい違うと思う。どんな下らないつぶやきにも一定の反応があった。男は基本的アグレッシブだ。この世に草食系なんて実在しない。

俺はこの「入れ食い状態」が楽しくてたまらなかった。それまでネカマなんて最低の変態野郎だと思っていたが、いざやってみたらこれだ。ネカマ麻薬みたいなものだと思った。俺はネカマをやることによって歪んだ承認欲求を満たし、さらに女を演じることにより、倒錯的な快楽にも目覚めてしまった。いちどこの沼に浸かると、なかなか抜け出せない。色んな男がいた。とにかく会いたがる奴、画像を送れとうるさい奴、下心が無いことをやたらとアピールしてくる奴、どぎつい下ネタを吐き捨てて消える奴。

気付くと俺は8人の女を操っていた。ゆき、さとみ、みわ、けいこ、まさみ、れいなあいめぐみ

その中のひとり、さとみについて。

彼女ツイッターの鍵アカだった。8人の中でいちばん素の俺に近かった。特にキャラを作るわけでもなく、俺の本当の生活趣味を、性別だけ偽って淡々とつぶやいていた。

それでも話しかけてくる男はけっこういた。大抵は他愛ないリアクションから始まるのだが、こっちがリプを返すと、相手は一瞬にしてテンションを変えた。自戒を込めて言うが、本当に男は単純だ。露骨エロ目的の男もいた。下着姿の画像を送れと言うので、ネットで拾った適当素人投稿画像を送る。すると今度は別のアングルが欲しいと言う。また適当に拾って送る。男は「体型が違う」と指摘してくる。やべえ、バレた、ブロック

不毛だ。こんな不毛行為が他にあるだろうか。しかも俺は無職だった。仕事を探せ。

そんな中、ある男とDMで話すようになった。彼は古典芸能マニアで、女流義太夫というかなりマイナーな分野に精通していた。実は俺も女流義太夫マニアなのだ大学の時にこの世界を知り、一気にのめりこんだ。知らない人にどう説明すればいいだろう。人形浄瑠璃人形が無いバージョンと言えば伝わるだろうか。義太夫三味線の二人だけで演じるのだ。

ある日、俺は上野義太夫を見に行き、あまりに感動してさとみのアカウントでその想いを興奮ぎみに連投した。彼はそれを見て話しかけてきたのだ。

「僕も女流義太夫ファンです」

さとみ(俺)と彼の交流が始まった。彼は京都に住んでいた。彼の古典芸能に関する知識は凄まじかった。さとみ(俺)は彼を師と仰いだ。それまで俺には義太夫を語り合える相手がいなかった。だから喜びもひとしおだった。彼とは古典芸能の話だけをした。それ以外のプライベートなことには全く触れず、ひたすら女流義太夫の素晴らしさについて語り合った。義太夫の声の唸り、絡みつく三味線の繊細な響き、そのアンサンブルの素晴らしさについてDMで何時間も語った。そんな日々が3ヶ月ほど続いた。だんだん俺は後悔するようになった。俺がさとみであることに。俺は彼を騙しているのだ。こんなに深く語り合える相手なのに。罪悪感に押し潰されそうだった。最初から男として知り合っていれば、こんなことにはならなかったのだ。一緒に観劇もできたかもしれない。終演後にビールを飲みながら語り合えたかもしれない。

俺は決意した。彼に本当のことを話そうと。それで関係が終わるならもう諦めるしかない。怒られたら誠心誠意あやまろう。俺は彼にDMを送った。実は男であると伝えた。悪気はなかったが、結果的に騙していたことはたしかで、その点については深く反省している。後悔もしている。もっと早く言うべきだった。そういう旨を伝えた。何度も何度も推敲して、どうにか気持ちが伝わるように書いた。たぶん無視されると思った。それも仕方ないだろうと覚悟していた。でも予想に反して、翌日に返信が来た。

安心して下さい。実は私は女です」

驚くべき展開だった。私もずっと罪悪感を抱えていました、いつか本当のことを言わなければと悩んでいました、だからあなたが男だと知った時は逆に嬉しかったです、これでオアイコですね!

どう返信したらよいかからなかった。あまりの衝撃に指が震えた。キーボードがうまく打てなかった。すぐに彼女から追加のメッセージが届いた。

「来週東京に遊びに行くので、お暇なら一緒に義太夫を見に行きませんか?ちょうど面白そうな演目を見つけました」

もちろん俺は暇だった。何せ無職だ。時間は腐るほど余っている。余りすぎてネカマになったほどだ。俺達は会うことになった。当日、現れたのは白髪混じりのオッサンだった。

「いやー、反撃してやろうかと思って。僕も女に化けてみたよ!」

オッサンはそう言って豪快に笑った。その笑顔はとびきり優しかった。恥ずかしい話、俺は落涙しかけた。

オッサン京都のけっこうでかい会社役員で、かなり立派な人だった。俺達は一緒に義太夫を見に行き、帰りにビールを飲んだ。オッサンは俺が無職であることを本気で心配してくれて、色々と親身になってくれた。ネカマの件は一笑に付してくれた。その日を境に俺はネカマをやめた。どうにか転職もできた。来月、今度は俺が京都に遊びに行く。またオッサンと一緒に義太夫を見に行く。

2017-05-27

pixivBL引用炎上の件:腐女子に別方向で頑張ってほしい

長くなったから要約

今回の件をうけて、腐女子の側は一方的被害者とか、弱者という立場を維持するのだけでなく、

自分たちの慣習を、腐女子コミュニティの外の人たちにもわかるような形で

運用可能なところまで頑張ってもっていってほしい。

 

また、腐女子だけでなく、コミュニティ独自ローカルルール抱えてるオタコミュニティの人々は

今回の件は、他山の石となるんじゃなかろうか

今回の事件の推移

めんどいから省略)

今回の事件に対する主要な4つの立場


私の立場

・まず、主張自体への支持について述べるなら、私自身の立場はこの中で選ぶのならBが近い。しかしBそのものではない。AとCについても一定妥当性のある主張だと思う。

・Dの主張にはいろいろ誤解がある。著作権の枠組みで主張をするのであれば「無許可転載」は確かに問題だが、著作権上、正当な「引用」は許可を求める必要はないし、求めるべきでもない。また親告罪云々という話も「転載」と「引用」の違いが把握できていないものと思われる。

なぜ炎上してるのかとか

炎上が続いている仕組みは次のようなものだ。

 著作権法基準(A)の人が、ローカルな慣習(C)のありようを把握していなければ、両者の対立はどこまでいっても平行線である。この人達にずっと不満がたまり続けるので、互いの正当性を主張し続けて炎上は終わらない。また、基準Dのような勘違いを含んだことを言うひとも大量発生していて、これを基準Aの世界にいるひとからすれば「バカじゃねーの」という感じになるし、そう発言してしまう。基準Bの世界にいるひとも人によっては「それはちょっと、落ち着いて整理しましょうか」とたしなめる。なので、またしても火がよく燃える。これが今回の炎上基本的メカニズムだと思う。

 炎上は「誰かが決定的に間違っている」から続くのではなく、「ある立場の人からみると、別の立場の人のやっていることが極めて無作法に見える」ということによって起こり、その行為が「別の立場から見たときには実は何の問題もない」場合に、火が消えるタイミングというのは失われてしまう。

基準Bの態度を採用することは、全体的に見通しがよく相対的中庸温度感のある態度だということになるだろうし、この立場を表明している人は、おおむね良識的に火消しをしているという感じだと思う。

基準Bは、基準Aないし基準Cのみで完結して争っている人々の立場より、バランスのとれたものであろうとしているのは確かだろう。しかし、私は別の基準Eが必要だと思う立場である

基準E:慣習を取り扱える形で、双方向に整備を

 基準Eは、明文化されていない慣習を、きちんと取扱可能にすべきだという方法である。明文化するなりプログラム的に制御するという方法だ。以下に、なぜそのような立場採用するべきかを述べる。

 法がどうであれ、運用の水準で、実質的慣習法を作り上げるということはいくらでもできるということはよくある。そして、ローカルな場にいる人たちは、その場の慣習があたか普遍的適用可能な「常識であるかのような主張をはじめることが多い。だが、そうローカルな商慣習や、コミュニティ内の慣習は多くの場合炎上の温床となってしまう。今回の件だけでなく慣習と法の間での齟齬が「炎上」を生んだことは数多くあった。

 「様々な慣習に対して、可能であるのならば配慮すべきである」という主張は正しいと思う。可能であるのならば配慮するに越したことはない。

 しかし「様々な慣習に対して、常に配慮すべきである」という主張は、どうか。わたしは難しいのではないか、と思う。単純にそれは人間にとって不可能なことを要請しているように思うからだ。

 たとえば今回、火の手があがったのは、801界隈だったわけだけれども、オタク界隈どころかゲーマー界隈に限っても「同人ゲーマー界隈」「格闘ゲーマー界隈」「シューター界隈」「MMO界隈」「東方界隈」「レトロゲーマー界隈」など、細かなコミュニティがそれぞれの慣習をもっていて、自分が属していない界隈での慣習がどうなっているかというのは正直なところ把握しきれない。「私はオタク界隈のほぼ全てのコミュニティの慣習について把握しています」と自信をもって言えるという個人はいないだろう。まあ、それでもオタクコミュニティ界隈のことであれば、長くオタクをやってる人なら「ああ、これだったら何とかさんに聞いとけば温度感わかるっしょ」という人脈による解決はできなくはない。

 ただ、それが、もっと遠い界隈のことになってくると、限界が出て来る。芸術コンテンツまわりでも、現代芸術とかならまだしも、古典芸能世界でのセンシティヴな話題とか言われても、細かなことはさっぱりわからない自信がある。手芸とかもわからないし、動物園のこともわからないし、外食産業のこともわからない。わからないことがいっぱいある。

 で、まったく知らない界隈に飛び込んで、そこで見つけたものをよかれと思って引用しようとしたら、当事者からいきなり激怒されるなどしたら、私はビビるめっちゃビビる。超うろたえる。

 そんで、まあ、たぶんゴメンナサイすると思うけど、なぜキレられたのか、理解が追いつかないだろう。正直、ぜんぜんわからんと思う。小心者なので、とりあえず反射的にゴメンナサイをするでしょう。

 こういう事故を起こさないようにするには、何が重要か。

 「よく知らないもの言及しない」というのが重要だという人もいる。まあ、特にやる気がないなら、あんまりセンシティブそうなものには言及しないほうがいいかもしれない。

 ただし「よく知らないものを知る」ということ自体は、世の中に多様な人々がいるということの相互理解をすすめる上では実は非常に重要なことでもある。たとえばLGBT人種問題というのは、言及の仕方についてしょっちゅう諍いが起こっているが、まったく言及されないよりも「善意に基づく無理解」のような言及は、議論をよびながらも、なされていったほうがいいだろう(まあ、場合によっては無視されたほうがマシということは少なからずあるにはあるだろうが)。

 私としては、「同じ文脈を共有しない人にも、慣習上、重要な点を共有できるようにする仕組みづくり」を行っていくしかないと思う。

 その仕組みづくりにはいくつかの段階があるだろう。

どのように慣習を可視化するか?

 とりあえず、次のようないくつかのステップ提示してみたい。

 以上。STEPと書いてあるが、コレ全部やれという話ではない。まあ全部やれたらすごいとは思う。

 もっとも、慣習によっては標準化が難しかったり、明文化しないことによってこそ意味をもっているような慣習などもあるだろう。そういうものを取り扱うのは確かに難しいが、すべての慣習が取扱い不可能ということもないだろう。

 明文化できる慣習は、明文化して、可能な限りで、コミュニティの外部にいる第三者にも把握可能な形にするというのは、決して無意味なことではないと思う。お互いの不幸な行き違いをなくす基本的方法だとも思う。

 もちろん行き違いをなくすという方法自体を、腐女子コミュニティがいままで模索してこなかったとは思わない。

 腐女子コミュニティ内部にいる人達同士ですら、行き違いはあったのだろうし、そのなかでの行き違いをなくすために、R-18タグは付けることで「ひっそりとやってます」ということを暗に伝えるという慣習が成立したのだろうと思う。その慣習の成立はとても重要なことだったと思う。

 少なくとも腐女子コミュニティの内部では、この慣習はかなり機能していたはずだ。

 そして、今回の事件はその慣習が、実は一般的著作権法の枠組みと整合的なわけではないということによって起こってしまった。コミュニティが大きくなれば大きくなるほど、考慮すべき文脈多様性は広がってくるのだから、近年の腐女子コミュニティの拡大とともに、こういった事件が何かしらの形で起こることはありえたことだろうとは思う。

双方向の「配慮」が可能状態いかに作り上げるか

 それにもう一点付け加えておけば、私は「【基準B】:法的問題はない。しかし、当事者たちにとってセンシティブなことへの配慮が足りなかったという点で、研究倫理上の問題はある。」という態度だけを強調することは、一見配慮をうたっているようでいて、そこまで素晴らしい態度というわけでもないと思う。

 基本的には、この論理だけを強調せざるを得ないシーンというのは「対話することが難しいほど弱っている人たち」とか「西洋文化基準でもって踏み込むべきでもない人たち」、「複雑すぎる背景をもっているので相手に明文化とかをそこまで期待すべきでもない人たち」に対する場合ではないだろうか。

 つまり言及をする側から一方的配慮である。鬱でほんとに今にも死にそうな人とかに対しては確かにそういう形でのコミュニケーションしかできないから、そういう場合は仕方がない。

 もちろん、言及をする側は可能な限り配慮すべきだ。しかし、だからといって、言及をする側だけに配慮要求するというのは、言及される側を馬鹿にした話ではないだろうか。配慮相互になされてよいと思うし、腐女子の方々は、一方的配慮されるだけの弱者とかではないと思う。

 多くの腐女子お姉さまがたは、尊敬すべき人々であると思っている。ぜひとも腐女子コミュニティの今後の拡大にあたって、より受け入れられやすコミュニティ形成をしていっていただければ幸いだと思う。

 

 また、今回はたまたま腐女子コミュニティ一般法との間の問題であったが、これは見えにくい慣習と一般法の間にズレがあるケースでは、似たような問題は何度も起こるタイプの話だとも思う。ローカルライセンスのようなものが増えすぎたら、それもそれで面倒だということもあるとは思うが、何もないよりは、だいぶよいだろうとは思う。

付記1:言論の自由引用について

「慣習は、法の前には下位の基準しかない」という話についても簡単に触れておきたい。

 基本的には法のほうが重要だとは私も思う。ただし、それは慣習と、法とのガチンコ対決回避できないという事態が訪れた場合、法が優先するということであって、ガチンコ対決回避可能場合や、慣習が公序良俗に反するというわけでもない場合は、別に回避してやってけばいいのではないか、と思っている。

 今回、腐女子コミュニティで「引用」に関わるルール特殊な形で扱われていたが、もし腐女子コミュニティにおける「引用ルールを、一般社会全体にまで拡大させようという動きにつながることがあるのならば、これは断固ととして反対する。

 「引用」の自由は、研究にとって重要という以上に、自由言論政治社会にとって重要ものだ。たとえば、それを政治的言論(たとえばヘイトスピーチ)をやっている人たちが「引用ルールの除外適用を求めてきたとしたら、それは素人文章だったとしても、まったく受け入れられない。「公開した俺の政治的発言引用しないでくれ」などありえない。それを引用して批判する自由を奪われれば、政治的なことについて公共の場議論することに多大な支障が出るだろう。

 今回の場合は(1)性的プライバシー問題であるということ(2)腐女子コミュニティの内部で、そのコミュニティに属する人々の合意において特殊な「オープンクローズ概念実効力をもった慣習である、という前提があって、はじめて「それは配慮しましょう」という話がありうるのであって、著作権における「引用」そのものを捻じ曲げるような話であってはならない。

 この著作権における「引用」を捻じ曲げていいかどうか、というの話はすべての人にとっての言論の自由の確保という意味で、致命的に重要ポイントである。これを安易に捻じ曲げるような権利主張は極めて危ういとも思う。

付記2:

 STEP3、STEP4とかはアクション担い手が限られるだろうとは思う。ただ、腐女子コミュニティもだいぶ拡大しているわけなので弁護士研究者経営者などの腐女子の方などが行動すれば決して不可能な話でもないのではなかろうか。

付記3:

 腐女子の人たちについて「二次創作やってる人たちはダブスタなんじゃねーの」問題。この件はダブスタとわかってて、恐縮しながらも、言うべきことは言おうという人と、なんもわかってない人が両方いると思う。

 後者の人たちについては、わかってくださいね、というしかないと思う。自分たちけが弱者被害者という立場でないことは理解してほしいとしか

#あと、二次創作でも「作者公認系」とかもあるので、全てがアウトというわけでもないだろうが、今回問題になったものがどっちだったかまでは調べていない。まあ、おそ松さんとかは、公式問題にしないタイプから公式との関係では、まあどうといった問題もないのだろう。

付記4:

http://anond.hatelabo.jp/20170527202448

このエントリ問題性質をよく示していると思う。

流通プラットフォームが変わるごとにちょっとずつ腐界隈の慣習と、

実態との関係性もちょっとずつ変質していっているという話だと思う。

流通プラットフォームはどんどんと変わっていくので、

その変化にあわせてぼんやりした慣習だと、運用に失敗しました、というのが今回の話なんだと思う。

オタ界隈は、かなり基盤技術の変化がはやいので、この変化に対応できるような基準が成立しないと、この手のことは何度も起こるのだろうなと思う。

2015-10-13

観劇マナーについて。

2,5次元舞台アイドル舞台小劇場演劇歌舞伎宝塚ジャニーズ舞台ミュージカル海外ミュージカル海外演劇、能、落語狂言文楽、その他古典芸能劇団四季ファミリーミュージカルパフォーマンスショー、アイスショーダンス朗読劇。

ジャンルにより、さらに細かいルールがあると思います

バレエクラシックコンサートオペラでは、もっとデリケートになってくるのではないでしょうか。

それぞれのジャンルルールに従いながら、マナーを守って観劇しましょう。


  • 頭を動かしすぎるのも、後方の座席お客様の目につきます。気を付けてください。
  • 脚の長いお客様、体勢が厳しいかもしれませんが、前の座席をけったりしないように気を付けてください。
  • 愉快な場面で笑うことは、素晴らしいことです。しかし、私語はしないでください。上演中の感想の話し合い、実況中継のような会話、キャーキャーという黄色い声、一切やめてください。感嘆の声や感動からくる溜息がおもわず漏れしまうことと、私語は、まったく違います許可がない限り、上演中に立ったり叫んだり騒いだり歌ったり踊ったりしないでください。歌舞伎の大向こうは、素人さんはかかわらない方がいいです。俳優と一緒に歌をくちずさんだりするのも、許可されている場合のぞき、おやめください。ロッキーホラーショーでは一緒に踊れる場面がありますので、ぜひ挑戦してみてください。
  • 公演中に、役者に手をふるのはやめてください。
  • 「○○くん大好き」だの「○○さん愛してる」だの書いたうちわボードは、観劇中に掲げないでください。こういったことは、コンサートなどで楽しんでください。観劇中にこんなことをする必要は一切ありません。
  • 咳やくしゃみなどに注意してください。日頃クセになっている咳払いが、観劇の場となると迷惑になることがあります雄叫びのようなくしゃみ、咆哮のような咳や咳払いはやめてください。しかし体調はひとそれぞれ。どうしても痰がからんだり咳が心配になる場合は、タオルハンカチを手元に準備し、あらかじめ開封ずみの飴(くれぐれもニオイに注意)をそこにしのばせ、ノドに危機が訪れそうになった瞬間、口にこっそり放り込むという手段もあります本能のおもむくまま咳をされるより、こちらのほうがよっぽどマシです。寒ければ、たいていの劇場ではブランケットを借りることもできますよ。どうしても咳やくしゃみが出てしまいそうなときは、口元にハンカチをあててやりましょう。
  • 座席の肘掛を使うときは、隣の席のお客様からだに肘がふれないようにしましょう。また、足の長いお客様は、となりの席に足をはみ出させないように心がけましょう。隣の席のお客様のスペースに、からだをわりこませないように気を付けてください。
  • 無駄に髪の毛をさわってみたり体をかきむしってみたり指を鳴らしてみたりびんぼうゆすりをしてみたり足をぶらぶらさせてみたり下手にリズムをとってみたりピアノ演奏のマネをしてみたり、あまりオーバーリアクションをとってみたり、ひとりごとを言ったり、けたたましい笑い声をあげすぎたり。不審な挙動は、両隣のお客様に丸見えです。意味のない行動はやめて、手は膝の上に置き、観劇に全力を注ぎましょう。手拍子は、場面に応じてOKです。
  • 感動して涙を流すことは素晴らしいことです。しかし鼻汁の音をブーブーピーピー鳴らしまくる音や、場面が変わったのにいつまでもスンスンしゃくりあげる声音は、意外に目立つものです。気を付けましょう。
  • 持ち物に鈴などはついていませんか?鈴の音は、静かな空間に響きます。持ち物チェックも大事です。
  • お手洗いは休憩時間、上演前にすませましょう。どうしても波がおとずれたら、すみやかに退出しましょう。

バッグや持ち物は座席の下かひざの上におきましょう。バッグハンガーを前の座席にかけ荷物を吊るすようなことはおやめください。大荷物の場合は、コインロッカークローク活用してくださいね

  • 上階席で観劇する場合、見えにくいこともあるかもしれません。しかし、立ち上がって観劇するのはやめましょう。身を乗り出しすぎるのはやめましょう。一階の前方列で観ている客には観えないものが、二階や三階から見つけられるはずです。あなたしか観えないものがたくさんあります。それを楽しんでください。
  • 物語オチを大声で話したり、出演している俳優の悪口を大声で叫んだり、俳優根拠のない噂話でもりあがったり。座席での会話は周囲につつぬけです。気を付けてください。

2015-04-30

http://anond.hatelabo.jp/20150430000956

別人ですが補足させてください。

補助金の部分の補足

芸術業界補助金漬けである。(伝統芸能古典芸能は主に調査・保存・普及で補助金制度存在する。)

TVアニメ芸術事業ではあるが、経産との結びつきの側面が強く見える。

補助金運営に対してではなく事業に対するものが主流である

アニメーションアニメ映画のような形態については対象になりやすく、補助金ファンディングしてるものもある。

しかし、申請→第三者機関選考という流れがあろうがなかろうが、豚に「国(公的機関)が関わると駄作になる」「血税ガー」と喚かれやすくなる。

政策方針により下りやす事業は明らかなので、それに関連付けられたものばかりになりかねないという確かに頂けない点もある。

あと、新作ばかりが好まれるのも頂けない。

オリンピック特需特に子ども向けはやばい。)

補助金赤字補填意味合いが強く、使途制限もある上に、採択年数の慣例や首長等で安定的ではないため、頼り過ぎるのは得策ではない。

そのため、無駄予算を盛った申請をすることにしばしば迫られるが、使いきらないと仕方なく期末に無駄に何かを買い込むこともある。

売上がどうなろうとペイできるような状況にも持ち込めるので、それらの意味で駄作が生まれることもある。

まず、出資元はファンだから投資しているわけではないし、自然人ではないので、ファン獲得が結局は有効なのである

お金を出すことがファンの証だとは微塵も思わないが、運営においては最重要ポイントと言って過言ではない。)

はいえ何も無いよりはいい。

うれしさは自由度に比例するが、結局は何を必要としているかで変わる。

正規雇用を増やしたいならうれしさは「人件費補助(+管理費)>事業補助(+管理費)」ではある。

管理費等で諸々積めないと後々終わるので、管理費なしの補助金に頼ることは打ち切られた瞬間に人間を路頭に迷わせることに繋がる。

ほか

定量的評価が難しい部分(内容)は、優れた人材が多いか少ないか/育てられているか育られていないか/集積しているか拡散しているか問題である

また、単体で見るのか全体で見るのかで評価は大きく変わる。

発表媒体経営規模を再考するという当たり前のことはやっている。

ただ集積するだけでは血が濃くなるだけで、その内容面で寧ろ悲惨になりかねない。

定期的な透析システムも合わせて必要なのである

追記

・経産は産業とした方が良かったですかね。あちらは門外漢なのですが、暗に好きじゃないのがバレてしまますね。

・質向上は実践の場(作って鑑賞される機会)がないと中々進まないので、そういった助成を上手く使うことが必要だと考えています

 質の評価作品単体で見ることと、それによって何が進んだかという2点で行い、後者の結果は短期では測れないのが難しいです。

2014-08-18

臨死!!江古田ちゃん』は江古田ちゃんを加齢させるべきだった

先日、http://anond.hatelabo.jp/20140814201628エントリーを見てふと思ったのだが江古田ちゃんは年をとらせるべきだったと思う。

江古田永遠に24歳だ。セフレがいて飲み会があって適当派遣なりアルバイトなりの職があって、粗雑な男がいて江古田がそれを鋭く批評する。

こうした生き方が、ある種の女性二次元上の理想像として捉えられた。江古田アフタヌーンアイドルになった。

しか江古田は年をとらない。一方現実女性は年をとっていき、アラサーになる。

江古田生き方現実的にはどこかで変更を求められる。少なくともそうである場合が多い。

誰しも24歳の生き方をそのまま続けられない。

現在も、江古田生活にあこがれる新しい読者は少なくない。

ただし当初のような雰囲気江古田を迎えられない部分がある。

すなわち、江古田は年をとらず、一方読者はアラサーになることを新しい読者は体感しているのだ。

2000年代中頃を生きた「お姉さん」世代が30代にどうなるか、いろいろと知っているのだ。

鋭い批評を加えてきた江古田は、実はこの時の流れに対応できない。

脈々と『アフタヌーン』で連載が続いてきた『江古田』だが、最近はどこか因習を踏まえた「古典芸能」のような硬さ、形式主義が見られた。

私は本当は30代になった江古田ちゃんを見たかった。

様々な生きづらさに当面しながらも、江古田ちゃんらしく生きて行く30代の姿が見たかった。

ドラえもん』や『サザエさん』では出来ないようなものを見たかった。

今年もアフタヌーン四季賞若い才能が出てきているのを傍目に、そんなことを思った。

さようなら江古田ちゃん

2014-07-17

ラノベの各レーベルタイトル印象

電撃文庫

タイトルから新しくしようと意気込みを感じる。ただししょんぼり作品タイトルから判るのもしょんぼり

メディアワークス文庫

登場人物のせりふのような一文。印象的ではない。白湯みたいなタイトル

富士見ファンタジア文庫

おじいちゃんが今風のタイトルを無理してひねり出してる感じ。ゆえに「今風」。

スニーカー文庫

古典芸能のようなタイトル。蔦葛木曽桟、みたいな。必ず奇数じゃないかな。とはいカバーデザインを変えてお父さんがメンズナックル風みたいになってる。

MF文庫一迅社文庫

作中用語のルビをふるう。好きな人には強力に魅力だが、用がない人には地雷除けとして機能している。

ファミ通文庫

どっかでみたことある。人の想像力には限界があるのだと教えられる。

スーパーダッシュ文庫

ジャンプっぽく、その作品をつたえる雰囲気用語。「あー、タイトル言われたら思い出したわ」と言われるタイプ

GA文庫

決めゼリフっぽい。

HJ文庫

常に二番煎じタイトルジャンル分けされてるので、これはこれで。

ガガガ文庫

丁寧な一文。ちゃんと声に出して読んでからタイトルを決めてるような印象。タイトル記憶に残るんだけど中身が記憶に残らないことが多い。

講談社ラノベ文庫

MF文庫劣化コピー。意固地になってフォント芸もできない。

オーバーラップ文庫

がんばってるんだけど、結果が出てない。いいタイトルを付けようとして、どんどん内容から離れて行くのを止められない。

このライトノベルがすごい文庫

長い。ここの場合背表紙デザインが致命的に悪い。フォントが重すぎる。

スマッシュ文庫

独自路線で頑張りましょう。キオスクで売ればいいのに。

どれが好きってわけじゃないっですが、スニーカーの本文フォントは好きです。

2014-04-01

四月馬鹿殺し(エイプリルフールブレイカー)

エイプリルフール企業サイトなども含めてもはやネット上では恒例のお祭り状態であり、今さら気合いを入れて嘘をつくことに新規性を見出せない。そこで、趣向を変えて、巷でよく見かける嘘にツッコミを入れてみる。ほとんどが非常に主観的意見であることを念頭に読むべし。長文なので覚悟を。

世の中金が全てだ

はい、来ました、古典芸能レベルで繰り返されてきた嘘発言。別に「金で買えないものもある、それは愛だ」とか反論するつもりは無く、別アプローチから。この発言は「金でどうにかなる程度のことが私の世界限界です」と言っているに等しい。発言者世界が金で塞がれてしまっているだけ。

年上は尊重するのが当たり前だ

はいダウト。昔の若者が年上を尊重したのは、生きていくために必要となる知識へのアクセス方法が「先人に頼る」ぐらいしかなく、年上から色々聞かせてもらうことが有益だったから。今は年上から聞かせてもらわなくても色々な方法で知識は得られるので、尊重するメリットは少ない(無くはない)。そもそも「当たり前だ」って言い方がすでに思考停止の証拠。こういう発言をする年上とか、「苦労は買ってでもせよ」と言いながら笑顔で苦労を売りつけてくる人には気をつけた方が良い。

嫌なことがあっても頑張らなきゃ駄目だ

笑止。嫌なことを一生懸命我慢して耐えながら前進することをもって「頑張る」ことだと決めつけている人は多い。「頑張る」ってのは最良の結果に向けて努力することであって、我慢するかどうかとは別問題。逃げるのは悪いことではないし、時間が解決してくれる問題も多い。

社会に出たら厳しいんだぞ あるいは 世の中そんなに甘くないぞ など

まともに扱うのも馬鹿くさいレベルの嘘なので、↓のリンク先のコピペでも読んでくれ。

http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51183524.html

個人的に、世の中が甘いってことを、全存在をかけて証明したいと思っているし、そういう世界であって欲しいと思っています

問題児だった生徒を時間をかけて改心させた素晴らしい先生

ちょっと待て。本来ならみんなに使うハズのリソースを、問題を起こす生徒にだけ使っているのでは無いのか。教育を扱った美談には素行不良の生徒の更正をテーマにしたものが多すぎる。その影響を被っている真面目な生徒の損失は語られない。

自分体罰を受けて育ったが、今では感謝している

これを嘘と言ってしまっていいのかは議論の余地あり。その感謝の正体は、自分が受けた嫌な思いを無駄だったと思いたくないだけの「認知的不協和の解消」です。それでも認められずその意見を主張するのも結構ですが、同じ行為を後進にするのだけは勘弁。体育会系の、自分が受けた理不尽を後進にも同様に押しつける伝統はこうして作られる。

嘘をついてはいけません

それ自体ポジショントーク的な嘘。これを言う人は子供に「政治家の偉い人たちだって嘘をついているよ?」と素朴に問いかけられたら、どうするのでしょう。きっと無理矢理押し潰すのでしょうね。ドヤ顔子供のわかりやすい嘘を指摘して悦にひたる大人は多いけど、次は彼らはもっと上手く嘘をつこうとするだけであり、伝えるべきは「嘘をなんかつかなくても良い」ということではないのか、と思う。

学生の頃に勉強しておけば良かったと思っている

学生勉強させたい気持ちはわからなくは無いけれど、大嘘である場合ほとんど。今からでも勉強すればいいだけの話。若い頃は未来転嫁して逃げ、年をとったら過去に後悔して逃げ、結局今から逃げ続けているだけ。

あなたのためを思って

相手のために何かを「してあげている」自分に酔っているだけ。自分のために生きろよ。何考えてんだ。

遊べるのは学生のうちだけだからめいっぱい遊んでおけ

お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな、としか言いようがない。これも言っている本人は嘘だとは思っていないのだろう。ただ、無責任の極み。大切なのは学生のうちしか遊べないような人生にならないようにするにはどうしたらいいか、ということだろう。私は大人になっても遊び続けます、と言い返せるぐらいの気骨があって良いと思う。


思いついた色々な嘘を扱ってみたが、まだまだいくらでもありそう。教育に関連する仕事に就いているので教育に関連するものが多くなってしまった。大人は無自覚子供に嘘をつくものであり、それが現れたものだとご勘弁願いたい。

2013-02-16

http://bacolla.jp/remark/remark199904.html

制作者だけがコップの中」というのは、そうだと僕も思っていますプロフェッショナル意識はあるけれども、コップの中で「クオリティー」とか「広告グローバルスタンダード」とか言って、その意識マーケティングとも社会ともリンクしていない。そんな彼らを"古典芸能作家"と僕は呼んでいるんですけど、そういう時代は恐らく15年前にもう終ってしまったと思っています。営業やマーケティングも、「制作とういうのは結局、わけ分かんないから」とあきらめている。長い間、広告クリエーター表現至上主義でやってきましたが、やはりそれを一回忘れないと、2000年以降はやっていけないだろうと思っています広告をつくる環境が大きく変わってきた根本には流通の台頭がありますコンビニエンスストアは全国で4万店に近づこうとしていますセブンイレブンだけで七千七百店以上、ローソンも七千店を超えています

例えば、毎年二月に飲料の新商品はほとんど出るわけですが、メーカーは、こういう商品をつくりたいとコンビニエンスストアバイヤーのところに持っていって、そこで「面白いね」と言われない限り、商品開発ができないというところまで来ているといいます。以前、我々がある飲料メーカーに「そのネーミングもパッケージもまずいので、こういうふうに変えませんか?」と提案したことがありましたが、「社長の決裁を取っているから変えられない」ということで通らなかったことがありました。でも、今は、コンビニエンスストアバイヤーが「それでは人々はつかめない」と言うと、ネーミングもパッケージも変わってしまう。もうそういう時代なんですね。ある意味では、メーカー社長よりもコンビニエンスストアバイヤーの方が強い時代になってきたということです。

また、コンビニエンスストアのようなところでは、棚落ちという問題があります。"週販"と言って、一週間に平均店舗一定の本数以上売れないと棚落ちする。限られた面積に商品を置くとなると、売れる商品が中心になる。新商品でも売れないとなると、一か月以内に棚落ちになります。棚からなくなると、その商品のコマーシャルは完成していてもオンエアされない。僕もそういう目に遭いました。春編と夏編をつくっていたのですが、棚落ちして夏編はオンエア中止です。

から、「流通が強くなり過ぎたから、いい広告ができなくなった」という人たちがたくさんいるんですね。僕が「古典芸能作家」と言うのはそういう人たちです。モノを売る場が強過ぎるとか弱過ぎるといった話にはまったく意味はありません。厳しい流通現場で人がその商品を手にするための有効コミュニケーションは何かを考えなければ、変化した市場に対する広告表現は提示していけません。

一昨年のカンヌ広告祭で日本が一作も賞を取れなかったことで、クリエーターの間でも議論があったそうですが……。

広告は当然、モノが売れたことが評価の大きな基準であるべきなのに、クリエーター世界ではモノが売れなくても広告が評価されるという変なところがありますカンヌは確かに話題にもなり、クリエーターの間でも議論がありましたが、「別にカンヌで賞を取る必要ない。我々のマーケットである日本でちゃんと棚落ちしない、商品に対してサポートできる広告表現になっていればいい」というのが僕の考えです。

一昨年からの議論は、広告表現とは何だということが非常に未整理のまま語られていたと思います。モノを売るための広告と「ここに私は居続けてますよ」というブランドを維持するための広告は違うはずなのに、一緒のところで論じられているのが問題だと思うのです。 例えば、商品情報は十分知りつくされたレンズ付きフィルム別に商品力を語る必要はなくて、ただ「ここに居続けていますよ」という"マインドシェア"が大切です。それを買う時に、何となく○○フィルムが好きだからということであれば、そこに面白い広告が成立する。そのブランドを持続させるための広告と、流通のようにその場その場で売り切っていく広告というのはマーケットが違うはずなんですね。

2012-07-28

文楽問題に関するいくつかのこ

以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、

大阪の文楽問題をめぐる公開メールを一読して

文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。

文楽大阪市補助金だけで成立しているのではない

産経の記事によれば、

橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース

 同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。

記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。

大阪市補助金カット後、別名目の補助を出す可能性がある

公開されたメール記録から。池末浩規参与3月24日メール

http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html

③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化芸術に関する補助についての委員会名称未定)により決定する。

③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。

ただし、同じく池末参与6月5日メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)

文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります

文楽守れ!=(国も地方も)税を入れろ!となりがちです。

文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。

→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。

そうなると若手育成も国では?

→本来はそういうことになります

また若手育成について、国 と地方役割はどうなのでしょうか?

→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪奨励金を出す考え方もあるかもしれません。

将来、技芸員が自分の子息に芸を継がせたいと思い、家業として芸の継承が出来れば安定するのでしょうね。

市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。

文楽では過去様々な新作が作られてきた

文楽伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。

文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。

そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。

こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。

例えば歌舞伎演目コピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。

またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトコンパクトにまとめられている。

素人控え「操り浄瑠璃史」

 その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。

 昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。

 この反響の大きさに驚いたのが、本家文楽である人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである

 よく復曲といわれるが、昔通りの演奏復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七コンビ主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。

 上演すると、元禄の初演当時のようにお初徳兵衛の純愛葛藤が評判を呼んで、興行的に大成功を博したのである

これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人ハムレットテンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書福音書物語文楽で、といった試みまである

まり文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。

したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである

なぜ文楽が他の「伝統芸能」「大衆芸能」と同じでないのか&なぜ継承が難しいのか

しばしば、歌舞伎落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。

まず、文楽音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎竹本葵大夫さんが軽く書いている。

歌舞伎義太夫の世界

人形芝居で創りだした演目歌舞伎流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中お召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。

今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。

もちろん実力の裏付けがあってこそで、

 ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎演目文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。

ということになる。

葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃皇室関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣い吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。

繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。

しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか

また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。

義太夫節構造のものは簡単で、決まったメロディーパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。

ところがそう簡単にいかないのは、文楽古典場合演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。

以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうもの継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。

やや話がずれたかもしれないが、たしか落語歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。

この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。

観客動員を増やそうという努力必要、ただしその限界も率直に認めるべきだ

大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュースマネジメント必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。

ただし、それには一定限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。

音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育ほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。

一定限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。

まり観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。

「なぜ大阪府市が文楽の保存に公金を出さねばならないのか」という疑問に対する私の考える答え

私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。

そこで西洋音楽比較した場合文楽匹敵するものワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。

それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。

その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。

ただ、一方で、ヨーロッパオペラしろオーケストラしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっとなのだ

文楽匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人ワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないかワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナードイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。

大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。

彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉けが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。

ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)

現代大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。

そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。

それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。

もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。

もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミング文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか

そして同様のことは、なぜ国が補助金文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。

予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しか大阪場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄プロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。

日本の偉大な芸術しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。

(追記)

これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。

したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。

また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki

2012-05-09

http://anond.hatelabo.jp/20120509112839

人間なんか太古の昔からゴシップと悪ふざけに興じてきたわけで、モンティパイソンにしたって、悪ふざけの延長。古典芸能と同じく敷居が高くなっているだけ。

古典芸能の敷居の高さとは違うっしょアレは。どぎつすぎるだけw

かつてとは時代が違うし、今深夜枠で流せばそれなりに受けるかもよー。

本当にゴシップと悪ふざけが好きな連中は2ちゃんの家庭板とかまとめブログ見てんだろうよ。

テレビである必要ないもん。つうかテレビニュースだってネットで咀嚼されてんだし。

2009-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20091014155843

技術者技術さえわかってれば英語わからなくてもいいのか?

いい。先端領域ならともかくたいていの分野では日本語で話ができる。

お前が話してるのはトップ0.1%の連中のことだろう。増田に平日昼間に書き込みしているような三流技術者勘違いさせるからやめろ。

上を見ればきりがない。教養人としてはラテン語ギリシャ語だってできた方がいいだろうし、古典芸能歴史に深く通じていればビジネス人脈を広げる上で有用かもしれない。だが「技術者として」要求されるのはまず技術だ。

2009-07-16

やりたい人がやればよろしい

芸大や音大の作曲科卒を何人か知ってるけど

当たり前だけどこんな時代に専業作曲家で食ってる人はいないし

就職率は非常に低い。フリーアレンジ仕事受けたり、ピアノ弾いたり

派遣やったり、知り合いの会社バイトしたり

でもそうした人脈は、やっぱ大学でこそ得られるから

学校って重要よねー。

 

あと、いわゆる作曲で食ってるげな先生方は

みなさん文字通り先生やって食べてるわけだし

古典芸能世界だからあれこれ政治的に立ち回る必要もあるしw

いずれにしても「音楽をやりたい」だけで生きていける世の中ではないのは確かよね。

今日び他の学科もあるのにさー、なんでわざわざ作曲科なのか?というのも考えどこです。

というのはもうわかっているものとして。

 

や、でも大学生ぐらいというのはどのみち世間知らずだし

それゆえに学業に打ち込めるエネルギーというのもありますし。

こと今世紀になってからの日本現代音楽とかもう惨憺たるものですのでw

イコール日本大学レベル、ということもあろうかと思いますがっ)

もしそっち方面目指してたら超がんばれと言いたいわ。

 

そんなことはいいとして。

芸術とか音楽なんてものは、先生や他人がどうこう言おうが、生活に苦しかろうが

やりたい人は勝手にやるし、やりたくない人は勝手にやめるんじゃない?

命を賭けるなんざーナンセンスの極みだが

要はあなたは音楽やりたいの?やりたくないの?

それだけが基準であり、それ以外の意見とかどーっでもいいですし

曲聴かせろとか(あんた何者w)、向いてる向いてないとかうっせーなー、余計なお世話ってやつよねw

 

生きるのが上手下手とかコミュ力というも、音楽に関して言えばほぼどうでもいいと思います。

(私のまわりを見た限りでは。)

あればあったに越したことはないけど。

 

例えば武満は芸大落ちましたよ。

あと昨今の日本の音大がアメリカ現代音楽をどんだけフォローしてるんだか

私にはわかりませんが、ライヒが昔作曲やりながらタクシーの運転手もやってて

あと自分演奏団体を作った、というのは有名な話で

このように、勝手にやる人はやるし、かといって浮世離れしているわけでもない

というようなことも、大事な勉強だと思うんですがねー。

少しは職業研究したかー?

 

いやになったらやめればいい。よくまあ音楽できなきゃ生きる意味がないとか言う人いますが

死んだら音楽できねーだろーがwwwなんなら死んでみてから言えよwww

等等と思いますが、まあそんなこと考えても特に意味はないということですね。

べつに思い詰めた奴ばかりが面白い曲を書けるわけでもありませんしー

まあつまらん内面お話とか、ほんとにつまらんです。

 

音楽なんてやりたい人がやればよろしく、やりなくない奴までが無理やりやって

その上死なれたら、やりたいだけの人たちはいい迷惑だわw ということですが

ああそういえば受験勉強中なんでしたね。ウェブとか見てる場合か。

あと彼女とかもどうでもいいです。

受験が終わるまでは適当自分で処理してください。

 

http://anond.hatelabo.jp/20090715014831

2009-02-23

いつの間にミステリは閉塞感のあるジャンルになったんだろうか?

ttp://d.hatena.ne.jp/g616blackheart/20090223/1235290371を読んでいてふとタイトルのようなことを言われていると気がつきました。

トリックアイデアが行き詰っているように見える現代ミステリの新たな道を切り開くきっかけとなりうるのではないかと思うのだ。

や当の竜騎士07氏の

ミステリはもっと楽しいものだったはずなんです。今のファンの方にはそれを思い

出して欲しい。

という発言をしている。

ミステリばかり読んでいる自分としては毎年毎年新しい人、新しいトリックやその新しい見せ方、プロットのひねり方に他ジャンルとの融合など結構ダイナミックに変化のあるジャンルだと思っていたのですが……

古典芸能に例えられることもありますが多くのミステリ作品エンターテイメント本位の作品が多いと感じていました。本格ミステリでも先行する有名古典作品を読んでいないと面白くない、なんてのは小数派だし、好きなものを手にとって読めば構わない気楽なジャンルです。

勿論先行作品に目を通しておかないと楽しめないものもありますが、そんなものばかりでは無い。出ないと最近ガリレオブームや京極、森といったメフィスト賞からのベストセラー作家の輩出は一部のミステリオタクだけでなす事は出来ないでしょう?多くの人を巻き込んだからこそ、じゃないのかなぁ?

更に言えばトリックの面でも最近は新しい物も出てきてます。紅楼夢の殺人の逆トリック(そう正に逆に仕掛けられたトリックでした)、蛍のトリック、厭魅(まじもの)の如き憑くもののネタアリスミラー殺人事件のネタも良かった、ウルチモ・トルッコの大胆なトリックも新しかった、エコール・ド・パリ殺人事件やトスカの接吻のような新たな息を吹き込むような作品も面白い。トリックもここ10年くらいは「トリック必然性」を重視している作品が多いですし、なんか言ってる事が古臭いというかなんと言うか

余りミステリを読まない人が簡単にジャンルの閉塞感を語ることは勘弁願いたい。多くの作品を読まないことには上っ面を適ッ当になでただけの言説になる上にそれを読んだ人が勘違いを起こすと思うんですけども。一時期唐突に「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」を語る人が増えたときにも感じたことなんですが…… ミステリ好きなら今更これは無いよと思うんじゃないかなぁ。竜騎士07氏の言うことにも10~20年ぐらいのタイムラグを感じます。今更感がすごいと言うか、「なぜ、今、それを言うのか」みたいな。アンチミステリにしても後期クイーン問題にしてももう一段落着いて数年たってからの蒸し返しですから本当に「なぜ今更?」

まぁ愚痴です。知らんまにミステリが狭っ苦しいものとされるのには我慢ならなくて。

2009-02-03

古典ゲームに埋め尽くされてしまったゲーム業界

コンピュータゲームが生まれて以来、ほとんど進化がない状況が現在まで続いている。

うわべだけのキレイさで本質的な部分が進化してないことを覆い隠してるだけのゲームが多すぎる。


特に物語を語るタイプゲームに多い。

RPGアクションシューティング、どのジャンルでもそうだけど、製作者がつづった物語ユーザー押し付けるだけ。

ゲーム機進化しても同じ事の繰り返し。一向に進歩をしない。

物語を左右する重要な場面に遭遇したとき、プレイしているユーザーはまさに千差万別の考え方をもって

そのイベントに参加しているはずなのに、誰がプレイしても同じ内容。

いちいちブレーキがかかる映画みたいな感じ。


ガッチガチに固定されたスクリプトで動いてるから、ユーザーの行動に対して動的に対処できない。

最短ルートを進んでいき、敵にとって相当な脅威となっているようなプレイでも、寄り道に寄り道を重ねてボケーっと進んでいようと

同じ対処しかしない敵。

RPGだと敵は世界を掌握していないのにボケーっと待ち構えているだけ。

アクションなら、ザコをスルーしてボスを瞬殺し続けているような猛者に対しても決して対策を取ろうととしない敵。


いつまでシナリオキャラが違うだけの似たようなゲーム作り続けるの?

こっちの行動に対して動的に対処できないの?


コストがかかる?商売にならない?

まぁ、そういう言い訳して既存のフローに沿ってゲーム作ってるほうが楽なのはわかるけどね。


まだ初期段階だけど、ValveなんかはLeft 4 Deadユーザーの状態を定量的に測定する手法を実装してるよね。

コレが即革命的な何かになるわけじゃないだろうけど、着実に進歩してる。

ユーザーごとに異なる体験を届ける、っていう壮大な目標に向けて着実に歩を進めてる。


日本はどうなの?ゲームらしいゲームとかホザいてる人たちは進化について考えてるの?

ほっとけば誰かがするようなグラフィックの向上じゃなくて、ゲームとして別の次元に到達するような何かを作ってる人いるの?


別に古典ゲームは滅ぶべき、とはいわない。

歌舞伎相撲、能、雅楽といった古典芸能のように存在し続ければそれなりに需要あるだろうけど、

それだけじゃ面白くないじゃん?


俺も考えてるけど生きてるうちに何か出来上がりそうにないから、考えをここに記して誰かに期待する。

誰かよろしく。

2008-07-20

ボーナス自慢

古典芸能に棒にナスを刺して「ハイ、ボーナス(ハァと」というのがあるが、

アレをやると殺人事件に発展するので世のおやじたちは気を付けたほうがいいと思いました。

沸点の低い世の中、自分の身は自分で守るしかないのです。

さて、そんなこんなで私もありがたくボーナスを頂いた。

実は、私はボーナスにほろ苦い思い出がある。

アレ新入社員の頃、ヒヨッコだったオレはピヨピヨと毎日毎日手探りで仕事を頑張ってた。

寝る間も惜しんで、毎日毎日働いた。休日も含めて毎日。

生まれて初めて、病院で点滴をうった。

そして初めての冬のボーナス

その支給日の前日、オレは上司に呼ばれた。

内容は

ボーナスには評価があること

・その評価は相対評価であること

・だから誰かに最低の査定をつけなければならないこと

・オレに今回最低の査定をつけるが、コレは新人の通過儀礼のようなものであること。

であった。

この時のオレのショックは大変なものだった。

帰りの電車で泣いた。

カイシャを辞めてやろうと思った。

金が少ないのは別に何とも無かった。

自分の仕事が評価されなかったのが本当に口惜しかった。

そして、今回。「S」評価でした!!

はい自慢。

社内では自慢できないからな、せめてネット内で。

つか、「S」査定は「社内で何人」みたいな枠なので、ホントにウレシイのです。

ハッキリ云って全然まともに働いてないのですが・・・。つか、絶対入社1年目の方が頑張って働いた。

もう、上司との相性だな。ナンノカンノ云って人事評価って。

去年は最悪だったし。

まぁ締め切り守らない、遅刻普通にする、深夜にテレビを見て朝起きれずにそのまんなカイシャを休むと、去年は誰がどう客観的に査定しても最悪の査定になるんだろうが。

2008-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20080412232655

総論賛成、各論反対、かな。たぶんあなたとは考えの根本は似てると思うんだ。でも結論が違う。

現在使われている言語(つまり、英語国語数学、あるいは今後は中国語なども)を習得することは、それ以外の学科を学ぶ基礎になるでしょ。だから、優先的に学ぶ必要がある。まず、国語の読み書き能力が無ければ、数学理科社会も理解できない。

えーとね、俺はむしろ古文や漢文が「現在使われている言語」の特殊な一部分、あるいはその基礎を形成すると思うんだよね。数学理科と似たような意味で、ね。

で、どういう分野かというと文学とか歴史とか古典芸能。というと、そんなの一部の人趣味だろって言われるかも知れない。そこが俺は違うと思うんだ。この手の文化は観光資源というか国のPR材料だと思うのね。だから、どこの国も古典国民に教え込もうとしてるんだと思うし、それは戦略として正しいと思う。

たとえばイギリスシェイクスピアオーストリアモーツァルトでどんだけ金を儲けてると思う?世界中からファンが集まってくるし、関連製品を輸出することもできるし、専門家派遣して国に対する好感度を高めることができる。勿論、イギリスのその辺のオッサンはサッカーに夢中なんであってシェイクスピアなんてのは学校で一部分を抜粋で教えられた退屈な作品の作者にすぎないはず。でも、シェイクスピアの名前すら知らないってことはないはずだろ。俺たちが誰でも源氏物語存在を知ってたり、そこから「あさきゆめみし」なんて派生作品が現代でも生まれたりするように。そうすれば、シェイクスピアのファンはみんなイギリスシンパになるし、イギリス旅行をしたいと思うだろう。

というわけで、古典文化を学校で教えることは、商売のネタになると思うんだよね。少なくとも、「この国は伝統ある文化国家だ」と思ってくれれば、勘違いして敬意を払ってくれる人が増えるでしょ。それだけでも現在の商売に有利になるわけだしね。

ところで話は逸れるけど、国語数学を教えれば理科社会が独学でなんとかなるってのには賛成できないな。早い話、理科実験学校で絶対やらないといけないことだと思う。科学机上の空論でないことは体で覚えてもらわないとね。

「選ばれた人」は、ある特定の価値基準で「選ばれた人」なわけだ。ある特定の価値観競争したピラミッドの頂点にいる人が「エリート」。そういう人を生み出すための公教育なんて、くそ食らえだとおれは思ってる。

感情的には賛成。だけど、公教育も含めて国ってのは結局商売なわけで、国民に飯を食わせて安全を守る義務があるよね。特に日本みたいに資源もなく農業が弱体化した国は、外国にものを売って資源と飯を買ってこないといけないわけだし、国民を商売人として教育せざるを得ないのは仕方ないんじゃない?実際、日本を含めたアジア諸国で数学理科を頑張って教えてるのは、それが商売のネタだからでしょ。

もっといえば、俺は英語なんて大嫌いだから本当は勉強したくないんだけどさ。言語学的にも英語というのは世界言語の平均像と乖離した部分が大きいし外来語が多くて語彙体系が一貫してないしで、共通語としては日本語と同レベルに不適格だと思う。本当はラテン語(せめてイタリア語スペイン語)あたりを共通語にするのが一番合理的だと思うけど、そんなこといったって世の中はおさまらないでしょ。だから俺は仕方なく英語勉強するしTOEICの点数を上げようともするし、イギリス人子供シェイクスピアだのラテン語だのに苦しめられる。しゃあないんですよ。商売なんだから。

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