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2024-02-22

anond:20240221202312

とてもすてきなねこと長い間ずっといっしょに暮らしてきたのですがしばらく前に亡くしてしまい、いろいろあって今は代が替わったやっぱりすてきなねこ暮らしています。ひととともにくらすねこにも触っていいねこと触って欲しくないねこがいることはみなさまはとうにご存知かと存じますが、幸いなことに先代も二代目も触っていいねこなので毎日思う存分撫でさせていただく日々を送っています

先代のころと違い、二代目との生活では在宅勤務が普通になっているのでほぼ一緒に過ごしているのですが、増田もたまには出社することもあって、帰宅時扉の鍵を開けるとトトトトという軽やかな足音とちりちりというちいさな鈴の音と共に暗い部屋からねこが小走りでやってきます増田の顔を見て軽くにゃあと鳴いたあとおもむろに壁に背を擦り付けくるんと回ったあと、これみよがしに倒れ込んで仰向けの姿勢こちらを覗き込むので、増田ねこねこかわいいのうたを歌いながら頬とのどとお腹をぐるぐると撫で回したりしています

先日はコロナ以来ほんとうに久しぶりの泊まり出張だったので、二代目ねこにとってはじめての留守番となりました。40時間ぶりくらいに部屋に戻ってくると普段よりちょっと早いテンポ足音でトトトトとやってきてくれて、ほっとすると同時にこのような賢くてよいねこと共に暮らせてほんとうによかったと思うのです。だって仕事ってめんどくさいし、他のひとに合わせるのはもっとめんどくさいのだけど、家にかえると素敵なねこがいて、扉を開けるとトトトトと走って来てくれるのですよ。これ以上なにも望むことはないと言っても過言ではないのです。

ということで、元増田さんもぜひまた保護ねこカフェに行って、ねこを撫でて、トトトトとねこ走る様子を眺めるのがよいと思います

2023-12-22

解散して二度と聴けないアイドルの曲

解散して二度と聴けないアイドルの曲。

その中でも未来永劫、宇宙の果てまで語り継いでいきたい、ハチャメチャに良い曲を教えてほしい。

10年以上前活動していたTomato n' Pineというアイドルがいる。

おれはそのアイドルのことを何も知らないのだが、解散するという話だけアイドルオタクづてに聞いて知った。

試しに聞いてみた楽曲はとてもノスタルジックで、ちょうど今日みたいな冬の日に聴くにはもってこいの曲だった。

曲名は「ジングルガール上位時代」。

シャンシャン鳴る鈴の音や、ミドルテンポドラムが心地よい、けれど間奏の台詞パートは要らねえなあ、

なんて思いながら聴いてると、どうしても「ライブで聴きたかったなあ」と思うわけだ。

けれど、もう二度とこの曲をライブ聴くことはできない。

アイドル楽曲というのはとても儚い

AKBが編み出したマネタイズ手法により、アイドルグループが雨後の筍のように結成された。

中には「こういう音楽をやりたいんだけど、普通にやっても売れないから、アイドルに託す」という形で実を結んだ音楽がたくさんある。

そうして数多く生み出された珠玉アイドル楽曲は、10ちょっとの間にレッドオーシャンコロナの渦に飲まれて消えた。

おれは今でも聴きたい。

Maison book girlの「karma」を。

Dorothy Little Happyの「恋をしてるの きっと」を。

MELLOW MELLOWの「WANING MOON」を。

もう二度と聴けないけど、宇宙の果てまで語り継いでいきたい、ハチャメチャに良いアイドル曲を教えてほしい。

2023-10-24

熊除けの鈴

腹が減って見境なく里に下った熊が、鈴の音なんぞで怯むのだろうか。

2023-08-04

その日もバーに行った

そこは場末バーと呼べるかもしれない。

飲み屋横丁の外れに店を構え、レンガ調の外壁は色が擦れている。

錆びた看板。溜息のような、湿気交じりの風が吹き込み、鈴の音を二度鳴らす。

狭い店内。向かって正面、カウンター席の一角

彼女の姿は既にあり、温かみのあるランタンの光が顔をうっすら照らしていた。

いつも通り隣に腰かけるとハニーウッドの香りわずかに鼻をくすぐった。

仮に彼女名前増田としよう。

増田はおそらく20代。いや、30代かもしれない。

このバーで知り合った女性で、酔った俺がいっぱい奢ったのが、こうして話すようになったきっかけだ。

増田は既にほろ酔いで、俺のことを一瞥するとすぐにグラスへ目を戻す。

端整な顔立ちの増田は言う。

「そういえば、この前に面白い話の聞いたんだけど」

へぇ、どんな?

外套を脱ぎながら尋ねると、増田はグラスを傾け、俺に見せる。

同じものを、と俺。

トランスジェンダーって知ってる?」

増田は置かれた酒をいっぱい、軽く傾け喉に流すとそう言った。

もちろん。まあ、なんとなくだけど。

わたし、誤解してたんだ」

何が?

「ほら、トランスジェンダーって、要はホモとかレズとか、そういうのでしょ?だから

から

聞き返すと増田はクスりと笑って眼を細くする。

彼女福田沙紀に似ている。

増田は言う。

ホモって男が好きってことでしょ?ってことは、そのホモっていうのは、自分のことを女だと思ってる~って思ってた」

マスターがちらりと増田を見る。

それに気づかないふりをして俺は酒をあおり、それで?と促した。

「でもほんとは違うみたい。聞いたのよ。本人に。そしたら、”男のことを好きな自分のことも男だと思ってる”だって

くく、ふふっ、と増田は体を折って笑う。

やれやれ、と俺は思う。

しかしこの表現はあまりきじゃない。

軽々しくも、”ハルキスト的”だなんて称されるのが気に食わないからだ。

そもそもやれやれ」といった表現流行させたのは村上春樹ではなく、それは寺山修司舞台青森県のせむし男』に出てくる萩村の口癖が元だ。

閑話休題

増田は「レズレズでも自分は女だって思ってるってことだよね?」と俺に問い、俺は何となく頷いた。

ただそれだけの話。

マスター流し目にちらりと俺を見る。

俺は再び、酒をあおった。

2023-08-02

真っ赤な太陽沈む砂漠に 大きな怪獣のんびり暮らしてた ある朝目覚めたら遠くにキャラバン鈴の音聞こえたよ  思わず叫んだよ

増田が見たい 底辺を見て安心したい 怪獣にも心はあるのさ

2022-08-20

anond:20220820090821

音のなる靴は、首輪の鈴の代わりなんだろ

鈴の音よりはナンボかマシだと思うんだよ

子供子供なりに気を使う子は可愛い

2021-08-11

僕が好きになった人は僕が好きではなかった

鈴の音を纏うように凛と歩く人だった。顔立ちは美人だった。他は可愛いい人だった。

僕が好きになったその人は、僕のことが好きではなかった。イバラのようなバリアを張った。近づこうと踏み込むたびに、それ以上に遠ざかり、棘が刺さった。

自分から離れる事が出来なかった。近づこうとすることしか出来なかった。離れていくあの人、近づくことはない。今日が残りの人生で一番近くにいられると思う日々だった。

挨拶されるのが嫌だったと、噂する声を聞いた。隣に立っていたら、一歩距離を取られた。そうやって毎日毎日、何度も心を痛めた。いつも新鮮に、全力で傷ついた。

それが二年続いた。毎日、顔を合わせる。目が合うことはない。毎日挨拶をする。心が通うことはない。もし一緒にいれたらとても楽しいと思った。楽しいのは自分だけだと思い直した。とても迷惑だったろう。謝罪すらできないけれど。

長い時間をかけて、少しずつ、心が剥がれて、離れて、あの人を考えなくなった。穏やかな日々が戻ったようで、僕はなんだか安心して、はた顔を見つめた。

鈴の音を纏ったこの人は顔は美しかった。他はとても可愛いかった。今度は、一年で終わると良いな。そう思う。

僕が好きになった人は僕が好きではなかった

鈴の音を纏うように凛と歩く人だった。顔立ちは美人だった。他は可愛いい人だった。

僕が好きになったその人は、僕のことが好きではなかった。イバラのようなバリアを張った。近づこうと踏み込むたびに、それ以上に遠ざかり、棘が刺さった。

自分から離れる事が出来なかった。近づこうとすることしか出来なかった。離れていくあの人、近づくことはない。今日が残りの人生で一番近くにいられると思う日々だった。

挨拶されるのが嫌だったと、噂する声を聞いた。隣に立っていたら、一歩距離を取られた。そうやって毎日毎日、何度も心を痛めた。いつも新鮮に、全力で傷ついた。

それが二年続いた。毎日、顔を合わせる。目が合うことはない。毎日挨拶をする。心が通うことはない。もし一緒にいれたらとても楽しいと思った。楽しいのは自分だけだと思い直した。とても迷惑だったろう。謝罪すらできないけれど。

長い時間をかけて、少しずつ、心が剥がれて、離れて、あの人を考えなくなった。穏やかな日々が戻ったようで、僕はなんだか安心して、はた顔を見つめた。

鈴の音を纏ったこの人は顔は美しかった。他はとても可愛いかった。今度は、一年で終わると良いな。そう思う。

2021-03-16

くしゃみ足音いびきは聞こえてくるけど鈴の音なんか一度も聞いたことないやで

2020-08-25

夏の怪談:お隣に越してきた霊

お隣に老夫婦引っ越してきた。たいてい新しく入ってきた住人は隣近所に挨拶するものだろうと思っているし、実際これまで引っ越して来られた方々は例外なく挨拶に来られていた。その老夫婦は一切来ない。

その老夫婦奥さんは鍵に鈴をつけているらしく、部屋の出入りに鈴が鳴る。騒々しいまでに鈴が鳴る。部屋にいると、外からこちらに近づいてくる鈴の音敷地の外からも聞こえてくる。鈴の音とは涼しげなものだろうと思っていたのだが、耳障りに聞こえる鈴の音とは初めてである

家内が、家の中に奇妙な気配を感じると言い出した。先日は髪の長い女の姿を室内で見たと言う。そんなものを見たらものすごく怖いではないかといったところ、気味は悪いが害意は感じられないのでそれほど怖くはないという。そういえば部屋のなかの空気がよどみがちな気がした。以前、九字を切るおまじないをやって見せて、家内にも教えていた。家内が寝室で、お隣に向かって九字を切ったところ、全身に鳥肌が立ったと見せに来た。なるほどすごく立っている。家内の話を聞いていたらこちらまで鳥肌が立った。鳥肌が立つという感覚は、ちょっと重めにとらえていいのかもしれない。

そんなある日の明け方、4時過ぎにふと目が覚めた。熱帯夜の続く昨今なので、喉が渇いたからかなとぼんやりしていたところ、玄関の方から物音がする。家内は隣で寝ているし、誰もいないはずなのだが、コトリ、カタンと音がする。気持ちが良いとは言い難い感覚を覚えた。ところで、これを書いていて軽く鳥肌が立った。

水を飲みに起きて寝室に戻ろうとした時、視界の端に小柄な何かが動く影を見た、ような気がした。夜が明けて家内に、昨夜こんなことがあった、こんな影を見たとその場所を指差すと、私が女の人の影を見たのもそこだと言う。

小皿に塩を盛って玄関脇に置くようにした。すると奇妙な気配を感じる事はなくなった。初め、盛り塩が溶けたのだが、その時は雨が降り続いていたので湿気を吸ったせいだろう。塩が固まる時もあって、塩を換えようと一旦盛り塩を家の中に取り込んでおくと、その日の夜とかなんだか気味の悪い気配が漂うようになるのだ。

そろそろ引っ越し時かなと考えている。



2020-07-05

2日後に猫を見送った

anond:20200607214557

2日後の早朝、猫は旅立った。

5時に起きた時にはもう息をしていなかった。

猫の手足は冷たく固まっていたけれど、そっと抱きしめた細い細い身体は温かかった。

夫と二人で猫にがんばったね、お疲れさま、ありがとうと言って泣いた。

前日は猫と一緒に過ごした。

シッコをしたらペットシーツを替えて身体を拭き、数時間おきに寝返りをさせてマッサージをした。

鼻が詰まったらコットンで拭いたり、赤ちゃん用の鼻吸い器で鼻水を取った。

ごはんを食べる量が減り始めてから昔のように鼻を垂らす事が増え、薬を飲ませてもなかなか治らなかった。

猫の目は薄く開いたまま、静かにベッドに横になってゆっくり大きく呼吸をしていた。

顔をこちらに向けたり起き上がろうとしたりと意識はあった。

口をクチャクチャ動かしたらスポイトで数滴水を飲ませた。頭を支える私の腕に小さな手を乗せて満足そうな顔をして、時々ポロっと緑色の目から涙をこぼした。健気で強くて優しい猫だった。

猫に話し掛けてたくさん名前を呼んで撫でた。

夜になり、夫が猫の隣で寝ると言った。

猫の生活スペースの囲いを外し、敷き詰めていたペットシーツも全て片付けた。

19年前、猫を拾ったのは夫だ。鼻水を垂らして所々ハゲボロボロの子猫が近寄って来たのをそのまま連れて帰ったらしい。

夫は猫を飼った事はなかったけれど、猫に一目惚れだったそうだ。私が来たのは15年前だ。猫を保護して大事に育ててくれた夫には感謝しかない。

夫の膝の上や隣が猫の定位置で、いつも夫の隣で寝ていた。

猫のベッドの隣に布団を敷き、夫は猫の小さな手を握って寝た。夫の隣で寝る事が出来て猫も安心したのだろう。

私達が悲しむから、死に目は見せたくなかったのかもしれない。最期まで優しい猫だった。

亡くなった猫に手を合わせ、身体を拭いて毛がふわふわになるようにブラッシングした。

そっとベッドに寝かせた猫は穏やかに眠っているようだった。薄く開いた目もキレイに澄んでいた。今にも起きてこちらを向きそうなのに。

夫は猫に突っ伏して泣いていた。

猫が体調を崩してから、老猫介護や看取りのブログペット葬儀の事を少しずつ調べていた。

近くのペット葬儀をしているお寺に個別立会の予約をした。

棺は大きめのダンボール箱を買った。

猫は狭い所と箱が嫌いな猫らしくない猫だから、大きめで底の浅いものにした。

棺の底にペットシーツを敷いてベッドごと猫を寝かせ、ピンク色のタオルをそっと掛けた。

寒がりなのにごめんね、と言ってタオルを巻いた保冷剤を多めに入れ、断熱シートを被せた。顔を見たらどうしてもたくさん撫でて声を掛けたくなってしまう。

線香と棺に入れる花を買い、祭壇に飾る写真も用意した。

供養写真は何枚でも良いと言われたので、昔大判プリントした写真をメインにした。7歳くらいの健康的でモコモコのかわいい姿。

他にも何枚かPCスマホから探してコンビニプリントした。

スマホに変えてから写真が圧倒的に少なかった。いつでも撮れると思ってほとんど撮っていなかった。

猫の大好物の猫草も買った。ごはんだよと呼んでも来ないのに、草買って来たよーと言うと飛んで来る子だ。

6年前にごはんに見向きもしなかった時も、猫草を買って来たら大喜びでムシャムシャ食べていた。

猫草とちゅーるとお花の他に、思い出の物をいくつか棺に入れた。

夕方にお寺へ行く前も、葬儀の合間にも二人で何度も棺を覗いては猫の名前を呼んで撫でた。

亡くなったら触れないかもと思っていたけれど、とにかく愛しくて名残惜しくて、かわいい猫に触れたくなってしまう。

猫の毛の手触りを忘れたくなくて、たくさん撫でた。頬の下の毛が特に柔らかくてふわふわで大好きだった。

お坊さんは棺で眠る猫と写真を交互に見て、キレイ身体ですね、珍しい模様だと言っていた。

お経の後、小さなケースに遺髪を納め最期のお別れをした。

猫を見送り火葬が終わるまでお寺の休憩所で夫と過ごした。猫の思い出を話して時々二人で泣き、これからの事も話した。

の子は私達の大切な子で、たくさんの幸せと思い出をもらった。

火葬は辛いけれど、待っている間に次第に気持ちが穏やかになっていくから不思議だ。

よく晴れた日で、夕方でも少し蒸し暑いくらいだった。

猫と夫が出会ったのはたくさん狛犬が奉られている神社駐車場だった。

猫はなぜか大きな犬が好きで、ゴールデンレトリーバーラブラドールテレビに映るとうれしそうにじっと見ていた。

病院でも猫には無反応なのに、大きな犬が来るとキャリーの隙間から覗いて楽しんでいた。

性格も犬みたいな所があった。

猫はひょっとしたら狛犬神様の子で、神様の所に帰ったのかもしれない。

神様の所なら安心だ。甘え上手のとてもかわいい子だから、きっとみんなに好かれて幸せに過ごせるだろう。

二人でお骨を全て拾い、花柄の骨壺に納めた。お骨はとても立派だった。

腕の細い骨がしっかり残っていて、担当の人がこんなにキレイに残っているのは初めて見ましたと言っていた。

4月までは流し台に飛び乗れた、足腰の丈夫な猫だった。

白い布で包んだ骨壺を抱えひっそりと静かになった家へ帰った。

初七日を過ぎてから、小さなおりんと骨壺カバーを買った。

お寺から名前と命日や忌日の入った供養表も届いた。オプション遺影を入れてもらい、とてもかわいい供養表になった。近くに良いお寺があって良かった。

仏壇ガラス扉付きラックDIYキットをホームセンターで買って色を塗った。

四寸の骨壺カバーがぴったり納まる高さで、位牌と供養表、遺影の他に遺髪ケースとお守りの鈴や首輪毛玉を飾った。

気に入っているけど、手を合わせるといつも泣いてしまう。

毎朝仏壇ごはんと水をお供えしてお線香を焚き、二人で手を合わせる事が新しい習慣になった。

夫は必ず猫におはようと声を掛けている。

私は流し台と洗面所水飲み場の水を相変わらず毎日替えている。

お世話になった病院挨拶に行き、後日お悔やみのお花を頂いた。もう病院へ通う事もないのだろう。

猫のいない生活はとても静かだ。

そろそろ猫が起きる頃かなとふと思っても鈴の音や小さな足音は聞こえてこない。

特に実感するのは帰宅直後。ニャーニャーと急かして抱きついて来るあの子はいない。

いっぱい撫でて、かわいいねと言って名前を呼んで抱っこしたい。会えるものなら会いたい。同じ模様の猫はどこを探したって出会えない。

猫と一緒に過ごしていた毎日が当たり前ではなくなってしまった。

5月の初め頃、夜に突然猫がニャーニャー鳴いて居間で寝ている夫を起こそうとした事があった。

ニャーと呼び掛けながら片手で夫の肩を何度も掻いている。春頃から甘えた声で鳴く事が減って来ていたので、珍しいなと思った。

爆睡している夫にあきらめると、今度は私のお腹に乗ってニャーニャー言いながら片手で顎の下を撫でて来た。

猫がいつも私にする撫でろの催促で、爪を立てずに小さな手でチョイチョイと頬や顎の下を撫でる。肉球と毛が両方楽しめるとても幸せ感触

うれしくて猫をたくさん撫でた。

猫は満足するとまた夫の所へ行き、一生懸命起こしていたがやっぱり夫は起きなかった。

猫は思い出を作りたかったのかもしれない。

お別れが近い事をもっとから知っていて、少しずつ準備をしていたのだろう。

私達が気づくのが遅くて猫に辛い思いをさせてしまったのが本当に申し訳なくて、あの時こうしていたら今も一緒に居たのかなと何度も思う。1日でも元気に長生きして欲しかった。

小さい頃から家に猫がいるのが当たり前だったけれど、猫の死と直接向き合ったのはこれが初めてだった。

実家最初に来た猫とは仲が良くていつも一緒に寝ていた。ちょっと素っ気なくて「ニャ」と短く鳴く猫だった。

その猫は腫瘍が原因で13歳で亡くなった。最期は怖くて何も出来なかった事をずっと後悔している。

積極的治療緩和ケアもしなかった親を恨んだ。自分がもし世話をしたら親に何か言われるのが嫌で。とても幼稚だった。

動けなくなった猫が弱々しい声で何度も「ニャーー」と長く鳴いていたのが今でも耳に残っている。

その実家猫への思いもあって、最期まで悔いのないように看たかった。

猫がいない生活をするのは一人暮らしの時以来だ。その時も猫を保護して実家に連れて行った。

猫は欠かせない大事存在だ。見たいし触りたい。毎日一緒に過ごし、寝顔を眺めたい。

でもこの先、猫と一緒に暮らす事はないのかも。

いつか縁があったらとは思うけど、たくさんの幸せを猫からもらうほど別れが辛くなる。

今はネットニュース保護されて幸せに暮らす猫達の記事を読んで、猫ちゃんよかったねと癒されながら毎日過ごしている。

開封ごはんや猫砂やペットシーツをもう少ししたらどこかへ寄付しようと思う。

前の投稿ブクマブコメありがとうございました。猫は強く生きました。

みなさんの猫達が幸せ長生きできますように。

2020-02-25

「猫の首輪に鈴を付けるのは動物虐待」という言説

ネコ人間の3倍の聴覚があるので、すぐ近くで鈴の音が鳴るとストレスになる」とのことだけど

聴覚が3倍」っていうのは「可聴域が3倍の広さ」ってだけの話で

人間に聞こえる音が猫の耳には3倍のボリュームで聞こえてるわけじゃないよね

2020-01-26

宅急便待ってるこの時間

何もできん。

トイレいけない。

呼び鈴聞き逃しちゃいけないから、音楽聞けない、テレビ見れない、ゲームできない、掃除機かけれない。

読書しようと思うが、俺の部屋は呼び鈴の音ほとんど聞こえないから、本に集中してると呼び鈴聞き逃す。

っていうか呼び鈴ほとんど聞こえない時点で最初から詰んでるな。

置き配はいいぞ

2019-08-18

anond:20190818100113

最近のやつって家に仏壇がないか鈴の音色も知らないのかな

「ち~ん」の由来に関して鈴に全く触れてないやん

ちなみに鈴は「すず」じゃなくて「りん」と読むんだぞ

鈴の音色は「ちーん」って擬音語で書き表されるぞ

で、2ch野球板で普段から使われていた阪神ファン蔑称が「阪珍(はんちん)」「珍カス」だったから、阪神が負けた時に他ファンが煽るために立てる「葬式スレッド」で、鈴の音色と阪神ファン蔑称とをダジャレで掛けて「ち~ん(笑)」というレスができたんだよ

最近若いのは経験ないのかもしれないけど仏教お葬式では「ちーん」と鈴の音が鳴らされるんだぞ

男性器」と「お葬式」と「負けた阪神」をかけ合わせた「ち~ん(笑)」は「ご愁傷様です(爆笑)」という意味で、野球以外にも汎用性が高かった

おバカ事故で男が死んだ、みたいなニュース2chスレッドで「ち~ん(笑)」とレスしたりな。

しばらくして「ち~ん(笑)から発展して女叩きの「ま~ん(笑)」もできた

「ま~ん(笑)」は字面だけでは「女性器」しか表さず、「お葬式」要素は分からなくなってる。野球要素も全くないが、元にあった「敗者・弱者煽り」の意味合いは一応読み取れる

2019-05-06

[]【5】2019 春、韓国釜山・光州

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anond:20190506094948




5일



5日目

釜山港へ帰るんだってばよ


明日帰国は早朝便だ。

ゆっくり眠れる保証もないので、充分な睡眠時間を取れるのは昨夜しかなかったが、やはり眠りは浅かった。

釜山で迎える2度目の朝、疲れが取れているかどうかは疑わしいが、今日は名所観光お土産購入、食べ残し釜山グルメなど、予定を詰め込んだので、直ぐに部屋を出た。

まず目指すのは、チャガルチの朝の名物になっているという、シンチャントーストだ。


地下鉄1番線に乗り、朝のチャガルチ駅に到着。

BIFF広場を通り抜け、裏の小売店街に向かう。

まだほとんどの店が開店前で、人もいるにはいるがほとんどは開店準備の搬入路地工事

本当にやってるのだろうか。

路地クルクル迷いながら進むと、まだ閉店してい暗い店が軒を連ねるなか、30㎡程の縦に細長い店の前でコック帽に白衣のオジさんが黙々と店先でトーストを焼いている。

釜山の朝の味、シンチャントーストの前では、そこだけ行列ができていた。

しばらく待って、トーストフルーツジュースを頼む。

卵とハムチーズが挟まれトーストは、洋食なのに滋味深かった。


シンチャントーストの御主人に支払いを済ました時に、残りのウォンが心許ない事に気付いた。

チャガルチから程近い南浦洞のヨンジン両替所に向かう。

南浦洞は西面と並ぶ釜山繁華街だが、土曜の朝9:30に開いてる店はほどんどなく、人もまばらだった。

午前の強い日差しの下を歩き、両替所に到着。

手元の3000円を両替する。

ナヨンの時は実は数えてなかったが、ここでの両替は少額なので数えやすい。空港より明らかにレートが良かった。


南浦から引き返し、港町釜山の顔が最も見える場所、チャガルチ市場に向かう。

広い市場では、いけすの中にカニエビなどがひしめき、山盛りに積まれサザエやホンビノスなどの貝類太刀魚などの魚、イカタコナマコに果てはエイまで、あらゆる海産物が並べられていた。

ここで海産物を買って、2階で調理してもらえるらしく、お母さんに声をかけられるが、既にトーストを食べていたので、固辞して、市場の棟の反対側に出る。

海が目の前だった。

海風にあたりながら、あたりを眺めていると、韓国語演歌らしきメロディーが流れてくる。そういう音楽韓国にあるかどうか分からないが、メロディーといい、コブシの利かせ方といい、どう聴いても演歌だ。

韓国であっても、港では演歌流れるものらしい。


室内市場の脇の青空市場を歩いて抜ける。

ここでもたくさんの海産物が売られていたが、端まで抜けると食事のできる店がある。

漁師港湾労働者、仲買人などはここで食事をとるのかも知れなかった。

歩きながら日本韓国意見の相違のある日本海の呼称問題について考える。

このチャガルチ市場を埋め尽くす豊富な海の幸を見ていると、韓国の人がこの海を「東海」と呼びたいのもわかる。

目前にある日々の漁場が「日本海」では、借り物で漁をしているみたいだ。

日本人として韓国人の主張の是非や正当性は一旦脇に置くが、ナショナリズムじゃなく、釜山市民生活者の実感として「ここは自分たちの海だ」とスッキリしたいという、その気持ち理解できる。



韓国青春グラフティ


市場を後にし、韓国旅行に当たって一番最初に決めた観光地、山間の民家をカラフルに彩った甘川文化村に向かう。

バスに乗るてもあったが、地図上では歩いて行けない距離とも思えなかったので、その足で向かった。


実際に歩いてみると、考えが甘い事に直ぐ気付いた。

市場に程近い有名観光地なのに、歩いて向かう人が殆どいないのもさもありなん、山道結構なのだ

「実際に過ごしている人を見れるのも良い」と無理やりポジティブにかんがえたが、やっと観光客で賑わう村の高台に着く頃には、脚の疲れがえらい事になっていた。


カラフル屋根を一望できるカフェでまず一休み。

甘いカフェラテが身に染みる。

デッキではカップルロマンチック風景をバックに写真を撮っていた。


糖分を補給した後は高台散策

辺りには、たくさんの国からやってきた観光客が写真を撮っていた。

実は釜山にきて見て気付いたのだが、この街で最もよく見かける外国人は「日本人」で、それ以外の外国人存在が薄かった。

しかし、ここでは中国台湾ベトナムヨーロッパから来た人など、多彩な国々の面々が並ぶ。

やはりというか、若い人、カップル10代の少女が多かった。

韓国民族衣装を身につけた3人組の少女、2人は明らかに韓国人ではない。

多分ベトナムタイの人だ。

韓国友達を頼ってやって来たのだろうか。

まりに似合っていたので、写真を取らせてもらう事にした。

ピンク黄色、水色のスカートが風に揺れていた。


村の坂道階段を行ったり来たりするうちに、「ギャラリー」の文字が。

興味をそそられて階段を上ると、登り終えてまだ続く坂道の上で、学生服少女が同じく学生服少年写真を撮っていた。

青春ドラマのような光景に関心して咄嗟に一枚。

ギャラリーは閉まっているらしく、腕章を付けた彼ら以外に周囲に誰もいない。

プライベートも極まる時間だろうが、輝く記憶を少しだけおすそ分けさせてもらった。



釜山餐丁・バタードーナツと血羊羹


たっぷり写真もとって満足したので、下山する。

さすがに歩いて降りる気力がなかったので、バスを使ったが、山道を下るバス運転が荒い。

座れてなかったら大変だった。


バスの最終停留所、チャガルチで降りて再び南浦洞へ。

チャガルチから南浦洞への道すがら、行く手から派手な太鼓鈴の音が聞こえてくる。

デモだろうか。

韓国社会はどうやらパレードが大好きで、到着2日目にも地下を歩きながら、実体こそ見なかったが、パレードの音を聞いた。

時節柄、ちょっと緊張する。

からやってきたのは、釜山の対岸、九州からの踊り手達だった。

彼ら自身は踊ってないので、既に演目を終わったのだろう、しばらく歩くと、今度は韓国民族衣装に身を包んだ踊り手達が舞っていた。

音は此処からだ。

そういえば、釜山であった日本人と少しだけ会話してみると、九州からの人が多かった。

岸の両岸では、それぞれの人々が交流している。


南浦洞では、韓国旅行で2番目に決めた目的ナッツ入りバタードーナツのシアホットクを買い求める。

生地を大量のバターで豪快に揚げ、横に挟みを入れポケット状にして、蜜とナッツを詰め込む。

形状は平たい円形だが、なぜか平たく潰した紙コップに入れて供される。

しょっぱくて甘い味は疲れた体に沁みた。

これも日本に持ってきたら流行るかも知れない。

でも、どうも日本に入ってくる韓国グルメは、1個流行るとそれ一色になっちゃうんだよなー。


さて、夕方前に一旦ホテルに戻るつもりだが、その前にここのロッテマートお土産を買う。

出発直前までなかなかイメージが湧かなかった韓国土産だが、同僚の勧め通り、インスタントラーメンにした。

韓国即席麺大国なのだ


ホテルに戻って、明日朝の空港に向かうタクシーの手配をして、すぐ出発。

海に突き出した岩場に建つ寺院、海東龍宮寺に向かう。

なんとか時間的に間に合いそうだ。

ここに訪れれば、今回の韓国旅行で行きたい観光地は大方回ることができる。


地下鉄を乗りついで向かうが、どうやらエネルギー切れで気力が切れてきた。

山道を歩き回ったのに、朝から食べたのがトーストドーナツだけじゃ足りないのも当たり前だ。

とにかく何か食べないとまずい。海雲台駅で降りると、バーガーキングに吸い寄せられるように入った。

異国の地で、何が出てくるか想像できる上に早いジャンクフードはいざとなると頼りになる。

バーガーキングカウンターの福々しいお姉さんは、言葉が怪しい日本人にも親切だった。


ちょっと迷ったが、海雲台から海東龍宮寺に向かうバスに乗車。

30分ほどの乗車で龍宮寺に到着した。

龍宮寺までの参道は曲りくねった階段なのだが、辺りは台湾九份もかくやと思わされる人出で、細くて急な階段を歩くのが怖い。

しかも疲れている所に再びの山道なので、なんとか転ばないように慎重に歩く。

距離がなかったのだけが救いで、やがて海を望む龍宮寺が姿を現した。

既に夕方だったので、だいぶ光が赤く、海の青さはちょっとくすんでいたが、それでもなかなかの絶景写真に収めることができた。


満足したので引き返してバスを待つ。

やってきたバスに乗り込んだが、ここで思わぬ苦労をする羽目になった。

椅子に座れず立ち乗りだったが、渋滞に巻き込まれバスがなかなか進まない。

その上、運転が荒い。

急発進、急ブレーキ、急ハンドル

外国バス運転は概ねこんなものだと思ってはいものの、いい加減ヨレてきている足腰には辛かった。

このワイルド運転にも韓国若者涼しい顔をして立っている。

どういう鍛え方をしているんだ、いや、これ自身が日々のワークアウトになっているのか。

ユラユラ揺れる自分も、友達恋人と事も無げに談笑する韓国男子も、真反対の意味で慣れというのは恐ろしいものだ。


渋滞に巻き込まれた結果、1時間強の乗車となったバスを降り、海雲台の駅から地下鉄に。

食べ残し最後ご当地グルメを目指す。


釜田の駅から程近い「カヤポヂャ ソンジクッパ」に入る。

釜山最後食事は、牛の地を羊羹状に固めたソンジが浮かぶソンジクッパだ。

「ソンジクッパ ジュセヨ」席に座る前に頼むと、やがてグツグツ煮えたソンジと牛もつ入りの赤いスープがやってきた。

ごはんを入れながら食べる。

パッと見、キワモノっぽく見えるソンジだが、動物の地を固めてスープの浮き身にするようは食習慣はアジアでは珍しいものではない。

台湾にも猪血糕や鴨血などがあるし、タイにも類似料理があるという。

四角く赤黒いソンジは、特に強い匂いもなく、レバーっぽい羊羹という感じで口に抵抗なくいただけた。

これで韓国旅行で事前に設定したタスクは全て果たすことができた。


ホテルに戻って、荷物の整理をする。

個人的旅行あるあるなのだが、なぜか海外旅行では額にして3000円前後の小さな落し物をすることが多い。

りある旅行であればあるほど、その傾向が出る。

今回もカメラレンズアクセサリーリング所在不明になった。

別に機能に致命的な影響が出るわけではないが、無くしたいわけでもない。

こういう時、何かの引き換えになったとでも考えるようにしているが、少しだけ残念だ。

荷物の整理をして、この旅行記を書いたら時間は0:36分。

3時間程仮眠をしようと思う。寝過ごさないといいが。


【6・了】2019 春、韓国、釜山・光州  6日目|ありがとう/カムサハムニダ へ >>

2018-07-05

anond:20180705082946

横だけど癇癪持ちの二歳児の親の自分には零歳児の泣き声は鈴の音だよ

どうも我が子がその年齢を過ぎると平気になるみたいで、五歳児親は金切り声とイヤイヤイヤしか言わない二歳児の声が全然平気らしい

から子供いない人の周りだけ避ければいいんじゃないかなーと思う

2018-02-28

anond:20180228172403

うち、ドアベルつけてる。

鈴の音って魔除けなんですよ。増田さんはつまり……。

2017-08-15

お 鈴

仏壇に置いてある鈴のことをお鈴って呼ぶことを最近教えてもらったのだが、これは地域風習によって違うかもしれないが、仏様に線香をあげるとき私の地元ではまず線香をあげて、お鈴を鳴らして、拝むのが普通となっている。

だがこのお盆の時期、色々な人の拝み方を見たが、このお鈴の鳴らし方には人それぞれクセが出ていたのが興味深かった。

私の場合は「チーン…(音が小さくなるまで待つ)

…チーン」と2回鳴らすのだが、中には「チーン(間髪入れずにもう一回)チーン!!」という人や「チーン…」と1回だけ鳴らす人や、「チチチーン!!!」とすごい速さで3回鳴らす人や「チーン…(ピタッと音が止む)」と自分鈴の音を手で止める人がいたりと、狭い田舎でもこんなにもバリエーションがあるんだなぁ、とちょっと驚いてしまった。

正しい鳴らし方が存在するのか、それとも地域性があるものなのかわからないが、少なくとも私の地域では人それぞれに鳴らし方の違いがあることがわかった。

ここで質問

Q.あなたお鈴はどうチーンチーンする?

2017-04-13

ナチュローのたまごサンドが好きだ。

ナチュローのたまごサンドが好きだ。

どれくらい好きかっていうと、サンドを包んでいたビニールについたたまごを綺麗に舐めとりたいくらい好きだ。

ふわふわ食パン

揺らすとぶるぶると震えるほどたっぷりと入ったたまご

鼻に抜ける、一歩間違えたら「くさい」に分類される濃厚なにおい。

まらん。

春ということで、ランチ最近オフィス近くの公園で食べている。

食べるのはもちろんたまごサンド

年明け早々寝過ごして終電を逃し、タクシーおっちゃんにいか自分が哀れか、金がないか、ここからどれだけ遠くに住んでいるかアピールし、媚を売り、それでも「あーそーなんだねー」と流され続け、

泣く泣く諭吉差し出した(当たり前)、当時はまだ23歳だった私が見れば

「おい弁当はどうした?」「断腸の想いで手放した緒川先生サイン入り漫画は?※1」と

ぶん殴られるだろうが、24歳となった年長者だからこそ言えることもあるのだ。

パタゴニアフリースダボダボチノパン履いてる女に媚を売られて鼻の下伸ばすじじいがいるかよ」

公園に話を戻そう。

千切りキャベツ冷凍コロッケと白米の入った私の弁当を見て、何か言わなきゃ気が済まない先輩も、

(「ずいぶん大胆なお弁当だね〜」)

こちらが舌打ちしてもかき消されてしまうほどデカい音でタイピングをする上司も、

(バチバチ、、、バチバチバチ、、バチバチバチバチ、、、バチッ「Enter」)

無駄コミュニケーションを取りたがる社長

(「なに食ってんすか」)

ここにはいない。

代わりにいる奴らがいる。

私のランチ仲間を紹介しよう。

「鳩」、「(鳩のケツを追いかける)クソガキ」、そして「自転車おじさん」だ。

春が鳩にとっても「春」なのかは知らないが、奴らは常に3羽で行動している。

まずはじめにやってくるのはやたら黒ずんだ(多分)メス。

正面に座って、じっと見つめてくる。

初めて会った時、片足しかなくて大好きなたまごサンドをうっかり与えそうになったが、

ちぎった瞬間二足歩行で突進してきたので、思わず「殺す」と言いそうになった。

から女って嫌いだ。

続いてやってくるのはそいつ狙いの(多分)オス。

特有の気味の悪い緑がかった光沢のある首を膨らませ、「ホホホホー」なんて言いながらメスのケツを追いかける。

そして3羽目も(多分)オス。

ただこいつはオス①の子分のようなポジションで、金魚の糞のように①の後ろをついて歩くだけ。

彼らは食べ始めに1度、思い出したように中盤に1度、そして食後に1度、必ず挨拶に来る。

律儀な奴らだ。

そんな奴らを狙っているのが「クソガキ」だ。

めちゃくちゃ短いズボン制服を着た、目玉親父もびっくりの4頭身。

にしても子どもというのはどうしてこうも視界が狭いのだろうか。

いや、決して将来展望とか思考について語られる時に使われる「視野」ではない(なんせ奴らは人間未満だからだ)。

ここで言う視野とは生物学的な意味だ。

鳩を見つけたら、鳩しか見えない。

黒目を3mmでも動かせば、たいそう旨そうにたまごサンドを頬張る私という人間が目に入るはずなのに、見えない。

生物自分よりも強い奴からは逃げるという習性があるんじゃないのか。

まず、食べ物を持つ私は「与える」側なので、間違いなく鳩より格上。

そして、追いかけ回して相手にとうてい手の届かないところへ行かれてしまうクソガキは、

間違いなく鳩より格下だ。

まり、私>鳩>クソガキという勢力図がここにできあがる。

しかし、クソガキは私から逃げなければ、恐れることもない(いかにも自分を嫌いそうな生物(私)が近くにいたら萎縮するもんじゃないのか)

なぜなら、見えない気づかない怖くない、からだ。

(予定は一切ないが、自分の子どもにはこの3つの「ない」は言い訳にならないことをぜっっっっっったいに教えよう)

さて、そんな「私に萎縮しない」鳩を見つけたクソガキが何をするか。

答えは簡単だ。

いかけ回す(地面を歩くアリを潰すように、地面を闊歩する鳩を追いかけるのは、子どもの性らしい)。

ダッ(クソガキが鳩を脅す)

バサッ(鳩が飛び立つ)

「△u*○あ□x△※くsっ!?」(わたし

この瞬間、つい3秒前までの私が信じていた勢力図が一変する。

間違いなく私はこの3者からなるヒエラルキーの最下層へ転落する。

そして「満足にたまごサンドも食べれないランチタイムなんて…」

と、悲劇のヒロインに甘んじるのだ。

そんなどうでもいい勢力抗争に一瞥すらしない人物、それが「自転車おじさん」だ。

おじさんは、いつも公園桜の木の下で自転車の修理をしている。

それもいつも同じ自転車だ。

春とは言え、まだ吹く風は肌寒く感じるなか、おじさんはいつも半袖を着ている。

自転車の後ろのカゴには空気入れとボコボコアルミバケツが積まれていて、

蛇口で水を汲みながら、器用に(そもそも何を修理しているのかわからないが)タイヤをいじっている。

その作業を私はぼーっと眺めながら、

ホームレスはみんなチャリンコ修理できますよ(関西弁)」と真顔で言っていた先輩を思い出すのだ。

このおじさんはホームレスなんだろうか。

修理はどこで学んだんだろうか。

なぜ一回で修理を済ませられないんだろうか。

いつもいるということは、まさかここが家なんだろうか。

それにしては空気ポンプバケツとは軽装備すぎやしないか

どこでお金を稼いでるんだろうか。

自転車はおじさんをどこへ連れて行ってくれるんだろうか。

というか自転車のカゴでかすぎないか

子ども一人は簡単に入りそうだ。

まさかクソガキの誘拐を目論んでいるんだろうか。

私がここに来なくなったらクソガキに危険が及ぶんじゃないだろうか。

etc


こんなしょうもない妄想をするのが、ここ最近ランチタイムの楽しみだ。

そして、私の妄想収集がつかなくなった時、

おじさんが修理を終えた時、

クソガキが鳩に満足した時、

鳩がパンを飲み込んだ時、

公園はまた静けさを取り戻す。

くぐもった鳩の鳴き声も、クソガキのランドセルについた鈴の音も、私がランチの入ったビニール袋を漁る音も、おじさんがタイヤクルクル回す音も、一斉になくなる。

残るのは春風に舞う桜の花びらだけ。

※1 人気BL作家

2016-12-09

Tポイントカードはございますか?と聞いてくる人へ

いつも聞いてくださってありがとうございます

私はADHD(診断済)なので、聞かれないと大体出し忘れてしまます

別に忘れてもポイント自体は大したものではありませんが、聞いてくださったお陰で気付けたときは得した気分になりますありがとうございます

この前自転車の鍵を駐輪場忘れ物入れカゴに入れてくださった方。

ありがとうございますあなたのお陰で落とした鍵を見つけられました。

朝慌てて走ったので自転車の鍵に付いている鈴の音も気付けず落としてしまいました。

お礼をしたかったのですが、どうやってお礼をすればいいのかわからず、増田に書きました。

実習中沢山手伝ってくれた~~さん。本当に助かりました。ありがとうございました。

ありがとうございましただけでは伝えきれないくらい助けて頂きました。

甲斐ない結果ばかりで申し訳なかったのです。めげずに精進します。

一人前になったら今度は自分が~~さんに助けて頂いたように後輩を助けたいと思います



いつもうっかりしたり、ふさぎ込んで結果が出せなくて親しい人や関係者迷惑ばかりかけてきたけど、

この歳になって、やっと迷惑かけつつも頑張るべきことを頑張れるようになって、

もう成人して数年たったけど、最近やっと成人したと言えそう。

2016-01-13

地元が妙に禍々しい

見たら目が潰れるので地元民は期間中祭の鈴の音がしたら家に閉じ籠り物忌みをする生首と胴体をもしたものを火をつけたり運んで引っ張る祭とか、呪われた木とか、何でなんだろう。

金田一が来てくれたりしたら嬉しいけど、ただ禍々しいだけなら嬉しくないんだが。

2015-10-13

観劇マナーについて。

2,5次元舞台アイドル舞台小劇場演劇歌舞伎宝塚ジャニーズ舞台ミュージカル海外ミュージカル海外演劇、能、落語狂言文楽、その他古典芸能劇団四季ファミリーミュージカルパフォーマンスショー、アイスショーダンス朗読劇。

ジャンルにより、さらに細かいルールがあると思います

バレエクラシックコンサートオペラでは、もっとデリケートになってくるのではないでしょうか。

それぞれのジャンルルールに従いながら、マナーを守って観劇しましょう。


  • 頭を動かしすぎるのも、後方の座席お客様の目につきます。気を付けてください。
  • 脚の長いお客様、体勢が厳しいかもしれませんが、前の座席をけったりしないように気を付けてください。
  • 愉快な場面で笑うことは、素晴らしいことです。しかし、私語はしないでください。上演中の感想の話し合い、実況中継のような会話、キャーキャーという黄色い声、一切やめてください。感嘆の声や感動からくる溜息がおもわず漏れしまうことと、私語は、まったく違います許可がない限り、上演中に立ったり叫んだり騒いだり歌ったり踊ったりしないでください。歌舞伎の大向こうは、素人さんはかかわらない方がいいです。俳優と一緒に歌をくちずさんだりするのも、許可されている場合のぞき、おやめください。ロッキーホラーショーでは一緒に踊れる場面がありますので、ぜひ挑戦してみてください。
  • 公演中に、役者に手をふるのはやめてください。
  • 「○○くん大好き」だの「○○さん愛してる」だの書いたうちわボードは、観劇中に掲げないでください。こういったことは、コンサートなどで楽しんでください。観劇中にこんなことをする必要は一切ありません。
  • 咳やくしゃみなどに注意してください。日頃クセになっている咳払いが、観劇の場となると迷惑になることがあります雄叫びのようなくしゃみ、咆哮のような咳や咳払いはやめてください。しかし体調はひとそれぞれ。どうしても痰がからんだり咳が心配になる場合は、タオルハンカチを手元に準備し、あらかじめ開封ずみの飴(くれぐれもニオイに注意)をそこにしのばせ、ノドに危機が訪れそうになった瞬間、口にこっそり放り込むという手段もあります本能のおもむくまま咳をされるより、こちらのほうがよっぽどマシです。寒ければ、たいていの劇場ではブランケットを借りることもできますよ。どうしても咳やくしゃみが出てしまいそうなときは、口元にハンカチをあててやりましょう。
  • 座席の肘掛を使うときは、隣の席のお客様からだに肘がふれないようにしましょう。また、足の長いお客様は、となりの席に足をはみ出させないように心がけましょう。隣の席のお客様のスペースに、からだをわりこませないように気を付けてください。
  • 無駄に髪の毛をさわってみたり体をかきむしってみたり指を鳴らしてみたりびんぼうゆすりをしてみたり足をぶらぶらさせてみたり下手にリズムをとってみたりピアノ演奏のマネをしてみたり、あまりオーバーリアクションをとってみたり、ひとりごとを言ったり、けたたましい笑い声をあげすぎたり。不審な挙動は、両隣のお客様に丸見えです。意味のない行動はやめて、手は膝の上に置き、観劇に全力を注ぎましょう。手拍子は、場面に応じてOKです。
  • 感動して涙を流すことは素晴らしいことです。しかし鼻汁の音をブーブーピーピー鳴らしまくる音や、場面が変わったのにいつまでもスンスンしゃくりあげる声音は、意外に目立つものです。気を付けましょう。
  • 持ち物に鈴などはついていませんか?鈴の音は、静かな空間に響きます。持ち物チェックも大事です。
  • お手洗いは休憩時間、上演前にすませましょう。どうしても波がおとずれたら、すみやかに退出しましょう。

バッグや持ち物は座席の下かひざの上におきましょう。バッグハンガーを前の座席にかけ荷物を吊るすようなことはおやめください。大荷物の場合は、コインロッカークローク活用してくださいね

  • 上階席で観劇する場合、見えにくいこともあるかもしれません。しかし、立ち上がって観劇するのはやめましょう。身を乗り出しすぎるのはやめましょう。一階の前方列で観ている客には観えないものが、二階や三階から見つけられるはずです。あなたしか観えないものがたくさんあります。それを楽しんでください。
  • 物語オチを大声で話したり、出演している俳優の悪口を大声で叫んだり、俳優根拠のない噂話でもりあがったり。座席での会話は周囲につつぬけです。気を付けてください。

2013-04-16

生まれ変われるならば仮面ライダーになりたい

リアルにもネットにも吐き出す場所がなく、いい加減気がおかしくなりそうだったので、チラシの裏代わりにさせてほしい。

自分アスペルガー症候群だ。

たぶんADHDも併発している。

人の顔や名前が覚えられない(すぐ忘れる)ってのは学生の頃から気づいてはいたんだけれど、

この度、4度目の転職先で、そういった能力の欠如っぷりから職を失って、

いよいよもしかしたらと思って精神科で診断を受けた。

ものの見事に高い数値が出たらしい。

診断を受けたいと主治医に頼んだときは、障害と認められたら少しは楽になれるだろうかという気持ちがあった。

でも今は、ただただ不安で、死にたくて仕方ない。

いや、死にたいというのは正確じゃない。

「なんで自分なんか生まれたのか」とこの世の全てを呪っている、と言った方が正しいか

死ぬという行動は、今の自分には要するエネルギーが大きすぎる。

そんな元気は、ない。

主治医から就職もできているのだから障害ではなく"傾向"だろう」と言われたのも精神的に参っている理由のひとつだろう。

コネで入った最初会社からはじまり転職する先々で三ヶ月もすれば必ず抑うつ状態になって、薬飲まないと会社に行けなくなるのを、果たして就職ができた」と言っていいんだろうか。

少し判断に困る。

自分の傾向に合った仕事をすればいい、とアドバイスされた。

でも、これまでの転職先はみんな自分にあっていると思って選んだ仕事だった。

そして結局は(最後職場を除き)仕事関係ない部分でつまづいて退職してる。

たぶんこれからも、状況はそう変わらないだろう。

自分の住んでいるのは田舎だ。

就職活動中に抑うつになって帰ってきてから、ずっとここで生活している。

そして、この県の県民性ルーズで粗野だ。

そういう気質は会社組織内でも当然影響してきて、

中小企業だったら使ってるAdobeソフトが全部違法コピーなんてもザラだ。

そういう会社内の人間関係というのは、推して知るべしというか。

まあ、案の定自分は脱落者となった。

それですっかり一般企業が恐くなってしまって、つい最近までは大学で非常勤の実験助手をしていた。

金を儲けることは悪ではないけれど、やっぱり金に頓着しない組織というのは窮屈でなくて居心地がよかった。

売上成績は上がっているのに、個人的嫌悪感から「おまえの評価を下げて正社員じゃなくしてやる」と三ヶ月ごとに脅される心配もないし。

ただ、そこで判明したのが、自分がどうもアスペルガー症候群ADHDらしいという事だった。

これまではデスクワークばかりで、自分の障害がそこまでダイレクトに不都合を起こしたことがなかった。

から電話言葉が聞き取れない(声でなく言葉が入ってこない)だとか、パソコンに向き合っていると呼び鈴の音に気づけないとか、特に理由がないのに朝礼というだけで気持ちが悪くなるとか…それまでの職場でもあったけれど、そこまで深刻に考えてなかった。

それが、実験助手という仕事についてからは、惨憺たるものだった。

まず、物がしまってある場所が全く覚えられない。

忘れたということ自体を忘れてしまっている。

から入った言葉を短時間でも頭にとどめておくのが難しいから、メモを取りながら説明を受けても、必ずいくつか忘れてしまう。

そして、無事に覚えられたとしても、研究室という場所は物の位置が頻繁に変わる。

試薬を持ってきてと言われる度に、「あの試薬はちゃんと前と同じ位置にあるだろうか」と緊張感で冷や汗が出そうだった。

実験動物ケージなんて、ヘタをすれば日替わりで動くので、もう動物舎に入る事自体が恐くて嫌で仕方なかった。

そして、状況判断ができない。

これは指摘されるまで全く自覚がなかったので、多分いまも意識することさえ出来ていないと思う。

危ない行動を危ない事として意識できないらしい。

実験室にこんな人間がいると思ったらゾッとしない。他人事として考えればすごくわかる。

くわえて優先順位をつけるということが出来ないから、目に付いた作業から片付けようとしてしまう。

これも言われれば分かるのだけど、詳しく説明されないと「優先順位」というのがどの程度優先すべきものなのか具体的に理解できてないからなんだろう。

ここまでを読んで、文字だけでもイライラしてくると思うけれど、極めつけがまだある。

少し気が動転すると、作業に必要なすべての記憶が吹っ飛ぶ。

そして視界に入っているはずのもの、耳に入っているはずの音が全く認識できない。

流しの排水管が水漏れを起こしたことがあったが、自分は流し台の中にしまわれていた実験器具が濡れないように避難させるのに必死で、その間に別の人が洗い物を始めてしまっている事に全然気がつけなかった。

あとで「なんで先に言ってくれないのか」と責められても、何を責められているのか本気でわからなくて(そのあと詳しくどういう状況だったのかを説明してもらうまで)理不尽に叱責されたと苛立つばかりだった。

これは、あとから説明されたから「自分が見えていなかったのだ」と理解できた希少な例で、たぶん、本当はもっといっぱいこういう事があったんだろう。

アスペルガーお約束として、雑談が苦手なのも人間関係を冷え込ませるのに実に効果的だ。

他人と共感が本当にできない。

びっくりするくらい出来ない。

から言わないでいい事を言う。

…と、ここまでは何となく自覚があるので、社会人二年目あたりからは極力しゃべらない事で他人から不快がられないようにしようと出来る限りの努力はしていた。

大して面識のないの相手には天気の話でもしておけば、それなりに定型発達っぽく会話が成り立つし。

子供のころに「人の鼻の頭を見て喋ればいいんだ」と教えられたおかげで、目線が合わせられなくてキョドるなんていう典型的アスペみたいな動きもしない。

おかげで初対面の人間相手だと、実にまともな人間らしく振る舞える。

でも、これが逆によくない。

同類がいたらアドバイスするが、付き合いが長くなるであろう相手に対して、マニュアル通りのまともっぽい振りをするのは絶対にやめた方がいい。

三ヶ月もすると、逆に不自然さが際立って薄気味悪がられ、自然と会話が無くなっていく。

実例が言うんだから間違いない。

何より苦痛なのは、直接話をされていない職場内の人間冠婚葬祭の話題を、周りの空気から読み取らないとならない場面に数回でくわしたことだ。

健常な人は周りが話してる雑談からそんな情報まで正確に聞き取れるものなのか?ほんとうか?だましてないか

…まあ、そんなこんなで、好意というか敬意さえ抱いてるような相手にまで嫌われる。

仲良くしたいからと何かするたび、嫌な顔をされた。

けれど、いまだに何故いやがられたのかが理解できてないので、多分これからも好きな相手には嫌われ続けるんだろう。

アスペルガー症候群は鈍感で空気が読めないから、お気楽だろうと思ってる人もいるかもしれない。

でも実際のところ、物凄く気を遣う。

前の晩から「どうやったら喜んでもらえるのか、どうやったら役に立てるのか」を考えて、朝おきてはそれを復唱して、それで現場では何一つうまくいかない。出来の悪いコントみたいだ。

気を使っても使っても、全然気が利かない。

気を遣うのと気が利くのは別の意味なんだって、大人になって身をもって理解した。

気が利かない人間なんて、そりゃ嫌われるよな。書き出して振り返ってみれば、すごく当たり前のことだった。

から入った情報が覚えられなくて、状況判断が下手で、危険察知もできない人間が、まともに実験なんてできるわけもなく。

精度はボロボロ

それでまあ、今回は人間関係とはかかわりない理由で退職することになった。

仕事が今期までだと母親に告げたら、案の定ののしられた。

から「おまえは規格外だ」「なんで普通にできないのか」と何度も何度も怒られてきた事の延長線みたいな感じ。

実験助手仕事をしていて、自分アスペルガー症候群ADHDだろうというのは確信に近かったから、障害の話も説明したかったけど

全く聞いてもらえなかった。

すぐにでも仕事を見つけてこいと突っぱねられて、

でも自分がもうどうしようもなく仕事ができない事は理解してるから途方に暮れて、

それで逃げ込むように掛かり付けの精神科に行った。

それと並行して、母親以外の家族には障害の話をした。

母親は結局だれから間接的に私のことを説明されたのだろう。わからない。

ただ「障害年金がもらえるんなら良いじゃない」とだけ言われた。

診断結果がでるまでは、とても再就職する気になれなかったが、

自分の持ってる技能を活かせそうな会社中途採用にも申し込んでみた。

そんな矢先に些細な事で母親といさかいになった。

たぶん、また「自分が見えてなかった」んだと思う。

急に殴られた。

殴りながら「おまえなんか、そのうち誰かに殺される」と言われた。

そんなの知ってる。わかってる。

好きな人ほど自分を嫌うんだから

きっとそのうち、一番好きだった人に殺されるんだろう。

「だったら、生まれたその日に殺せば良かったのに」

と、殴り返した。

本当に、なんで、自分なんかを生まれさせたのか。

目がついていても見えない、耳があっても聞こえない、口があっても喋れない。

こんな使えないものなら、はじめから持たずに生まれてきた方がどれだけ幸せだったか

きっと自分は上から生皮をかぶってはいても、本当の姿は大昔の特撮ヒーローに出てきた、いびつで醜悪な機械人間みたいなものなんだろう。

片目だけギョロギョロとでかいレンズがついて、開閉することのないジャバラの口、耳の代わりに電線の出来損ないみたいなモンがくっついてる。

それに人間のどろどろとした黒い髪が生えてるんだ。

可愛げなんてない。ただただ気味が悪いだけの化物。

そんな化けもんでも、人の役に立てるもんなら立って見たいと、思ったのがそもそも間違いだったんだろう。

今日中途採用に応募した会社からお祈りが届いた。

やっぱり、まともな会社は化物になんて興味を持たない。

違法コピー密輸パワハラで溢れかえったような会社しか、気味の悪いおばけを拾っちゃくれない。

化物にされたのに、人間のために闘うヒーローが好きだった。

人間に石を投げられても、人間の役にたつヒーロー

きっと死んだら化物として墓も用意してはもらえないんだろうけど、それでも生きてるかぎりは人間たちのヒーローでいられる。

いい歳をしてみっともないんだけれど、今でも仮面ライダーになりたいと思っている。

化物側の存在のくせに人間の街を守るライダーになりたい。

人間の輪の中に入れないのに、その輪を守るイナゴの怪人。

虫なんて大嫌いなのにな。

きっと本当に変身できたら、自分の顔の気持ち悪さで死にたくなるだろう。

それでも、きっと、今の自分の顔を見るよりはずっとずっといい。

仮面ライダーのことを思いながら死んだら、生まれかわれないもんだろうか。

生まれ変われるならば仮面ライダーになりたい。

2010-08-31

トカイとイナカとジャスコ

ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。

育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バス時間も早く、夕方差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。

電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。

みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。

高校卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日時間もかけて都会へと通った。

私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地最初下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半風呂がなく、トイレ玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。

トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。

都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。

あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。

山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。

田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。

大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景あなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだあなたたちはそれを知らない。

盆や正月田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかいから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野秋葉原新宿池袋渋谷原宿東京丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。

ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。

ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方サービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせち材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要いから、田舎人間はそれを喜ぶのだ。

そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。

どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想しかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイのものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。

「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想しかない。幻想しかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ


私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。




補記:母は東京イオンがないという

記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。

父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。

引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルド本屋ミスタードーナツもある。旧市街地門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。

バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。

父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙時間的距離は苦痛だったのだろう。

子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。

そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。

祖父母にとって東京得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。

たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京イオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列ショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。

あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウン生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。

私の住む東京千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内はいっても下町からここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。

それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。

成田に育った:http://anond.hatelabo.jp/20080929192856

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