はてなキーワード: OPとは
魔法騎士レイアースで、ダイハツ・ミゼットⅡとトヨタ・プロボックスがどんなキャラクターだったか、教えてください。
取引先の役員から問い合わせが来てて、とにかく急いでます。5億円の取引なのでとにかく下手を打てないんです。
その役員の方はものすごく冷徹で短気な人で、アベノミクス3本の矢を、ちょっと血は出ますがフンドシの尻の部分で折りますし。「鳴かぬなら帰る」が辞世の句という、5・7・5のルールすら通用しないくらいやばい方なんです。辞世の句というのはご本人の談で、誠に遺憾ですが、絶賛ご存命の最中です。
レイアースは生まれる前なので見たことないし、会社御用達の人力検索でもまったく出てこないので本当に困ってます。確かOPが「ボバンババンボン ブンボバンバババ」といった感じの出だしだったのはうっすら覚えています。記憶違いだったらすいません。
社運をかけた案件らしいので、mjdtnms。
★★☆☆☆
★★★☆☆
セリフ回しが熱い。
味方もキャラが濃い
ただ個々人だと濃いけど、3人全員合わせて考えるとイマイチ弱い
3人の絡みっつーかつながりがいまいちなりゆき上ってだけで必然性に欠ける
エンディングでようやくそれが少しだけ見られたけど、やっぱり全然たりない
男二人に女一人って時点でもっとなんかあってもいいと思うんだが
サブキャラとのそれらしい絡みあったんだし
あと言うほど荒野じゃない
森もたくさんあるし雪もあるし、普通のRPGと大してかわんない
今気づいたがファルガイアってfar gaiaで地球から遠くはなれたどこかの世界的なニュアンスあったんかな
★☆☆☆☆
FF7のリミットゲージに当たるフォースゲージってのがあるのと、
キャラごとに異なる特技があるのが特徴
剣技で早撃ちって技をつかうザック
エンカウント率高めなのとダンジョンで行ったり来たりを強制させられる作りになってるのが災いして、面倒でしかなかった
今書いてて思ったがフォースってスターウォーズかよって感じだな
★★☆☆☆
ダンジョンではキャラを切り替えて、それぞれが持っているグッズという特殊技でギミックを解除しながら進む
簡易ゼルダみたいな感じ
街でダッシュすると人とかタルとかにぶつかりまくるし
セーブもセーブポイントと鳥に話しかけることでしかできない(ワールドマップでセーブできない)から地味に不便
なんかアイテムとれば見れるらしいけど、見れてもしょぼいらしい
一応テレポートって魔法あるから、地図なくても移動は困らないこともないけど、
ダンジョンはテレポート先には表示されないから結局自分で探すしか無い
つーかテレポートがあるのを知ったのがラスダンの中だったからマジ意味なかった
★☆☆☆☆
当時の次世代機で見下ろし型の古風なRPGを丁寧に作りましたって感じ
ぐぐったらFF7と同時期の発売でこれってのはちょっとひどすぎると思う。
当時のスクウェアがいけいけだったことを抜きにしても。
敵のグラフィックは8等身とかでそれなりだったりするのに(それでも荒いけど)、
一番重要なプレイヤー側のキャラのグラフィックがしょぼいのはいただけない
フィールドでのSDキャラを忠実にポリゴン化したって言い張られたらまあ理解できなくはないけど、
やっぱり納得はできないしょぼさ
なるけみちこサウンド
★★★★★
町とかワールドマップ、心がしめつけられるような曲があって名曲ぞろい。
世界にひとりぼっち(切ないシーン でもそれだけじゃないっていう強さも感じさせてくれる 一番好き
エルゥの村(そのまんま 人間界と隔絶された少しさびしいような時間がとまった感じがよく出ている
★★☆☆☆
でも20週年でまたなんかやるらしいけど
嫌われるぽっと出のラスボスとかでもなく、最初から最後まで割と一貫して筋の通ったボスがいて安定感があった
全体的に佳作という感じで、ものすごく丁寧に作られている印象
でもワールドマップがないとか、ダッシュの仕方が不便だとか問題点はある
でもそれらを相殺するくらい(注・補って余りあるほどではない)には音楽とシナリオがいい
サブキャラも魅力的だし
シナリオブックとかあるのか知らんけど、時代考えたらないだろうなあ・・・
大ボスであるマザーっていうやつと、その麾下である四天王って構図はよくあるけど、四天王の一人がマザーを裏切ってなりかわろうとして失敗して逆に取り込まれるけど、最後は意地で蘇ってそいつが裏ボスになるってのは、なかなか凝ってるよなあと思った
調べたらシナリオとゲームデザインの人が特撮好きだからこうなったらしいね
特撮でそういうのがよくあるのかどうかは知らんけど、それが理由じゃないかっつう考察があった
ちなみにその人いまはシンフォギアの人っていったほうが通じるらしい
「ガラスの花と壊す世界」見てきた。
結論から申し上げれば、大ヒットは見込めないんだろうな、という感じ。決して駄作というわけではなく、見ごたえはあったのだけれど。
・キャラクターが非常にかわいく描かれている
・コンピュータ用語を多用した少し入り組んだSF作品。コンピュータ用語使うのは少し寒いというか陳腐というか。
・短い尺なので集中力が切れずに見ることができた。(途中に挿入歌の長いパートがあるが)
・終盤にいろいろと展開がひっくり返ったりまた返ったりとごちゃごちゃするのでついて行くのが大変
さて、この作品、原案はポニーキャニオンが行った「アニメ化大賞」で大賞を勝ち取った「D.backup」という作品。
そして上映時間は67分。おそらくはこのアニメ化大賞という企画において、ようやく取ることができたのが「劇場60分」という短い尺なのだろう。
そして、このアニメ化の企画を引き受けることとなったのがTVアニメ「新世界より」で監督デビューをした石浜真史氏。ポニーキャニオンとは「新世界より」で繋がりがある方。
というわけで、石浜真史氏が劇場アニメを初めて手掛けるということで、彼はいったいどういったアニメーションを作ろうとしたのか、Webや劇場パンフレットに掲載されたインタビューなどを参考にして、浅く簡単に書き連ねる。
(※この文章は筆者の独自の解釈がふんだんに盛り込まれています。)
実は石浜氏は演出経験がそんなに多くはない。元々はアニメーターであり、原画・作画監督やキャラクターデザインの仕事をしていた。90年代から活躍するベテランである。
「かみちゅ!」「NHKにようこそ!」「東京レイヴンズ」「ヤマノススメ セカンドシーズン」など、OP・ED職人としてその演出が評価されているものの、実は本編の演出をし始めたのは最近のことだ。
初めて本編の絵コンテを手掛けたのが初監督作の「新世界より」(2012年)、そして自分の描いた絵コンテを初めて自分で演出したのが「四月は君の嘘」第5話(2014年)と、かなり最近だ。
であるから、この「ガラスの花と壊す世界」を手掛けることでようやく石浜氏は「演出家」を名乗れるようになった感じだ。
原案が存在するものの、はっきりとした原作はなく、さらに原案からかなりアレンジしてもよいという自由な環境の中で、石浜監督は何を描くことにしたのか。
自由という言葉だけでは何もとっかかりが無いので、A-1 Picturesと石浜監督はまず企画の方向性を探らなければならなかった。
そして企画を持ってきたポニーキャニオンのプロデューサーから引き出せたのが「最初のマーケットを男性に絞りたい」「とにかく泣けるものにしたい」というものだった。
これを踏まえたうえで、石浜監督は原案を見て感じ取った「キャラクターの立った物語」「『知識の箱』という世界観」という要素を広げて作品を作ることにした。
結果として、石浜監督がこの作品を作る上で重きに置いたのは「いかにキャラクターをかわいく見せるか」ということだった。
プロデューサーの「リモは絶対に守りたくなる存在にならなければならない」という発言を聞き、これは外せない点であると考えた。
そして、リモをはじめとしたキャラクターの感情を中心に描き、泣ける物語にするという目標を軸に、石浜監督のセンスでさまざまな要素を盛り込んでいくことになった。
劇場パンフレットでも「すべてはリモのため」という旨の発言がある。
リモという存在がデュアルとドロシーにどういった変化をもたらし、この3人の関係がどう変わっていくのか、それを描いたのが「ガラスの花と壊す世界」なのである。
終盤の怒涛の展開も、SF的な入り組んだ設定も、すべてはリモというキャラクターのバックグラウンドを固めるためのものなのだ。
「泣ける物語」にするために固めなけらばならなかった背景のひとつにすぎないのだ。
「新世界より」では壮大なテーマを持った物語を扱った石浜監督だが、今回は少し違った点に重きを置いたことになる。
さて、石浜監督の魅力とはなんだろうか。一言でいえば「オシャレ」なことにあると思う。
独特の感性だとか、常人でない発想とかそういったものとは少し違う意味でのセンスの良さが石浜監督にはある。
そういった意味では、同時に劇場公開されている尾石監督の「傷物語」と対比構造にあるのかもしれない。(尾石達也と石浜真史は専門学校の同期らしい)
何をどう見せればグッとくるかを非常によくわかっている。映像で見せる技術がとても高い人物だ。
今回の作品では全編石浜監督が絵コンテを描いており、とにかくグッとくるカットがひたすら続く。興がそがれるダサいレイアウトが全く無い。
それに加えて、スタッフの人選にもオシャレさが発揮され、何を誰に任せるといいかという判断にも石浜監督のセンスが現れている(今回でいえば世界コンセプトデザインでの六七質さんの起用など)
そして、デザイン全体がすべて意味を持つように映像が構成されるように考えられているのだ。
非常に意地悪な言い方をすれば、リモとの出会いと別れの物語を描いた67分のPVである。
さらにプラスアルファの要素として、石浜監督のフェティシズムがにじみ出た少し艶めかしい人物描写があり、繰り返しの視聴に耐えうる映像に仕上がっていると言えるだろう。
オリジナルの劇場60分という短い尺でキャラクターの感情の動きを描き切るのはかなり無理があるものの、その映像表現力でどうにか補完したような印象である。
結果として、作品として非常にまとまりのあるものとなったものの、映像を見る視聴者の感じ取り方にかなり委ねられたものになっている。
この物語をいかに噛み締め、咀嚼するかは自分次第だということだ。押し付けがましい映画ではないので、気楽に劇場へ足を運んでみてはどうだろうか。
・石浜真史(アニメーション監督)(Rooftop2016年1月号) - インタビュー | Rooftop
・「自由に作れる」ということの難しさ、「ガラスの花と壊す世界」石浜真史監督&プロデューサーインタビュー - GIGAZINE
結構好きな作品ばかり抜けてたので、参考になるか分からんが俺の感想かいとく。
神風動画制作なのでCGのアニメートのくせに熱量がありすぎる点もすごいんだけど、これに関してはAC部の参加が熱い。AC部が混入していることで完全に世界がAC部になっている。AC部の映像が出てくるだけで笑える。
巨大ロボ×ハードSFがたまらん。重厚感のある世界設定もそうだけど、ものの挙動に一つ一つ設計があると感じられる。そうやって緻密にかつ大胆に作り込まれた動きってのはそれだけでロボアニメの素晴らしさの可能性を十分に示している。長編化してほしい作品第1位。
自分はこれが最高作品だと思う。なかむらたかしの造形センスはほんとに素晴らしい。特にダンサーの造形がGOOD。絵本のような背景も見ていて幸せになれる。音楽もジャジーでダークな感じが合ってる。なにより作画面でのクオリティが随一で、同トレスで言ってたけどなかむらたかしが原画の大半をやって、スタジオコロリドのなかむらたかしチームが動画をやっているんだと(同チームの「寫眞館」という短編映画もおすすめ)。やっぱりジブリと一緒で、動画チームが洗練されていると質が高いアニメーションが生まれるんだよね。お姉ちゃんのブブリーナがトラブルを起こして妹のブブがウルトラパワーで解決するという定型感もよい。NHKで定期的に新作が放送されるべきだ。OPとEDもまだアニメが子供に向けてちゃんとつくられていた時代の美術を彷彿とさせる良さがある。
随所にエヴァQを思い出させるキレのよい画面があって、カラーCG部の力強さを見せられる。全体としては見本市〆のファンサービス感がある。
ここらへんは俺も分からなかったけど、同トレスみたら、どれも元ネタを丁寧にふんだんに取り込んでる作品だったから、グリッドマンを知っている、内山まもる版ウルトラマンをしっている、各種ロボ特撮のディティールに精通している、のであれば激燃え作品であることは間違いないようだった。
調布FMで新春アニソン三昧を聞いてアニメソングの良さを再認識した。
音楽は「物語」と「技術」という2つの要素によって構成されている。
音楽は表現の手法なので大部分の音楽は物語を詰め込まれている。
純粋に演奏者や作曲者の技術をアピールすることや聞いていて心地良いことをひたすらに追求した音楽もあるが。
アニメソングのような何らかのテーマソングは物語の部分において非常に有利な立場にいる。
大抵の音楽は表現者のバックグラウンドやその時代時代の情景を切り取ることによって物語性を生み出している。
だけどそれが何を意味しているかに受け手が気づくのには時間がかかる。
もしかしたらずっと聞いていても半分も伝わらないままかも知れない。
それこそ音楽を聞く前から受け手と表現する側の間にどういう物語が歌われているのかが半分ほど共有されている。
たとえばオリンピックのテーマソングなら挑戦する事や努力する事の素晴らしさが歌われるのだろうと予想がつく。
これがアニメソングになるとそこにOPやEDの映像まで付いてくる。
音楽のPVなんて半分ぐらいは何をやっているのか分からないような映像が流れているものだがアニメソングの場合は少なくとも作品の内容と一致したものが流れる。
そして大部分のアニメソングはある程度はその作品のテーマに沿った物語を歌っている。
そのため映像を見ることによって視聴者が受け取る作品のイメージと、その作品のテーマとリンクした歌の内容は自然とリンクしていく。
更にその映像の後で本編が始まるのだ。
本編を見ることで視聴者の中に溜まっていったアニメの物語は次にOPやEDを見るときに歌の中の物語と少しずつ共鳴していく。
そうした行為が十数回(1クールアニメ、または1クール毎に主題歌が変わるアニメの場合の例)に渡って繰り返される。
当然視聴者はただその音楽を聞いた場合とは比較にならない程その音楽の中にある物語を噛み砕くことになる。
時に歌詞の内容を物語の展開とリンクさせ、キャラクターの心情とリンクさせて自分の中でこの歌はこういう事を歌っているのだなと咀嚼していく。
そうして次にその曲を聞くときは聞いている側の頭の引き出しからそうしてそれぞれ向けに調整され終わった物語が音楽に合わせて流れるようになるのだ。
つまりほぼ完全に聞く側が音楽で歌われる物語とシンクロした状態で曲を聞くことが出来るようになってしまうという事なのだ。
何度でも言おう、これは大きな強みだ。
聞く側がほぼ完全に曲の内容を理解して音楽を聞くことなんてそうそうあることじゃない。
そりゃ普段から音楽を聞きまくっている人間ならそれぐらい普通なのかも知れない。
だけど流行りのJーPOPをちびちび聞いているだけの人間たちからしたらそうそうある事ではないのだ。
ただOPとEDを飛ばさないでアニメを見るだけでいつの間にか聞き手は歌詞やメロディーとシンクロ出来る様になる。
元旦の丸々半日をアニメソングに捧げているあいだ150近くものアニメソングを聞いていたものだが、そのうちアニメを見たことがある物のほとんどでその歌詞が何を歌っているのか理解できた。
エルフェンリートみたいな元ネタが小難しい奴はちょっと自信がないけど。
この「理解のしやすさ」こそがアニメソングの大きな魅力だと再認識した。
何度も何度も聴きこんで聴きこんで歌詞を頑張って噛み砕けというのではなく、アニメのテーマを思い出しながら聞いてみればなるほどこういう歌なのだなと理解できる取っ付きやすさ。
音楽にどっぷり浸かっている人達からしたらえっそこまで手取り足取りしないと駄目なのと思うかもしれないけどそうなのだ。
聴きこんで聴きこんで理解するという行為をサポートしてもらわないと正直しんどいのだ。
それをしんどくなくやってくれるアニメソングは実に素晴らしい。
しんどくない余暇の過ごし方が出来るのは本当に素晴らしいよ。
それは、頭が悪とかじゃくて、単純に作品の表層しか見てないので製作者に興味が無いんじゃないの。
アニメに限らず、実写映画、読書、マンガやTVドラマでも驚くほど作者に興味の無い人は多い。そういう人は、興味がないから作品の表層を消費しているだけで、作品を作った人に思いを馳せたりしない、ってだけしょう。
そんな人に、監督が分かったらおもしろい、この演出の意味はね... なんて言っても意味ないよ。そもそも画面の向こうに対する見方が違うの。
ひょっとしたら単にバカなだけなんじゃないか。
富野監督とか知らないの?宮﨑駿は?虚淵脚本とか聞いたことない?シャフト的な演出ってイメージわかない?
さすがにこの辺はわかるのではないだろうか。そして、この作風は好きだ・苦手だという印象があるはず。
何故そのへんがわかるかといえば単純に「特徴的かついろんな場所で何回も目にしてるから」だろう。
んでバカはそうやって何度も繰り返し印象的に見せられないと名前を覚えられないわけだけど、普通の人はOPで何度か見る名前だったら意識しなくても普通に覚えれちゃうんだよ。
人の顔が覚えられない人と一緒で、何も考えてない、情報をただ漠然と流している、体系的に物を覚えることをしないタイプ。
仕事とか出来なさそう。
これでもかというアニソン名曲だらけのセットリスト。
田村ゆかりすげーと思った
服装は言うまでもないけど、常にニコニコ微笑みながらCDレベルの歌を歌っているんだよ
アニメのOPで笑いながら走るっていうのがよくあるけど実際にやるの難しいって増田を前書いたけど、
ニコニコ笑いながら、軽く踊りながら、CDレベルで歌うのってすごく大変だと思うんだよ
あとは水樹奈々のエターナルブレイズのときのペンライトの盛り上がりが、他アーティストと段違いですごかった
angelaがシドニア歌ってたけど、アニサマとダブって微妙だった。
林原めぐみギブアリーズンなしか・・・と思ったらカットされてただけだった。ちくしょー。
森口博子が歌う前に少し話をしてて、もともと歌手デビューしたのにリストラされてタレントやってたみたいなの言ってて、ちょっとおどろいた。
ハッカドール自体を初めて見たんだけど、尺の割にOP長いなー、OPの動きがなんかキレよすぎで中割りなさすぎて微妙だなーキャラクター微妙だなーってのがあったOP
本編は言うほどか?って感じ
まあ現実こうなんだろうけど、それをハッカドールのアニメの中でどう昇華させてるかっていうとまったくそれがなくて、悲惨な現実をチラ見せさせただけって感じで余韻もクソもないし
スマッシュヒット的な話題にはなるかもだけど、当然すぎることをやっても驚きは少ないし、現実がクソなんて百も承知なことを改めてアニメでやられなくてもっていうやっちまった感で、まあパロとしてレベル低すぎた
期待しすぎたのもあるけど
短時間アニメならてーきゅうの濃さとあいまいみーのカオスさに慣らされてるから、よほどのもんじゃないとすぐ賞味期限切れるんだよなあ
放送中のアニメ「ハッカドール THE あにめ~しょん」の第9話にて、監督のげそいくおさんが絵コンテ・演出・作画監督・原画を1人で兼任。その凄まじさがネットで話題になっています。
監督のげそいくおさんは以前、インターネット掲示板“2ちゃんねる”にて「ハッカドールは短いアニメなのだから、下手に他人に任せないで死ぬ気で全部のパートを担当すればいいのに」と書かれたことがあり、1つの担当パートだけでも圧倒的に作業量が多いことから「暗に死ねと言っているよねこれ」と苦言を呈していました。
そこからまさかの絵コンテ・演出・作画監督・原画とかなりの数のポジションを兼任したことで、そのファイティングスピリッツにアニメファンもびっくり。監督が絵コンテか演出を兼任すること自体は珍しくないのですが、ここまで多岐にわたる兼任は滅多にないことから「げそいくお監督を人間国宝にするべきだ」「狂気を感じる天才」など、さまざまな反響が寄せられています。
この間放送された「ハッカドール THE あにめ~しょん」第9話を指しての記事だが、この文章だと色々とミスリードを誘おうとしているように見える。
「何もかもげそいくお監督が1人でやったから凄い」という風に誘導しようとしてる印象を受けたが、実際はどうだっただろうか。
ハッカドール1話分は約8分、その内OPEDの尺を除くと本編は約6分。一人で原画を担当するのも何とか可能な規模だろう。
しかし担当したげそいくお氏はハッカドールの監督自体も兼ねているため、監督業務を考慮した上で考えるとかなりの作業量ではあるだろう。
しかし実際第9話を見てみると、後半はアクションシーンなどもあるが前半はドット絵の画面を用いたり、同じカットを何回も繰り返したりと省力的に済ませられる所は省力的にやっている
http://download1.getuploader.com/g/sakugasure/434/hakka9.jpg
ハッカドールという作品はギャグアニメなので、こういった省力化もギャグの演出として機能するように計算してやっているのが窺える
また、げそいくお氏本人が言ってるように一人原画と言ってもL/O(レイアウト、ラフ原画)までで清書等を含めた第二原画以降は分担作業である。
本日のハッカドール9話 コンテ演出作画監督一人原画(LO)その他諸々なので見てね!— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 27
ネット上では動画や仕上げ、背景なども担当している事も取り沙汰されているが、これも結構な人数のうちの1人として数えられる
憶測ではあるが、第9話でげそいくお氏が動仕まで担当したのは、こういう線のタッチを強調した一連のカット↓の事だろう。
http://download1.getuploader.com/g/sakugasure/435/hakka9-2.jpg
これらを鑑みるに、今回げそいくお氏がやった事は「常識外れの脅威的な行動」をしたというよりも「地に足がついた堅実な方法」を取っているように思えた。
様々なセクションに名を連ねていたとしても、それぞれ実現可能な範囲での作業を執り行っているように見える。
それらをしてネット上では「狂気を感じる」を称されているが、世の中にはもっと狂気を感じるぐらい個人が作業を抱え込んだアニメも存在する。
例えば、いまざきいつき氏は「ちょぼらうにょぽみ劇場あいまいみー」1&2期や現在放送中の「不思議なソメラちゃん」において監督・キャラクターデザインと共に脚本・絵コンテ・演出・作画監督・原画を1人※で"全話数"担当している
この2作品は1話の尺数はハッカドールよりも短かく3分弱であるが、全て合わせると30話はゆうに超えるので作業量もプレッシャーも相当なものになるだろう。
※(厳密には、あいまいみー1期は最終回だけ二原に撒いているし、2期やソメラちゃんは最初から第二原画有りきの体制)
竹内哲也氏も「百合星人ナオコサン」で監督・脚本・キャラクターデザイン・絵コンテ・演出・作画監督・原画を全て1人でやっている。こちらは第二原画も無しだ
「ナオコサン」のアニメは2本作られているが両方とも竹内哲也氏である。2本目は30分近くあるにもかかわらずだ。
OP(演出は山下祐)もEDも1人で作画している。カットの内容もアクションありエフェクトあり群衆あり回り込み背景動画もありの超ハードだ。
三原三千夫氏が「カイバ」の第4話で動画まで1人で担当仕切った時は作画オタクの間では騒然としていた。
動画チェックこそは違う人だが、ほとんど他者を介さず三原三千夫氏の絵がそのまま画面上に全編にわたって映し出された事になる。
ただしこれらは特別なスケジュールが組まれ、完成まで半年から1年はかかっているので通常のアニメとの比較では参考にならないかもしれない。
監督のげそいくおさんは以前、インターネット掲示板“2ちゃんねる”にて「ハッカドールは短いアニメなのだから、下手に他人に任せないで死ぬ気で全部のパートを担当すればいいのに」と書かれたことがあり、1つの担当パートだけでも圧倒的に作業量が多いことから「暗に死ねと言っているよねこれ」と苦言を呈していました。
そこからまさかの絵コンテ・演出・作画監督・原画とかなりの数のポジションを兼任したことで、そのファイティングスピリッツにアニメファンもびっくり。
この書き方だと、まるで「全部やればいいのに」という発言を受けてから第9話の1人複数担当が決まったような書きぶりだ。
しかし「暗に死ねと言っているよねこれ」というげそ氏のツイートが投稿されたのは11月15日
暗に死ねって言ってるよねこれ pic.twitter.com/hGiKHhVCHH— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 15
そしてハッカドール第9話が放送されたのは11月27日、短編アニメとはいえ幾ら何でも12日で放送まで完パケするのは物理的に無理だろう。そんな"思いつき"のような案がまかり通る状況とも思えない。
だからこれは「1人でやればいいのに」という反応とは無関係に9話の体制は決まっていたと考えるのが自然であろう。ちょっと考えれば当たり前の話であるが。
自分は別に「ハッカドール THE あにめ~しょん」を貶めたいわけじゃない。大したことしてない等とは思っていない。
それどころか今期のアニメでは「ハッカドール」は抜群に面白いと思っている。決してゴージャスなアニメではないが、ジャンクな感じがたまらなく良いと思ってる。
楽に作ってるアニメでも決して無いだろうし、監督以下スタッフが身を削る思いで作られてるのは紛れも無い事実だろう。
放送開始直前の頃は、監督げそいくお氏のツイッターがかなり荒れた内容になっていたし、ニコ生でも制作状況の厳しさ、意思疎通が上手くいかない状態を何度も嘆いていた。
アバウトなアニメに見えても、作ってる方は決してアバウトに作ってるわけではないのだ。
自分がこの記事で一番に疑問に思うのは、執筆したねとらぼの大里ミチルなる記者は本当に物事を解った上で書いてるのか?という事である。
自分はねとらぼの事を、企業が運営するまとめサイトという認識でありはっきり言って悪い印象を持っている。
はちま起稿ややらおん等の悪名高いまとめサイト群と大差ないとすら思っている。
企業運営である分余計質が悪いとすら思っている。(はちまjinややらおんが企業ぐるみで無いとも思ってはいないが。)
ねとらぼは過去にはちま起稿を喧伝するようなインタビュー記事を掲載していたし、つい最近でもその記事を作成した池谷勇人というライターが久保帯人先生を誹謗する意図があるとしか思えない記事を書いた
集英社が“久保帯人先生ネタ”行為に警告 「別人の肖像をあたかも久保帯人先生であるかのように紹介」「悪質な場合には法的措置も」 - ねとらぼ
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1509/04/news145.html
この記事は当初の題名の最後に「あっ……(察し)。」と書かれていた。
「あっ……(察し)。」という言葉を付け加えることで、久保帯人先生を貶める方向に印象付けようとしていたのは明白であり、ユーザーの通報によってタイトルから「あっ……(察し)。」が削られた
これを記者無記名で行ったわけだが、有志によってこの記事の作成者が池谷勇人である事が暴かれた
(察し)とか書くやつ全員死なねえかな、例えばねとらぼとか
そういう所が送り出す記事は常に身構えている。
何よりロクな下調べもせず、適当な事を書き散らすだけの記事は悪だ。
「サブカル、語る」みたいな個人ブログですら槍玉に上げられる昨今、企業運営の所が糞ザルな記事書いてどうすんだと思う。
今回のねとらぼのハッカドールの記事は、はっきり言ってザル記事だ。
「ハッカドール THE あにめ~しょん」の魅力を伝えるわけでもなく、ただ単にネットで目についた話題を適当にちょっぱってコピペで仕上げただけにしか見えなかった。
ましてや「ネットの反応を真に受けて監督は一人演出・作画を敢行した」という嘘のストーリーをでっち上げようとしているのは、作品を持ち上げてる記事だとしても流石に看過できなかった。
追記
あと2ちゃんに反応してから9話作ったわけないからな10;あのツイートしたのって確かもう9話納品してなかったっけ…— げそいくお (@gesoikuo) 2015, 11月 30