はてなキーワード: 自費出版とは
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160329/1459195200
違う,と思います。
インターネットがもたらしたものは「自分の表現したい事を、手間もコストもかけずに表現できる」環境であって,表現していいもの悪いものは昔と変わってないし,表現に伴う責任もまったくかわってない,と考えています。
インターネットがあらわれる前,個人の日記や評論,愚痴や文句を出版してくれる出版社はありませんでした。それは法律や制度で禁止されていたからではなく,たんにかかるコストが回収できないからです。自費出版すれば可能でしたし,金をかければ宣伝も流通に乗せることも可能は可能でした。
インターネットはそのコストを劇的に下げただけです。数千円のコストを負担すれば誰でも自分の文章や表現をみなが見れる状態にできる。手間も暇もかけずに表現をおこなうことができる。そういう環境を提供しただけです。
意見を述べれば反論される。誰かに不利益をもたらせば賠償請求される。違法な情報をのせれば裁かれる。それはインターネットになっても変わりません。
以前は表現に伴う責任がないように見えたのは,単にインターネットの利用者が少なかっただけです。責任は,それを追求する人間がいてはじめて顕在化します。初期のインターネットにも表現に伴う責任はあったのですが,目にする人間が少なかったので追求する人間がいなかっただけかと思います。
…という気持ちではいる。気持ちの上では。立場の上ではどうなるか分からないが。
部室長級の記事で、何がしたいかよく分からない原稿400字ほどが急に降ってきた。
既存のコーナーでなんとか許容できるかなっていう場所があったのでそこに入れようとしたら、
連載にするから新しくコーナー作れと。今でもぎっちぎちの裏表紙にスペース開けろとご指定。
いやいやだって、印刷物だから誌面には限りがあるんだよ!文字小さくしたら済むとかいう問題じゃないんだって!というか、ページ毎に趣旨も違うんだって!デザインとかレイアウトとかの問題だってあるの分かるでしょ、やってたんだから。
そもそも、タイトルなし、掲載目的不明(本人も曖昧らしい)、名前も顔写真も載せるな、ってそれを社内報でやること自体無謀すぎるでしょ。
社員の役に立つとか、そういう意図で社内報は作るべきってアナタ言ってたじゃないの。
それなのに自分でもどうしたいか不明っぽいものを持ってくるとは何事か。
これ、どうにか希望通りの場所にねじ込んで、今仮に入れてるスペースにも新しく記事入れ込んで尻拭いして、
ってどうにかやりくりしてやれよって思われるんだろうか。
こちらとしても大事な寄稿、尊重はしたい。というかどうにか不自然にならないように入れたいとは思っている。でもその場所にこだわる主張には誰も納得できていない。納得できる理由がない。
高額な本をAmazon等を利用し流通させているようにみせかけた上で
国立図書館に納本し,代償金をせしめているのではないかという問題について。
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/deposit/preservation.html
納入される資料は「毎週」1万点以上であり,どう考えても精査は不可能です。
また、出版点数が少ない学術書などで定価が万を超えることはザラであり,
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/deposit/qa05.html
「社史・団体史等の自費出版でも、相当の部数を作成し配布されているものは納本の対象」という規定が既にあります。
具体的な数字を決めてしまうのは柔軟な運用を困難にするため,このような改善は不可能であると考えられます。
http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/deposit/qa05.html
「ホチキス止めなど簡易綴じのもの、広く一般に公開することに支障があるものなどは、納本の対象とはなりません」とあるように,
同人誌であれば,ISBNを全てに振っている暗黒通信団の資料があるということは有名です。
国立国会図書館の使命は,国内外の資料・情報を広く収集することです。
罰則があるにも関わらず,大手出版社であっても納本されていない資料というのは
資料が集まらなくなるようにする方針は前述の使命と反しており,そうできるものでもありません。
そもそも現時点でも納入漏れが多く,督促事務に多くのコストが割かれているのが現状です。
自分が好んで参加するイベントと,国による納本は同じレベルで語れるものではありません。
「国による搾取だ」といった反発が頻発することが容易に推測できます。
当該の出版社に支払った金額の返還を求めるという」という方針はあるそうです。
周りの凸によって当該者が根をあげるかどうかが肝とは考えられます。
中学三年間で集中して詩集を読む。海外の古典。シェークスピアなど。
創作は、思いきって漫画を描く。早めに画材を揃えて漫画友人を増やす。
高校三年間は、古典の小説に移行。日本文学でも、海外文学でもたくさん読む。
流行の漫画はあまり繰り返し読みしない。もっと多くの漫画を知り、多くの漫画家を知る。
大学では、バイトで金をためて、流行りだしたバックパッカーで海外旅行。
東南アジアなどをうろつく。出版社持ち込みなどの暴挙に出るのもこの頃。
社会人では、もっぱら趣味で漫画と小説、時々油絵や刺繍など趣味を広げる。
実用書、学術書、翻訳書、自費出版、ウェブ、モバイル、電子書籍
について、共通して言えるとすれば
ですわ、と。
・「ライターはつけず、あなたが執筆していただきたい」と言われたので承諾した
「著者としての元増田の執筆能力に不安がゼロなわけじゃないけど
「カネが潤沢にあるわけじゃないし、ライターはつけられない
・インタビューなどに行く場合は、私が相手とコンタクトをとり日程を取り決める。出版社からは私と相手ふたりあわせて1000円のみ支給。(珈琲代にもならない。相手への謝礼は?)
この一節なんかも
版元の指定で「やらされ感」あったからこそのコメント、だとすると
やっぱり純然たるコスト削減した制作体制、ってだけな気がしました。
著者の意見は聞くけど
「提案とかけはなれたもの」になることは往々にしてある。
著者とのすりあわせが出来ない編集が
総合して覚える
「ですよねー」感。
なにしろお疲れさまでした。
映像機器がデジタル化で「格安」になったから、自主制作映画本数が「激増」して、作品を「上映しきれない」らしい。
2000年前後が年間500~600本の作品数、2014年は1184本に倍増。
★なんでも、「知人友人に出演を依頼して人件費をケチれば、製作費300万円程度でできちゃう」らしい。ポケットマネーで簡単に映画が製作できる時代。
さだまさしが趣味で映画「長江」作って破産しかけて、その後NHK御用達芸者になったというエピソードも今は昔。
「以前は5本の中から1本をセレクトして上映していたのが、20本から1本を選ぶような感覚。選び間違いがないか不安」
「埋もれた才能を見逃さないか怖い」「2日に1本のペースで新作を公開している」状況になっているらしい。
★で、日経記事では、「元々、本数が多い=多様性で、いいこと」だったのが、
「本数が多すぎる=果たして観客にとっても、映画界にとっても、いいことだろうか?」と「多すぎる現状に警鐘を鳴らす」記事になっている。
「??」と思ったが、要は
「一作品毎の上映期間が短くなると、口コミで評判が広がって尻上がりにヒットを伸ばす、の流れが起きにくくなる」
「作品を育てる・監督を育てる、というミニシアターの機能が失われる」とのこと。
★でもキツイ言い方だが、「作品・監督を育てる」のは、果たして「ミニシアターの役目」なんだろうか?
「一定程度、本数を制約して、一定程度の予算を作品に集中させるようにすべき」的ツイートを見かけたが、そういうものなのか?
「300万円作品が1000本な世界より、3億円作品10本の世界の方が望ましい」という映画関係者の意見は「正しい」のか?
★「300万円で製作される映画」って、もはやプロ目指してないよね。
本業がサラリーマン、な人が、貯金をはたいて「趣味」で映画取っている、そういう世界。
そういうアマチュア作品が映画界に溢れ、映画作品をダンピングさせている。
で、「映画でおまんまを食おうと思っている連中」が「お前たちのダンピングのせいで、俺たちがおまんま食えないじゃないか!!」といちゃもんつけている、
★この構図、どっかで見たことあると思ったら、そうだケータイ小説の世界だった。
別に作家を目指さないフツーの人が、ケータイで小説書いて、それをノベライズ出版したらミリオンセラー(例:恋空)。
プロ作家志望な人からすれば、『趣味作家』に完敗した格好で、プライドがズタズタ
でも、観客・読者からすれば、『作り手がプロか?アマか?』なんてのは『どうでもいい話』であって、『面白ければいい』。
『映画の作り手は、やっぱプロじゃなきゃならない。そうしなければ映画文化が続かない』は、プロの身勝手な思い込みだと思う。
★つまり映画を『商業映画』に限定する試みは『空しい抵抗』であり、
むしろミニシアターは『アマチュアの自費出版的作品』を積極的に上映する『ワナビーの自己満足充足ツール』にしちゃった方がいいのかも。
定年退職したシニア同士で、あるテーマについて1年程度調査研究した上で、共著で自費出版するスキーム。
★例えば、自分は定年退職したら、不動産の知識を生かして、自分が幼少時に過ごした高層分譲マンション群「阪急南茨木ハイタウン」の歴史、
さらには70年代の関西の民間マンションの歴史について調査して、本にまとめたいと思ってる。
⇒共同研究、共同著作の仲間がいれば、何とか「本」というまとまった形にできると思う。
★また、著作の調査研究の過程で第三者へ取材ヒアリングする必要性も出てくるが、
退職者個人の名刺で阪急電鉄や茨木市に取材しようとしても門前払いされるのがオチ。
そこで「南茨木ハイタウン史出版組合」みたいな名刺があれば、阪急電鉄もまともに対応する。
★「出版組合」は、いわば一つのテーマ、一つの著作物に対して、何人かが緩やかに参加する「期間限定プロジェクトチーム」。
本来的には出版した時点で、組合の活動は終了(著作権管理の為に10年間は存続させるが)。
NPOみたいに「半永続的、ゴーイングコンサーンな組織」じゃない
★仮に日本の「前期高齢者」(元気な高齢者)1000万人の中で、出版を考えてる人が50万人いて、
彼らが「5人で一つの出版組合を毎年組成し、出版」していったら、
今の日本の出版総点数は9万点程度だから、出版点数が倍増される計算になる。
★言ってはなんだが、「素人が一人だけで書き上げた自費出版」は、「思い込み」や「独りよがり」も多く、質が悪い。
その点、「出版組合方式」で複数のシニアが相互チェックしながら著述をまとめることで、内容の質が高まる。
★ふと思ったが、それなりの歴史がある大規模なマンションなら、区分所有者の有志なり歴代の理事長なりが、
「出版組合方式」で、マンションの歴史を出版してもいいのでは?
その辺の小学校とかでも「小学校50年史」とか発行してるなら、「広尾ガーデンヒルズ30年史」を発行してもいい。
★役所とかが主催する生涯学習が「虚しい」のは、成果物、アウトプットがないからだろうなあ。
「出版」という目標がある出版組合方式なら、目標があってハリが出る
・旦那には愛されていたが旦那のまわりの人間からは「何あいつ」視されていて
・自費出版うんぬんも、旦那をしのぶひとたち(おおぜい)から批判的に見られている
・TVドラマの原作になるってんで記者会見までセッティングされ
で、一人称で作品を引っ張ってきている男性(=もともとは未亡人に好意的だった)が
けっ。
と思う、というところまで進んできているんですが
アレか、これはゼロ田せんせいとかが登場してくるんですよね?
ってか「うさんくさい役どころ」を一身にになっている、出版社のおっさんがゼロ田せんせいなん?
みたいな興味でけっこう楽しく読めるからみんなも注目するといと思うよ。
いまだ紙の本や雑誌を出してる出版社の人は、案外コンサバで、冒険を嫌います。
そういう人たちにとって、「商業出版の経験者」というのはそれだけで価値のあるものなのです(自費出版はダメ)。
以前に本を出したことがあり、それがそこそこ売れていれば、「読者」がすでについていると見なせます。すなわち数字が固い。
そして紙の出版社の人は、案外(でもないか)ネットに疎いです。その著者がネットで批判されていることに気が付いていない、あるいは批判されていることを知っても「ネットの話だろ?」と黙殺することすらあります。
こうした流れで、いったん有名になることで、その後も定期的に仕事がもらえたりするわけですね。だから先駆者は美味しいのです。
ふと、あのブラック企業どうなったかなーと思ってあった場所に行ってみたが見事に潰れて更地になっていたので
当時の事を思い出して書く。
1.役職をつけてもらう為に入社後一年で自己啓発セミナー強制参加。
2.給料日は1日2日ズレても当然、見越して支払いの算段ができない社員が悪い。
などなどツッコミどころは多々あったが、当時社会人一年生だった俺にはわからなかったし親も三年は我慢しろと言うので働き続けた。
結局社長は思い通りに動くYESマンで自分の城を作りたかっただけだ。
実際自己啓発セミナーで洗脳済のやつらは全員これらに不満すら漏らさなかったから。
TAYAMA学校 http://www.tayama.co.jp/index.html
50人はいたかな。年代は20~50まで幅広く、俺のような一社員から商工会で勧誘された社長までいた。
まず到着したら携帯、財布を没収される。逃亡阻止の為。(実際40代くらいのオッサンが途中で逃げ出して捕まってた)
セミナーの内容はいくつかあるのだが、まず大声で宣誓文を読まされる。限界ギリギリまで、身体を折り曲げて声を出す。
出せない、出せるに関わらず全然出ていないと容赦なく怒鳴られる。会議室の机を挟んだ至近距離で全力で怒鳴られてけなされる。
何故出来ない気合が足りない意識が低いそれでちゃんと生きてると言えるのか。両親に申し訳ないと思わないのか。
まだだもっとだ出来る筈だ何故出来ない何故やらないんだ。もっともっともっともっと全力でやれ死ぬ気でやれ。
この時の指導役は、この三泊四日の初級者セミナーを終え、もうワンランク上のセミナーをこなした洗脳済の自分の会社の上司である。
(ちなみに初級者研修で約10万強、トレーナー研修は20万ぐらいはしてた。
その金額を出してもらえる俺は会社からこれだけ期待されてるという一種のステータスでもあった)
途中で宣誓文は歌に変わるが、ほぼ三日間怒鳴られる→喉を痛めながら大声を出す→怒鳴られる→大声 の繰り返し。
歌は何でもいいと言われたが隣のオッサンはサザエさん歌ってた。もう歌じゃない。原型留めてない。
「ゆううううかあああああいいいいいいだなああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
オッサン、シュールすぎんだろ。俺もメダカの学校かなんかそのノリで歌ったけど。
休憩代わりには度々成功体験の講演を挟む。これも上司連中泣きながらのスピーチ。
やらせて怒鳴り、自信を粉々に砕いて指導側の思い通りの行動ができるようになるまで潰し、最後に褒める。
上司の成功体験をこれでもかと押し込め、できるようになれば成功する!何故やらないんだ!と追い討ちをかける。
それが11時くらいまでは続く。
課題は二つ。
2.どこでもいいので班四人時給1000円で仕事をさせて頂く。
「タヤマ?よそ行って」
半日相当遠くまで歩き回り、最終的に土下座までしてクリアした。
どんだけ嫌われてるんだよタヤマ。
まあ洗脳されて声はガラガラ、睡眠不足で赤くなった目だけらんらんとしてるゾンビみたいな20~50代の集団なんか普通に怖いわな。
ふらふらになって帰ったら班別で発表、レポート、大声で上司に報告してよくやった!と泣きながら抱き合う。
そして何故か上司連中、頭にネクタイを結んで大声で歌い踊りだす。
「お前らも来い!入っていいんだよ!お前らは試練をクリアしたんだから仲間なんだ!」
そして涙涙で終了証書をもらい、やっと帰路に着く。
もちろんこれは今の感想であり、当時の自分はきちんと洗脳されていて、その後一ヶ月はむやみに躁状態でテンションが高かった。
がぜん無敵。役職も付き、部下に「これくらいできるさ!大丈夫だよ!」とか平気で言う人になった。
だが婆ちゃんの一言で我に返る。
「お前、会社で何されたと」
ぱちんとセミナーを受ける前の、会社に不満を抱いていた自分に戻った。同時にヤバイ、と思った。
おかしいだろこの会社!何給料貰えてないのにいくらでも待ちますよとか言っちゃってんの自分!?
セミナー代1人10万20万支払う前に、従業員の給料払えよ!!!!!!
次の日辞表を出したらかなり嫌がらせされたけど、最終的にはバックレた。最後の給料出てないけどしらね、もう二度と関わりたくなかった。
なあ社長よ、タヤマに救ってもらったって散々言ってたけどさ、二回も倒産して今どんな気持ちよ。
自費出版の本はどうなったんだろうな。
100部でも1000部でも総費用が大して変わらないなんてのはよくある話。自費出版の場合のレートはしらんけど、少数だから安く済むなんて簡単な話ではない。
まぁとりあえず、書店には並ばない。並んだとしてもそこは自費出版専用の隔離領域にほんのちょっとだけ、そしてまず売れない。これは100%。
そしてその上で約束してほしいのは、売れないことを出版社のせいにしないでほしい。
何故ならお父さん、あなた自身が、本屋に並んでいる誰のものとも知れない自費出版の自伝を見た事がありますか、金を払って買ったことがありますか、読みたいと思いますか、ということの答えがその理由だから。
売れようが売れまいが書店で自分の本を見られるのが嬉しくて自費出版を繰り返すって話は別に珍しくははないと思うが。
大体電子書籍NG、書店に自分の本が置かれてるの見たいとかって言ってるのに、売れなかったから次は出さないなんて判断できる人じゃないと思うよ。だったら最初から自費出版したいなんて言わない。
作家志望の話が出たので書いてみる。
作家志望の友人Aがいる。Aは作家志望なだけあって原稿は書いていたようだが、まともな賞にかすったこともない。
唯一、自費出版で有名な会社から才能を褒められた経験があり、自分には実力があると勘違いしている。
(ネットで調べると自費出版の会社はどんな作家でも褒めて自費出版させようとするらしい)
そんなAは、俺に読書をしろ、文章を書いてみろと作家先生のように指導をしてくる。
別に作家になんてなりたくないし、ただ友達として付き合ってただけなのに、どうしてこうなったんだろうと思う。
見かねて作家志望が読めばためになりそうな本を3冊プレゼントしたんだが