はてなキーワード: 教養とは
学校に求められているのは結局選別の機能だけで、ギョーカイによってはそれすらコネの下位互換に過ぎない
だったら具体的に学ぶ内容なんか、リベラルアーツでも四書五経でもその他の何であっても、選別さえできるなら大して変わりないのではないか
あの「教養を身につけることで人間になれる」っていうのがきわめて怪しいのはそこで
とはいえICUでも卒業研究は必須単位だったけども。教養学部単科大だけど、卒業年次にはメジャーと研究室を選ぶ必要がある。(しかも卒論は原則英語で書くルール。。)今は違うかな?200x年卒。
大学での学びの集大成として、ヒーヒー言いつつそれなり真面目に卒研やってる学生が多かった印象。科学者コミュニティの仕組み、論文執筆、ピア・レビューの意義について教養科目や2年次必修の英語小論文執筆を通じて学んできている。元増田みたいに軽んじる学生はあまり見なかった。
いうて文系メジャー含めても15%超が国内外の大学院に進学するので(理系だけなら体感7割)(文系でも国際機関志望とかだと修士ないと話にならん)、就職予備校的に例に挙げられると実態と齟齬があるってことで。
大学は、「学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」(教育基本法第7条第1項)ことを基本的な役割としている
らしいから卒業研究の姿は定義どおりじゃない?ここで言う「教育」は社会に出るためのものではないよね。あなたの解釈間違いでは?
今年は地頭の出来がいいと聞いたので農協会館から外に出て隣の畑を見たらまあ、あるわあるわ、土から丸々としたイガグリ頭が突き出てずらりと並んでいる。一目見て思わず変な声が出てしまった。
その声が聞こえたのか、向坂さんも会館から出てきた。畑一面の地頭にやはり驚いたらしく、しばらく見入ったまま動かない。向坂さんは白い夏のニットにタイトなジーンズを合わせて、黒いロングブーツで畑の土を踏む。月曜はだいたいこの格好をして仕事にくる。
「今年はまたずいぶんできたねえ」
うっとりしたような声を出して、向坂さんはマルメンライトに火をつけると、煙の輪を静かに吹きだした。
「雨が多くて心配だったけど、まずまずだね」と私は相槌を打つ。
「そうねえ、これだけ出荷したら、今年はバケットを買うのに困らないでしょ」
向坂さんがそう言うが早いか、イガグリ頭の一つが目をむいてこちらを見上げ、
他のイガグリ頭たちはどよめいて、「いまだにフランスパンをバケットと言ってる奴がいるとか」「ちょっと教養なさすぎじゃないか?」などと言い合う。
「はあ? なんかくっせー奴らがいるみたいなんだけど、バケットつったらバケットなんだけど? フランスパンとか何の話?」
地頭たちもいきり立って、
「フランス語のbaguetteは細い棒のことだからあのフランスパンの形状を表しているんだろうが、そんなことも……」「教養の問題が」などと早口で唾を飛ばしながら声が高くなる。
そうこうしているうちに向坂さんは会館の裏からメロン色の油圧ショベルに乗って現れ、るあ、という掛け声とともに、掘削用バケットをイガグリ頭に向けて振り下ろす。赤いしぶきがバケットの先端に飛ぶ。
地頭たちのどよめきは一瞬で止む。
向坂さんは油圧ショベルから降りて、ぱっくり割れた地頭の上にしゃがみこむ。
「あのさ、バケットっていったら、これじゃないの? 普通、農協で買うバケットつったらさ、ン?」
ジーンズを下ろし、しゃがんだ白い尻から地頭めがけて有機肥料を投下しようとする向坂さん。その後ろから私は脇に手を入れて静かに引き上げ、まあまあそのくらいで、となだめる。もう出荷なので、売り物なので。
「まあそうだったね、これがこれからバケットになるんだからね」
話しているうちに梱包材屋さんの配達が来てようやく本来の仕事が始められる。地頭を一つずつねじって収穫してからビニール袋に詰め、出荷準備をする。今年の地頭はどれも大きめで、すべて梱包が終わった頃には少し腰が痛かった。
これから道の駅にワゴンを設置して、『産地直送 顔が見える野菜』というポップを立てて、地頭を売る。この光景を見ると、毎年夏も後半だなあと思う。
名プレー場面集とかさテレビの実況音声や観客の声だけ入ってるやつが一番良い
スポーツが好きな人間は学生時代から文化活動を陰キャとバカにしてきた人間が多いから
つけるBGMもセンスが最低、音楽の中でも最も通俗的で下品な下痢便みたいなBGMをつけてきやがる
例えて言うなら世界の名画を昭和の駅ビルの公衆便所で100均の額縁で飾って展示している状態
余計なことしなくていーから
それは表層経済のバブルマネーだから何かあったら一夜で吹き飛ぶ価値だよね。
やっぱり生きている人が楽しく生産的に過ごす人たちが拡大しないと国力は上がらない。
たとえば、周りのみんなが貧しいと近所のスーパーマーケットの品ぞろえが悪くなって自分たちの舌を満たすものを調達するコストが上がるし、
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
私のジャンルは覇権ジャンルでもマイナージャンルでもない中規模ジャンルのそこそこ人気カプだ。
数年ここにいて、数年書いてる。
そこにとある字書きが現れた。なんというか、才能の塊みたいな存在だった。本人は描くのはこのジャンルが初めてと言っているが確実に沢山小説を読んできた教養の感じられる美しい文章だった。ジャンルの感想も美しくて瑞々しく、愛と頭の良さが存分に出ている。
そもそもオタク歴そのものが短いらしい。中学生の時にオタクだったけど忙しくなって卒業してコロナで戻ってきたと言っていた。
だからこういうお付き合いで失礼があったらすみませんというが、すごく人付き合いというか距離のとり方が上手い。そして日常時折見せてくれるが家がガチの豪邸。料理の品数が多い、外食だーって上がってた写真がロブションだった。添えられたぬいが所在なさげに見えた。特に記念日でもないらしい。本人曰くアラサー実家暮らしなのに何も無い時にロブションに行くような生活だからあの文章がかけるのかと納得した。
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そんな人だから信者すごく出来てる。元々いた字書きも絵描きも擦り寄ること擦り寄ること。あの文章を読んだらそうなる。最大手も普段交流なんてしないのに彼女の文章のファンアートを何枚も描いている。そういう読んだ人間を屈服させる魅力がある。アイコンもヘッダーも最大手製だ。
ある日彼女が本を出すことしたらしい。分からないことばかりなので教えてくださいと言えば界隈最大手の字書きが校正に入ると言う。至れり尽くせり極まりない。表紙はどうなるのかと思えば、別ジャンル(大きいジャンル)の人気カプの大手が何故か自カプを描くということになったらしい。意味がわからん。別ジャンル大手が自カプを読んで彼女に惚れ込んで感想を送ったのが始まりだと。その人が絶対本を出せ私が表紙書くと言い張って出すことになったらしい。そんなことある?
それでめちゃくちゃ刷りました。これからこの本をベッドにして寝ますと言ったくらいの量を一瞬で売り切ってしまった。それは後で聞いたが字書き最大手と同じ量だった。要するに完全に勢力争いが変わった。その本は再販してもまた売り切れている。
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活性化したとは思う。彼女の筆の速さに影響されてか字書きが負けじと沢山書いている。
同人女ならわかると思うが、彼女の貰う感想は義理だったりカプの村社会でなく本気のROM専からの感想が多い気がする。それを律儀に返す性格だからまた感想がくる、全て返せなくてすみませんという姿がまぶしい。
書き手にありがちの、書き手としか絡まないとかでなく読み手にもリプを送ったりその考察気づかなかったですとかするからまた好かれる。
これで顔まで綺麗だったら嫉妬で死にそうと思ってイベントに本を買いに行ったらなんというか流行りの透明感が売りの女優顔ではなく、少し前の華がある系の派手系女優顔でもう嫉妬で死んだ。
信者も本の感想に加えて美人が本売っててびっくりしたとか添えてある。実際ほんとそう。綺麗な顔は信仰にも近いものがある。女同士なら尚更だ。
それにはっきりいって年齢層が高いジャンルだから書き手も子供がいるのが当たり前みたいな状態の中、彼女はいないらしい。だからいうか時間にも心にも余裕があるのだというのが感じ取れる。
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文章の才能だけでも圧倒的だった。面白く美しくちゃんとキャラクター性と関係性を大事にした文章だ。特に恋に落ちた時の感情表現が熱烈で美しく、どういう恋をしたらこんな文章が書けるのだろうと疑問に思う。
それだけでも嫉妬してたのに、他の部分まで圧倒的な差を見せつけられてカプまで変えられて悲しい。
そして彼女のよく使う作者は言及してないけどあったであろうグレーな設定は完全に彼女により公式化されている。このカプにおいてこの設定は公式くらい暗黙の了解になった。
私は実はそれがあまり好きではないし、彼女の好きな別カプ(よく自カプ小説に登場する)が地雷だからなんとも言えない気持ちになる。
彼女がよくABとCDと一緒に書くせいで自カプにCD好きが増えた。そしてCDの大手とも仲良くなっている。もう怖い。グレーな設定もCDも苦手な私は日々息が詰まる。
私にも彼女みたいな才能があればこの盤面をひっくり返せたのかと考えることもある。辛い。悲しい。
天気とスポーツの話を仕入れていてもその人が「教養ある人」とは言われないよ。だからコミュニケーション目的と強弁して安アニメ見てもキモいオタクと思われるだけで教養ある人とは言われないよ。天気の話をしていてもアリューシャン低気圧や温暖前線寒冷前線の中身がわかっていれば教養ある人と言えるのかも。
教養はあくまでも人とのコミュニケーションをスムーズにするものだから
たとえば宮崎アニメとかターミネーター2とか吹き替え版コマンドーとか装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ
とか見てればいいんじゃないかな?
あちこちによく引用されたりパロディされる映画見りゃなんとなく教養ついた感じになるし、映画見てて「あ、これ○○のパロディだ」とわかると楽しさが少し増すので損はない。
(本になるけど、聖書のハイライトだけ知っとくと楽しみが増える。欧米の映画では「あ、これ聖書で見たやつだ」が多い。すなわち聖書とは進研ゼミである。)
映画ではなんだろうなぁ…古典だとローマの休日、ベン・ハーあたり?
2Dの画面に2時間程度の枠でいかにお金を払って飽きずに見てもらえるか、という工夫は色々な切り口でエンタメ業界の教養としては実用的に学ぶところが沢山あると思いますね。シナリオとかシーン構成とかキャラとかセリフとか音楽とか
1970年代くらいまでは芸術家とかが記録映画とか実験映画とか作っていたので、それを知ってる=欧米の最先端文化にアクセスできるというマウントになっていた。パトロンとなっている人たちや出演している俳優・女優・モデルその周辺も含めた芸術文化サロンの知識。ネットとビデオが発達する前のYOUTUBERに相当するのかな。映画文化はハリウッド含めて華々しいけど、ビデオ文化ってあんまり聞かないな。ナムジュンパイクがビデオ芸術家だったのだろうか。いまはYOUTUBERの動向を知っていることが教養かといえば、YOUTUBERは文化サロンを形成しないのであんまり教養と思われていないね。