はてなキーワード: 審美眼とは
まずお前に聞くが善悪ってなんだ?音楽に畏敬を感じたことはあるか?
本当に尊敬できる人に出会うと「恐れ入りました!」と全身で頭をさげる気持ちになる。分かる?
自分の全てを捧げる気持ちになる。それが畏敬。・・・ってところまではおk?
じゃあ音楽に畏敬を感じるってどういうことなんだ?まず音楽ってなんなんだ?
表現って何で、なぜ単なる音が表現力をもつんだ?なぜ人から人へと伝わるんだ?
それはね、音楽は表音文字を並べた詩のようなものだと言えば伝わるだろうか?
ところどころみると意味のある文字列があるように見えてそれには意味なんてない。単なる偶然の産物かお前の思い込みだ。
本当の意味はもっと別のところにある。それが畏敬、なんだ。本当にいい音楽はとにかく凄い。凄いとしか言えないくらい凄い。
そのことが分かる人間は、人に共鳴したり、大自然に感動したりする素質がすぐれている。
これはほとんど生まれつきの素質かもしれない。
誰だって人生に一度は魂を打ち抜かれるような音楽体験をしたことはあるだろう?
でも、それを頻繁にとなると難しい。分かるな?
素質のある人は、音楽ならなんでもすき、すぐに感動する、という人が多い。
べつに貧乏舌じゃない。共鳴力が卓越しているのだから、さも当然のことだ。
それだけでなく、本当にいい音楽がどれかの区別もつく。審美眼がある。そこが一般人との違いだ。
表音文字列に見いだされる意味ありげな文字列なんてありふれていて凄くもなんともない。
http://anond.hatelabo.jp/20121204171950
オタの価値観の中では、絵や曲に比べて文芸は低く見られていると思うよ。
言葉は誰でも使える道具だから、専門的な技能という意識が低いんじゃないかな。
「あー下手な絵を書いてる人間って、文章ばっかり書いてる人より立場弱いのかなー、と思って凹んでいるなう」
なんて書いてるけど、元増田さんだって、心の内では絵師としての優越感を持ってるんじゃないの?
pixivを見ると、絵師のROM専に対する差別意識が明らかにある。
「ROM専の方はマイピクをお断りさせていただきます」とかな。
俺は曲を作っててサイトも持ってるから、絵師に対してあまり恐縮しないけど、
もし何もやってなかったり、やってても小説書きや批評家だった場合は違ってくるんじゃないかな。
「作り手偉い」な価値観にこだわっている絵師がいたら、考え直したほうがいい。
これは道徳の話じゃない。絵を描く力と絵を見る力は別だという事実を理解しない絵師は、
学や教養が無くて理論を知らない、理論の実践としての絵を描いていないってことだから、
(ここでいう理論とは、イラスト教本に書いてあるような理論のことではないよw)
オタ系イラストって、日本に生まれ育った人ならば、普通に暮らしているだけで
浴びるように見ることができる。誰でも自然とリテラシーが育まれる。オタなら尚更だ。
オタ系イラストは安易な創作だから、誰でも気軽に良し悪しを論じていいんだよ。
描く人と描かない人の審美眼の差なんかを信じるのは、本当に馬鹿らしい。
余談。
DTMのSNSって、どこも利用者が少ない上に、作り手の比率がすごく高い。
作曲家と聴き専の比率が2:1とかだよ。聴いてくれる人がいない。
首長族に、首なんかある程度以上長くても気持ち悪いだけだろ!!って価値観を説きにいっても、向こうはそういう文化なんだからしょうがないだろ、的な。
別に「身だしなみが破滅的に無頓着でコミュ障な男」に、まともな「審美眼」とやらがなくたって、誰も困らんだろ。
そいつらに好かれたいのでもなければ。
揃いも揃って、身だしなみが破滅的に無頓着でコミュ障な男は、それくらい黒髪ロングでぱっつん前髪の美少女()が大好きなのだ。
なんでそんなに黒髪好きなの?
日本人には黒髪が一番似合うなんて誰が決めた?
てか、おかしいのは髪を染める女じゃなくて、3次元の審美眼ゼロなお前のセンス。
以下、審美眼ない奴のための長ったらしい解説。
まず、女は男に比べて圧倒的に髪のボリュームが多いので、その巨大なパーツが似合っているかどうかは、男以上に重要。
そして、服でも髪の色でも黒が似合う人は少数派。
だから染めるんだよ。
そんで、本当に黒まんまの髪が似合う人というのは、お前らのイメージする清楚系じゃないから。そんなの絶対ありえない。
コスメ用語で言う所のブルーベースの肌(わからない奴はググれ)で、ここがポイントなんだけど「宝塚入れんじゃね?」系の、かなりくっきりした顔立ちだったり、目に独特の強い色気のある人が、黒髪は似合う。高貴なイメージの人とかクールビューティとも言うかな。
つまり「可愛い」じゃなく「美人」というのが黒髪のイメージなの。
清楚系なんて顔も目もインパクト弱すぎて、黒髪のままだったら怖いっつーの。
ネットじゃ「高校までは清楚な感じでいい子だったのに、卒業して久しぶりに会ったら見た目からビッチ化して(ry」という童貞臭い書き込みが散見されるけど、それは大抵、染めた髪の色が似合っていないか、イメージが変化してしまったことそのものに対する嫌悪感という「お前アスペ?」的感覚が原因だろう。
あと黒髪似合う人が可愛い系の服を着ると、「可愛い」じゃなく「子供っぽい」イメージになる。しかもそれが逆にキモ男に受けてる可能性もあるから目も当てられない。
お前ら本当に「似合う」「似合わない」が分かってないんだなあと思ってしまう。
お前が入れ込んでいるその人は、本当に健康的に見えている?
似合う似合わないの原点はそこなんだよ。まずはそこから始めよう。
http://anond.hatelabo.jp/20120828200034
少しだけ書き足すつもりが長くなってしまった。
当初言いたかったことをより簡単にまとめていく。
彼の曲を聴いてすぐわかったのは「彼が満足に楽器を演奏できる人間ではないだろうな」ということだ。
もちろん、せいぜい彼のシンプルな自作曲くらいなら弾けるかもしれないが。
彼はおそらく生楽器ひとつだけで満足に作曲も演奏もできないだろう。
演奏の技術レベルを問いたいわけではなく、それ以前の程度で「演奏ができない」はずだ。
私はそういう作曲家がいてはいけない、などと主張するわけではない。
当初書いた通り、機械での様々な試行錯誤の果てに楽器演奏の限界を越えた表現が提示される素晴らしさがデジタルミュージックにはある。
そういう音楽がもう四半世紀以上も私たちに音楽の新しい楽しさや心地よさを提供しているのは言うまでもない。
しかし現代は、機材だけ小手先だけで何となく音楽を作ることがあまりに簡単な時代になってしまった。
「ジャンクフードみたいな音楽があっていい」とその種のファンから反論もいただいたが、それは勿論だ。
手軽に作られて気軽に聴ける音楽はいくつあってもいいと思う。なくなって欲しいなどと思わない。
(ジャンクフードと表現したのは私ではなく、そのファンである。)
ただ、楽器の演奏も満足にできないであろう彼の何が「才能も努力も一流の音楽家」なのだろうか?
そんな人間が一流の音楽家を自称して、美しい音楽を作るために試行錯誤するプロを侮辱する姿は
あまりにおこがましいし、目に余ると感じた。
薄目で見ればきっと地獄のミサワのキャラに見えてかわいいかもしれない。
尚、指摘や批判が多そうなところについて以下に補足を。
「なぜ曲を聴いただけで楽器が出来ないとわかるのか」
これは、わからない人にはずっとわからないだろうし、どれだけ説明しても納得されないかもしれない。
もし幼少の頃から楽器に親しんでるような人間があなたの近くにいたら何人か掴まえて尋ねてみるといい。
本当に耳がいい人間というのは、その曲がどの楽器を奏でて生まれたのかさえもある程度わかるし、
人の声や楽器の音がどの程度加工されているかも感じ取ることが出来る。
耳にある審美眼が優れているとでも言おうか。
編曲が凝っていて分析が難しいという事もあるにはあるが、
「小手先で何となく作られた曲」はそれと全く違うのでその判別はたやすい。
実は、耳を鍛えるためには必ずしも楽器演奏の習熟を要すというわけでもない。
私の知人にも、楽器を殆ど弾けないけれど色んな楽器の特性を熟知していてDTMで表現する耳の豊かな作曲/編曲家がいる。
豊かな耳をもつことは、音楽が作られた背景を読み解く力にそのままなる。
それは音楽にきちんと向き合っている者ならば当たり前にできるし、出来るようになることだと私は思っている。
仮に高い音がどれだけ聞こえても、何も読み解けないようでは音楽家としていい耳を持っているとは言えない。
ところで「音楽的な美しさ」や「響き」という一言であまりに乱暴に済ませた概念についても当然批判をいただいた。
わかる人には当然わかる前提で書いたので解説を目的としていないからだ。
が、これを説明し始めるとものすごく長くなるし本題から反れる。
これもまた、音楽に造詣の深い人にあなたが直接色々尋ねてみるのが一番納得できるだろうと思う。
例えばどういう音楽が美しく、どういう音楽は美しくないとされるのか。
歴史にずっと名を残しているような音楽家の作品は、素人のそれと何が違うのか。
普段どんな音楽もBGMにして垂れ流しているような人間では、おそらくうまく答えられないだろう。
では改めて、私の音楽観について述べる。
『綺麗な音色で音が鳴っているならそれが音楽だ』という人も世の中にはいるだろう。
ただそれでは同じ楽器を与えられれば誰でも音楽家になれるので私は違うと考える。
よほど素晴らしいアイディアや豊かな音楽の下地がない限り、オリジナリティのある曲は生まれない。
前回問題にした彼の曲には下地を感じさせるような音楽の豊かさがあったか?全くなかった。
音楽の下地とは、その人がどんな音楽をどのように聴いてきたかということである。
私は、音楽は目先の消費のために小手先で生まれるものではなく、
連綿と流れる歴史から蓄積された文化を、次の世代に伝えていくために生まれて
そしてまた蓄積されていくものだと考えている。
いろんな人にいろんな音楽の楽しみ方がある。どんな曲にお金を出すかもその人の自由だ。
ただ小手先で生まれ落ちたようなものは多くの人に蓄積などされず、身内にだけ持て囃されるだろう。
(これは何も音楽に限った話ではない。)
そうしたモノは、美しい作品として語る価値がないことのほうが多い。少なくともそれは一流などではない。
初めて作品に触れる人を一瞬で虜にするようなアーティストが真に一流といえる。
無知な人を小手先でそれっぽく騙すのは二流や三流、それ以下だ。
私は、小手先で生まれるような音の連なりを「美しい音楽作品」として語るべきではないと考えている。
もし楽器を弾く人なら、その人のルーツとなった音楽が蓄積されている身体の内から指先が動きだし
演奏をすることで音楽が紡がれていく。決して小手先とは違うのだ。
つまり
「その人の内に豊かな音楽が溢れていて、それを自分の形にして他人に提示できる」のが作曲ということだ。
それはDTMでも勿論可能だし、実現している人だってたくさんいる。
(デジタル環境で作曲をする前段階として、その人の内に豊かな音楽が溢れているならばの話だ。)
ただしDTMは小手先だけで簡単に「音が鳴っている状態の連続」を生み出すことも出来る。
ちょうど玩具のピアノを叩く幼児のように誰にでも出来るからだ。
私たちはデジタル機材の普及や進化によって、誰でも簡単に作曲ごっこ・音楽家ごっこできるようになった。
しかし、ルーツの豊かさを感じさせるようなオリジナリティのある音楽こそが多くの人の心を揺さぶり、
愛されて残っていくことは今後も決して変わらないだろう。
ある程度悪名を広げたが、まだこれからの活動が今度の評価に関わってくる若手、カオスラウンジやチンポムの活動や文章に面白みがないのは結局本当の所どう思っているのかを全力で隠しているからだ。あらゆる手練手管を使って用意周到に自分以外の言説で不意打ちされないようにしているからこそ、逆に自分らの表現内容を狭めてしまう。ここらへんの世代の特徴だと思う。検索能力が高いゆえの攻撃性の少なさっていうのか、防御力特化型っていうのかな?共通しているのは、最初のターンでぶちあげるだけぶちあげたって事なんだけど。
大島美術学院って人のブログが面白いのは、もう自分がゲームから降りているという諦めにも似た自覚があるから面白いのだと思う。嫉妬とか、どうでも良いと思っていることとか、そういうことを隠さないで散文的に書いているから、そうしていない同じ世代の人間の文章と比べて面白く感じる。かといって頭が悪かったり知識が少なかったりするわけではなく、むしろ能力値は同世代の中で平均以上だろう。
コレクターの中にも面白い文章を書く人間は何人かいるけど、買った買わないで立ち位置が変わってくる人が多くて、審美眼とエゴが良い感じにむき出しなっているような人はほとんど居ない。
本来なら匿名の中に大島美術学院の人のような文章があってしかるべきなのだと思うが、今やアートで匿名と言えばアンチカオスラウンジとなってしまっているため、そこには期待できそうにもない。
おハロー。
聖おにいさんはオサレというのよりサブカル臭。それも悪いタイプの。
http://anond.hatelabo.jp/20081210172325
とても根が深いサブカルミーハー問題。『このマンガがすごい2010』を読んで。
http://anond.hatelabo.jp/20091216230059
「このマンガがすごい!」は罪深い延命装置。もう犠牲者を増やすな!!
http://anond.hatelabo.jp/20111224192828
を書いたぼくだよ。みなさん自意識丸出しでごちゃごちゃ言ってくるんで、胸焼けするぐらい非常に切ない気持ちになりました。なんというかもう……。
「かわいそうだね?」
って言葉しかでてきません(おっと、つい芥川賞受賞作家ネタが飛び出しちゃったよ。やべー、まさかここで芸術に携われる人間だったら絶対にチェックしておくべき、芸術を理解できないやつは興味ないふりして精神防衛していることでお馴染みの芥川賞のネタが飛び出すとは、俺のセンスパねえ)。
はてなブックマーク、およびツイッターの皆様がたは心のホメオスタシス機能をフル稼働させて自分の殻に閉じこもっちゃっていますね。みなさん図星を突かれたことを必死に隠そうとしていますけど、何で等身大の自分を直視できないのかねえ。
「格好をつけないことで、格好をつけている」
「「ホメればセンスいいと思われる記号」を批判すればセンスいいと見られると思ってる人の典型的批判」
やれやれ。春の熊に全員屠殺してもらいたいよ(センスある村上春樹ネタ)。
ぼくはきみたちの断末魔の叫びで心が汚れちゃったんで、ストラヴィンスキーを聞いて洗い流していました。グッドなアートはエバーグリーンな輝きでディ・モールト・ベネだね。
ということで、本題。反応を見ていると、ぼくが批判したい対象がイマイチ伝わっていないようなんで、ここでまとめて表明してみようと思う。
これ以上、この惨状を放置しているとホント取り返しのつかないことになるからね。砂漠に水を与えるようなものだけど、何もやらないよりはマシ、かな……。
きみらの軽い脳みそでも理解できるように4つに大別してあげているから熟読してほしい。2010年代はこういう奴らをいかにカルチャーシーンから排除するかにかかっているので、宇野常寛さん、荻上チキさん辺りは参考にしてほしいね。東浩紀さんは河原で石でも積んでてください。
では、いきますよー。
「ボンクラ」なんていう安っぽい価値観で連帯して、「中学生マインド」なんていう恥ずかしい心性を至上価値にしちゃっている一派。やっていることはひよこのオスメスの仕分けみたいなもん。ライムスターの宇多丸や町山智浩辺りが「いい」といったものを「味方」と見なして手放しで褒め称えて、けなしたものを一緒になって叩けば、「センスあるポジション」にいられると思っている。
「売れてる邦画はテキトーに叩いておけばおk」みたいな頭からっぽな行動も平気でしちゃう。そんで周りも見てもいないのに賛同しだすから目も当てられない。
中身をまともに分析しないで「大沢たかおが出演しているから、これはクソ映画だ」みたいな論理で動いていて、そんで「バカな大衆」と「審美眼のあるセンス抜群の俺」という謎の対比をしだすんだよね。「なぜこういう内容の邦画がいま売れるのか」なんていう深遠なトピックに触れることは一切ないし、考える頭もない。
自分の物の見方だとか価値観だとかが一切抜け落ちた、ゾンビみたいな奴ら。サブカル年長者の金魚のフンをやることに、羞恥心の欠片もない。「独自な物の見方をする人間」についていけば、「独自な物の見方をする個性的なわたし」が出来上がると思っている。
彼らの反応は非常にわかりやすい。ちょっと宇多丸のラジオを聞いただけで、習性がまるわかりで、「ああ、この映画はこいつら叩くだろうな」ってことがすぐに判別可能になる。その分かりやすさが蔓延の原因だといえよう。映画リテラシーがないのに、センスいいと思われたいやつらの格好の逃げ場になっている。
そんで、こういう奴って美意識がないから恥ずかしげもなく部屋に映画のポスターをべたべた貼って、ダサいバンドTシャツを着ていたりするんだよね。それでいて、オシャレに過剰なコンプレックスを抱いているから、「無理してオシャレしているやつは上辺だけの中身のない単なるカッコつけで、ちょっとダサいくらいの自分が本当は一番センスいいんだ病」にかかっていて非常に厄介。自分のダサさまで理論武装しなきゃ生きていけないなんて、ほんとに可哀想だ。
この病気を完治させるには映画について語りだすたびに「それ、ウィークエンドシャッフルで宇多丸が言っていたことだね」って言い続けるしかないと思う。「あ、その映画、町山智浩がキラキラで紹介してたやつか」、「昔、みうらじゅんがその映画をネタにしているのを見たことあるよ」でも可。
「人生で大切なことは、すべて伊集院光のラジオから教わった」とか真顔で言っちゃう恥ずかしいやつら。
映画秘宝系との違いは、映画を見たりする気力も何もなくて、横になってラジオを聞くぐらいの体力しか残されていないのに、自分が第一線にいることを疑わずに最新のカルチャーを必死に否定してくる。「最近のアニメって萌えばっかりで中身がないよね」って見もしないくせにしたり顔で口を挟んでくるのがこいつら。
自分が中年化し、ついていけないことを認めることができなくて、漫画やアニメは伊集院が褒めるものだけが絶対だと思っている。『わたしは真悟』だとか『アストロ球団』だとかね。
映画秘宝系はまだ自分の足で作品を鑑賞しようっていう根性があるけど、こういう奴らにはそれすらない。平気でCMカットのMP3音源を違法ダウンロードして、「やっぱり伊集院さんって聡明だよなあ」なんてアホ面下げてる。その続きはもちろん「本当に頭が良い人って伊集院さんのことを言うんだよな。やっぱり人は学歴や職業じゃなくて、物の見方で頭の良さが決まるんだよな~」なんて考えいて、「ダメな自分は本当は感性が鋭くて、周りのくだらない奴らよりもずっとずっと頭がいいんだ!」って泣きながら自己肯定をしている。
もうなんでもあり。
こういう奴らのためにはっきり言ってあげるけど、「感性」っていうのは行動で示さなきゃ形にならない。布団のなかで自分を慰めるための感性だなんて、ありゃしないよ。ゴミクズよ、もうよせ、こんな不毛な自己肯定は。
「センスがいい」というタグを貼られた商品を必死に買い集めて、なんにもない空っぽな自分を必死にデコレートしようと頑張っている。ビレバンに下駄を履かせてもらわなきゃ、外を歩くことすらできない可哀想な人。自分がビレバンから与えられる餌を食べているだけの家畜だってことに気づけない。
こういう奴がセンスいいと思われたい一心でカルチャーシーンを引っ掻き回して、むちゃくちゃにしていく。「このマンガがすごい!」で上位に入る漫画が悲惨な犠牲者なのは、前の記事に書いた通り。
なんにも作り出せない、作ろうともしないくせに、必死に消費物で「ぼくちゃん、クリエイティブなんだじょ!」とアッピールしたい厚かましい愚鈍なマリオネットたち。
こういう奴には「お前、ひょっとして浅野いにお漫画の登場人物を気取ってない?」って聞いてみよう。ズレてない眼鏡を何度も押し上げながら、「き、きみぃ、いにお漫画はね、単なるセンチメンタルじゃなくて実験的な手法にも取り組んでいて云々」って聞いてもいない作品論を震えながら語りだすぞ。
さらに「そのボブ、もしかしてつぶやきシローをリスペクトしているの?」って言ったら卒倒しちゃうので注意。
もし友人にこの手合いがいたら適度に自意識を潰してあげて、「やっぱビートルズが一番だよな」ぐらいのレベルに留めさせてあげるのが吉。弾けもしないのに部屋に置いてあるギターは、親切心で河原で燃やそう。
そう、お前らだよ。お・ま・え・ら☆
はてブやツイッターなどの安全圏からお手軽に一言批判して、「ふふ~ん、ぼくちゃん、こいつらよりも頭がいいもんね~。見てみて! ぼくこの人否定しているよ!! こいつより頭いいんだよ!! ほら、見ろよ、もっと! 見ろっ、見ろぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!」と汚い欲望を身体中の穴から漏らしている。
文字数制限を盾にして根拠もなにも示さずに、自分の頭で否定できる一文をなんとか見つけ出して、「やれやれ。きみはなんにもわかってないね」とただ否定するだけ。熟議に何の貢献もしない、耳を汚すだけのノイズ。
大抵のバカなネットユーザーは脳の大部分が「最新情報の暴飲暴食」でスカスカになっているため(俗に言う「グルーポンおせち状態」)、比較検証なんていう基本的なこともできない(本人は「できない」とすら気づいていない。そこを突かれると「時間がないから」「忙しいから」と言い訳して、何も届いていないメールボックスをチェックしだす)。だから、「最後に勝利宣言をした人間」に説得力があると思っちゃう。
このような「つぶやき批評家(気取り)」と「情報ジャンキー」はまとめてネット中毒矯正院にぶち込むべきですね! そこで『アルプスの少女ハイジ』でも見せて、少ない情報をいかに咀嚼するかを学ばせたほうがいい。こいつら、醜く太っていることが勲章だと思っているからさ。
以上、今すぐカルチャーシーンから撤退すべき害毒な消費者4タイプでした。こういう奴らが蔓延っちゃったのは「個性が大事」という間違った教育と、「作品の解釈は受け手が決める」なんていう甘やかしの成果だと思う。
確かにある程度の解釈は読者に任されるだろうけど、それを理由に笑っても怒っても何しても構わないなんてことはない。それだとスタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』を見て、原子力礼賛だと思っちゃうようなことを許してしまう。
ぼくのような高い視座に立てているクリエイターって本当に少ない。名前を挙げるとしたら、映画監督の紀里谷和明か、小説家の岩崎夏海くらいか。
特に岩崎夏海の『「小説の読み方」の教科書』は上記であげた連帯のためだけや、センスいいと思われたいだけに消費する行為の解毒剤として最適なので、みんな読みなさい。早く読まないと、時代に取り残されちゃうよ。2010年代のクリエイターズ・バイブルだね、この本は。
みんなもうさ、中身のない自分を無理やり肯定するためにアートを利用するのはやめようよ。空っぽな自分を直視して、中身ある人間になるために努力するべきじゃない? ソクラテスもプラトンも、みんなそうやって大きくなっていったんだよ。
NHKとかのテレビを始め、新聞やラジオとか雑誌や書籍ぐらいにならでたことがある。別に何かをするわけでもなくそこにニュース性があれば取材っていうのは来てしまうものだ。でも取材される側にメリットがあるということはあまり無い。
新聞に自分の写真がのった切り抜きを爺ちゃんにあげると喜んでもらえるぐらいだ。NHKとかに出ると地方の久しい人から電話がきたりする。3分でれば1~2本。
売りたいパッケージやサービスがあって、メディアに登場するのであれば効果はあるのかもしれないが、業界紙で一面に乗って朝一から十件だとかそんなもの。それを多いととるか少ないととるかは人それぞれ。四大新聞だかの一面に自分の固有名詞がでるぐらいの経験はあるが、そんなものがきっかけでうまく回る商売なんてものはない。メディア掲載は結果のひとつの形でしかないから載るために努力なんかすんな。
メディアはそれを見聞きする人は多いので、もともとの知り合いが、こないだ見たよ!ぐらいの話題にはなる。
少し考えてみて欲しい。知り合いがメディアに乗っているのに気がついたことは? いままでで新聞などの記事をみて具体的に問い合わせたことがある? この一年ではどれくらい? 一日に何人の名前が新聞に乗っているのかを考えると、よほど繰り返しでないと人々の記憶にも残ることなんてないよね。そして喩え数万人の目にふれていようが、そういうところを辿ってまで調べるモチベーションがあるのはこちらを食い物にしたい営業だけなんだ。あ、そういう意味では抜群に効果はあるよ。営業電話ががんがんかかってくるの。先物だとかそういう金融商品会社からだけどね!
メディアに露出することで高まる信用もあるよね。でも、それで与信がついて金が借りられるわけでもなし、そういう信用があなたのビジネスにとって必要?
効果があるなと思うのは書籍。これは比較的重要。アーカイブ性があるので、それについて調べようと動機を持ったひとが調べるのでお客さんにもなるし長く効果がある。また、雑誌なども、大手は基礎情報や写真を関連で使いまわすので最初にきちんとした取材対応が必要。
他?
むしろ、乗らないほうがいいんじゃない? だからメディアジャーナリスト対策は考えておく必要がある。
1つ、ジャーナリストのことを知ること。
理論(笑)?非倫理的な人達もいるので数字のチェックどころか、名前のチェックすらしてこないことがある。記者会見とかで対応してしまうと、いろいろなところが同時に記事を書くのでコントロールできない。Web記事などで名前が間違っていることを申し出ても治らねぇんだ。他がほとんどコピペなのに唯一文脈を変えるだけに手打ちしたっぽいところが間違っているってどいうことだよと思う。どこでだれに取材したらそんな情報がでてくるんだ?と不思議でならない記事になってしまうことが日常ちゃめし。お茶漬けでも食いながら書いのかと・・・・・・。
雑誌社の記事の場合は掲載前に校正チェックがある。新聞もテレビも基礎情報の確認はしっかりある。5分の報道のために一時間とか半日取材がある。え? Web? 他のメディアの記事をきっかけにメールや電話で聞いてくるだけなんじゃないの? うっかり名刺なんかわたそうものなら問い合わせ先はこちらと会社の電話番号や個人のメールアドレスが全国公開されてしまうなんてこともあった。基礎情報の確認もしてこないようなメディアは相手にするべきではない。掲載前の記事は公開しないだって? 取材元に情報の確認をすることはありませんという宣言でなくて?
当方側の言ったことの意味を理解せず、全くの逆にしてしまったり、脳内補完や勝手にストーリーをでっちあげ記事を書かれることが嫌だったら、こちらから手取り足取り情報を案内してあげなければならない。プレスリリースをコピペするだけでそれなりの記事になると思うと彼らは記事にしたがる。仕事が楽だからね。
でもね、そこまでしてメディアにとりあげられて何かいいことあるかな?って少し考えなければいけないかもしれない。なぜなら、取材をうけるあなたはすでにスタートアップをしているわけで目立ていいシーンかそうでないシーンかの見極めは重要。自分の手持ちのカードを見せてポーカーに勝つのは結構大変よ? 役満テンパッてるときに目立つバカがどこに居る?アホの子か?アホの子なんだな??
まわりの会社で商品を扱っているところは事前チェックを取材条件にするところもある。取材する側からすると煩わしいのかもしれないけど、会社からすると記事ひとつが致命傷になることもあるので必然。記者がよかれと思って書いたことがネガティブなことだってあるんだ。そういうところがチェックできない会社は滅びる。既存のお客さまに悪影響がでることだってあるんだから。
ベンチャー誌などで特集記事を組まれた社長の2年後の敗退率聞いたら驚くぜ。そういう意味では2年前の記事を拾い読みして、その雑誌などがどちらへの試金石なのか確認してみると面白いかもしれない。たとえば日経ビジネスなんかがやはり凄いなと思うのは例えば初音ミクのリリース前にきちんとページを割いてクリプトンの会社の記事を組んでたりするところなんだよね。単純に取材力と審美眼の差だと思うんだけど、メディア対策がうまくいったから初音ミクができたわけじゃないじゃない?そんなもんだよ。たまに、売れないタレントひっぱってきて、取材費くださいとか、こっちがかね払うのかよ!?的なものまであるし、なんかもうちょっと怖いよね。営業か税務署がやってくるよ!
目立ったら商売の難易度はあがる。弾丸飛び交う最前線に踊りでて武勲をあげられる新兵がいたら相当なもんだよ。おまえさまはデコイなのかい? 嚢中の錐っていってね、目立たないようにしてても目立ってしまうこともあるんだ。生き残りたければ、できるだけ目立つな。身を屈めてできるだけ頭を低くしろ。ここは戦場なんだぜ!
カオスラウンジなんて大した美術教育も受けてないしオタ度も薄々だし単なるオタとアートを勘違いした徒花的存在(あるいはアウトサイダーアート)にすぎないという事にはみなさんそろそろお気づきだろうが、なんでここまで無駄に色々できちゃったかってやっぱり村上隆が一旦認めちゃったことが最大の問題だと思うんだよな。
別に大した価値基準もない現代アートの業界のなかで、別に公募展とかでも受賞歴のない奴らにとって村上隆の評価ってのはそれこそ成り上がりのための特急券みたいなもんだったんだろうなと(故に駄サイクルと言われたりもしてるんだろう)。
ただ村上隆って、実のところ創作(と言うと反発する人もいるだろうが)の力はかなりのものを持っているが、人のもんを判断する審美眼みたいなものは決定的に欠けているんじゃないか。最近それに気づいた。
村上隆の作品とそこに対する理論構築に関しては個人的にかなり評価しているが、自作以外に対する批評、感想、それから村上隆の取り巻きその他もろもろは正直言って完全無視で構わないんじゃないかなーと思っている。
海洋堂行った時にあまりにフィギュアを見る目がないから専務におもいっきりバカにされてたり、ちょっとアレな作品を持ち上げがちだったり、たぶん見る目の無さってのは昔っから今まで一貫して変わってないんだろうな。
まあ名選手が名監督になるってわけでもないのはあたりまえのことだし。
村上のおじさんにはワークス体勢でバンバン作品を作っていって欲しいが、無駄に下部組織作ったりして自分の方向性以外の方面に手を出そうとしてる最近の活動は正直言ってやめた方がいいかなと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20110730181507へ。
http://anond.hatelabo.jp/20110731180019
ややこしい話なんだよね。色んな論点がありすぎて。
とりあえず、韓流問題における「経済的に下の国を文化的に上から目線で愛でる問題」とでもしとこう。
これは「韓国」って言葉に対してもともと持つ個々のイメージが反映される話だ。
今の若い世代はそういう「韓国=格下」ってのがない。
おしゃれなPVみて、ファッション見て、音楽的にも刺激的で、イケメンで
いいじゃん、そんだけ。何が日本と違うのみたいな。反日とかどうでもいいみたいな。
韓国旅行ブームってのも、かつての東南アジア旅行ブームってのとまた意識が違う。
アメリカもイギリスもフランスの映画も音楽も「かっこいー」で始まる文化流入だけど、
それは経済的に日本より上だったからあまり問題も引き起こさなかった。三島はキレてただろうけど。
経済的にはすでに韓国は先進国入りしてるか否かも微妙なのも、それぞれの目線の違いにつながる。
アジア問題ってのは複雑で、歴史だとか、そういうのも絡む。顔が似てるってのも絡む。
あるいは、韓流好きにも、そういう格下を愛でるみたいな感覚がある人もいるとは思う。
ネット上で台湾の女の子かわいいみたいなの度々見るけど、その格下を愛でる目線がそこには確実にある。
日本と台湾の目線の問題については、それは台湾の人も気づいてたりする。
あるいは、なぜ韓国人なんかを愛でるんだって吹き上がる人もいる。
ネットで韓国に関する色んな話を見て、彼らにはもともと「韓国」ってものに対する強固なイメージがある。
だから、彼らは韓流好きの奴に対して「韓国がどういう国か真実を知れ」と繰り返す。
あるいは、格下だと思ってるけど、実は奴らに搾取されてて俺らの方が下なんだって意識を持つ人もいる。
だから右翼、左翼問題も絡んでくる。http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html
韓国アイドルに早くから目をつけてた人は(その前はPerfumeに早くから目をつけていた層が多いってのがブログを徘徊しての私見)
今、音楽的にタイとかインドネシアのポップスに目をつけてたりする。経済とか関係なく音楽的な目線で。
万が一、大衆的なブームになったとして、その受け取り方の目線に経済が絡んでくるかどうか。
たとえば、白人が貧しくなって、黒人が金持ちばかりになったときに、白人の顔がかっこいいという審美眼が変わるかどうか。
要は「it's the economy, stupid」というか下部構造と上部構造だとか、そういう話にもなる。
この韓流問題でいろんなことを考えてる最中だけど、ナショナリズムだとか差別だとかって感情的に強力だなって改めて思う。
なんか考えると、すぐそっちに方面に思考が引き寄せられる。「ここは日本だ」とか「俺は日本人だ」ってところに。
だから、複雑でもやもやする論理が絡み合うところで思考を保ち続ける、思考的体力がいる話。
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http://d.hatena.ne.jp/rabbitbeat/20110802/1312265271
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110804/221884/
これのなにが「曲がりなりにも頭使って」るのかね。ただの思考停止の逆張りじゃないか。
そいつは「素材が新しい」「昇華されてない」って断言してる割には「思えない」「感じる」とか感想文に逃げるし、
およそ自分の審美眼には自信がないけど、ブコメに書けばきっと誰かがスター付けてくれる(承認してくれる)という期待から行動してるだけ。
こんなんで面目躍如になるわけない。
で、もっと醜悪臭いのは君。
マンセー側を信者に、アンチの側に知性をあるかのような装いをしているだけ。
「知らないんだけど」なんて言って客観的に論じた気になってる分なおさら醜悪。
うみねこ採点表
100点・・・ひぐらしの段階で見切りをつけ、うみねこには興味が無かった人
80点・・・ep2で見切りをつけた人
50点・・・ep5で見切りをつけた人
合格点とは言えませんが、まあ標準点でしょうか?
これを教訓に世の中には人を騙してお金を稼ごうとする人間がいる事を知りましょう。
25点・・・ep7で見切りをつけた人
かなり酷い結果です。
今まで散々引っ張られてきて答えが「幻だよ~んw」だった気分はどうですか?
0点・・・ep8で見切りをつけた人
最後の最後まで気がつかなかったあなたはよっぽどのお人好しか、ただのバカです。
途中の段階で気がつきませんでしたか?疑問に思いませんでしたか?
非常に残念です。
採点不能・・・まだこれからに期待している人/クリアして面白いと思った人
<まだこれからに期待している人>
4年も引っ張り、何万円も支払わせているこの状態で解答を出さないのは、
100点だった。おまいら何点?
「実はおかあさん隠し事してるの。お父さんには絶対内緒だよ。」
と切り出された。
ところが母親が口にしたのはまったく予想外のことだった。
「おかあさん、お父さんと結婚する前にね、大好きで付き合ってた人がいるの!」
は?何をいっているんだ。なんでそんなことを深刻に切り出すんだ。意味がわからない。
「え?そんなの普通だろー。結婚するまでに恋愛だって色々するだろ。マンガじゃねーんだし。」
と俺は思った。
そのあと聞かされたのは、いかに父親との出会いがセンセーショナルだったかというのろけ話と
結婚したことに今でも全く後悔はないということ、
若くして俺を生んだから金銭的に辛く、それを理由に叩きまくる横暴な親戚のせいで苦労をかけたってこと
あとはもうきいてるのが恥ずかしくなるようなお父さんが素敵って話だった。
そして最後に散々、「昔の彼氏の話はお父さんには絶対内緒だからね」と念を押された。
俺はそれを聞いてなんじゃそらwwと思ったものだ。
確かに中学にあがるまでの家庭環境は、その某親戚の暴力的な介入のせいで散々なものだった。
いやしかし、「お父さんと結婚する前に大好きで付き合ってた人がいる」なんてのは
そんな話と同列にならべて深刻に話すようなことなのか?必死に父親に隠すようなことなのか?
と、当時の俺にはまったくわからなかった。
考えてみれば、そのときの母親の年齢はまだ30代前半、まだまだ若いんだよな。
今自分が30近くなって多少わかるような気がするよ。
昔の彼氏の話を中学生の息子に話せて、父親にはひた隠しにするメンタリティも理屈ではわからんでもない。
俺がこの話から自分なりに学んだ事は、結婚相手に昔の彼氏のことを秘密にしてるのが良いか悪いかなんてことはどうでもよくて
審美眼が鍛えられるというのか、なんていうんだろうな。
とにかく母親はその元彼と結構いい経験をしたからこそ、父親との出会いがそれ以上に素晴らしくて運命的なものに感じたんだろう。
と、今は解釈している。
わかるわかるすごくよくわかる。
私も今の彼氏と会ったのは6年前くらいで、一重で三白眼で下ぶくれで、服も「THE秋葉原!」って感じで、確か初対面では失礼ながら「この人はぶさいくやなー」と思った記憶があるのだが、今では信じられん。
ひょんなことで付き合い始めた2年前から、その顔が大好きで仕方ない。
彼氏はその時から10kg近く太り、お腹もでっぷり出てきたが、とにかく性格だけでなく外見も好きで仕方ない。
笑顔も困った顔もゲームに熱中してる顔も寝てる顔もすべてかわいくて仕方ない。
一緒にいる時は、話に困ったらずーっと顔を見つめているのが幸せだ。
いまでは本当に彼氏の顔がどう見ても世間の男の上位10%に入るくらいイイ男だと思うんだけど、初対面の時「ぶさいくやなー」と思った記憶と、かすかに残っている常識的な審美眼から「こんなこと言ったらアホだと思われる」と思って誰にも言えない。でも誰かに言いたくて仕方ないので、とりあえず彼氏にだけ「かわいいかわいい」言いまくってる。
誤解を恐れずに言えば、女性は基本的に「子孫を生産する手段を有する」
そして人間は所詮哺乳類なので、子孫を直ぐに社会という名のジャングルに放り込むようなことはせず、自分の庇護下のもと育てる。
そしてそれにはコストがかかる。
そこで女性は「子孫を残すに相応しいオス」を無意識に選別し、それを後代に残すための審美眼を発揮し、男性に求める。
女性の役割は、
では一方で、男性の役割といえば、これはもう「女性に子孫生産の環境を提供する」というほかは無い。子孫は卵が先か鶏が先かというのではなく、器に水を注ぐようにしてできあがる有機化合物である。水を生成させるのに、安全上の手続きを無視するなら水素が先か酸素が先かというのは些事である。水素も酸素も必要なのだ。
男性は「子孫を残すに相応しいメス」をこちらは、ほぼ意識的に選別し、それを女性に求める。
男性の役割は、
これだけで、男女の子孫繁栄を目的とした関係は満足して構築されるが、現代社会はその関係を前提に築かれているわけではないので、要所々々で軋轢が生まれている。
まず、現代社会は、男女は社会的に平等であるという理念があり、それを追求することを強いている。結果、女性も労働環境に配備されるし、望んでその環境に進むこともできる。
ここで、労働環境を提供する立場にある国の機関、あるいは民間企業は女性の生物的な幸福の追求としての出産・育児の機会を提供する義務は持っていないことに留意する必要がある(しかし、それを望めばいつでも提供するのが理想でもある)
あくまで企業は「労働環境と、その労働に関する賃金の提供」を追求する立場であるため、男性社会であるし、そこで女性が勤める以上、企業の理念に調和した対応を求められる。企業が、生物的に満足する社会に適応させるならば、女性の職を男性と交換することも辞さない態度が求められるが、そうなってはいない。
現代社会ではそうではなく、妊娠したら一度休職し、そのあと育児を企業が満足する期間だけ当事者にさせた後に、復職させる方法が選択肢として取られる。女性が職場進出して、「女性にウケる狩場の提供」を企業が強いられるようになり、この構造はますます歪になってゆく。
また、結婚という制度も問題である。人間関係とは長期的に変化しやすいものである。従来の結婚は隣家の幼なじみと結婚というのも有り得ないシチュエーションではない。そういうご近所婚の堆積がムラ社会を形成、維持させていたのも事実である。そのため結婚ということ自体にお約束要素があった。つ
まり、結婚ということ自体に将来のムラの存亡がかかっており、結婚そのものがある種、監視の役割もあっただろう(これは当事者に聞かないとわからないことでもあるが)
現代はそのようなことを気にする必要はない。都会に上京するのは跡取りに無関係な次男の役割でもない。結婚という要素が形骸化したまま保持されているのである。
先にも書いたように人間関係は長期的には変わりやすいもので、男性は直ぐに他の女性を子孫繁栄の欲求に忠実に探し始めるし、女性もまた今の相方以上に良くしてくれる相手を潜在的に探しているのである。
例えば石田純一は「不倫は文化」ということばを残したが、正にそのとおり。文明、摂理でもいい。人間は、生物的に忠実であるなら、結婚などしない方がよい。
じゃあ子供のことはほったらかしていいのか。
子供を満足に育て上げる余裕と資金があれば、いいのではないか。女性が男性の不倫に腹をたてるのは、先の女性の役割その3を満たされていないから起こったとしか言いようが無い。
じゃあ女性も密通してもいいのか。
子供を満足に育て上げるために必要なことなら、いいのではないか。その相手が、今の男性より社会的にも、生物的にも、満足させてくれるのなら、いいのではないか。
最近は、女性は社会的に年収の足りない多くの男性に満足せず、また、男性は生物的に容姿性格の面で多くの女性に満足していない。一部の結婚を望まない男性は女性に社会的労働を強いるが、生物的な労働は強いてほしくないようだ。また、一部の結婚を望む女性は、男性に社会的労働の質の向上を求め、生物的な労働の分担を求める傾向がある。これでは双方満足する、家族という名の、原初の社会は営めないだろう。もちろんそこに、現代社会との軋轢が関係あることも、予め指摘しておきたい。
非モテ特有の発想だね。大嫌いな女を批判しているつもりが、無意識に自分を投影している。
自分を受け入れてくれないのは相手が悪い。女は男を顔で判断する、だからこんなに性格の良い(と本人は思っている)俺様を選ばない。俺様は何も悪くない。顔は悪いかもしれないがそれは人間の本質じゃない。だから審美眼のない相手が悪い。
自分を省みることをしないから、こうやってすんなり不満だとか復讐心だとかって言葉が出てくる。
まっとうな恋愛経験を積んできた人間なら相手に恋人がいる時点で諦めるか、仮に告白して玉砕したとしても相手を逆恨みしたりはしない。
412 名前: 鉤(dion軍)[] 投稿日:2010/03/28(日) 03:22:35.59 ID:LURy7aag
414 名前: グラフ用紙(catv?)[] 投稿日:2010/03/28(日) 03:43:40.64 ID:YLQ7uMMC
>>412
俺の知ってる限りでは、ほとんどレイプみたいな形でラブホにつれこまれ、一晩中まわされる。
女も女で黒人に姦られた事はひた隠しにする傾向にあり、黒人はそれにつけこみ、その後も会うことを強要し、
女も女で黒人とのSEXが病みつきになり、ブラパン化のパターンが王道。
ここではブラパンはブスブスいってるけど、最近はかわいい子ばっか。
理由は最近の黒人兵士連中の審美眼が日本人化してるから、狙われるターゲットが日本人から見てもかわいい子になってる。
420 名前: 修正テープ(神奈川県)[] 投稿日:2010/03/28(日) 11:44:32.25 ID:uvbxSnnj
>>414
レイプみたいな形といいながら、クラブで黒人と出会ってホテルに行ったんだろw
>ここではブラパンはブスブスいってるけど、最近はかわいい子ばっか。
マジか!ぜひAVに出て欲しいな
映画を体系的に見たいと思って大学に入ってから教養として映画を見ていた。
好き、好きじゃないだけで判断してるんじゃ嫌だなと思ったから。
とりあえず「見てないとバカにされそう」な映画を選んで観ることにした。誰からされるかは知らないけど。
「このリスト全部読んでないと猿です」って言ってた奴もいたけど、ああいうのに影響されてたかもしれない。
もちろん、この7本は全部観てるし
ヒッチコックも、エイゼンシュタインも、ゴダールも、アンゲロプロスも、ワイルダーも、成瀬も、
タルコフスキーも、グリフィスも、ビクトル・エリセも、フェリーニも、陳凱歌も見た。いかにもでしょ。
大学入って3年で千本はいかないけどかなりの数を見た。これでもシネフィルにしてみればしょぼい数字なんだけど。
小説と音楽も同じように体系的に理解したかったからとりあえず「読んでないと・聞いてないとバカにされそう」なものを選んできた。
数をこなした。ジャンクじゃないであろうものを何百冊読んで、何百枚アルバム聴いた。
要は素晴らしいとされてるものを秩序付けて理解したいし、できるんじゃないかと思ってた。気持ちよくなりたいと思ってた。
だけど体系的に理解できるようにならなかったよ。お気に入りになったのはいくつかあったけど。
で今はこんだけ数こなしても体系的に理解できないならもういいやって感じ。
ソーカル事件ってある種の救いだよね。違うか。
はてなにも面白い映画評を書いている人が何人かいるけど、その人たちが体系的に理解できているかといえばそうじゃないと俺は思う。
でも、面白い。個人的な見方をしているから。それが自分とは違う見方でそれに納得できるから。自分が考えたのとは違うその映画の面白さを改めて発見するから。
だから、映画を体系的に理解するより、面白く映画を語れる方がよっぽどいいね。
でそれには映画を年間何百本も観る必要はない。人間的に面白い人になった方がいい。そっちの方が難しいけど。
みんなが蓮實重彦になる必要はないし、そんなのは絶対嫌でしょ。
畢竟、体系的に映画を観るための○本ってのは自分の審美眼の正しさと自分の知識を権威づけるある種の権力闘争にならざるをえないよね。いいとか悪いじゃなくて。
つーか、今どきそんなに映画見てる奴も本読んでる奴もいないよ。クリエイター志望でキューブリック知らないぐらいなんだからさw
とはいえ、体系的に映画を理解したいとか言って、見れる環境にいるのに今「母なる証明」見に行ってない奴なんなのとも一方では思うよね、てへ。
つーか、体系的ってなんだよ。ファック。
最近マークアップエンジニア志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去のHTML(特に90年代以前の仕様)を読んだことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「マーク・アンドリーセンをどう思う?」と聞くと、「アンドリーセンって誰ですか?」という答えが返ってくる。「ヨスケの独自要素で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔のHTMLを見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「とほほでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、HTMLを体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題仕様ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといて標準化団体ごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。HTMLは、もう長いこと(90年代の早い時期から)インターネットの王者としてあらゆるWeb関連技術の上に君臨してきた。だから、Webを作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
HTMLは、表・画像・フォーム・音楽・デザイン・フレーム・動画など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、HTMLを読まずして現代のインターネットは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、HTMLを読むことは欠かせない。また、単に読むだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、HTMLを包括的・体系的にとらえることによって、現代のインターネットそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、Webを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔のHTMLをほとんど見たことがないという人や、あるいはHTMLそのものもあまり見ないという人のために、これを見ればHTMLを体系的に理解でき、現代インターネットの成り立ちや実相までをも包括的にとらえることができるようになる、7本の仕様を紹介する。
ここで紹介するHTMLは、いずれも後のWeb業界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、HTMLという標準のありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、HTMLというのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、体系的に理解できるようになる。そしてそれが、世界のインターネット利用シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、第一次ブラウザ戦争前のHTMLをひとまとめにするところから始める。
80年代末にティム・バナーズ=リーの発明したHTMLというメディアは、その後『HTML 1.0』(1993年)『HTML+』(1994年)『HTML 2.0』(1995年)などの仕様で次第にそのスタイルを確立していき、マーク・アンドリーセンが一大産業として発展させた後、『HTML 3.0』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
ブラウザ戦争前のHTMLは、これ1本だけ読めば良い。このHTMLに、戦前のHTMLの全ての要素(属性)が詰まっている。このHTMLを見れば、HTMLのインターネットの王者としての風格、スターという存在の大きさ、作者以上にブラウザが重視される「産業」としての側面、お尻Pから終了タグ省略可へ・文字情報から画像付きへと移り変わった技術革新の変遷など、戦前のHTML史やWeb業界のありようが全て分かるのだ。
このHTMLの魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『HTML 3.0』の魅力を知るには、まずは読んでもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも読めば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『HTML 3.0』を見て驚かされるのは、現在のHTMLと比べても全く遜色ないところである。破棄されてから14年の時が経過しているが、現代人の読解にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえばHTMLというものは、今から14年前、つまりこの『HTML 3.0』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『HTML 3.0』は、HTMLという標準が到達しようとした一つの極みである。それゆえ、HTML史というものは、『HTML 3.0』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られたHTMLで、『HTML 3.0』の影響を免れたものはないからである。
iモードが世界のHTML史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに小さなものである。日本人というのは、「日本の技術が世界に影響を与えた」というと、なぜか鼻高々と聞いてしまうところがある。「日本はガラパゴス」という言葉は聞いたことがあっても、「それって日本人が過小評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかしiモードは、真に日本のHTML史を塗り替えたサービスの一つである。特に、このサービスの後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
iモードは、ドコモのメインストリームだったポケットベルが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたPHS流行後すぐの時期、そんなポケットベルに取って代わって、日本で最も輝いていた携帯サービスであった。それゆえ、広末に見蕩れた世界のHTMLファンたちは、iモードのWebサイトを見ることによって、失われかけていたWeb制作の魅力を再発見することにもなったのである。
iモードは、没落したHDMLに変わってモバイルWebの命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。海外のモバイル陣営が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を切り捨て、日本の後代へと引き継いだ重要なリレー第一走者としての役割を、HTML史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取った日本の若きWebデザイナーたちが、2000年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、モバイルWebは鮮やかな発展を遂げる。だから、もしiモードが存在しなければ、HTMLの様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんなiモードHTMLのバージョンはいくつもあるのだが、中でも特に多くのHTMLファンを――取り分け日本の若きWebデザイナーたちを魅了したのが、この『Compact HTML』である。この仕様の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたW3C Noteであろう。HTML史において、これほど拡張多く適当なディテールで構成されたNoteは他にない。そのためこのNoteは、これ以降無数に手本とされ、真似され、拡張されることとなるのである。
正字正仮名の影響を受けた日本の若き日記書きたち――言うなれば「CSSコミュニティ」――が頭角を現す直前のW3Cで、HTML史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の仕様が誕生する。
この時期、情報技術の進歩によって、HTMLにもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った国際化、全く違ったアクセシビリティ体験を生み出すことに成功したのが、この仕様『HTML 4.0』を勧告したWorld Wide Web Consortiumである。
『HTML 4.0』は、HTML史において最も革新的な仕様の一つとなった。この仕様に初めて触れた当時のWebデザイナーたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのないマークアップがくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しいHTML体験を、そこで味わうことになったからである。
W3Cの果たした一番の功績は、テクノロジーとHTMLを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えばそこでは、「スタイルシート」という新しい技術のデザインと、それでレイアウトされたページが閲覧者に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しいHTML体験を生み出すことができたのである。
この仕様『HTML 4.0』には、そうしたテクノロジーとHTMLとの融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、HTMLはここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「CSSコミュニティ」がWeb日記業界に論争をもたらすのは、2000年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、1947年生まれの非政府組織で、IECとも協力した生粋の工業標準化団体であった国際標準化機構が、この仕様『ISO/IEC 15445:2000 (ISO-HTML)』によって成功を収めたことである。
このHTMLは、単にJIS的に標準化しただけではなく、文化的な意味においても、フラットでリニアな構造の力を広く世界に知らしめることとなった。この仕様の成功によって、世界の人々は、レベル付けされた見出しの魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて見出しのレベル分けが世界のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように使う状況を育んでいくのである。
またこの仕様は、CSSコミュニティそのものにも大きな影響を与えた。この仕様の成功に刺激を受けた才能ある若きコミュニティ住人たちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名サイトを生み出していくからである。
それらが相まって、やがてCSSコミュニティは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『ISO-HTML』なのだ。
『HTML 4.0』で繁栄の足がかりを築いたW3Cは、この仕様『XHTML 1.0』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたメタ言語も、W3C勧告のの一つであり、また『HTML 4.0』を作ったSGMLの改良でもあった、Extensible Markup Languageであった。
この勧告は、史上最も商業的に成功した仕様となる。そのためこれ以降、この勧告にならって商業的バズワードを盛り込んだ仕様が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きな商業的話題を集めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの意見は、やがて再びW3Cに還元され、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この仕様がきっかけとなってW3Cにもたらされた意見は、HTMLという言語を変革させていくことになるのだが、それに伴って、HTMLそのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬW3Cの手によってなされた。ここで『XHTML 1.0』の成功によって手にしたメンバーをもとに創設した文書マークアップの開発集団「HTML Working Group」が、より魅力的な拡張性を追求していく中で、やがてM12n(モジュール化)という技術の開発に至るのである。するとそれが、これまでのHTMLを一変させたのだ。
M12nは、HTMLに魅力的かつ効果的な特殊語彙を、DTDでしかも複雑怪奇にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に世界から見捨てられていった。そのため今では、M12nの使われているHTMLを探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『XHTML 1.0』がWeb業界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
2000年代以降、繁栄を謳歌したW3Cは、しかしその栄華の大きさゆえ、00年代中盤に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な仕様はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が5年は続いた00年代の後半になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代のHTML WGメンバーたちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代のHTML WGメンバーとは、マイクロソフトやモジラ・ファンデーション、オペラらに代表される「ブラウザベンダ」と、無関係な編集者たちであった。
彼らに共通するのは、文書構造に不必要なものなら全て――とるに足らないガジェット的なものまで含めて――残らず切り離そうとする「オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだったHTMLの些末な要素にスポットを当て、それを別仕様に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った草案を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として00年代の後半に登場したのが、XHTML2 Working Groupだ。
XHTML2 WGは、特に99年に最後の草案が作られたこの仕様『XHTML 2.0』によって、オタク的なHTMLの楽しみ方が、一部のマニアだけにとどまり、それ以外の多くの人たちには受け入れられないことを証明してみせた。この失敗が、デ・ファクト的な新生HTML WGにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けたWeb WorkersやDOM Level 3 Eventsといった、次世代のWeb標準たちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、第二次ブラウザ戦争の集大成ともいえるこの仕様である。
『HTML5』は、HTML史においては『HTML 3.0』と同じような意味を持つ。つまり、それまでのHTMLの要素が全て詰まっているのだ。この仕様を見れば、それ以前のHTMLの歴史というものが全部分かる。
『HTML5』には、HTMLのあらゆる要素が詰まっている。ここには、『HTML 3.0』のような歴史的な仕様としての「総合性」があり、『Compact HTML』のような「実装の実在さ」がある。『HTML 4.0』のような「マルチメディアとアクセシビリティの融合」があり、『ISO-HTML』のように「セクション構造の魅力を全世界に知らしめ」た。また、『XHTML 1.0』のように「バズワード的に成功」したのはもちろん、『XHTML 2.0』が別仕様に押し出した「オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこのHTMLは、『HTML 3.0』と全く同じ意味合いを持っているのだ。HTML史というものは、『HTML5』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られるHTMLで、『HTML5』の影響を免れるものはないであろうからである。
以上、これさえ読めばHTMLを包括的・体系的にとらえることができる7本の仕様を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、歴史的に重要な仕様は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「素数の分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた仕様は、いずれも「読むことによって他の仕様にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『HTML 3.0』を読んだならば、ブラウザ戦争前夜の独自HTML拡張に自然と興味がいくだろうし、『Compact HTML』を読んだなら、iモードのそれ以外のバージョンのHTMLも見たくなるだろう。CSSコミュニティについてもそれは言えるし、『ISO-HTML』を読んだなら、このHTMLを流行らす土壌ともなった「フラットでリニアな構造」というムーブメントにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『XHTML 1.0』はXMLオタクになるきっかけになるだろうし、『XHTML 2.0』はその他の「オタク的なXML EventsやXForms」の仕様も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『HTML5』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこのHTMLは、完成度があまりにも高いために、これを見た後に他のHTMLを読むと、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの仕様を読むことによって、HTMLをさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの仕様を読むことによって、HTMLを包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな助けとなるはずだ。
上に挙げた仕様への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「HTMLを体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
高校時代に読んだこのサイトによって、「リソースとは何か」ということを、ぼくはを知った。
「HTMLはSGMLの応用だ」ということが、このサイトを読むことでよく分かる。何気なく見ていた省略記法でも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
世界がCSSコミュニティの何に驚かされたかといえば、それはやっぱり精緻に書き込まれた正字正仮名にだ。ノジタンの日記には、HTMLの本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くの日記で多くのコミュニティ住人に、言及されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、とほほ氏がHTMLというジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた感想のいくつかは、このサイトに書かれていたばけらさんとの「スタイルシート論争」を参考にしたものなのだ。
これらのサイトを読めば、どんなHTMLが素晴らしく、どんなHTMLがそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あのCSSコミュニティ住人の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】