はてなキーワード: ソーカル事件とは
そう思うんだな。お前の感想が聞けて嬉しいよ。で、俺がそう見えるのを気にしてるなんて言ったのか???
お前、俺に「逆立ちしたムジナに見えるぞ」って言われて何を思う?理由が知りたいよな?それの何が悪いのか知りたいよな?
例えば、ソーカル事件の解釈の仕方が間違ってるならどう間違っているか、適切な資料を引用して説明しなきゃ伝わらないけど、それ分かってる?
とにかく、具体的に説明してくれよ。匿名である以上、あんたの感想はそこまで価値がない。悪いんだけどちゃんと説明して。
だいたい哲学の話ってモノのたとえで出しただけの話で、そんなに間違うほど言及してないけど。
しかも大本の増田なんか前提となる論の根拠が薄弱だし、論理の組み立てもクソもないし、いくらでも揚げ足とれるよ。
コツは「である」みたいな断定の前後にガバがあるってところ。分かった??????やってみ楽勝だから。できないんだろ????
すまんwwwwwwまた俺の勝ちwwwwwwwwww敗北の味が分からんのだがwwwwwwwwなぁ食わせてくれやwwwwwwww
というか、マジで哲学を専攻する人のソーカル事件への態度って知りたいんだよね。生の声で。
あー哲学も聖域じゃなくてキチンと査読しないとねーって思っているのか、過去の積み上げが違うし伝統ある信頼関係の上に立っているので大丈夫って感じなのか
言い訳じゃないよ。コミュニケーションエラーを訂正したかっただけ。多分俺を哲学者が全員バカだと思ってるやつだと決めつけてるからそう感じるんだろ?
例えば論理哲学論考とかは(前後の文脈を読み込んできちんと理解できてるとは決していえないが)すごそうと思ってるよ。
ソーカル事件について理解してないってのは、wikipediaからの雑な引用になってしまうが、下記の点からバカな哲学者の揶揄には使えないって話?
「ポストモダン哲学」において使われる比喩やアナロジーを執拗に嘲笑しているだけで、思想そのものの検討や批評はまったく行っていないため、ソーカルの行為は「単なる揚げ足取りにすぎない」「本そのものを読んでいない」として事件当初から厳しく批判されてきた[9]。
実際に、その後もデリダを中心とする「ポストモダン哲学」の学術的重要性が減じることはなく、現在にいたるまで彼らの思想が重要な研究対象でありつづけているのは、ソーカルによる批判が本質的なものではなかったためだとも指摘される[3]。
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
... 原子のもつれによって、私は法華経の行者であった大聖人の魂は、あのとき私に受肉したのであった。私の魂が、なぜに、日蓮センセーと同じであるかというと、かの有名なアインシュタインですら悩んだ量子力学で証明できる。つまり、私と日蓮センセーは反対のスピンを持つからである。私がいるから、日蓮は聖人となり、聖人としての私は量子の揺らぎにより、今の功徳は一千年の時間を超え、ともに共振し、全人類に影響を与えるのである。また、わたしはひとりの人間であるが、法華経を唱えることで、全世界の人びとの心をふるらせてきた。それは、なぜか。わたしは聖人であるからして、エントロピーが最も低いからである。すべての人が理想とする、安定する、そんなエネルギー量が低い地位に私はいる。しかし、それならば、わたしはこれまで大勝利してきたかといえば、ひとえに複雑系で説明できよう。バタフライエフェクト、複雑系を語るときによく用いられるが、たとえば蝶の華麗さを人びと認知できるが、それは諸君らが真の美し差に魅了されるように、わたしの声が人びとの口を動かせてきたのであるからだ。大勝利できるために、...
そんなものは寡聞にして知らないが見逃されてるだけな気もするんだよな
裾野が広い山ほど高いっていうし、レスバトルには相当な人間が参加してきてるわけだから、本来その議論から生まれるものは計り知れない
何としてもその論争に勝利すべく機転なりウィットを利かせるうちに従来の論理学では見出されていなかった論法が生み出されていることだってあるかもしれない
哲学者という名の大学教授は論文とか書いて金をもらっているように、レスバトラーにもそういった功績に応じて褒賞金が出るべきなんだよな
でも金を与えられるような身分の人間は先入観でネット上のレスバトラーを軽視してるからなのかそもそもそこで画期的な大発見がなされようが光が当てられることもないのだろう。
こんな状況で社会学を研究しているのはつらいという気持ちはよく分かる。
だって、偽物が跳梁跋扈している現状は今に始まったことじゃない。
それから20年経って、状況は改善したかと言ったら全くしてない。
2018年には、ナチスのわが闘争をもじったりしたバカ論文をフェミニズム論文誌に送ったら7本も通ったって第2ソーカル事件が起きて、何一つ状況は改善してなかった。
それら状況をきちんと学問界隈として総括したかと言えば、何もしてない。
偽物は社会運動に耽溺し、アカデミズムの看板で社会運動にうつつを抜かし、何一つ学問としての堕落は改善されていない。
学問でございって顔して、なんの根拠もなく世界中で他人を悪人扱いしている学者集団がほかにいるか?
こんなに素人にバカにされてて、ネットで素人に誰からも分かる形で論破されてる学問が他にあるか?
学問としてのソースを出せずに、根拠を問われて「私の気持ち」なんていう学問が他にあるのかよ。
積もりに積もった疑念があらゆる界隈から向けられてる。こういうときに「我々の社会学には純然たる研究に裏打ちされたがあり、こういう理由で我々の理論は正しいのだ」といえない時点で、学問としては敗北で、「まともな学者もいるんだって」なんていいわけみっともねえと思わねえのかな?
だって、そう言ってる人たちも、「偽物ばっかりの世界だ」って認めてるわけでしょ?
そレは偽物の研究で、俺たちの理論こそ本物だって駆逐したか? してねえだろ。
全力で戦えよ。そのためならいくらでもエンパワーメントしてやるよ。
でも、そんな戦いすらせずに、「俺だけは別です」みたいな顔してるんじゃねえよ。
野放しにし続けてるだろ。学者としてのキャリアを賭けて戦いを挑めよ。
親の借銭背負うみたいな話で大変だと思うが、それでも戦えよ。偽物ばかりの世界を真実で切り込まないで何が学者だよ。
とりあえず、「自分は正しい。自分たちは間違えてない」と思うのなら偽物に戦いを挑めよ。
とても状況を見るに、偽物と全力でぶつかってるとは思えない。
偽物ばかりの世界で、偽物が嘘をばらまいてるなら、その嘘と戦え。
医学も感染症学会も、偽物のトンデモ医師が出てきたら戦ってる。社会学もキャリアを賭けて戦え。
それが学者としての使命だろ。社会学者が信頼されてないということは偽物の跳梁跋扈を食い止められてないってことだ。
だから戦え。
それが学者としての使命だろ。