はてなキーワード: 審美眼とは
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
やけに攻撃的にくるなぁ。
どうした?発情期か?
君はhttp://anond.hatelabo.jp/20090607205343の増田なの?
それ前提に書くけど、10代で卒業云々のくだりは別に君に向けてのものじゃないから。まぁ書き方がわかりにくかったとは思ってるよ。
勿論、アニメ独自の演出が好きなんだよな?
君の言う「アニメ独自の演出」に当るかどうかは分からないが、長回しのカットなんかは好きだね。
大友克洋の「大砲の街」とか「気まぐれオレンジロード」のOP(第三期)とかね。最近は少ないけどな。
あと、レイアウトやBGMや台詞の間合いなんかはアニメ独自の演出ではないけど、アニメの演出としては重要な要素だろう。
作画厨や声優厨には瑣末なことかも知れんけど。
イメージを重ねて見ようが、声優本人に直接それを押しつけない限りは楽しみ方の一つとして全然アリだと思うが?
俺的にはナシだな。そういう見方するとイメージが大きく違う役やってる時に、どっちかに凄い違和感感じるんじゃない?それって損だと思うけど。
それにそういう「ファンの声」も役者に伝わっちゃうだろうし。
不細工だから叩くんだよ。審美眼の無い奴には違いが分からんのだろうが。
俺にとってキャラは記号だからな。見分けさえつけばとりあえず許しちゃう。そもそもキャラクターの造形上の美しさは作品の本質とは関係ないじゃん。
とはいえ、作画が安定しているに越したことはないし、微妙なときにはイジるけど。
しかし審美眼とは大きく出たな。
すごくいいエントリだと思った。
増田は偽悪的に書いてるけど生徒のことをよく考えている先生だよね。
自分が保護者だったらこんな先生に教えてもらいたいと思う。そのときは辛くても、覚悟して選択したということが挫折から立ち上がるのを助けてくれることになる。
食って行くってこととは別に。
自分はアマチュアの音楽愛好家で大学は音楽以外の別学部進んだ。けどちょっとだけ専門教育受けてる。
クラシック聞いてどの演奏がいいとか、この演奏が好きだということが分かるまでに、とても時間をかけて育てられ、自分でも育ててきた審美眼(耳?)があるつもりだ。
これはものすごく自分を豊かにしていると思う。
自分の恩師は、「たとえ生徒がプロにならなくても、よい聴衆を育てるということに誇りを持っているし、そうなってほしい」と言っていた。
「よき聴衆こそが音楽をすばらしいものにしていくのだから」って。そう言ってくれたから今の自分は、アマだけど誇りをもって音楽と向き合っている。
だから、美術大学を出て、たとえ挫折したとしてもよい観衆?、あるいは増田みたいなアドバイザーになれる世の中だといいけどなー。
大学まで行った人じゃないと分からないというのはアレだけど、正直自分は今のアートシーンは説明されないと(されても?)さっぱり分からない。
でもクラシックのよさが分からないって人もたくさんいるんだろうなと思う。
でもさ、たとえばニコニコ動画では美術や音楽はサブカル的なものが専ら流行っているけど、クラシックで検索してもすごい普通におもしろくて、
かつ、うp主専門崩れじゃないかなというレベルの動画あげている人がたくさんいる。そしてその動画見て、普通の人が結構いいねとか、おもしろかったってコメントしてる。
描いてみた動画だってそう。
ニートとか自己責任とか不況だからギスギスしたこと色々言われるけど、状況が許せばもっと穀つぶしにおおらかで、それに金が払われる世界であってほしい。
よいものが評価される世界ってやっぱりある程度育てられた眼や耳をもった聴衆がいないとだめだし、メインカルチャー廃れる一方だからさ。
おもしろくないんだからしょうがないって言われても、一発芸しか評価されないのお笑い界は最悪なんだよ。
喰えないからってあきらめても、愛だけはなくさないようにしてあげてほしい。アマチュアのアマはアモールってことだ。
だから元増田は、審美眼を育てまくって、結果として生徒が進路としての美術の道をあきらめさせたときは、それでもいいんだぜってことまで教えてあげてほしい。
灰色のサラリーマンの生活が辛いときも、眼や耳があれば、鮮やかな色彩をもってそいつが慰めてくれる。
うん、晩酌がすぎた。
古いジャンプ読者さんで、
↓
しかも面白くないのに続いている
↓
という人が非常に多いのですが、そういう人はたいてい「少年」ではなく、ジャンプ編集部が想定するターゲットから外れているのは自分だということに気付いていないんですね。なのに、昔自分がターゲットだった感覚から抜け出せなくて、自分の審美眼が正義だと思っちゃう。
コレとコレは(俺判断で)面白いから、載ってても良し。アレとアレはまぁ…面白くはないけど子ども向けだから、ジャンプにはああいうのも必要だろ。で、なんでソレとソレはジャンプに載ってるんだよ!腐女子向け!腐女子向け!俺のジャンプ汚すな!腐女子死ね!みたいなことを平気で言う。(コミケのあの寒々しい状況を見るに)特に腐女子が支持しているわけでもないのに、Dグレは腐女子向け、みたいなことを言っちゃう。
驚くことに、古い腐女子もまた若い腐女子を揶揄して、最近のジャンプ面白くない、若いキャラ萌え厨が支持してるからだ!自重しろ!あージャンプ黄金期に戻んねーかなー!DB・スラダン・幽白の時期とか最強だよねー!とか言い出す始末。アホか。
自分が面白いと思えない作品を、面白いと思う小中学生がたくさんいることを、絵がキレイな方がいいなと思う小中学生がたくさんいることを、そろそろ認めた方がいいと思う。人気作品の良さを理解出来ない自分の審美眼の方を疑いなさいよ。ジャンプはいつまでもお前らのためのジャンプではないのだ。
μiTRONなんてOSって言ってもファイルシステムもないし画面への表示もできないし本当に小さいものだよ
そこが出来合いだからと言っても他の99%以上が独自だったら、
そのシステムでの開発ノウハウを得たとしても殆どが他ではそのままでは使えない知識。
・これはOSにあたる部分が何かが未定義なのでこの議論は結論が出ない。糞ったれな意見だ
・CPU制御という言葉の定義も不明。アセンブラでないとできない制御なんて殆どない
・そんなの誰でもできるだろ。どう書けばどうハードが動くかなんてハードウェアのスペックシートと回路図見ればわかるし。
■http://anond.hatelabo.jp/20090312075947
もしも1から組んだ独自OSなら、それはそれでCPUなり何なりを直接いじってる部分まで見えるわけだから、かなりお得感溢れるし、それを盗んで独自OS作る技術持ったら、結構なひっぱりだこじゃなかろうか。
・独自OSが作れるくらいでひっぱりだこなんかにならないよ。
・「独自のものが作れる」程度のスキルは世の中に溢れていて所詮「誰でも出来る」
・「洗練されていて素晴らしい独自OSが作れる」というなら別だけど、
そういうのは複数のものを見比べて審美眼を養う必要がある
・外出が苦手な引きこもりの利用者が多い。つまりまともな社会生活が送れず、ろくな人間関係を築けない人が買ってるということ。当然ながら、そういう人々がいいと思うものを一般人がレベルが高いと思えるはずはない。おそらく本人達にとっては「働かない俺様は勝ち組、俺様の審美眼のすごさがわからん奴は馬鹿」のような意識なのだろう。そういう思い上がりがあるので、ますます世間の常識とのずれは深まる。
・近くに本屋レコード屋などがない田舎者の利用者が多い。つまり都会と比べて娯楽のインフラが圧倒的に少なく人間関係も固定しがちな人が買ってるということ。だから経験の豊富な都会人から見ればダサいものを買ってしまう事になる。もちろん生まれる場所は選べないので、彼らが悪いとかそういうことではないが格差社会の生み出す悲劇ではある。
・実際に店頭に行って買う人より内容を確認できずに買う人が多い。ろくに吟味せず脊髄反射で買ってるわけだから、低レベルに成るのも至極当然の帰結。
・店頭では買えないような低俗破廉恥なものを買う人が多い。性欲があるのは動物として仕方がないとはいえ、最大の問題は他人の目を気にしてばかりで自分の趣味嗜好に自信がないということ。それがますますレベル低下に滑車をかける。見ているこっちが恥ずかしい。
「いえ、それほどでもないです・・・」「とんでもないです」「そんな、、身に余るお言葉です」などなど
謙遜じゃなく、本当にそれほどでもないから「それほどでもない」と言ってるのに「またまた謙遜してー」と言われるのが少し怖い。
何が怖いのか自分でもよくわからないけど多分「謙遜してるフリしてるだけだろ」「こういう奴に限って自己顕示欲が強いんだよな」「社交辞令で褒めてるだけなのに何本気になってるんだよ」とか思われてるのではないかと無意識的に考えてるのではと思う。
それと「褒めてもらってるのに「それほどでもないです」と返すのは相手の審美眼を貶してることにならないか?」という心配をしてしまうのも原因。
そんな打算的に褒めてる人なんてなかなかいないだろうし、いえいえそれほどでもという雛形通りの答え方をしている限りは相手をそれほど不快にさせてしまうこともないだろうとは思うのだけど、それでもやはり心配してしまう。
それだけのことなのだけど、褒められてるのに素直に受け取れないのは、辛い。
元増田です。
ご助言、ありがとうございます。
職業柄、絵の中に織り込まれた「社会史」的な事柄を読み込むことはできまして、解説を頼りにですがその絵のコンテクストも、頭では理解できます。けれども、やはりわからないのは「(他の画家とどう(すばらしさが)違うのかという)差異」であり、またその「すばらしさ」そのものでありましょうか。
反対に、自分(と連れ)は、立体系(たとえば建築だったり、仏像だったり)を見るのに、絵画のような特に頭をひねくるようなこともなくはなくても、見てて楽しめます。
絵画の鑑賞眼は、お話を聞きますと後天的に習得できるようなものだそうですが、しかしその審美眼についてはそうではないのではないかと考えてしまいます。
たとえば、絵画以上に書(道)について、自分はほとんど理解不能で、その記号的なもの以上の何かを読み取ることはできません。
先日、連れと、上野のフェルメールとデルフト派展みたいなものに行った。
特別展は平日だというのに、なかなかの混雑ぶりに驚いた。
中に入ると、OL風の二人が、絵の前で「この視線が」「へぇ」「なるほど、やっぱりドラマが」云々と鑑賞していたのを見てさらに驚いたが、こういったのは展覧会であちこちで見られたのにほとんどカルチャーショックといってよかった。
自分も連れも、普段から美術館系にはほとんど行かず、同じ上野なら二つの博物館か動物園に入り浸るが美術館に足を向けたことはない。加えて美術的な素養もほぼないに近い。今回来たのも、たまたまチケットをもらったからだった。
確かに飾られた絵画は(素人目で)きれいでうまかったけれども、じゃあ他の画家とどう違うから今も名声をその保っているのかと聞かれたら、まったく答えられなかっただろう。正直、オランダの画家ならレンブラントとフェルメールの区別がつかない自分には、フェルメールとデルフト派の区別もまったくつかない。
ほとんど作品の横についている解説を頼りに、這う這うの体で二時間かけて見終わった。
二時間もいたわけだから、まったくつまらなかったというわけではないが、時間をかけた割りに、心から楽しめたというものでもない。帰ってきて、何が、フェルメールにしろ他のデルフト派にしろ、すごかったのかはわからずじまいであった。
先のOLのように、こういったものを鑑賞する、そしてそれを楽しむ能力を持っている人間というのは、ある種尊敬に値すると思う。こういうのは、先天的にもらえるものなのか、はたまた後天的に取得できるのか、そもそも学校か何かで習ってなんとかなるものなのかどうか。
http://anond.hatelabo.jp/20080622033714
文章から垣間見える情報を整理すると
なんでこの子が自分をブサイクなのかと思うか理解できないし、
そうやって育まれた不当な自己評価を理解しない人からすれば
なんでこんなに被害妄想なのかも理解できない。
本気でブサイクだったらいくら簡単にやらせてもらえるからって
ある種の賢さと卑怯さを持ってただけかもしれない。
自分も増田に書くときはけっこうドキドキしながら
トラックバックチェックしてたりするから、本人に届くことを祈りつつ、
ものすごいおせっかいなアドバイスを。
そんな、それまでのコンプレックスと独立した
「架空の自分」を周りがどう見るか客観的に観察してみてほしい。
まずね、「自称お笑い通」とか「自称お笑い評論家」が大嫌いってのがあるんだけどね。
お笑いバラエティ番組をムッツリした面さげて眺めてさ、所詮好き嫌い程度のレベルの物事をわざと論説ぶって言って、
他の奴と違って自分は分かってる、みたいな風にしてんのね。
中には自分では何も作り出せないし人前に出るなんて滅相も無いのもいる。
ふと、赤絨毯とか見てて思ったんだけど、芸を打つ人が、番組中のヒエラルキーの中ですごい低い位置にいんのね。
ベテランの役者タレント芸人ならまだしも、何ができるんだかわかんないタレントもどきの若い人から「評価」されてんのね。
「見てあげてる」ってなっちまうんじゃないかな?
まあたしかにどうしようもない芸人とかいるよ。
けどさ、そこまでお笑い芸人ってのは低く見られるもんなのかな?
つーかさ、ああいう番組の作りが多いとさ、困るんだよね。
perfumeが気持ちいい人もいれば、YMOが気持ちいい人もいる、それだけのことですよね。別に、どっちが優れているとか、どっちがセンスが良いとか、どっちが知的とか、どっちが洗練されてるとか、そういうことじゃないですよね。価値観の相違、生き方の違い、審美眼の違い、ただそれだけのことですよ。
http://www.youtube.com/watch?v=JDcTU_ebDFI
http://www.youtube.com/watch?v=aHhYbVVDuoA
どっちが好きか、どっちに価値を感じるかなんて単なる個人の好みですよ。センスの違いであってセンスの良し悪しではない。
しかしそれは芸術に何を求めるか?という姿勢の違いではありますけどね。そしてそれは芸術とは?という問いにどれだけ向き合ったかのあらわれかもしれませんけどね。
いずれにせよ人生は短いので、ださい曲に割く時間なんてあるわけない。素敵な音楽とともに生きていきたいですね。
まあ、なにを聴いてようとそのうち同じように死んじまうんですけどね。
法事で久しぶりに従妹に会った。
チビでおてんばで思わずハグハグしてしまうほど愛らしかった従妹も
もう厨参。今では長い黒髪がとても似合うキレイで純朴な娘さんになっていた。
小さい頃はお兄と呼んで引っ付いて離れなかったが
分別覚えて俺がキモいと分かってか一言も話し掛けてくれず
それどころか接しようとすると露骨な拒否感を表している。
とても寂しいがそれは正常な審美眼が育っている証だ。
気にしなくはないが可愛らしい従妹がこのまま美しく素晴らしい女性に
なってくれれば従兄として嬉しく思う。
悲しくはあるがそれ以上に暖かく見守ってやりたい気持ちがあったんだ。
従妹一家がいない時小物の中から何気なく従妹の生徒手帳をみてみたら
えっ!そんな馬fじょいjstfじょj@vm
http://anond.hatelabo.jp/20070923094104
元増田さんはファッション好きなんでしょ?だったらブサとか気にしないで好きなファッションしてれば良いかと。
ちょっとくらいブサでもお洒落ならOK。もちろん、多少鍛えるとかダイエットするとかそういうのも込みでね。
顔なんてたいした要素じゃないよ。ほんと。
そもそも、「清潔感があればたいていの外見は許される」んだから。
まー気持ちはわかるよ。私もけして美人じゃないけど審美眼はあるほうで、美しいもの好きだ。ハイファッションばかり載っている雑誌見ると溜息が出る。でもだから自分がけしてそうなれないことも知ってる。
でも妥協点というか、似合うファッションとか化粧とかで「このくらいならなんとか」っていうレベルには持っていけるよ。今はそうじゃないけどさww
л л
(´・д・`)<にゃーーぅーーん
マジか。若さ故?
男の立場に立って考えればわかりそうなものだけど…。
「結婚相談所より重くない感じ」って何が重くないのかって・・・
どんな獲物を吊り上げたいかによって釣り場とエサの形態は変えるべきじゃない?
適当な場所に自分で入り込んでいってエサを適切な形で垂らせばつれそうな気がするけどな。
まずは自分の釣りたい男がどんな男なのか整理してみ?
必要なエサ:ボディ、容姿、若さ(釣り場によってアレンジが必要)
料理:難。腐りやすい。つり上げたのちも他につられる可能性あり
必要なエサ:会話力、行動力
釣り場:紹介
必要なエサ:幅広い人脈、愛嬌
料理:易。但しつれる魚のサイズは仲介者の自分の評価に左右される。
必要なエサ:性、選別眼
料理:難。釣りやすいが、エサバレもしやすい。毒をもった魚も多い。
必要なエサ:容姿、忍耐
必要なエサ:理解度、会話力、積極性
料理:中。
自分の釣り師としての腕前と手持ちエサをわきまえて、
つりたい魚のいる魚がいる釣り場にいけばいい。
あー関係あるかどうかわからんけど
デザイナーという職業の人、特に独立して事務所をかまえているような人たちを見ていて、この人たちの人より優れている技能は物を作る力ではなくてしゃべり力なんではないかと思うようになった。実際に出てくるものがしょぼいという意味ではなく、前段階での提案力や根回し力が審美眼より結果に影響するという意味で、彼らはやりて営業マンなんだなと。職人タイプも中にはいるけど、たいていはあまり良い目を見ていない。
仕事なんかでデザイナー志望の子に会うと、増田にも書かれるようなモノ作りへの情熱というかピュアネスを感じて素晴らしいなーと思うのだが、同時にそれはあんまり君がやっていけるかどうかに関係ないんじゃないかなーみたいなことを言ってしまっていいものかどうかいつも悩む。
まあそうなのよね。
最終的にモノをいうのはアイテム選&組み合わせのセンスなんだけど、
これらは数を見て・実践して経験地を積んでいかないと身に付かない。
(これらが優れている人なら、安い店でもそれなりに、高い店ならより素敵に仕上げられる)
そういうのが身に付くまではそれなりにオシャレ(高度すぎるのもヤバイので丸井あたりがベスト)なとこで
店員と一緒に選んだりした方がいいんだよね。
まずは審美眼を育てることが第一。