はてなキーワード: 古語とは
「うまい」(旨し(古語))は、「甘い」を語源とする一般的な食べ物の「良い味」を意味する言葉で、「うまい」というのは特に下品な言葉でもなければ失礼でもありません。本来、現代でも普通に使われて良い言葉です。
対して、古語「美し(よし)」を語源とする女房言葉だった(「よし」→「いし」に、美化語である「お」が付いた)「おいしい」は、その発生から「女性が使用して上品に感じさせる言葉」としての歴史をもっています。年配の方の一部では、女性語と受け取る人もいます。
つまり、女性による「うまい」の使用がやや乱暴に感じられるのは、一般的に用いられる女性語としての「おいしい」をあえて選ばなかった、という言外の意味が生じるように受け止められるからでしょう。一方で、「おいしい」を女性語と感じない(単なる「ちょっと丁寧な言葉」と思う)人が増えた結果、「どうして女性が使うと下品に聞こえるのか」が分からなくなった、というのが今回の文脈ではないでしょうか。
なお、明治の文豪等は、そもそも食べ物の味について云々すること自体をケシカランことと思っていた節もあるようですが、それを表現する際には、地の文や男性語としてはおおむね「うまい」が選ばれていたようです。その後の用例をみると、明治末ごろから大正にかけて、女性作家や児童文学作家などの文章に普通に「おいしい」が用いられるようになっており、その辺り(時代、場所)から男女問わず用いられる今日の「おいしい」の用法が広まったのではないかと推測されます。昭和に入ると、特にカジュアルな口語的表現において、男性の場合も「おいしい」を使う例が増えているようですね。そこでは「うまい」はやや古風な表現という受け取られ方をしているようで面白いです。
テック系企業のカタカナで3,4文字の名前がついているサービスには、ネーミングにセンスがない。
古語っぽいものをカタカナにしてサービスの名前にするのは、自分で言葉を創りだす必要がなく、見つけ出すだけでいいので負担が軽い。ゆえに、そちらに流れやすい。さらに、サービス名を考えている時に丁度良さそうな言葉を見つけると、これでいいじゃん感に支配される。
しかし、大抵そのいいじゃん感は1日寝かしてみるとダサく感じる(個人の感想である。ダサいのにリリースされているサービスも存在する)し、ローマ字表記すると6文字とか9文字とかになって長すぎてみてくれが悪い。
丁寧語とは、眼前の相手への敬意を表す言葉であって、単なる「敬語」という意味ではない。言ってみれば、部下が上司にする言葉遣いである。一方「しゃーない」はどちらかと言えば上位者から下位者になげかけられる男性語における関西弁の俗流表現であり、軽い侮蔑語としての「アホか」に近いニュアンスすらある。「シャーナイヤン(1)」「シャーナイヤロ(2)」とか「シャーナイヤンケ(3)」「シャーナイチュートンノジャ(4)」など、「シャーナイ」のヴァリエーション(※1)を考えれば、ほとんど罵倒語ですらあるので、これを丁寧語にするというのがまず発想として奇妙である。
また、コレを無理に「仕方ない」の意の丁寧表現と取るとしても、一般に関西弁ネイティブの世界で、たとえば部下が上司に向かって”仕方ない”という自分の感想を直接的に述べるシーンというのがまず想定しにくい。関西弁は非常に日本そのものであるような文化体系に基づく言語なので、「仕方ない」出来事に遭遇したときには、出来事の「状態」を描写するよりも、古語のようにその状況に遭遇した「相手の心情」を慮って言葉が発せられ、これによって相手へのより強い敬意や遺憾の念を表現するのが普通だからである。従って、「しゃーありません」などという妙な言い方は、ネイティブからは出てこない。これは、表面だけ関西弁だがハートが関西弁ではない人間が想像で喋るエセ関西弁である。朝ドラなどで非常に頻繁に見られるが、イントネーションを似せれば似せるほど不気味の谷に近づいて違和感があるのでこういうのは本当に止めた方がいいと思う。(※2)
たとえば「上司が契約を取るため条件を下げるよう上にかけあってきたが、社の方針でダメだと言われる状況に遭遇したときの部下の一言」を想定するならば、「コレ、ホン↓トニナン↓トモナラナ↑イン↓デスカネー…」が正解だ。やや棒読みで最後を低く呟くように発音するのがコツである。「何ともならない」ことを分かった上で、敢えて相手の心の内を代理的に言語化する。一番「何ともならない」ことを分かっているのは上司だ、との了解の下で(棒読み口調によってこれは察せられる)敢えて一段自分を低め、道化となって「分からないフリ」をすることで、上司自身に「マアナラヘンナ/無理↑ヤ(=仕方ない)」と言わせるための一言である。これはかなり気を遣った「仕方ない」の関西弁による丁寧表現である。「仕方ない」とこちらから言うのではなく、相手に「仕方ない」と分からせるために相手の心情を思い諮り、同時に敬意を表現する。こういう柔らかな「寄り添う言語としての日本語」の特長を、日本の伝統を大事にされる方々には関東においてもぜひ日常的に取り入れてもらいたいと思うばかりである。
また、もう少しカジュアルに(カジュアルという概念自体が関西文化にはうまくそぐわないのだが)表現すると? たとえばちょっと丁寧に同格の同僚と喋るようなケースで「今後こういう傾向になっていくのはやっぱり『仕方ないですね』」という内容を言う場合どうなるか。その場合は、自立語ではなく付属語や補助動詞で表現することになるだろう。つまり、「ない」自体が敬語化されるのではなく、「仕方ナイ↑デスネー」みたいな感じだ。女性的表現としては、「仕方アリマセンネー」が考えられ、これは増田の想定に一番近いのだが、女性語の場合丁寧な社交の場では言葉が関東弁に近づくケースがあるので(これについては谷崎潤一郎の小説「細雪」の中でも少し触れられている(※3))このようになる。
以上、増田の初級関西弁講座である。ネタであることは言うまでもないので話半分に聞いておくように。ホナマタ。
https://anond.hatelabo.jp/20180113124118
※1 厳密に言えば、「シャーナイ」とほぼ同義で使いうるのは「アホクサ/アホカイナ」である。前者は事態を、後者は相手を軽くあしらい流すときに用いられる。ただ、このような間投詞的な「アホ」(詠嘆の「アホ」という)の用法は、シチュエーションにより様々な意味を含有するので、非ネイティブが使用するのに苦労する部分である。「アホ」は本来道化(クラウン)を意味する言葉だが、同質性の高い世界において道化役は時に非常に重要な役割を果たすものであり、それが関西文化圏では共通了解とされているため「あいつアホやな」という言葉は批判ではなく、時に非常な敬意や褒め言葉になりうるし、また若年女子が用いる「アホっ」は、おおむねソフトな「I like you.」の意味で了解されるのである。
なお、「ヤン(1)」~「チュートンノジャ(4)」に至る変化は、一見微妙に見えるがそれぞれ
「(1)仕方ないじゃないですか?(=だからあきらめて貰えませんか?(依願))」
「(2)仕方ないじゃないか?(=だからどうしようもないと考えなさい。(命令))」
「(3)仕方ないと私は言っているでしょう?(=ひょっとして言いがかりを付けて喧嘩したいのですか? 何ならお相手しますよ?(威嚇))」
「(4)仕方ないとこの私が言っているのだ。(殺すぞ(予告))」
…という意味となっており、特に(2)から(3)に変化したときは明らかに相手のモードが変化しているので注意が必要である。親切なネイティブならば、語尾に「ヨォ」という威嚇語を追加し「シャーナイヤンケヨォ!」とメンチ(接近して目を合わせる威嚇のポーズ)とともに発音してくれるので、こちらは非ネイティブにも分かりやすい表現となるが、できれば(3)を聞く前に第三者を介入させるか和解を申し出るのが望ましい。
※2 たとえば朝ドラなどで、番頭はんがお嬢さんに「仕方ナイデッシャロ」などという奇妙な関西弁を用いる「けったいな」シーンは容易に想像できる。このように関東人がエセ関西弁を振り回して「関東人の思う関西人」を演じているのは、実際典型的な「文化の盗用」であり、今後厳しく批判されていくことだろう。
※3 谷崎潤一郎「細雪(上)」より。(舞台は戦前なので、約80年前の話である。)
「彼女は相良夫人のような型の、気風から、態度から、物云いから、体のこなしから、何から何までパリパリの東京流の奥さんが、どうにも苦手なのであった。彼女も阪神間の奥さん達の間では、いっぱし東京弁が使える組なのであるが、こう云う夫人の前へ出ると、何となく気が引けて、――と云うよりは、何か東京弁と云うものが浅ましいように感じられて来て、故意に使うのを差控えたくなり、却って土地の言葉を出すようにした。それに又、そう云えば丹生夫人までが、いつも幸子とは大阪弁で話す癖に、今日はお附合いのつもりか完全な東京弁を使うので、まるで別の人のようで、打ち解ける気になれないのであった。成る程丹生夫人は、大阪っ児ではあるけれども、女学校が東京であった関係上、東京人との交際が多いので、東京弁が上手なことに不思議はないものの、それでもこんなにまで堂に入っているとは、長い附合いの幸子にしても今日まで知らなかったことで、今日の夫人はいつものおっとりとしたところがまるでなく、眼の使いよう、唇の曲げよう、煙草を吸う時の人差指と中指の持って行きよう、――東京弁はまず表情やしぐさからああしなければ板に着かないのかも知れないが、何だか人柄がにわかに悪くなったように思えた。」
https://twitter.com/nhk_nehorin/status/951099083074056202
最後の腐女子用語辞典【解釈違い】キャラの受け取り方が自分と違うこと。イライラすることもある。例)「番組に出てた腐女子の話に納得いかない。完全に解釈違い!でもしょうがないよね、100人いたら100通りの腐女子がいるんだから・・・」ご視聴ありがとうございました🐽 #ねほりんぱほりん https://t.co/1sVh0dQNWf
マッッジで。
「男って~~だよね」「女には~~な傾向があるから」みたいな語り口で腐女子を語ろうものなら大炎上が約束される。
誰もが(この言い方も怖い)、「あなたはそうでも私は違う」を持っている。例え他者から見れば誤差の範囲だろうが、一人一人自分の腐女子としての輪郭をはっきりと持っていて、その差違をないがしろにされることを嫌う。
なんでだろうな、「男」「女」なんてカテゴリよりずっと狭いのに。
でも、もしかしたら、本来人をカテゴリで語るなんてのはこんくらいめんどくさくて然るべきなのかもしれないが。
なんで男同士に萌えるの?
と問われたとき、私にとって一番原点に近い表現をしてるのは下記の動画だ。
ここで言われているのは、端的に言って、
ホモが嫌いな女子なんていません!という平成も浅い頃の暴言があるが、
少なくとも女子の多くは、おっさん同士が無邪気になかよしだとわけもなく嬉しい。と、思う。
ヒロエさんは男性なので男性にもある程度は通じる感覚なのかもしれない。
でもまあ、人と人が仲良くしているな、と見てとれるとき、その多くは喜ばしい。
にこにこと仲良く戯れていたら、やっぱり微笑ましいしなんだかうれしい。
でも男女だと、そこに性の香りが漂うと、感想の種類はぐっとかわる。
終電前の改札前でいちゃいちゃしてる男女はまあまあ見苦しい。優しい気持ちにはならない。
でも、たとえおっさんのいちゃいちゃに喜ぶ人が世の中の何割であろうと、みんなが腐なわけではもちろんない。
だってみんなチームナックスを見ても彼らのセックスを連想しない。
(腐女子が全員セックスを連想しているかというとそうも言い切れないが…ここはややこしいがとりあえず話を進める)
そもそも前述の通り、人と人が仲良くしてるのは微笑ましくても、性的な要素は多くの人にとって微笑ましくない。
腐女子は微笑ましいものにわざわざ性の要素を見いだそうとする。
ようやくねほりんぱほりんの話をするが、あの30分間で一番私の心に刺さったのはこの言葉だった。
この、能天気な、使い古されたみたいな言い回しは、けれども「腐」というものの一面をとらえてるんじゃないかと私は思う。
そうなのだ。腐の世界は、すべての感情を、行動を、あるいは状態を、愛によるものだと意図的に読み違えることで成り立っているのだ。
だから、友情にもコンビにも兄弟にも愛を見いだすし、天井と壁にも愛を見いだす。
(ここでいう「愛」は「恋」である必要はないのだが、その辺は後述する)
そして、ここが重要なのだが、性欲とは愛に対して従であると、腐は思っている。
終電前の改札でいちゃいちゃしているカップルはあんまり微笑ましくないと書いた。
見知らぬ人たちが、泊まるか泊まらないかやるかやらないかの駆け引きをしているのを見るのは、何ならちょっと不快だ。
でも、それは、通りすがりの私の目には彼らの性欲しか見えないからだ。
彼らが「心から愛し合っているのだ」と認識したとき、その感想は変わる。
「逃げ恥」のじれじれしたベッド回りのあれこれを見たとき、あれを不愉快に思う人は多くなかったのではないか。
そこに愛を認識できれば、他者のものであっても性欲は不快なものではなくなる。
私もそう思う。
腐の妄想世界のなかでは、人は酸素を吸うように愛を吸っている。
話すのも食べるのも、笑うのも泣くのも、生きるのも、死ぬのも、すべて愛のためだ。
もちろん現実はそんなわきゃない。人は嫌うし憎むし見下すし嫉む。
でも、妄想世界のなかで、それらもみんな愛だと誤認する。意図的にする。
そこまでしてはじめて、恋について語れるし、性欲について語れる。
恋と性が大好きなわけではない。むしろ恋も性も汚い側面を有していることをよく知っている。
だからこそ、「この世のすべての感情は愛」な妄想世界にトリップしてやっとようやく、恋と性について語れるのではないか。
なんでだろうね。
天井と床の間に、唐揚げとレモンの間に、電車と駅の間に愛を見いだすとして、
どうして男女でもなく女同士でもなく男同士にたとえてしまうんだろう。
少なくとも私は、腐以外でこの手の「愛を見いだす遊び」をしている人たちを知らない。
「私とは違うなにか」でありかつ「同質に並び立つ二人(ふたつ)」が重要なのかもしれない。
私という現実の人間は愛じゃなくて酸素吸って生きてるので私に近い要素は必要なく、
彼岸の愛の世界で生きている人たちは同じ愛を吸う同じ種類の生き物だと思うのかもしれない。
やっぱ苦しいな。単にちんこすきなだけ!っていう清々しい腐のみなさんが一定数いることは書き添えておく。
ねほりんぱほりんでは、一人の出演者が男性にしつこく付きまとわれた過去を話した。
それがマジとか嘘とかマウンティングとか違うとかはどーーでもよいのだが、
ただ、そうなのだ。腐という趣味はその人の性的経験としばしば関連付けて語られる。
本人も、「私はなぜ腐女子なのか」と考えるとき、自身と男性との関係性について考えてしまう。
では、愛でくるまなければ恋も性も語れないというこの増田は、一体男性にどんなトラウマがあるというのか…!????
私は、そんなの聞かれなくていいし考えなくていいと思っている。
なぜ好きなのか?を考えて、趣味と過去の経験を結びつける必要はないのだ。ましてネガティブなものとなんてぜんぜんいらない。
何が好きなのか、どんなところが好きなのか、そんなことを考える方がずっといい。
でもなーーしちゃうんだよな!なんでだろうな!!
ねほりんぱほりんの三人の腐女子たちが自分はどんな人間かを語っているとき、私にとって目新しい言葉はひとつもなかった。
彼女たちの自己分析は、ネットに転がっている腐女子「たち」の語りの集大成のようだった。
どっかで見たことばっかだった。
腐女子は、「100人いれば100通り」であるにも関わらず、どこかで「私たち腐女子」という自意識を持っている気がする。
誰かの自己分析は私の自己分析で、自分について語る言葉は際限もなく膨れ上がる。
「私たち」は常に語らなければならないと思っている。
養老孟司が「いわゆるオカマの人は頭をよく使う」ということを言っていた。
マツコは「そうかもしれない」と応じた。「だってアタシ、トイレ入るときだって、自分はどっちなのか考えるもの。」
「私は何者なのか?」を考えてしまうのがマイノリティなんだと思う。
人はじぶんがマイノリティの側であると思ったとき、「私はなぜこうであるのか?」を考えずにはいられない。
腐女子もそうなんだと思う。「私はなぜこうであるのか?」それを語るために、「私たち」は「私たち」を語る言葉を溜めていく。
100人いれば100通りのはずの私たちは、似たような言葉を使って自分を語り、共感し、それでいていっしょくたにされることを嫌う。
私は何者であるのか。
私について私が語るとき、私は自分が女であることより、30代であることより、会社員であることより、腐女子であることを語るだろう。
「私たち」は問われ続けるし語りつづける。でもいつか、自分のネガティブな経験と腐を繋げて語る人がいなくなるかもしれない、と思う。
高校教育や大学入試における古文漢文の要不要論が盛り上がってる。
・生身の人間が古文漢文を自力で読み書きする必要のある職業人口などごく限られている。私の本音を言えば、そんな能力であれば大学か専門学校が専門教育として施せば十分だろうということである。
・高校教育の古文漢文は授業にせよ大学入試科目にせよ選択科目として設置すればいい。古文漢文が既習でないと教育が成り立たないと大学側が思うなら、受験生に古文漢文を課せば良いのだ。
・我が国の言語には古文や漢文というものがありますよ、という触り程度の授業なら中学で国語の授業の一環として少々やれば充分。
・古文や漢文で書かれた文章の中身を深く学ぶのが有意義なのだとしたら、それは現代語訳を使って学ぶことにして、その授業時間は、現代文の授業、あるいは歴史、政経、倫理の授業など、内容に応じて他科目に振り分ければいい。
・国民が自国語の古語を読み書きできなくなるのは良くないみたいな漠然とした主張をする人もいるが、古文漢文などあと10年もすればAIがきれいに現代文に翻訳するようになるだろう。古文も漢文も現代文と地続きの言語である。そういうのを解析して翻訳するのはAIの得意分野だろう。技術的な難易度だけで考えたら、漢文⇔古文や、古文⇔現代文の完全な自動翻訳は、日⇔英の完全な自動翻訳が実現するより早く実現する可能性すらあると思う。
え…高校で教えられるレベルの知識を大学で敢えて時間取って教える方がもったいなくない?
法学部とかで必要ならそれこそ高校で基礎とかさわりをやっといた方がいいじゃん。それでも三年とかかかるんだよ。大学でその三年潰させるの?
受験に必要かって?要らない学部あるよ??強制で受けなきゃいけないのが理不尽?そんなん言うたらどの科目だって理不尽なんじゃないの??
古文漢文落として受験自体失敗したらどうするのって?古文漢文で受かった人もいるかもしんないじゃん。そういう人だっていい弁護士になって世の中に尽くしてるかもよ。それじゃダメなの??
だいたい古文漢文超実用性あるじゃん。ログインパスワードのネタに事欠かない。フランス語とか大学で習ったけどアクサンとかあるから入力も面倒なレベルやで?「業務用PCでYouTube見てんじゃねーよボケ」を平安くらいの古語に訳すだけで簡単に文字数埋まるし。ちょう便利。数学よりよっぽど使うわ。
じゃぁ読まねぇよ、ったって誰が読めって言ったのかが分からんからなんとも…。^^;
それも分かんないのに価値あるかどうか聞かれても困る。ラノベって読む価値あるの? ってもっと若い子に増田が聞かれたら勧めるべきかどうか迷うでしょ?
読めるかどうかは、何を読むかだと思う。
ハッキリ言えばラノベの方が読解するのに遥かに知識が必要な場合もある(電子兵器や物理化学心理統計宇宙論等)し、短くて読み易い古典だって幾らでもある。
逆に古語や文法なんかが違えばそれを調べ、史実を前提に当時の生活まで想像しつつ読む、なんてのは読解力ってより周辺知識だよね。歴史とか文化とかの。
青空文庫のオススメを検索して出てきた数十サイトを「ええーいダメだダメだぁ! おまえもっ!オマエもお前も御前も分かってねぇっっ!!」と朝っぱらから一人で呟きながら厳選(笑)したページを二つだけ貼っときますね。
まんことは、女性器のことを指す。英語ではcunt、pussy、riseのスラングが相当する。接頭語「お」を付けて「おまんこ」と表現されることも多い。
以下については特記無き場合には、女性器そのものでなく、日本語における「まんこ」と言う語について解説する。 以下に詳しく表記されているように、テレビやラジオなどの公共放送媒体においては放送禁止用語の対象であり、ゲームなどにおけるプレイヤーの命名においては入力禁止用語に設定されていることが多い。これに対して男性器の俗称である「ちんこ」「ちんちん」などの語は放送禁止用語にされていることは少ない。「ちんちん」は物質そのものを指す用語であるのに対し「まんこ」は性行為を行なうことを指す用語でもあるため、特に女性軽視の象徴的な言語と定義されている。 同等の語としては、古語や日本語の方言に於いて、福岡県博多地方を中心に現在でも用いられる「(お)ぼぼ」[要出典][1]や、近畿地方から瀬戸内地方で広く用いられている「おめこ」や「おちゃこ」、沖縄県で現在でも用いられる「ホーミー」[要出典]等が挙げられる。
1921年に発行された『言泉』では、「まんこ」は陰門の小見出し扱いだった。しかし、現在では知名度が逆転し『広辞苑』第六版に収録された。また、斎藤光ら『性的なことば』では、まんことの単語が全国区のものとなったのは比較的近年のことであり、1972年に大阪で紅萬子がデビューしていること、1978年に京都大学のレガッタ大会において、「夕焼けのおまんた」というチームが出場したが大した騒ぎにもならなかったこと、更に1984年には1966年(昭和41年)生まれ、香川県出身であるタレントの松本明子が全国放送で、「おまんこ」と発しテレビ局を出入り禁止になる事件もあり、以上を根拠に、少なくとも関西圏では、めこはともかくまんこは周知されていなかったとし、全国に「まんこ」の影響が及ぶのは1988年頃の事ではなかったかと結んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%93 より引用
ここにただの「こ」になったのに対して「ちん」をつける
https://anond.hatelabo.jp/20170626192037
こんばんは、id:sugimurasaburo さんからIDコールをいただきました。ありがとうございます。船橋海神(id:cj3029412)です。本職はねこちゃんの保護、趣味はブログで嘆くこと、在野で中世古文(特に助詞助動詞)研究を行っております。キャッチフレーズは「(´;ω;`)」「でかいです」。将棋も大の好物です。
以下は私の私淑する大野晋先生およびその決定的名著/集大成であらせられますところの(敬語の誤用)「岩波古語辞典増補版」(2016/1/12補訂版第23刷)に依ります。
よろしくお願いします。
(A)~(D)は上の引用解説を便宜的に分類した符号。【訳】は私のもの(一部、戯れ)です。
元増田氏の理解(「加藤一二三という男がいたそうだ」)(「伝聞の過去」になるんじゃないだろうか?)とは少うし違いますけれど、私も第一感、失礼…というか、そんなに遠い昔の話だっけ、という印象です。端的にいえばアホバカクズ受信料払わねえぞと申し上げています。
(ちょっと一休みしましょう)ちなみに、この日記に私が付けたタイトル「強いんだっけ」の「け」がそうです。「けり」の「り」が落ちました。
米長邦雄永世棋聖くらいでしょう。米長先生が戯れに「加藤一二三という男、ありけり」とおっしゃる、これはありえます。「君たちは知らないだろうが、私もいま思い出したのだが、加藤一二三という男がいましてね」あるいは「あら、こんなところに加藤さん、(ずっと)い(らっしゃっ)たんですね(気づきませんでした)」。しかしこれも(ジョーク以外では)無理がありますね。ありえるとしたらかなり特殊な状況ということです。
(参考) https://www.youtube.com/watch?v=pr6-Bv3RVTw
https://anond.hatelabo.jp/20170626193212
トラバの増田氏、慧眼です。古文研究をやっていてよかったなあと思う瞬間です。筋違いながら御礼を。
ネットスラングの【場合によるんだ(よ)なあ】で訳すのが一番しっくりくると思います。(過去)回想/気づきの原義は退き、(自分も気づいた)から同意/強意/念押しのニュアンスが全面に出てくる、その変化点が味わい深いですね。ちなみに、この線でお題の「加藤一二三という男、ありけり」の出るような状況を無理やり設定するとしたら、棒銀のことを話題にしているのにスレのだれも加藤先生のことを話題に出さない。そんなときに【加藤一二三という漢がいたんだよなあ】と、誰かがきっと書き込むでしょう。例えば、そんな感じです。これも、やっぱり例外的ですね。
「けり」は、幅の広い、陰影に富む助動詞です。それを、おそらく伊勢物語から(あるいは、伊勢であることすら忘れて何となく)「昔、男ありけり。」をただ引っ張ってきてNHKは使ったのではないかと想像します。ここからは物語論の範疇ですが「昔、~けり」とやると、一気に作品世界が遠い昔/架空の物語に飛ぶ。その効果を古人はよほど気に入ったのでしょう。いろんな作品が「昔、~けり」を使っています。NHKはさすがに「昔、」とやるのはおかしいということまでは感じた。ならば、もう一歩、脚を止めて考えるべきだったと思います。
お粗末さまでございました。
「けり」の思い出し(回想)効果は、いちど忘れていたことが前提になります。いま、加藤一二三先生のことを忘れてしまっている人はいませんね。ですから失礼というのは正しい直観だと僕は思います。
「けり」を使うくらいですから、7/1のNHKは「神武以来の」と形容されたデビュー当時の、みんなが直接体験過去としては忘れてしまっていたところにフォーカスするのでしょうか。あるいは第19期名人戦で大山康晴先生にこてんぱんにやられたことを加藤先生に述懐していただき、秘話を発掘するといった「気づき」があるのでしょうか。よもや、升田幸三/米長邦雄を冥土の鷺宮から召喚するのか。期待しないで待ちたいと思います。
いずれにせよ、今回、元増田氏が感じたような、現代人の古語の扱い方に対する「もやもや」は、古語研究のもっとも大切な礎の1つです。ぜひ今後とも大切になさってください。楽しかった\(^o^)/