はてなキーワード: 井の中の蛙とは
実家の母親の電話いわく、地元の中学校の部活動が強制ではなく任意となったらしい。弟は学校から帰ると、ずっと友達とゲームをして過ごしていると愚痴られた。
僕は、バスケットボール部に所属していた。15時半の授業が終わると、各々は体育着になって体育館に向かう。そして18時半までひたすらドリブルを続けていた。コートの真ん中では、運動とバスケが上手な奴らが陣取り、ひたすら試合をしていた。雑魚である僕らはコートの隅である。たまにボールが飛んでくると、それを真ん中に投げ返すだけの簡単な作業である。
雑魚の中でも、カーストがあった。僕はそのカーストの中で低い方だった。上手な奴らの分に加え、同じカースト内から受けるイジメがった。それもあって、バスケの部活動は苦痛だった。
思い返してみれば酷いものだ。たまに試合を「やらさせてもらう」としたら、笑われるか怒鳴られる。部活の基準は上手な奴らに合わさっているので、雑魚は何をやっても怒られる。
そして、何かと休日は校外で試合をする。雑魚はそれに合わせて一緒に行動し、ボールや荷物を持っていく。上手な奴らの親は我が子が一番可愛いと、どこにでも車を走らせる。ビデオを撮り激励を贈る。雑魚の一人である僕は、横目で冷めた弁当を食べ、サボれる場所を探す。何もおもしろいことなどない。時間を潰すのに必死で苦痛だった。強い強い苦痛を感じた。
僕の中学校は田舎なので、人数は東京に比べたら断然に少ない。一学年に80人はいなかったと思う。そうなると部活動の数も少なくなる。その上、なぜか部活動は強制参加だった。サッカー、野球、そしてバスケットボールのどれかを選ばなければならない。文化部は何か体に問題があるか、家庭に問題がある子しか入部できなかった。
他の部活も大抵同じだったが、野球部は先生が皆平等にシゴいていたので、しんどそうだったが精神的に追い詰められていそうな感じではなかった。サッカーは楽そうだった、これに入れば良かった。友達もノビノビしてたし、試合も半年に一度しかなかったようだ。バスケははっきりとした上下関係というイジメがあったし、顧問も試合に勝つことしか言葉がなかった。
試合の日などでは、他の学校の顧問は常に生徒を怒鳴ってた。頭ごなしに下手糞と怒鳴りつける。生徒は泣く。でも青春なんだと、上手な奴らは語っていた。この空間の何が楽しいんだろうと思った。上手な選手がいて、怒鳴るコーチがいて、あとは奴隷がいた。試合に勝つことが絶対で、失敗しないことが求められ、奴隷は時間を潰すことに必死だ。奴隷は微塵も興味が無いバスケが上達するわけでもなく身体能力が上がるわけでもなく、雑用のためだけにいた。
バスケ部は僕の学校が誇る素晴らしい「伝統」の一つに数えられていた。上手な奴らは誇らしく、青春を感じていたのだろうか。伝統というものは、犠牲の元にあったことを知らなかったのだろうか。
その後、部活動は三年生の夏で終わり、受験勉強と塾で追われることになった。僕は勉強ができたので途端に楽しくなった。その後、受験が始まり僕は進学校に進み、できる奴らはスポーツ推薦、またはスポーツ推薦で落ち大金を払って私立校に進んだ。
何年かして、僕は大学に行き就職して今に至る。「上手な奴ら」の話は一切聞いたことはなかった。そりゃそうだろう、上手な集まりの中で高みに行くのはとても大変だ。しかも、バスケは野球やサッカーほど良いスポーツではない。プロになったとしても食べていけるわけがないだろう。オリンピックも日本の枠はない。上手になっても意味も価値もないスポーツだ。
母と話をしていると自然と昔話をしていた。母親もバスケ部は嫌だったらしい。そりゃそうだろう。休日も早起きをして、何も活躍できない子供の弁当を作ってたのだから。高い名前入りのジャージを買わされ、たまに車を走らせ、遠い学校や施設へ子供を送り迎えにいってやったり。きっと、母親内でのカーストもあっただろう。僕が勉強ができなかったら、もしかしたら母親もイジめられていたかもしれない。
僕は半笑いで聞いていた。遠い昔のことだから、もうそんなに辛くはない。ただ、あの時の時間で何かもっと他の事をやっていれば、きっと楽しかったんだろうなあと思っていた。
その後、あの「上手な奴ら」の話になった。上手な奴らは高校を卒業したあと、揃いも揃って地元で働いているそうだ。田舎なので大した仕事はない、それこそ工場とかしかない。できる奴らのリーダーは工場で働いているらしい。朝の8時から夜の11時まで働き、体中を黒い油だらけにして帰ってくるらしい。給料も聞いたところ、手取りで15万円はいっていないそうだ。それをもう何年も続けているそうだ。
僕は母親との電話を切ったあと、ふと辛かった思い出をつらつらと思い出してみた。一日2時間半、週に12時間半、月に50時間。それが2年と半年、600時間をかける2.5して1500時間。プラス月に2回ほど休日を全日潰される。その時間を、僕がマックスで有意義に使えたかは微妙だが、とても貴重な時間に思えた。
僕は今、残業はあるとはいえ悪くない環境で働き、年齢で見て平均以上の年収を貰い、今のご時世にしては恵まれすぎている生活をしている。あの時の惨めさはもうないのだ。僕は今、立派で、幸せだ。ドリブルもできず笑われ、道具やボールを試合に忘れて怒鳴られ、陰湿な嫌味を言われ続けたあの部活にいた僕は、上手な奴らより恵まれているのだ。
きっと上手な奴らは、僕と低いカーストの時間を奪ってしまった罪を、たった今被っているのだ。僕が苦痛に感じていた時間を、自分の大好きなバスケに費やしてしまったことに対して、惨めな生活をして免罪しているのだ。そしてきっと、その工場は潰れフリーターの生活になるだろう。昔を思い出しながら、惨めな生活を悔いるだろう。青春は犠牲のもとにできていた。輝くためには燃料がいる。カーストの下の奴隷がいて、頂上へ高く登れ、そして輝くのだ。そして今、そのカーストはいなくなり、上手な奴らは地面で頂上にいたときのことを思い出しているのだろう。
別に僕はもうどうでもいいのだ、奴らとは赤の他人なのだから。でも、ああ、やった。苦痛が柔らいだと感じた。
つらつらと書いてしまったが、これで僕の黒い物が掃き出せたと思う。駄文失礼した。
もし、僕みたいな田舎で暮らしていて、同じように部活動とかで惨めな思いをしている人がいたら、反発するべきだ。その代わり、何かに打ち込まなければならない。僕は勉強だった。勉強ができたから頑張ってこれた。
僕は、今の僕が決して良い大人ではないと思う。だけども、上手な奴らに加わらなくて本当に良かった。でもカーストの下にいたことは黒歴史だ。人生は難しい。
追記
コメント全て読ませて頂きました。ありがとうございます。
僕自身はスポーツ自体はとても良いことだと思う。中学生という成長期に、きちんと体と心を育てるのは素晴しい。ただ、「スポーツをしていればなんでもいい」という一辺倒であること、そしてそれを全力で応援してしまう大人、駒を無理やりでも勝たせたいと思ってしまう顧問、これらは問題だと思う。夢を持つなら、それについてライフプランを立てさせるべきだし、駄目な場合が大きいということも教えなければならない。子供は、キラキラと夢を持って青春を演じさせて、大人を夢中にさせるものではない。青春ドラマと現実は違う。
特に顧問を兼ねる中学教師、彼らはスポーツ推薦で高校に入れてしまえばなんでも良いと思ってると思う。その後の事は何も考えてくれない。高校入学を完全にゴールとしてる。そうじゃなくって、きちんと大人への段階を考えさせ、一緒に相談してくれる中でなければならないと思う。今思うと、自分の実績を作るのが最優先だったんじゃないか。
それらが上手な奴らの可哀そうなところだと思う。
でも僕は同上しない。あの部活動は、僕らのカーストには何も施しはなかった。ただドリブルだけやらせて応援という声出しをさせて、徹底的に雑用に使う。何も育たなかったし、育ててくれなかった。僕らがバスケの初歩も分からない屑で、全く運動ができないせいもあるだろう。それなのに、何も指導もなかった。形だけの練習をさせて、問題にならない程度になったら、満足するまで自分たちを可愛がった。
イジメもあった。そこまで壮絶じゃなかったけどね、陰湿な環境に四六時中いるから、どうしても弱いものイジメが発生する。死ぬほどではないけど、辛かったよ。それが2年半。全く無駄で辛い時間だったね。
所帯持ちだったらただの頼れるとーちゃんって感じがする
「頼れる」=「稼ぎがいい」 だ。 労働時間ばっかり長くてもな。
ちょっと勉強するだけで、ものすごく楽な環境に行けるのに、わざわざ底辺に行く奴ってマゾとしか思えないよな。
よっぽど無能なんだと思う。
頼れるとーちゃんになっていればいいよね。その子供は良い人生をおくれますように。上手な奴ら、というより地元に残った組について僕は詳しくは知りません。ぱらぱらと、結婚したとか聞いたりはするけどね。
「上手な奴ら」がきちんとした大人になっているか、っていうのは、僕はそうにはなってないと思う。酷い言いかただけど、多かれ少なかれDQN化してるんじゃないかな、多分。奴らは無能でまともな生活じゃないと思う。
今日日の現実は、大学はFランだろうが最低限卒業しているのがあたり前で、ホワイトカラーが一般家庭の仕事だと思う。上手な奴らがバスケで成功していたらともかくして、工場なんかじゃなく一般企業に勤めて普通の生活と給料を貰っていたら、僕はまた嫉妬なり苦痛を覚えていただろうね。
余談になるけど、労働環境だったり、子供を育てる地域としては僕が地元を離れたときより確実に悪くはなっている。実家帰る度に思うけど、仕事も働けるところも目に見えて少なくなってきてるみたいだし、昔の風景も不安になるような感じで変わってきている。パチンコ屋が増えたり、DQNが好きそうな店が増えたりね。
どうだろう。リーダータイプはいたけど所詮は田舎の大将、井の中の蛙だからね。それに成功するにしても、また新たな惨めなカーストが生まれると思う。
僕の小さな範囲でしかないけど、ほとんどの公立・私立高校であったよ。もちろん限られた数だけどね。高校に入って活躍できそうになくても、適当な理由で一定数は取るのでは。
バスケの上手下手を基準に順位付けられ苦しんだ増田が、勉強ができるできない、収入の大小を基準に人を順位付け優越感を得ている。
収入は結果だけど、それまでの過程で優越を覚えてるよ。低いカーストの奴らを長期間いじめておいて、結局はスポーツで活躍できず、こういう惨めな境遇に落ちつく。
自分でも酷いと感じるけど、溜飲が下がったというか、なんかすっきりした。そのうちにどうにも思わなくなって忘れるだろうけど。
カーストの上位を目指すのは別に主張したいことではなかったが、結局はそうなってたね。
ただ、僕は勉強という純然たる競争があって本当に良かったよ。あのカーストは、いじめと奴隷を育てる環境が機能していたからね。良い競争と失敗したときの逃げ道、これが本当に必要なものだと思った。
別に ブックマーク=面白いから と思わない人もいるんだろうけど
そのように認識している人たちは多く見かける。
ただ、例えば100ブクマで人気といえるんだったら
100ブクマは獲得できるんだよね。
で、それを知らない人たちは100ブクマあるというだけで
それで実際に読んで面白いとか言っちゃったりする。
それって洗脳されてるだけだよね。
3ブクマ以上されていない記事をブクマする人って、どれだけいるのかなと思う。
そもそも、ブクマがついてない記事なんて読んですらいないわけでしょう。
探せないから。
相性が良い一方で、専門的知見を述べた堅い文章との相性が悪い。
結果、はてなブログでは、平易な雑感しか書けない無教養なユーザーが
大多数を占めるようになり、数の力でホットエントリを荒らしている。
以前netcraft氏が、はてな女子のつまらなさを指摘していたが、
やってることは、精度の低い論考と平凡な自意識の垂れ流し。
そんな最下流の文芸を、頭の悪いファンが文才だと言って持ち上げている。
職業の裏話は面白いが、仕事の話が一番面白い人はやっぱり物足りない。
凡人の陳腐な雑感を、多くの人に読ませようとしているのだ。
だが、これを機に、はてなブログを削除しようと思う。
学識が無い人の論考はいらない。
マイノリティごっこや痛い人ごっこもいらない。
PS.
旧型のはてなダイアリーが、ある種のブランド性を帯び始めている。
はてなダイアリーのほうが、中身のあるエントリに出会えそうなイメージが広まっている。
実態は平易な雑記ブログなのに、精神科医という肩書きでブログに箔をつけている
ちょっと恐縮ですが俺の話を書きます。その人(まだ結婚はしてない?)けっこうなピンチに見えるので。
俺は以前ブラック社長の直下で働いてて、それこそ24時間体制で携帯握りしめてるみたいな状態だった。
プライベートの用事があろうが、夜中の3時だろうが、電話かかってきたら出社みたいな状況。
友達なんかは疎遠になるしかなく、もちろん彼女なんてとっくに去っていってた。
でも俺もやりたい仕事だったんで、まあゲーム業界なんだけど、きつい酷いと思いながらも辞めるという選択肢はなかった。
そんな状態で数年働いて、ミスもすごく多くなってて常に怒られてる状態みたいになった。そこをみかねた事務職の子に救ってもらったんですよね。
その子は別にブラックな待遇じゃなくて、イベントも担当したりしててむしろやりたい仕事をしてた。表のステージにも立ってて住む場所が違うみたいな存在だった。
突然その子にスタバに呼び出されて、私も一緒に辞めるから〇〇さんも退職しよう、みたいに言われたんだよね。
俺がでもでもだってな状態だったのを、辞めてもここまで頑張れる人はまた必ず復活できるから、自分もそのつもりだからと。
で、ふたりして辞めました。
その子はいまの嫁さんなんだけど、その時は付き合うとか全く考えられなかったんだけど、まあ当然そこ突っ込まれてモメたけど、いや今から考えるとその点でモメるのもおかしな話だけどね。別にタレント契約してる子ってわけじゃないし。
まあとにかく辞められた。
辞めて時間ができて、まわりを見渡したら、ゲーム制作経験のある技術者は引く手あまたという、業界的にいいタイミングだったことに初めて気づいた。DeNAだGreeだソーシャルゲームがすごい、って連日ニュースを賑わしてた頃。転職先なんか全然考えてなかったけど、ほぼ期間をあけずに職を得ることができた。時間も内容も、ブラック社長直下だったころに比べると「え? これでおしまい? ほんとにいいの?」って感じ。
俺が50%の力で仕事して普通。70%まで頑張ると高評価になる。100%は出さない。出すとまた以前のようになりそうで嫌だから。今すごく余裕がある。逆の意味で井の中の蛙だった。
嫁さんもいまはマイナーだけどタレント業でお金をもらってる。彼女にはいくら感謝してもしたりない。人生を救ってもらったと思う。
なにがいいたいかというと、会社に評価されることってそんなに大きな意味はないんじゃないかなと思うのです。
その人の仕事がその業界のなかで価値があるものなら、辞めても大丈夫なんじゃないかなと。
もし選択肢として、絶対に辞職はない、と思ってるならそれは間違いですよと。
周囲がちゃんと見えている人が側にいるなら、その人が選択肢を考えて与えてあげてほしいなと。
もっと言えば、一緒に生きる覚悟があり相手に良かれと思うならば、時には「こうしなさい!」って尻に敷いてもいいんじゃないかなとも思うのです。
医者とか高学歴な人間にはとりあえず一目を置くことを作法としているはてな民は「暗記物が苦手だけど、理系科目が特別よく出来るかっこいい感じの天才肌が医学部を選んで苦労したストーリー」として読み取っているようだが、それは全く誤った見方であることを指摘しておきたい。
国公立や偏差値高めの私立の医学部っていうのは、むしろ突出した学力がなくてもコツコツ努力できる程度には真面目で、そこそこバランスが良くできる人には良い選択肢なんだ。
徳川家康を漢字で書けなかったり、全く勉強してなくても平気でいられるようなメンタリティーの人間は少ない。あいつらは小心者なんだ。常に何かに追われているような気がしている。勉強してなおかつそれが学力に反映されてないと落ち着かないんだ。数学は得意だったなんて自分を過大評価できるやつも少ない。全国模試でも受けようもんなら、バカみたいな点数を叩き出すモンスターが全国にゴロゴロいるし、所詮自分は井の中の蛙でしかないことを知っている。時間があれば「大学への数学」などにじっくり取り組んでみたいけど、センターで社会もある程度点数を出しとかないと勿体無いから、そっちにもリソースを仕方なく割くし、そういう葛藤とともにクソ面倒くさい受験の手続きを乗り越えていくんだよ。元増田には純粋に学問を楽しみたい気持ちも抑えつつ、時間的にテクニックで受験を乗り切らざるを得ない屈折した受験生の懊悩が感じられない。暗記ができないくらいで泣き言を言うなどとはどういうことだろうか。(器質的に暗記が苦手なのだったらハンディキャップをあげつらっているようで申し訳ない。)だいたい薬の名前とかどうすんだ。イソプロテレノールとプロプラノロールとか理屈なくただ覚えるしか道が無いことは猿にでもわかる。
増田の話は単に「勉強がそれほどできないのに、なんか知らんけど入れる医学部があってラッキー(どの程度の大学かは察してください)だったが案の定大学で苦労した」程度のものではないかと思っている。医学部にもいろいろある。国試さえ受かればそんなことは全くどうでもいいことだが。
無理だと思うけど
というかたったこれだけの情報で相手特定できるとか(笑)出たよ妄想エスパー(笑)
まあ大げさな事を言って他の増田どもや書き込み見た奴を煽って特定させようというハラなんだろうがな、断言しよう、お前らにゃ無理(笑)
この程度の書き込みで、立場の弱い、全国あちこちの神社の若手神主やら、神主学校の生徒あたりが、書き込みの容疑かけられて老害どもから圧迫くらってたりするのかと想像すると、マジ笑えるわ(笑)
というか、増田の存在知ってる程度のネットユーザーからは「増田なんてチェックしてんのかよこいつ…」と内心笑われると思うけどな!
まあ、心当たりが居るならカマカケでもしてみたら
http://www.tiobe.comで、プログラミング言語の人気ランキングを、どっかで見かけるたびに
俺は、C言語をお遊びではなく仕事として使ってきたわと静かに震えるのがほぼ反射神経になっている。
「C言語一筋で、オブジェクト指向の知識はあるけどCPPもJavaも知りません、あ、C#とVBAは自作ツールを作成する過程で勉強しました。」
業務経歴書を片手に面談で話したときの、微妙な空気を知ってからだ。
C言語は、この業界にいる誰もが一度は耳にしていて、しかし業務として使った経験がある人はあまりいないであろう、不思議な言語だと思う。
組み込み屋のSEとして入社して、教育期間が終わってすぐに回されたのがAndroidのLinuxカーネルのドライバー周りのお仕事だった。
C言語というかLinuxカーネルのAPIばかり覚えさせられて、初めて触った構成管理ツールがgitで、管理任されたビルドサーバーはFedoraで、開発はTeraTerm上でemacsを使ってた。
思えば、すごく先進的な開発現場だったのだ。なんでC言語?と言語のロートルな側面ばかり見ていたが、
毎週のようにリリースされるカーネルパッチには、急速な変化に対応した野心的な取り組みが山のように入っていた。
世の中にはレガシーJava(1.4)で、構成管理ツールがSVNで、開発はEclipseのGalileo、Ganymedeかsakuraエディタという
時代に取り残された場所があるなんて想像だにしていないかったのだ。
最も当時はコミットされたバッチのコメントを追うだけで精一杯で、どうして議論になっているのか分かりもしないLKMLを読んで知ったかぶっていた
だけで、raspberry piを手慰みに遊ぶまでは実を結んでいた自覚なんてなかったのだけど。
思われてる。社会情勢が教えてくれる。いや、そんなことない、それは妄想だ。様々なところで使われているじゃないか。
でも、そこで食える飯はもうほとんどなくなっている。
カーネルのメンテナーにパッチを送ったことすらない、中途半端な技術力しかない俺の市場価値は、今限りなく低い。
だから、いつまでもC言語がプログラミングの人気ランキングにいつまでもいることを苦々しく思う。
C言語を使って、可能な限り先進的なことをやって。それは、C言語という埃をかぶったようなイメージとはかけ離れていたはずなのに。
実際は井の中の蛙で、外から見たらひとくくりに時代遅れとされたのが許せなく、そしてやるせなかった。
自分は今、実際、先にいったような環境ですら、状況の対応に四苦八苦する有様だから。
C言語なんて大嫌いだ。
エンジニアのポジションが低いのは日本の特徴だと思う。コーダがどうとかより前に、他の職種のエンジニアも海外に比べると安い給料で働いている。
俺は飛行機の開発やってるエンジニアで、海外の会社ともいっしょに働いたりする。日本側のエンジニアは30才で500万くらいの給料なんだけど、アメリカやフランスのエンジニアは同じくらいのカウンターパートで1000万くらいもらってたりする。日本だと経理とか人事とかやってても、この人がいなきゃなりたたないっていうくらいすごいエンジニアでも、給料同じ。バックオフィスと給料が同じだというのはよくわからない。
もちろん、海外のエンジニアは日本よりレイオフが身近にあるし、そもそも新卒ではそんな地位になれないから必死に勉強したりスキルを磨いたりしてる。日本のエンジニアでも一部の人はスキルがすごい人がいるけれど、給料が全体的に低いのは会社ではあまり勉強せずにスキルが上がってないっていうのもある。日本の会社も悪いけれど、日本の会社で働いてる社員もそれに安住してると思う。
ITの世界もそうかもしれないけれど、飛行機の世界では日本のエンジニアのレベルはかなり低い。だから海外のメーカーになめられるし、海外のコンサルタントを雇ったりしなきゃならなかったりする。ニワトリが先かタマゴが先かじゃないけれど、技術オリエンテッドで突っ走る人にインセンティブを与えていかないとこの状況は変わらないんじゃないかと思う。
周知の通り、この世の中に無数にある争いごとの原因は、全て了見の狭さにあると言っても過言ではない。これを認知の歪みという言葉で表す人もいるが同じことだ。
しかし、別に了見広げる必要ないじゃーんっていうのも真に正しい。例えば、ボカロ音楽大嫌いな人がわざわざ了見を広げて好きになる必要あるかって言うと微妙なところではある。
了見広げたほうが物事を受け入れやすくなってストレスが減って世界が広がる代わりに、なんでもありになって本来の自分がやってきたこと(ここでは音楽性)を見失う面もあるんだよな。
もちろん別に見失ってもいいんだよ?過去の自分を捨てるのもまた人生だけど、見失うことには変わりないわけで、そのデメリットを吟味する必要があります。
したがって、全ての人間が寛容になれば世界が平和になるか、全ての人の内面が安らかになるかっていうと極めて微妙な話なわけ。人はあえて寛容を選ばず粘着的な拘りを持つことで社会における自己を確立している。
もっとも、人間というのは決して1つだけの顔に固執しているわけではなく、社会化の過程で複数の顔を持っていくものだ。
父親としての顔、夫としての顔、係長としての顔、上司としての顔、部下としての顔、スポーツマンとしての顔、二次元オタクとしての顔、ネットで口だけ番長ブログを書き殴っているときのどや顔。
そうした色んな顔を統合して裏表ない人格を築くのが人間的完成だという1つの大きな思想の系譜もあるが、それは理想的過ぎる話で大いに疑問の残るところだ。
社会に生きる限り顔の切り替えは不可欠であって、それは理想化された統合的人格とは相容れないものなのではないか?相容れるとしたらそれはどういう形なのか?そこがはっきりしない。
であるから、どんなエラソーなこと言ったって所詮はみーんな複数の顔をせせこましく切り替えて生きていかないといけないと思うのだ。
だったら、複数の顔を持っても社会との兼ね合いで、あるいは自分の中で対立が起きないように了見の広さを身に付けておくのも大切と言える。
何もなんでもありなくらい高い視点を持たなくても、適度にストレスが軽減される程度に視野を広げておくのも1つの戦略ではある。
何も仙人のような超越的視点は要求されていない。狭い自己にこだわってそれに立脚した世界モデルを作っているのが問題だからそれをやめなさいと言っているだけ。
井の中の蛙が作った世界モデルは、結局井の中の物事すら自分の中でうまく整理できなくてストレスが多大に発生して、そのせいで余計に井の中に引き籠もってしまうという悪循環をもたらす。
だから適度に視野を広げておくってことが大事なのだが、それが我々日本人には非常に難しいようである。
視野が狭いことを自認する人がいたところで、それが何故駄目なのかを本質的に理解しない限り改善しようとは思わないだろう。
例えば、視野が狭いと色んな人と仲良く出来ないから駄目、視野が狭いと知識が狭くなるから駄目、といったことは些末なことであって、その程度の理解だと視野が狭い自分でもいいやって受け入れてしまうであろう。
一言で言えば、認知モデルが現実と乖離しているから駄目なのである。視野が狭い人の認知形成というのは、自分の身近なことの大半を切り捨てて、本当に自分が興味あるものだけを選んで認知モデルを作る。認知の歪みという。
だから、そのモデルでは身近なことすらモデルに合致しないことが多々出てきて、そのモデル上では存在してはいけないはずの出来事が毎日がエブリデイのように発生してしまうのだ。
認知モデルにそぐわない出来事は、当然本人は素直に認めたがらず、逃げようとする、否定しようとする、過剰に肯定しようとするのどれかの行動にでるわけ。
どんなモデルを選択しようがそれに合致しない出来事には遭遇するものだが、狭い認知モデルだとそういうことが頻繁に起きてしまうのでストレス過多になって、ますます狭い自分に引き籠もる。
狭い認知モデルだから受け入れられない事だらけで人生辛いってのは、まあ誰にでも理解できる簡単な話ではあるが、もうちょっと詳しく、
・身近な物事のうち都合の良い部分だけ切り取ってモデルを作るから現実と激しく乖離すること
・認知が現実と激しく乖離しているから、沢山の物事に対する逃避、否定、過剰肯定を現実の自分が実際に行っていること
・しかも、そんな歪んだ認知を我が子のように必死に守っていること
を理解してきちんと自覚しない限り、直すのは難しいだろうな。けだし、問題の原因は問題に対する理解不足にあることが多い。
http://anond.hatelabo.jp/20131031224610の記事を投稿して一日、想像以上の反響が得られて驚いた。
賛否は人それぞれであったが、文字だけで決して読みやすい訳ではない記事を多くの人に読んでもらえたことを非常に嬉しく思う。
ただ一つ、後悔したのは
5.なにこいつドヤッってんの?ムカツク。
のケースを「学歴コンプ乙」という短い冗談で流してしまったことだ。
http://anond.hatelabo.jp/20131101091839の記事でも書かれているように、
今回のケースで浮彫になった、もう一つの問題がある。
それは、自分のもっている意見をあたかも絶対に正しい真理であるかのように勘違いして、
自分とは異なる意見を持った人を、相手の意見を全く聞き入れようとせずに、非常に感情的・攻撃的に排除しようとする人たち のことだ。
こういった人たちは、自分と異なる意見を持つ人間が存在すること自体が気に入らず、
批判している相手に「勝ち誇られ」、「優越感に浸られる」ことが絶対に我慢ならないのだ。
かくして、彼らと異なる意見を持つ人間は、「上から目線」で「優越感に浸る」ことが目的の「道義的に誤った人間」と認定されるのである。
何を言っているのかはよく分からないが、「上から目線」で気に入らない。
どれだけ正しかろうと、「上から目線」で話すような「人格の劣った」奴の言うことは聞く価値がない。
このようにして、自分の聞きたいことだけを聞き、自分の聞きたくない情報は「上から目線」と一括りにして排除した人間たちの末路は何か。
低学歴でまともに読書もしないのに、政治家(笑)や専門家(笑)と比べものにならないほど自分が優秀だと勘違いし、自分の価値観を絶対視して
「こいつら何も分かってないなー。これが答えに決まってるのに」というようなコメントがTwitterやfacebookに並ぶのだ。
1.自分の意見が「自分の」意見に過ぎないことを自覚できない。
という二重の問題がここにはある。
そういった人たちは、今もこの記事を読んでいて、「何様のつもりだ」、「お前が言うな」などという言葉が頭に浮かび、怒りの感情を抑えることができないのだ。
一つの解決策は、彼らにその独善性を指摘することであり、それこそが今まさにこの記事がなさんとしていることである。
読者諸賢の意見を問いたい。