はてなキーワード: ユーモアとは
本当に他人に気遣いができて他人を不快にさせない他人のフォローができて愛嬌とユーモアがあって人を悪者にすることなく人間関係を構築できて100%善意で人のために行動できる親切で性格のいい男はモテモテ
こんなん男はウンコを食わせれば落ちる笑と言ってるのと変わらん。一部の変人を一般化されても
ネット上で「良い奴はモテない」などと言ってる奴の大半は実際には「暴力を振るわないし犯罪歴がない、本人は付き合う女ができたら大事にするつもりでいるがそもそも人付き合いがうまくないのでデリカシーはないし気遣いはできないし不快で幼稚、無意識にミソジニー発言が出る」レベルの奴を良い人にカウントしてそう
個人Vtuberを1年ほどやっているが本当に限界。地獄。この界隈は地獄。何が地獄ってもう人が地獄。Vtuberもだし、それを取り囲む人たちも地獄。ダサイクルの極み。個人Vtuberのカスっぷりについて人種別に分類しながら解説していこうと思う。
・ここが一番成功している層
・胸が異様にでかい
・胸が異様に揺れる
オタクのペニスをガッチリ掴んで離さないのがVtuberとして成功するポイント。
時々ASMRで耳を舐めまくって登録者を増やしている層もいるが、まれにゲーム実況をしても視聴者は耳舐め目的がほとんどだしトークもプレイもいまいちなので閑古鳥になってて可哀想。ギャグ発言をして芸人等と呼ばれる人間もいるが結局信者が持ち上げているだけで実際のユーモアのセンスは壊滅的なので外野からは何故面白い人間扱いされているのかが全くの謎。友達が欲しいとぬかすが、Twitterのフォロワーは4桁〜5桁でフォロー数は2桁止まりな事が多く、やはり気が狂っている事が窺える。
・登録者500〜3,000程度。
ここが一番まとも。友達のような距離感で、性やガチ恋売りではないので平和。体感8割くらい彼氏がいる。厄介なファンが少ない反面、いまいち伸び切らない印象。趣味でやっているので必死感も無い。オアシス。
■顔の良い男V
・人によるが基本地獄。
葛葉を目指しているが普通に失礼なだけの男に成り下がっているケースが多い。アホみたいにマーケットに対する需要がないAPEX配信を繰り返しながら伸びないと勝手に病む。サムネイルのダサさと配信のつまらなさが比例する。登録者800〜2,000くらいの層はリスナー、女性Vtuberとの男女のもつれの話が一番多い。メガネをかけてクールな見た目のVtuberはぼそぼそ喋っててユーモアも壊滅的で本気で終わってるケースが多い印象。リアルでもメガネかけてて面白くないことをクールと履き違えてそう。他人を思いやる心が無いので、フォロ爆してフォローされたらリムるような姑息な手段を用いて数字を増やそうとするのはこの層。
■バ美肉
・登録者0〜1,000
基本的に本気でオタクなんだなと感じる人間が多い。ゲームやアニメが好きというより、学生時代は隅っこでカードゲームしてたんだろうなって感じの。しかしプライドだけは異様に高く、マウントをとりたがる上に少しでも攻撃されると本気でブチギレる上に社会性の低さ故にズレたキレ方をするのであまり関わりたく無い。声はガビガビで耳が痛くなるし、サムネイルも大体終わっているので基本的に客観的に自分を見る事ができないんだと思う。誰も望んで無い思想やら政治発言とかしがち。
・登録者0〜300人
発言がどこか全てズレていて投稿する画像が毎回何故かガビガビ。YouTube外で活動している率が高い。ぼそぼそ喋るし元気もないしどう考えても伸びないのがわかりやすい。登録者は少ないものの、極少数の信者に支えられて宗教じみたルールを作りあげる。普通に炎上しそうなあり得ないルールやリスナー同士を監視させたりするが知名度が無さすぎる為話題にもならず燃えない。近寄りたく無い。
■ガビガビ3D男V
・アイコンがガビガビ
・壊滅的につまらない
・本当につまらない
なんで?って思うぐらいアイコンがガビガビ。アイコンの背景をグリーンのままにするな。Vroidとかフリーの3Dアバターメーカーで作ったっぽい身体で活動している。ただのパーカーを着て短髪メガネ等全くと言って良いほど特徴がないので絶対伸びようが無いしトークも壊滅的、ぼそぼそ喋る。そのくせ律儀に宣伝はするもやはりつまらないので誰も配信には来ない。本当に面白く無いのでなんで活動しているのか分からない。ちなみにこいつらもフォロ爆してフォロワーを稼ぐ姑息な手段をするが本人の魅力がないので全く伸びない。
黒人差別的なフィクションを「フィクションだから」って許すのは「創作物だから許されるし差別に反対してるから問題ない」と言えるのか?否。
差別的フィクションがユーモアや娯楽として許されることも「差別的社会である証拠」に他ならない
「女性の性を公共の場で・公にして扱うこと」を許さないという社会的合意は、フィクションの場でも創作の場でも徹底するべきなんだよ。
どの女性も教師や上司や知らないおじさんに「性的に扱われる」ことは許していない。知らない人間にいきなりオナニーをぶつけるのは相手の人格を軽視している。その証拠にもし相手が上司のご令嬢なら君たちは絶対にやらない。
フィクションの場でだけ許すなら「内輪ネタ」だからOK?それは男が決めることじゃないよな。黒人差別が内輪ネタのフィクションならOKなんてキチガイでIQ3の日本人しか言わないっての
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2045557
最近のちびまる子アニメは現代のコンプラに合わせて昔のようなブラックユーモアは削除されていた
↓
今子供と一緒に見ている人も「そんなもの」と思って見ていたし、だから子供に見せていた
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そこに突然昔のノリのままのブラックユーモアをぶち込んだため普段から見ていた視聴者困惑
↓
遥か昔に見た記憶があるだけでここ十年以上一切見てないであろう層が「ちびまる子は元々そういうアニメなのに文句つける方がおかしい(ドヤァ」をやり出す
という流れになっている
ジャンプのエロコメの話もだが、本当に「最近は全く見てないし知らない癖に自分が子供のころの印象のまま雑語り」ばっかだな
友人同士でくだらない話もした。
見ず知らずの人とゆるい繋がりを楽しんだりした。
軽くバズった時(当時は100RTでも大変なバズり方だった)は正直ちょっと嬉しかった。
今は罵詈雑言が飛び交う末期街になった。
自称「人生に役立つ情報を発信するアカウント」は情報商材屋になった。
「昔は良かった」と全面的に主張するつもりはない。
失言や不倫で芸能人のアカウントが大変な事になっていることももちろんあった。
でも今は状況の質がちょっと違う。
何も生産性はない。
コミュニティの一生の末期みたいになってる。
この状況、年齢がバレるかもだけど2chの末期に似ている。
今では信じられないかもしれないけど、2chにもかつて有益な情報源だった時代があった。
それでも有益な情報はあったしユーモア溢れるスレッドもあった。
ある時、誰だか忘れたがネット著名人らしき人が「2chはもう見ません。有益な情報が見つからないので」みたいな発言をした。
そしたらねらーは「2chで有益な情報とかwww」「そんなもん元からねーよ」「2chで探すようなアホだから有益な情報見つからないんじゃね?」みたいなコメントだらけだった。
まあ、分からないでもないけど、釣り堀だらけだったけど、でも確かに2chにしかない情報も当時はあった。
後から分かったが、ものが作れる人間はニコニコ動画とYouTubeに、有益な情報かセンスを持っている人間はTwitterに移動していた。
きっと面白い人たちは、かつてのようにどこかに移動したのだろう。
ただ、当時は見るからにニコニコ動画とTwitterが流行っていて、次の目的地は誰の目から見ても明らかだった。
でも今は、みんながどこに行ったのか分からない。
Youtubeではない気がする。TikTokでもないと思う。はてなではないな。
多分だけど、個人的な予想だけど、きっとみんな「課金の壁の向こう側」に行ったのだろうな、と思っている。
というのも、仕事でとあるネットサービスに関わったことがあるけれど、やはり課金/無課金では平均的な民度が格段に違う。
もちろん、金も名誉も惜しくない国士無双はいるけれども、平均的には課金の方が治安はいい。
何かを発信したり発表したりするのに「身の安全」ほど重要なものはない、ということは政治や報道の歴史を見ればわかるというもの。
だから面白い人たちは「安全という名の愉悦」を求めてどこかに旅立ったのだと思う。
でも、課金するほど元気のない私たちには、それがどこなのかは分からない。
私が老害になったのかな。
そうだとしたら、むしろそっちの方がいいな。
今日もTwitterの罵詈雑言で1日を終えていく事になるのだ。
ジョン・ゴールトって誰?
おやすみなさい。
臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。
確かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつの出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。
読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードをミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶を登場人物とシンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説をSFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。
しかしながら、感情の描写や文章のリズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。
そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。
どうも舞台となっている世界の技術水準や、テクノロジーが社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。
かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由に戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロの本領である、決定的な本音や事実を意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。
熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。
かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中頭からも、今となっては過去の人とみなされており、最後に自分の人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。
かつての美しいイギリスの風土と、失われた執事の美徳/悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理が自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国のメイドや執事の本を何冊か読んだ。
長崎出身で現在はイギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身が創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。
これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的に相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画の脚本のお手本的でもある。
最初のうちは、この違和感は終戦直後の日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治の文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。
台詞で説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。
情けないかつての画家の話。老いて第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間は自分の存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。
そのくせ、隠しようのない自己満足と防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳は日本経済新聞の「私の履歴書」の文体にそっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。
よく、入り組んだ官僚機構をカフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶が曖昧で、自分がそもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家のあるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国の短編集といった趣だ)。
すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一のショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来いそっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。
カズオ・イシグロのテーマのひとつ、コミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆「虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。
奇妙だ。自分と他人の記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。
両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。
息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷なユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。
【追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。
忘却がテーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティが曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的で意図的な隠蔽とか。
国家が組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。
ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっと軽いかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代の日本語としては普通に受け入れられてるのかな。
あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。
ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話が引用されている。
彼のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家も文学のジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。
ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています。
イシグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品はファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。
人工知能が太陽光に病気を回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。
どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しかも最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教のパロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手に効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。
カズオ・イシグロのSFは、SFが主食の人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。
たとえば、明らかに危険な能力向上処置を子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。
カズオ・イシグロのSF設定がときどきザルなのは、リアリティのレベルを小説よりSF風の映画・テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話の絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。
確かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。
だいたい、フレーム問題未解決というか一般常識のインストールされてないスタンドアローンの親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系の知識を持つ読者にとってはかなりしんどい。
以上。読んだ順。
私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。
「わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説はSFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ
Twitterや動画配信サイトのコメントでよく見かける、ただの暴言や誹謗中傷を書き込み、少しでも相手が真に受けて不快な意を表したら「ネタじゃん」と逃げて相手を悪者に仕立て上げるやつ
百歩譲ってもそれを受けた側におちゃらけてもらって初めてネタに昇華するものであって、発言者で完結してたらそれはただの暴言
お前のネタじゃないんだよ
ってことに気づいてないコミュ障が最近ネット上に蔓延りすぎてる
今までろくに人間関係を築いてこなかった陰キャが、ちゃんとある程度の信頼関係を築いた上でそれをやってる身の回りの健常者の見様見真似で、顔も知らないネット上の相手にそれをやる地獄絵図
友達にも未婚が多い。未婚が寄り集まったわけではなく、大学時代の友達がほとんど未婚のまま来ている。仕事は様々で、バリバリの管理職もいれば、のんびりとやっている人もいる。
なぜ未婚なのかは、結局はよくわからない。結婚したい気持ちは皆あったと思う。ぼんやりしてるうちに、あるいは個々の仕事や色々な事情からタイミングを逃して、今に至るって感じかな。
ちょっと夢みがちな人もいるけど(自分もそうかも)、大半はおおらかでユーモアがあって、地に足がついていて、一緒に暮らしたら気持ちがいいだろうなと思う人が多い。容姿は華やかではないが、みんなそれなりにきちんと綺麗にしている。
一緒に暮らしたら、一人でいるよりは幸せになるだろうに、もったいないなと思う。何に対して、誰に対してもったいないのかよくわからないが。
結婚している人たちとの違いは、控えめかどうかだと思う。自分からぐいぐい行かないんじゃないかな。婚活とかをしたとしても、決定的な時にぐいっと行けない、引っ張れないと、何も決まることはない。自分を反省してみてもそう思う。