はてなキーワード: 絶対値とは
最近よく身内から肯定的に評価されるので思うところを書く.多分オチや結論はない.雑記.
ここで身内というのは親族というより内輪の仲間と言えるような相手だが,
大学の研究室の教授とかも含むので公的な関係でも身内と思ってる(これは自分がボスと仲良いからだが).
自分の専門は機械学習で,友人とかラボゼミとかの間ではかなり詳しい方に分類されると思う.
実際いろいろ教えたりコメントしたりで良好にコミュニケーションして関係を築いているし,
前述したような師匠や友人からの評価を雑に丸めると,僕は機械学習できる人といったところだ.
一方,会社での仕事はデータ分析で,これは普通に回している感じ.
特に会社で高評価されている印象は全くない,むしろ嫌われているきらいもある.
こうなると,人間は信じたいものを信じてしまうので身内からの肯定を高い信頼度の情報として受け取り,
会社では(不当に?)評価が低くて不満を感じる,という心情になってくる.
ただ,身内以外でも,機械学習系の解説資料がネットでなかなかにバズったり,学会でしか会わないような人からも上々に評価されている.
ある程度客観視された場合でも,自分を優秀層として認知する人がかなりいるということになる.
うちの会社は学術活動にもかなり前向きで,会社のHPには社員の発表実績リストとしてずらーっと学会発表や論文掲載結果などがリスティングされている.
決して学会活動がメインだから評価が低くなるという風土ではないはず.
この状態がしばらく続いており,日に日にイライラが募っていく.自己評価に見合った待遇を受けれていないと.
現在の年収に絶対値として大きな不満はないが,同じ業界かつ近い職種で自分より優秀でない人が自分の1.5倍も年収があると思うと本当に腹が立ってくる.
LinkedINや個人ポートフォリオサイトからの経由でリクルータから簡単な声かけはよく貰うものの,そんなにマッチングした案件が来ている気もしない.
いったいどうすればいいのか.まずそもそも自己評価が過剰に高いとは考えにくいのだが,会社や市場からの評価が正確とも思えない.
仮に自己評価の方が過剰に高いとして,外様からの評価と自己評価や身内からの評価との乖離について,人はどうやって折り合いをつけるのだろうか.
民度という謎の指標には±10があって、0もしくはプラス方向なら普通のオタク。マイナス方向なら厄介オタクと分類される。
この時オタク民度の計算式は (普通のオタクの民度の和)-(厄介オタクの民度の絶対値の積)=民度 何だと思う。
指標としては普通にオタク活動(原作やアニメやっててTwitterで感想つぶやきますーレベル)で2とか3。ライブ会場でゴミ拾いしてますレベルまでいってようやく5とか。
厄介と呼ばれるような人(騒ぐ、ヲタ芸する、場違いなペンライトする)でも-1とか-2とかじゃないだろうか。-5までいくと明らかにやばいやつとしてブロック推奨とかいわれるレベルだろう。
全体の9割が普通のオタク、1割が厄介オタクなので、9人が普通、1人が厄介ということになる。
仮に9人の平均民度が2を超えていれば厄介が10のマックス厄介であっても民度がプラス方面に転じるため民度が良いとされる。
これが20人のグループになったとする。18人が普通(平均2)であったなら、2名の厄介が-6ぐらいの民度でトントンとなる。
オタク活動や推しとかはしているもののそれを率先してアピールして「○○民」とかいわない連中だ。
そいつらは行動してないので基本的に民度「0」(無害)なわけだ。
コンテンツが大きくなるにつれて、実際はこのサイレントオタクが増えているんじゃないかと思う。
例えばFG○をやってたとき、たしかに自分の周りにもどんどんやってる人が増えてきたなと思う一方、何万ID!とかいわれてもイマイチピンと来ない数字だなという感覚に襲われる。その差が多分サイレントオタクなのだ。
そうすると民度0をもったサイレントオタクと普通のオタクの比率がサイレントオタク寄りになっていき、結果的に民度がプラス方面のオタクと、民度がマイナス方面のオタクの比率も変わってくる。
そして、民度2とかな普通のオタクも民度の悪さが高まってきたらサイレントに転じる。
って考えると、大げさに書いたつもりだけど
(普通のオタクの民度の和)-(厄介オタクの民度の絶対値の積)=民度
じゃなくて
(普通のオタクの民度の和)-(厄介オタクの民度の絶対値の和)=民度
でも良いんじゃないだろうか。
最近よくある「辛かったら休んでいいよ」みたいな漫画あるじゃん。
ああいうの見ると大体作者の人一時すごい病んでたりする。仕事ができなくなって〜とか泣き出してしまって〜とか。
あーいうのみて、「繊細すぎるだろ…」と思う反面私も本当はさ、毎日泣きたいの。普通に毎日仕事してるような感じだけどさ、些細なことで傷ついたり査定が気になったり将来不安になったりそもそも好きでもない仕事を毎日12時間もやる虚しさだったり。
健康診断で再検査になってメンタルボロボロになっても1週間とか仕事休めないし、親が遠いところで入院して心配でメンタル不安定になっても朝はちゃんと起きなきゃいけない。
学生の頃はまだ奨学金で暮らせてたからこんなに苦しい思いはしてなかったと思う。泣きたいときは泣いて、ダメなときは寝て、笑いたいときは笑って。
自分の生活を守るためにお金を稼ぐために心を殺して大人になって毎日のほとんどの時間を仕事に費やすようになってから、なけもしないけどバカ笑いする事もあまり無くなってしまった。
落ち込んだ時のダメージが大きいから、自分を守るために感情の振れ幅の絶対値を本来の三分の一くらいに狭めて設定している感じだ。
つらい。泣きたい。きっと色々ちゃんと振り返ったらすぐに泣けると思う。
女の子が電器屋で商品を見ていると、見ず知らずのオッサンがいきなり講釈を垂れてくる。女の子は「おっ?マンスプか?オッサン」とバッサリ。怒り出すオッサンに「はいミソ男決定〜」などと追撃、怒り狂うオッサンを尻目に颯爽と立ち去る。
この漫画、「この女の子を見て『失礼だ』と感じたならそれがジェンダーバイアスです」という言葉とともに紹介されていた。
内容はまあどうでもいいんだけど、この女の子が「失礼」かどうかって結構意見が分かれそうだよな。
いきなり不躾な態度をとってきた人間に対してこっちもタメ口でバカにしてかかるのは「失礼」か?という問題!
少なくとも礼儀正しい振る舞いではないような気がするし、失礼か非失礼かでいうと失礼ではある気がするんだよな。
オッサン同士だったとしてみよう。オッサン1が電器屋でイヤホンなんかを手に取る。すると別のオッサン2が現れ、「ダメやダメや!そのイヤホンはゴミやで。こっちにしとき」これに対してオッサン1が「おっ?マンスプか?オッサン」と言った時これは失礼か?
まあ失礼じゃないか?
相手がいくらキチガイのKKOだったとして、とりあえず明確な敵対行動を取られてないんだったら丁寧語くらい使うのが礼なのでは、というか、相手への礼はこの場合べつにいらないと思うし、礼儀正しくある必要もまあないんだけど、それはそれとして絶対値的な礼儀としては「失礼」判定もしかたないというか…
戦闘の場においては礼の概念が消滅するので失礼もクソもない、って前提のツイートだったんだろうけど、にしたって失礼か失礼じゃないかで言うならまあ失礼やろ…という気はしてしまうし、まあその二元論をやめろって話なんだろうけど、言っても道端で殴られて殴り返すのを見て「礼儀正しい!」とは思わないし、なんだかなあ…と思うのであった
服の質
値段が格段に下がってるからコスパは上がってると思う。30年前にデパートで買ったポロシャツ1万円近くしたよ。
古いものが新しいものに代わっていく、時代とともに世の中が良くなっていく、自分はもう古い側なんだと気づいたときは悲しいよね
40年前のアッパーミドル・ミドルより、今のローワーミドルのほうが生活は充実していると思う
それができないという話だけど
夏の暑さ、地方衰退
これは同意
地元地方の農村だけど、モールやEコマの発達で買い物は便利になっている気もする
同意。欧州主要国は2.0付近あるみたいだけど、日本はいつまで本腰いれないの
今も悪いけど、昔から悪かったろう。
賄賂系は、昔は表に出なかった、問題視されなかっただけじゃないの
同意。キュレーションの跋扈にGoogleの対策が追い付いてない。広告ありとはいえ、まあ無料なので
30年前の日本人に戻りたいですか?と聞かれたらほとんどの人がNoだろう。
子供のころに戻りたいかなら多くがYesだろうが、2020年のおっさんおばさんが、1990年のおっさん、おばさんになりたいか、という問いだ。
エクスクラメーション二連続とか、「鬼のような速さで」とか普通にチープだった。
「というか正直にいえば~できごとだと思っていた」
ヒラく部分もくどい。
「①」などの記号をいきなり小説文体に出すのは奇妙だし、本来使うべきではない。
昔を思い出す自分と中程の本文、そしてまた現在へ、というオーソドクスな三幕構成。
実話と想定する場合、全項が繋がっていないのは別段問題はない。
ただし創作なら冒頭と終わりに中間段落の意味が含まれていないため、うまいとは言えなくなる。
以前のラズベリーの人に似た構成力でしかなく、実際同じ人ではないか、という勘ぐりが脳裏をよぎる。
欲を言えば三段の項のバランスが整ってないので整えたほうがいい。
メッセージ性はほぼない。
あるとすればベンツへの犯罪も含めた来客の賑やかさと、現在の侘しさの対比か。
しかしそれがやたらうまいとも思えない。転調が効いてないから。
あれは詰められてないだけです。
パスしてたけどこれ見て原文読んだわ、サンキュー。テンポがあそこだけ違うのは心の中の澱がべトーっとしてるのを表現できてるし、むかしの女子高生なら当時の比較表現で「鬼」使うしおれは"加点ポイント"だった。
ただ、こればっかりは元増田に聞いてみなきゃわからないですね。
コギャル設定はないようですし。
元のやつに「『ひとりぶんの食事』を作ろうとして思い出したのに導入部で水ようかん食ってる齟齬だけは気になる。」とブコメしたんだけどそこどう思う?自分はいい増田と思ったから、なお惜しいなと思うんだけど。
ここは時間経過した、という行間を読めばよいのだと思いますが、だとすれば多少進行が映像作品的ですよね。
すごくおかしくはありませんが、水ようかんと過去回想を比喩で結ぶとかっこよいかな、くらいは思います。
私もブコメほど感心しなかったのですけど、私はむしろ技巧に走らずもっと素朴に書いたほうが面白かったんじゃないのという立場です
そうです。あまりにも大げさに褒められると、逆にそうでもないポイントが見えたりしますよね。
一方、この文章もやはり元増田への興味を引くことになっています。
“重箱エクスクラメーション” 椎名林檎みがある
閃光少女ですか。これはまあ、ザ・重箱ですね。
重箱の隅を重箱と略したり『普通にチープ』とか、他人の文章の正しさを指摘するにしては微妙な言葉遣いだと思った。件の増田も評価はしていないが。
予測済みでした。この内容が小説風なら指摘はそれで良いと思います。
「インターネッツ、評価(の絶対値)がインフレしがち問題」のあらわれという気がする。玉石混交(石多め)の増田の文章としては面白い部類な一方で、大絶賛のブコメを読んでからだと、言うほどか?ってなりそう
トラバにも「場所に応じて」と書きましたが、これがすべてを物語ってるとは思います。
ルンバだのドラム式乾燥機だのは生活を見直さなきゃいけない面があって万人にお勧めはできない。
真の男の時短グッズは生活スタイルを変えず必要な時間の絶対値が下がるものだ。
そこで、ここではまず3つをお勧めしたい。
短髪だと1分で乾くから必要ないと思っていたがこれを使うと30秒で乾く。
圧倒的な風量。
毎日30秒減る快適さ。
どの程度短縮できるかは人によるが、必ず時短となる。
そろそろ3年が経つがこれなしの生活は考えられない。
コンロがなくなった分は、ホットクック×2とヘルシオと卓上IHで十分にまかなえている。
正確に言えばグッズではないがこれは外せない。
ケツを拭く時間が圧倒的に短くなる。腹の調子が悪い時は尚更だ。
更に言えば介護されるようになったら介助者にとっての自担にもなる。
費用は高いところでも5万程度だろう。
それで一生快適になるならやらない手はない。
人間は気温の絶対値を感じ取っているわけではありません。肌表面の水分気化(=気化熱の移動)を暑さ寒さとして感じ取っているのです。
夏のビーチって灼熱のはずなのに、結構快適ではありませんか?逆に、雪の降った朝が暖かく感じることありませんか?
ビーチでは常に風が吹いていますから人間の汗がすぐに気化して涼しさを感じることができます。逆に湿度が高くなると気化が抑制されるので、室温が低くても寒さをあまり感じません。雪があると寒さが抑制されるのはそのためです。(氷点下の場合を除く)
ですので、同じ室温26℃でも、湿度40%の部屋と80%の部屋では快適さが全く異なります。この辺りの快適さを官能評価実験により可視化したのか不快指数です。
通常の冷房でも湿度は下がります。それはエアコンの機能ではなく、温度を下げれば空気中に止まることのできる水蒸気の量(飽和水蒸気密度といいます。中学校で習いますね)が減るという物理法則によるものです。
Xの点列(x_n)は以下をみたすとき、Cauchy列であるという。
任意のε > 0に対して、ある自然数Nが存在して、n, m ≧ Nならば、d(x_n, x_m) < ε。
収束する点列はCauchy列である。実際、lim[n→∞] x_n = x ならば、任意のε/2>0に対して、ある自然数Nが存在して、n>Nならば|x - x_n|<εとなるので、任意のε>0に対して、n, m>Nならば|x_n - x_m|≦|x - x_n| + |x -.x_m|<ε。
逆に、Xの任意のCachy列がXの点に収束するとき、Xは完備であるという。
(x_n)を実数のCauchy列とする。
まず、(x_n)は有界である。実際、ε>0に対して、Nが存在して、n>Nならば|x_n - x_N|<εなので、任意のiに対して、|x_i|≦max{|x_1|, |x_2|, ..., |x_N|, |x_N|+ε}である。
Bolzano-Weierstrassの定理より、有界な実数列は収束する部分列を含むので、自然数列n_1<n_2<...<n_i<...と実数xが存在して、lim[i→∞] x_(n_i) = xとなる。
xが(x_n)の極限である。lim[i→∞] x_(n_i) = xより、任意のε/2>0に対して、ある自然数Iが存在して、i>Iならば|x-x_(n_i)|<ε/2。(x_n)がCauchy列であることより、任意のε/2に対して、ある自然数Nが存在して、n, m>Nならば|x_n - x_m|<ε/2。この2つより、任意のε>0に対して、n>max{I, N}ならば、|x - x_n|≦|x - x_(n_n)| + |x_(n_n) - x_n|<ε。□
√2に収束する数列(1, 1.4, 1.41, ...)はCauchy列だが、Qの元に収束しない。
f_n(x)を以下で定める。
xが有理数で、xを既約分数a/bに表したとき、bがn!の約数ならば、f_n(x) = 1。それ以外は、f_n(x) = 0。
各f_nは有限個の点で1になる以外0なので、Riemann積分可能で、∫|f_n(x)|dx = 0。
しかし、その(各点収束)極限は、xが有理数のとき1、無理数のとき0となる関数であり、これはRiemann積分不可能。(有理数の稠密性から、区間の細分をどれだけ細かくとっても、各区間に1を取る点と0を取る点がそれぞれ存在するため、Riemann和が収束しない)
ちまたにソフトウェアエンジニアの生産性は10倍違う!なーんていう話を聞くことがありました。
ほんとかよ!と思って生きてきました。そんなことあるはずない・・・と。
年齢は40代くらいの経験のあるエンジニアさん(仮にAさん)で、単価はおそらく75~90万円/月といったところで、3人月フルコミットでした。
一方、私は、1人月(0.5人月、0.2人月、0.3人月で3ヶ月)の稼働でご一緒しました。
Aさんは、バージョン管理ツールのログで、変更行数(追加と削除を合わせた数、※1)が、だいたい1ヶ月7,000行くらい。
私は、バージョン管理ツールのログで、同様に変更行数が、1ヶ月だいたい130,000行ぐらい。
うーん、まじなんなんだこの差は。10倍説を認めざるを得ない・・・
自分ができるエンジニアだとは全く思わないけどいくらなんでもひどすぎないか。
もちろん担当した機能の領域とか、自動生成のコードがあるとか(全体に対して過度に多いわけではない)、
テストデータとかに応じて程度の差こそあれ、10倍以上の差が出ている・・・
正直Aさんの品質は良くない。まともにまともに動いていても仕様漏れ、考慮漏れがあたりまえの状況。
(※1)
この対象には、もちろん設定ファイルとかテストデータとかDDLとか、実コード以外の周辺のファイルもすべて含まれています。
自慢ではありません、ちょっとやるせない気持ちになったので、仕事の愚痴でした。
[追記]
なんだかんだ反応があって嬉しい。
あくまでバージョン管理ツール上の差なので、リファクタリングやパッケージ移動的なことをすると当然行数が増えます。
たまたまリファクタリングを多く行ったので、差分が多く出ただけじゃないか?と結論付けられるのも別良いです。
私的な感覚を表すために行数を測ってみただけで、行数の絶対値で生産性を測りたい意図はなく、相対的な数値の差がでている、というニュアンスです。
【UPDATE 2020/1/10】ジェンダーギャップ指数の教育分野について、「集計ミスでは」という声があったことを受けて、世界経済フォーラムに改めて確認しました。世界経済フォーラムは「集計ミスではない」と回答しています。説明の主な要点は以下の通りです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今年の日本の「中等教育の就学率」スコアは、「中等教育の女性の割合(%)」という指標を使用して決定されました。これは、ユネスコの統計を使用できた2016年と2017年とは異なります。通常使用している統計が利用できない場合は、代わりの指標を使用するのが標準的な方法です。この場合、絶対値は厳密に比較可能ではありませんが比率は比較可能であり、日本の教育に関するスコアは本質的に同じです。日本の総合ランキングに影響を及ぼしたとは考えていません。
昨年のユネスコの数値を使用しなかった理由は、ユネスコが更新版を提供しなかっただけでなく、昨年の数値もデータベースから削除したためです。ポイントは、欠損値を置き換える必要があるということです。ユネスコの前年の値に置き換えることは取りうる代替アプローチですが、他の国との整合性が取れなくなってしまっていたでしょう。
33歳おじさんが解いてみた。
(1)
x^4 + 4x^3 + 6x^2 +4x + 1
(2)
(x^2 - 1)(2x + 1)
(3)
3 -√5
(4)
√3 - √2
(5)
x ≦ 2
(6)
1 ≦ x < 2
(7)
1, 3, 6 , 9
(8)
③
(9)
y = (x + 3)^2 - 5
頂点 (-3, -5)
(10)
1 ≦ a
(11)
π / 3
(12)
Cが90度の直角三角形
= sin(180° - (A +C))
= sin(A + C)
よって sinAcosC = 0
上記を満たすのはcosC = 0のときなので C = 90°
もう寝ないと・・・・。
※ブコメその他がためになったので追記した(2/23 18:23)
※あとこの投稿は「最底辺に落ちれば自信が出るからそうしろ!」とかいうものでは一切無いです。そういうニュアンスが出ちゃってたのは大変申し訳ない。少しでも浮上してるならそれに越したことはないし下がれなんてとんでもない。この投稿は助言でもなんでもなくて、自分はこうだったなぁという糞自分語りに過ぎない(最後のオナニー以外)からそれを踏まえていただければ大変うれしい
自分も自己肯定感はそこそこ低い方で、 増田と同じく学生時代は自分以外の全員がド有能の聖人に見えてたんだけど、増田のもちょっと違う気がするんだよな。
「私と仲良くしてくれる人は何を考えているんだろう、こんなグズに優しくしてくれる聖人たちに何を返せばつりあうだろう」
そう、ここまではほぼ一緒。でも俺の場合はこの次の段階があって、
「こんなに有能な聖人が言ってる事をグズの俺が否定する権限はない」
って理論が発生するんだよな。
少し場面を想像してほしいんだけど、数少ない友人と会話してる時、案の定おれの「俺なんてゴミやし……」とかいう発作が起こるよな? グズの俺と違って友人は有能の聖人だから、まぁ「いやそんなことないよ」とか、たまに「増田の〇〇なとことか凄いじゃん」とか言ってくれる。俺の脊髄は(いやいやそんなことなくて俺はゴミでぇ……)とか反射しそうになるんだけど、"グズの俺が否定する権限はない"ので、お世辞であれその言葉を甘んじて受け入れないと絶対におかしいんだよ。ここで「いやそんなことはない、私はゴミだ」と言える時点でまだそこそこ自己肯定感あるから安心していいと思う。向きはともかく、自分の思考や理論を相手のそれより強いと思えてるから。
逆に自分が否定された時はそもそも自己肯定感が最底辺なのでノーダメージ。ゴミな自分は有能な他の全人類に否定されて当然だし不当でもなんでもない。当たり前の事を当たり前に指摘されただけなので悲しくもならない。でも[ゴミと友人になってくれる有能な聖人]とただの[有能]だと前者のほうが優先順位が高いので先述した友人の言葉が消えるわけではない。仮に消えたら聖人の友人に失礼極まりないのであり得ない。周りに当たるなんて選択肢はどうやっても発生しない。
このマインドを続けてると、基本的に肯定感が正の値になることはあってもマイナスにはならない。ふとした拍子に2とか3くらいゲージが溜まってちょっとウキウキな気分の時だと、理不尽な否定と正当な批判の切り分けなんかも意外にできるようになったりするので、ただでさえ鉄壁の防御力にさらに磨きがかかる。余裕ができると「ほんとにちょっとだけなら"俺の〇〇なとことか凄い"んじゃね……?」とか思えてきたりこなかったりする。
要は、自己肯定感低いアピールは人が多いところでやると時に不快感を撒くことになるから、基本控えめにしてある程度自己評価あるフリでもしてたほうが周りの人を尊重してることになるし、結果的に自己評価を見つめ直すことにも繋がる。理論的に考えればそういう考えに落ち着くのが真っ当じゃね?っていう話ですわよね。
まぁなんというか、自己憐憫って蜜の味なんだよな。だから癖になってるひとも多いと思う。今は夕方一人外で歩いてる時とか、中高の時に毎回テスト最下位で赤点で居残り勉強してた時間とかを思い出して「相変わらず俺ってゴミだなぁ」とか思いながら自己否定オナニーして自己憐憫欲を解消してる。もちろんオナニーは心の上での比喩だけど、めっちゃ気持ちいいからおすすめしたい。
珍しくブコメが色々ためになったので(自己肯定に溢れた感想)、お礼と言うにはおこがましい自分語りだけど返事をさせてもらいたい。
oratansu よく「最底辺に落ちたのであとは上がるだけ」みたいなコメントする人いるけど、それ以上に落ちるかもしれないのによく今が最底辺だと定義できるなあという感想しかない
読み直すと「死ぬこと以外はかすり傷!(ドン!)」とかいうどっかのゴミ自己啓発本と同じ台詞言ってるように見えてめっちゃ恥ずかしい。ごめん。(自己啓発本は悪だって言いたいわけじゃないんだけど、なんというか基本強者の理論だと感じちゃうんだよね)
今の自分の絶対値的なこの場所が最底辺、というよりは"自分=ゴミ"の図式が無条件で成り立っちゃってるから、落ちたところで自動的に認識が再修正されるので特に何も感じない、というほうが正確だろうか。こう書くとより救いがない感じがするな。でも気は楽。弊害は未知数なのでオススメはしない。
fukazawakyoko これ、元増田もそうだけど最底辺感がないんだよな。能力が低くてガチで自己肯定感が低いというより、どっか余裕のある人が考えた自己肯定感の低さって感じ。
あ~やっぱそういう感じ出ちゃってるよなぁ。言い訳させてもらうなら、現状、そこそこ自信というかなんだかんだ俺もそれなりに大手を振って生きてていい(≒他の人間も大した理由があって生きてるわけじゃない)って思えるようになってるから、この立場から何書いても薄っぺらいってのはあるかも。一時期は何言われても「おっ悲しいなぁ(諸行無常)」みたいな感情しか湧かなかったから、這い上がろうという気力も湧かなかったのはホントのところだとは思うけどね。
コメントにも出てきてるけど"余裕"は本当に大事だと思う。これが枯渇してるとホントに何も考えられなくなるし、シンプルに周りにも迷惑がかかる(その迷惑で自分を卑下する必然性もないんだがそう考える余裕も無くなる)。自分の少しの余裕がどこから湧いてきたのか考えると、やっぱカウンセラーとか薬ってことになっちゃうのかなぁ。ラッキーだったのは、「精神科に行って薬まで出された自分は欠陥人間だ……」とか、どうしても先生を信じきれずに(orあってない先生をずっと変えなかったりして)ネットのメンヘラ界隈的な場所ででくだをまいちゃったりすることはなかったって点だろうか。一応心理学専攻で、治療に対してそんなヤバい行為だとは考えてなかったってのもあったし、治療受けるのってどんな感じなだろう……!みたいな好奇心が少し先行してたのも大きい。
でもカウンセリングや薬ってなんだかんだお金かかるし、1割負担にするのもちょっと抵抗感ある人もいるかも知れないから、こういうのも含めた余裕を考えると俺もまだまだ序の口ってことなんだろうなぁ。保険で色々試せるのおもしれえなぁとか、ビンシャリってこれかよ草、みたいなノリは万人にできるものではない。
Caerleon0327 自分よりできない人を見たり、自分より大変なことになっている事象(例えば、今回の新型コロナパンデミックとか)見て、それと比べて自分の目の前のことはマシだと慰めている
この理論で生きてると、自分よりできない人が他の場面で自分より高い性能を発揮する現場を目撃すると総崩れになるから注意したい。そこで「できないように見えた人にも得意なことがある」なら「できない自分にもなんかいい点がある(≒自分をある程度認めないとその人の優れた点まで否定する事になる)」と考えを反転して良い感じにしてたんだけど(これも自己啓発の謎理論っぽくてキモいな)、まぁこれもある程度の余裕がないと出来ないことだよなぁ。
自信がない状態から立ち上がれるかどうかは周辺環境に左右されまくる、ってのは本当そう思う。そこにつけ込まれると色々厳しい。弱ってる人間につけ込んで追い打ちかけてくるゴミなんて生きてる価値無い、社会に害を振りまく俺以下のゴミじゃん、って思えれば楽なんだけど、そう思えるまでが長いんだよなぁ。これを個人でどうすべきかはちょっとわからない。今の自分はそういう人間の屑を見るとめっちゃイライラする性格と化したからそれに関係する仕事をしてるんだけど、そういう支援もまず最初に人の目に触れないと始められないし……難しい。
aeka そんな言葉遊びしてる次元じゃないんよ。「自分なんてクソで…」などと人様に聞いていただこうなんておこがましいこと思ってるようじゃまだまだ下がいてだな…いやこんなことわざわざ衆目集まるところですみません。
俺もすまん(挨拶)。寧ろそれを伝えたい文章だった。俺の作文力の無さが光る。そう、自分が糞という意思をもってる時点で自分を肯定できてるから、そんな奴らの言うことなんて何の参考にもならない。これはポジティブ思考でもなんでもなく、ただただそれを出来ない自分が沈んでるだけで、良い事はなにもないから安心してほしい(?)。
アドバイスなんて身の程知らずなことは一切できないけど、それこそカウンセラーがダイレクトに助けられる数少ない場面な気がする。先生は仕事だから聞くのは毎日のことで一人が増えても大差ないだろうし、自己開示はただするだけである程度意味がある。今は心療内科もいっぱいいっぱいだから難しいかもしれないけど、それに準じた相談をできる場所は結構あって、意外と人のいない穴場もあったりするからちょっと頭の隅に置いておくのも悪くないかもしれない。