はてなキーワード: 絶対値とは
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整数a,b,c,dとし、
とする。さらに、
である。
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であるが、f(x)は2次式の曲線であり、1次式のg(x)、-g(x)の直線とは、どちらも3点で交わることはない。
よって、この等式は、g(x)につく符号はすべて+、もしくは、すべて-になることはない。
この等式のf(x)とg(x)をx=1,2,3でそれぞれ展開すると、
ただし右辺のcとdは変数であるため、変数の算出時には右辺に付く+と-は入れ替えることができる。
よって、この3等式のうち、1つの等式のみのgに付く符号が違う、3パターンのみ考えれば良い。
また、3等式から4変数を求めるため、4変数はパラメータ変数を含む値になる。
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1つ目と2つ目の等式より
この値を3つ目の等式に代入することで、
が得られる。
nを整数とし、a=n とすると
つまり、
である。
この式にx=1,2,3をそれぞれ代入すると、
であり、問題の条件を満たしている。
より、x=1もしくはx=-2n-6のときに成立する。
となる。n=-4ならx=2になるが、それ以外の整数nではxは1,2,3以外の整数になり条件を満たさない。
また、f(x)=-g(x)とすると、
であり、x=2,3のときのみ成立する。
よって、n=-4のときの
のみ条件が成立する。
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1つ目と2つ目の等式より
この値を3つ目の等式に代入することで、
が得られるが、この等式を満たす整数a,bの組は存在しないので、この符号パターンにはならない。
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1つ目と2つ目の等式より
この値を3つ目の等式に代入することで、
が得られる。
整数mとし、a=mとすると、
つまり、
である。この式にx=1,2,3をそれぞれ代入すると、
であり、問題の条件を満たしている。
より、これを満たすのはx=1,2のみである。
一方、f(x)=-g(x)とすると、
であり、これを満たすのは、x=3もしくは、x=-2m-6である。
m=-4のとき、x=2となるが、それ以外の整数mではxは1,2,3以外の値になる。
よって、条件を満たすためにはm=-4でなくてはいけない。よって、
ただし、この式は先の式と同じ式である。これはf(2)=g(2)=0であるために起こった。
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である。
経団連がもっと消費税上げるべき!と平気で国内消費を冷やす提言をしてて平気な理由を考えた。
結論から言えば日本がいくら不景気になっても儲けることが出来る、いや、むしろ不景気になる程儲かる、と個人的に結論できたから書いてみることにした。
まず、デフレになれば給料として出て行く数字は小さくなる、つまり少ない金額で人や下請けを働かせることができる。
次に、経団連にいるような企業は海外でもガンガン売ってるから自由にできる外貨もわんさかある
そして政府が円安に誘導することで、デフレによって国内のお金の価値が上がろうが関係なく人件費が下がる。外貨を日本円に変換して払うことで。
デフレなので、生きていくのに必要なお金の絶対値は小さい。15万円で雇うとする。
円高(仮に$1 ¥75にしようか)だと月に$2000払うことになる
適正レート(仮に$1 ¥100にしようか)だと月に$1500払うことになる
円安(仮に$1 ¥150にしようか)だと月に$1000払うことになる
さらに都合がいいことに海外はインフレしてるから、その国の中でのお金の価値はさがっていく。例えば去年$20000で売った車を今年は$25000で売ることができる。極端だけど。
と言うことは一台の車から手に入る日本円の総額が増える。だけどそこから払う給料は減っていく。
あのポスターが切っ掛けで、普段なら絶対献血しない男性群を母数として1%でも献血に導けたとしたら、それでも悪なのだろうか。
1万人のオタクのなかで100人が初献血に至ったとしたのなら、このポスターは少なくとも必要とされている社会善の機能は果たしている。
上記の結果に対して、「あのポスターはやっぱり良くないから、今後は止めるべきだ」の方が善の絶対値が大きいのはどういう場合だろうか
あれを見た1万人の女性のうち、何人があの弁護士のように感じたかの比率によるのではないだろうか。
1%の100人が絶対許されないと考えたら、はやりアウトなのかな。男尊女卑が瀰漫しているのは事実なのだから、同じ1%なら女性の不快感を優先すべきだろう。
あるいは1%ではなく「大半の女性が不快に感じる」というエビデンスがあるのであれば、考えるまでもなく宇崎ちゃんはアウトだろう。
絶対的善も絶対的悪もないと仮定して、多数決で決めるのが今の民主社会の基本だ。
ただ前提条件があってマイノリティを最大限尊重することが必要。これに異論がある人はいないはずだ。
あのポスターのように見る人の主観によって男女問わず線引きが難しい問題は、
最終的にはマイノリティ側を尊重しつつ、最終的には功利主義的結論に落ち着ける以外に解はないととおもう。
あのポスターを企画した人は 蠢くオタク達のうち1%でよいから献血に足を運んで欲しいという、切実な善なる思いでデザインを企画したのは間違いないのだから。
偶数奇数を判定するための途方もないプログラミングコードが話題に
http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/55507489.html
x mod 2
で行いますが、ビット演算を使い、最下位ビットが立ってるかチェックする
x and 1
負の表現に2の補数を使うプログラミング言語では問題無いのですが、Cではちょっと問題が起きます。
X3010:2003 プログラミング言語 C 6.2.6.2 整数型
符号付き整数型において、オブジェクト表現のビットは、値ビット、詰め物ビット、および符号ビットの三つのグループにわけられなければならない。
詰め物ビットは存在しなくてもよく、符号ビットは丁度一つでなければならない。それぞれの値ビットは、対応する符号なし整数型のオブジェクト表現における同じビットと同じ値をもたなければならない。(略)
符号ビットが0であれば、それは結果の値に影響を及ぼしてはならない。符号ビットが1であれば、値は次に示す方法の一つにしたがって変更されなければならない。
- 符号ビットが0のときの値を負数化した値[符号と絶対値(sign and magnitude)]
- 符号ビットが値-(2N)をもつとするときの値[2の補数(two's complement)]
2の補数の場合(1111 1111)2
1の補数の場合(1111 1110)2
よって、処理系が2の補数を採用している場合では問題ありませんが、1の補数を採用している場合に判定が逆になります。
UNISYS社のClearPath Dorado Systems(ClearPath OS2200)で採用されているという話です。
みんな「好感があればまあ美人と表現できる」範囲の人ばっかりじゃない?
世界の絶対値に照らし合わせた誰から見ても美人とかではなくてね
リアルな友達には「美人」て表現すると逆にイヤミになってしまうような顔で(でも両親依存だしどうしようもない)
でも中身は信頼できて仕事もできる人たくさんいるけど
上に行くのって結局顔順(両親依存で本人に全く原因ないのにね)だよなーと思う
女性の役員とか政治家とかみるたび、まーた美人じゃん、顔じゃん、て思って終わる。
天は二物を~て言葉があるけど
要するに美人な時点で一物、そこに特技や才能が加わると二物のできあがりなんだよな
そうよだって普通の人間は一物で十分だし、生まれただけで約束されてる人だもん努力しなくてもやってける。
やってらんね~な~
それを書いた人は男性に書かないなら女性も書かなくていい、というような事を書いてた。
いやそれも違うんじゃないのって思った。
男性でもキャラクターを表す上で容姿が描写される事自体はあると思う。
でも女性脚本による恋愛映画なんかでの相手役の描写には間違いなくあるはず、というかセリフにバンバン出て来る。
ハンサムだと表される役の俳優さんはまさにそう演じているように見えるし、そういう作品の女性監督女性脚本コメンタリなんか大体ずっとハンサムハンサム言ってる。
キャラクターの容姿の詳細自体は性別関係なくあるものだろうしプロットに関わるなら余計にそう。
だから問題は脚本にそういう見た目の描写がある事じゃなくて何でそれが女性に偏りがあるかって事だと思う。
創作する上で登場させるキャラクターに理想を反映させるのは珍しい事でもないし、その中で外見の描写が入る事はある意味当然の事でもある。
だから女性の容姿を讃えるような描写が多くなってるのは単純に数の偏りって面があるんじゃないかなと思う。
でもこれはたぶんそういう話ではないとは思うけど。
脚本で容姿を描写する目的のひとつに書いた人間が持つキャラクターイメージの伝達がある。
これはキャラクターを創作、脚色する上での要素だからそれ自体は問題ではない。
美しさを描く事に罪はないし、美しいとするキャラクターを作る事にも問題はない。
外見情報によって社会的にそのキャラクターがどのような立場、印象にあるかを客観的に示す要素。
問題はこっちにあると思う。
これも社会一般の印象を引用するに過ぎないわけだからそれ自体が問題ってわけではない。
それが性別で偏りがあって女性の描写で必要とされる事が多いなら、それは男性以上に女性の容姿が共通認識として印象への判断材料のひとつになっている、またそれだけ女性の容姿にステレオタイプ的な印象が紐付けされている、という事になる。
男性より女性の方が容姿の美醜が社会的立場や内面や性格を表す要素として一般的に認識されている、そういう話。
脚本という性質上イメージを伝えるためにステレオタイプな共通イメージを用いた伝え方をするのは、あくまで方法論としては仕方ない部分もあり、それは責め切れない面もある。
だけど恐らくツイートで訳されていた女優さんたちの口ぶりからは、そういう脚本家側の引用する共通認識が彼女達の考える、今意識として持つべきとされる認識が許容する範囲を越え、既に共通イメージとしては過去のものとすべきところから引っ張られたもので、そういうところに辟易しているのだとそう感じた。
だから男性を書かないなら書かなくていい、は、ある意味思考停止的な発想だな、と思った。
書いてる事が問題なんじゃなくそう書く事で伝わる共通認識があるとする、そこに問題意識を持たない事に平然としてそれを書く、その感覚が問題なんだから。
それは今後女性脚本家が増えて理想像を反映した男性の容姿の描写が増えても解決するものじゃない。
美しさの描写といっても同じように男性脚本家の理想を表した女性像の描写も、個人的な範疇のものはそこに自由はあるべきで批判すべきものでもないし、キャラクターの主観としての描写も安易に非難すべきものじゃないし。
考えるべきはその価値観が社会のどこからどういう体で引用されたものかって部分なんだと思う。
でも見てる近辺でたくさんRTされてて何も言えずに誰も見てないような増田で書くのだ。
気がちいせえ。
あとついでに言うと容姿を美点とする場合に知性や能力、性格と比較して容姿で表される事自体を問題視する人もいるけど個人的に正直それこそ問題だなと思う。
書いたみたいな容姿偏重が問題なのは分かるけど、それなら必要なのはその容姿の地位まで知性等の要素を持ち上げる事で、バランス取るために容姿を落として相対的にやるのは結局今まで知性で苦汁舐めてた感覚を容姿を持ってる女性に味わわせる事になってて、それって知性を持つ女性を掬い上げるために容姿を持つ事の価値を低く見積もり直すって事だからどうなのって思う。
突出した美しさと突出した知性はどちらも自立して価値が同じようにあるべきものなのに、今は美しさそれ単体では魅力として、特に女性の意識として認められなくなって来てる部分はあると思う。
だからこそ美しさだけで女性を表す事が問題視されるんだとも思う。
魅力ある人間とされるものを表するに足りない要素だけで、その相手を表現する事になるから。
悪意は無くても、あなたはそれしか持っていない、となってしまう。
同時に男性からは根強く美しさは魅力として捉えられる部分も大きいから、女性が知性を自立した魅力だと捉えていてもそれ以上に求められるという面もある。
その齟齬でまた女性側に容姿が持つ価値への否定的感情が増してまた男性との価値観の差異が酷くなって、となった結果また容姿の価値を低く見積もってそれを世に提示して、更にまた容姿を褒められる事への価値を低く捉えるようになってって女性の自尊心には悪循環に思える。
だからそれを止めるために男性が美しさって要素へ持つ価値基準を否定して齟齬を埋めようってなってるんだけど。
やっぱりそれも男性が高く認める美しさって要素の価値を下げさせる事によって、それ程には正しく評価されてないとされる他の面との差を縮めようというやり方で、それは魅力としての美しさっていう本来多くの魅力がそこにあるべき正しく高い位置に置かれていたそれさえその価値を失わせる結果になる、というかなってるわけで、やっぱり良いやり方とは言えないんじゃないかな、と思う。
本当は美しさもそれだけで100%魅力だし知性も性格も100%の魅力なのになって思う。
絶対値があんま変わらない相対的な差の埋め方って何にしてもよくないよほんと。
美しい事の価値を据え置かないで下げてバランスとるの求める人多くて内心悪手でしかないってほんと思ってる。
思ってるけど匿名でもないと言えないのだった。
そして溜飲を下げるのだ。
気がちいせえのだった。
よくないわ。