はてなキーワード: 減刑とは
以下個人の感想です。
公判最終日、遺族の証言、求刑などの各場面で被告人がどんな表情をするのか注視しながら傍聴していた。
最初に感じたのは被告人は発達部分に問題があるのではないかということ。もちろん専門家ではないので単なる印象であるが、状況によって取って然るべき態度を選択できていない人であるように感じた。
鑑定の結果は「自閉スペクトラム」、弁護人がこのワードを連呼しながら情状酌量アピールしていたが、この件で自閉スペクトラムを理由に減刑や情状が通ると全世界の自閉スペクトラム大激怒じゃないのか。実際自閉スペクトラムは攻撃性を特徴せず、なので。
次に、まったく反省していないという印象を受けた。
これはこの公判を通して証人、検察側も「反省の態度まったくなし」「誠意などまったくない」などと同意見であるようだ。実際、被害者を殺害したことで「自分の願う世界に一歩近づいた」と述べたらしい。
両証人の証言内容はかなりエモい内容であったのだが、ところどころ「ww」「わけねーしwww」な表情をしていたので、最後の被告人が証言席に立った際の「共感しました☆」という言葉も、「嘘ですよね☆」としか感じられなかった。
そして、もし出てきたら報復しに行きそう。
報復相手としてターゲットABC各ランクの、Bランクであるが、たまたま自分の近くで顔出し・名前出しでイベントを開催したから選んだだけで、別にHagexじゃなくても、ネットリンチに加担した奴らじゃなくても、idコールしたアカウントでなくても、その時に手の届くところにいさえすれば、凶器として購入したナイフで、丸めた毛布を刺して予行練習の通りに刺せたんだろう。そして練習の結果を披露する相手は、頸動脈を切断し、心臓を切断貫通し、全身30か所の傷を受けるのは、「Hagexも他人を攻撃していたから報復されて当然」と言ってるブコメ、あんたでもよかったみたいだよ。
もし出てきたら、今度こそターゲットのAランクを狙いに、もしかするとそれははてななのかもしれないが。
どうあれ、出てきてほしくない。
例の「こんなに優しくされたの生まれて初めて」報道を受けて政治家から新聞記者からαツイッタラーに至るまで界隈でそこそこ著名な人達がみんな揃ってまるで誰かに言い訳するみたいに「犯行自体は決して許されないことだが~」みたいな枕言葉を敷いた上で「被告の生い立ちを思うと同情してしまう気持ちもある」とかなんとかおセンチなことばっかり呟いてて疑問に思ったんだよね
たぶんこれ「青葉を許さない!」っていう意見を表明した上で同情の気持ちを示さないと周囲から袋叩きにされるからなんだろうけど(実際に朝日新聞の記者は枕言葉の詰めが甘くて叩かれてた)、これマジで意味わからん同調圧力だよな
もちろん個人的に「許す!」とか「許さない!」とか「どうでもいい!」とか幾らでも思ったり表明したりする自由はある
だけど「許さない!」っていう人が多ければ確実に死刑になるとか、逆に「許す!」っていう人が多ければ減刑になるとかそういう仕組みは実装されてないよね
胸が性的かどうかを思春期以降に知って欲しいっていう性教育をしたいと思う自由も欲しいよー。
自由ってなんだ??
割と本質的な問いだと思うので真面目に答えると、アイザイア・バーリンという哲学者が「消極的自由」と「積極的自由」という概念を提唱している。
詳しくはWikipediaでも読んでほしいけど、要するに
の違いね(cf. anond:20191017201230)。
現代の自由主義では、色々と議論はあるけれど、おおむね消極的自由の方がより重要な自由とされている。
これは増田もそうだろう。「俺が六本木ヒルズに住む自由を実現するために家賃を補助しろ」と言われたら、おかしい、と思うよね。でも、「金持ちの俺が六本木ヒルズに住んで何が悪いんだ? 俺の自由だろ」って言われたら、当然、って思うんじゃないかな。
というのは積極的自由に属する。
その環境を増田が個人の努力あるいは財力に頼って実現する(例:ひきこもる、ゲーテッドコミュニティを作る)のはもちろん自由だ。でも、それをもって他者の消極的自由を制約しようというのなら別の話になる。
積極的自由と消極的自由ならば、基本的に後者の方が重い。よほどの理由がない限り、前者を理由に後者を制約すべきではない。そして、増田が子供にどんな教育をしたいかという話は、「よほどの理由」ではない。
(「よほどの理由」が認められるかどうか争いになっている事例として、たとえば、「感染症にかからず健康に生きていきたい」という積極的自由と、「どんなワクチンを打つか政府に強制されたくない」という消極的自由が対立する局面を考えてみよう)
ところで、
思うだけなら自由ですよ? それは人を殺したいと思おうが誰々くんとセックスしたいと思おうが日本は天皇中心の神の国だと思おうが自由なのと一緒。そこの自由を制約している人はどこにもいないよね。どうぞご自由に思っていてください。
その思いを他者への要求として口に出す(増田に書く)から他人の自由に口を出すなと言われるわけで。
なので、
思春期前の子供に見せたく無い自由は?献血ルームにあるのは別に良いんだけど、公共の場にあるのを見たくない人の多様性はどう思う?
「見せたくない自由」というのも、ご家庭の中でお色気漫画は読ませないラッキースケベアニメは見せないとかそういう話ならどうぞご自由に、お子さんの教育に関しては親御さんに自由裁量があります、という話だけど、他人が自分の敷地に(あるいは借りたスペースに)設置したポスターを取り外させようとするなら、それは他者の消極的自由を侵害してよい理由にはならない、という話になる。
何度も書いているように、積極的自由より消極的自由の方が重いので。
「多様性を見たくない人も多様性に勘定すべきか」というのは難しい議論だけど(「戦う民主主義」を調べてみよう。民主主義を破壊しようと主張する政党を民主的選挙に参加させるべきか?)、そういう多様性も認められるべきだとは思う。他者の消極的自由を損なわないという前提のもとで。
なので、そういう多様性の持ち主がゲーテッドコミュニティ作って暮らす分には、そこにわざわざポスター貼りに行こうとは思いません。ご自由にどうぞ。そういうコミュニティが存在するのも多様性の一貫だとは思うので。アーミッシュのコミュニティとかと同じで。
ところで、私たちが暮らすこの日本はゲーテッドコミュニティではありません。
人を殺す自由はない。人を殺せば刑務所行きになる。他人を誹謗中傷する自由もない。誹謗中傷すれば民事裁判で敗訴し賠償金を科せられる。
既に自由は整えられているのでは……? 現状の日本が無法地帯じゃないのは、ある程度自由が制約されて整えられているからだよね?
私は宇崎ちゃんの胸は揉みたい感じの魅力的なおっぱいに見えるのでやっぱり子供に見せないように気をつけて歩きます!!!自由!!!
はい、それもあなたの自由ですね。宇崎ちゃんのポスターなり看板なりを見かけたら子供の目をふさぐとか、子供に声をかけて注意をそらすとか、見て見て~と逆方向を指差してそちらを見せないようにするとか、そういう自由をどうぞ行使なさってください。誰もそれを邪魔したりなんてしないから。
これはそのとおりで、要望する自由はあるし件のポスターを批判する自由もある。要望を無視したり批判に反論したりする自由もあるというだけの話なので、気にくわないなら文句をつけてりゃいい。今回の増田は「自由」について混乱しているようだったから雑な説明になっちゃって、そこは申し訳ない。ご指摘ありがとう。
消極的自由をより重視するのはどちらかというと英米系で、大陸系だと「政治参加の自由」とか「健康で文化的な生活を追求する自由」とかの積極的自由も重点おいてるんでわ。
いや、積極的自由を重視する人たちも、積極的自由より消極的自由の方が重要という点では一致しているでしょう。意見が分かれるのは、積極的自由はどこまで保障されるべきか、とか、ある行為が消極的自由か積極的自由か、とか、そういう点では。積極的自由の保護自体には私も異論ないですよ。特に社会権は国家がケツを持って下支えしないと自由が掘り崩される。そういう意味で夜警国家やリバタリアニズムは支持できない。
ポスター非難派の言い分はとどのつまり「他者の消極的自由よりも私の積極的自由のほうが優先されるべき(少なくとも対等)」なので、なぜ前者が後者に優越するか、そこにどういった議論があるのか説明しないと無意味
上で色々例を挙げたけど、わかりにくいかな。
じゃあ「山間部の過疎地に政府が十分なインフラを整備していない」と「政府が過疎地の住民を強制移住させる」だったらどうよ。
前者ももちろん問題だけど、どっちがより重い問題? って聞かれたら後者の方がより重大な問題だと答えるのが普通だよね。
言わずもがなのことだけど、前者が積極的自由の侵害で後者が消極的自由の侵害です。消極的自由が積極的自由よりも重要な自由であるのは当然ですね?
(前者は軽んじてよい、と言っているわけではないことに注意。19世紀的な自由主義が消極的自由ばかり重視し積極的自由を軽んじていたことに疑問を呈して積極的自由「も」重視すべきだと主張しているのが現代自由主義です。前者は気にしなくていいよって言ってるのがリバタリアニズム。でもどちらの立場にせよ、消極的自由の方が重いことは否定してないと思うよ)
わかりやすくて納得した。と同時にシートベルトを着用せずに自動車運転して事故即死亡する消極的自由が認められていないのはおかしい、、、のだろうか?とも思った。
レーガン大統領はカリフォルニア州知事時代にそういう理由でバイクのヘルメット義務化法案に拒否権行使してますね。
個人的には、子供には自己の生命・安全を危険にさらす方向での自己決定権を十全に認めるべきではないと思うので、チャイルドシート義務化には賛成。でも大人がシートベルトやヘルメットをつけるもつけないも個人の自由で(だって、究極的にはそれで損をするのは自分じゃん?)、法律で取り締まるのはおかしいと思う。自動車メーカがシートベルトしてないと警報が鳴る車を設計して売りに出すのは商売の自由。
概ね同意だけど、最後のシートベルト義務化の話、日本では車対車の事故で死亡事故だと相手の運転手は過失が多少でもあれば重い罪に問われるので、シートベルトをしない自由を制限する合理的理由があると俺は思うね
相手がシートベルトをつけておらず、それによって生死が左右された場合は情状酌量で減刑すればよいのでは……。
シートベルト義務化については社会的損失を低減する観点から合理性があると思うけどね。『それで損をするのは自分』だけじゃないわけで、治療費、障害、家族の貧困化など・・・結局は社会的負担になるからね。
ここでは合理性の話ではなくて、自由と自己決定権の話をしているので……。
そのへんを表す自由主義の言葉に、「善に対する正義の優越」というのがある。
何が「良いこと」かは人によって違う。倫理観や道徳観(=善)には多様性があって、政府が「お前たちはこの道徳に従え!」なんていうのは押し付けだ。
大切なのは、色々な道徳の持ち主が公平に処遇されること(=正義)だ。他人の自由を侵害しないかぎり、自分の道徳を追求する自由と権利がある。異なる道徳同士のコンフリクトは、公平な制度によって調整される。
だから私は一貫して、最初の増田がどんな性教育を子供に施すのか、については干渉していない。ある人がどんな倫理観を持っていて、それをどんなふうに子供に教えるのかは、虐待とかの形で子供の権利を侵害しない限りにおいて自由なので。
でも、それを口実にして他者の自由を制約しようとするなら反対する。それが自由主義者としての私の一貫した立論。
そういう意味で、自由主義って社会全体にモラルの共有を求める考え方とは水と油なんだよね。大政翼賛会にもスターリニズムにも反対だし、天皇の写真を焼いた! けしからん! も、巨乳を強調したイラストだ! けしからん! も、どっちの表現規制にもNOと言う(正確には、「けしからん!」と思ってもいいし「けしからん!」と批判してもいいけど、それを理由に作品を撤去させたりしてはいけない。右翼やフェミニストが雑誌やブログに「この表現がいかに許しがたいか」みたいな文章を掲載する分にはどうぞご自由に)。
オタクって自由主義者が多いと自分基準で勝手に思ってたんだけど、意外とそうでもないのかな? というのが最近わかってきて、ちょっと驚いてる。周囲のオタク仲間が社会問題でそのへんのおっさんみたいな保守的な認識を示したり、自分に興味がないイシュー(博打とか刺青とかね)だと平気で規制だとか口に出したり(ちなみに、わいせつ物頒布罪と同様に単純賭博罪は廃止すべきだと思ってる。賭博開帳図利罪も「無許可or無届けで賭博の胴元をした罪」とかに変更して民営賭博を合法化するべき)、BL好きの人たちが美少女のイラストをお気持ちで殴ったりしてるのを見てると、オタク界隈でも自由主義の理念は強固なものじゃないんだね……って感じになるので、リベラル派として自由主義はいいぞというのを地道に伝えていきたいですね。
しかし例えばリアルな死体や糞尿の画像をレストラン街の入り口に貼ったら、消極的自由だでは通らないだろう。これはゾーニングの問題で、線引きは色々。そう簡単ではないのでは?
私はヴィーガンじゃないけど、ヴィーガンの人たちが肉フェスの前で動物の屠殺写真を展示するのは表現の自由だと思うよ。
肉フェスのときにこれは不法だ取り締まれって言ってた人たち大勢いたけど、私はそれに与しない。その写真の前で肉料理食べながら自撮りしてヴィーガンを煽るのは対抗言論なので表現の自由。なんでみんな、気に食わない表現に対して表現で対抗するんじゃなくて取り下げさせようとしたがるんだろう。
当たり前でしょう。刺青を入れるのは自由だし刺青を入れて公共空間を歩き回るのも自由。なぜならそこは公共空間なので。刺青を入れた人には公共空間を自由に歩き回る権利があるので。刺青を入れた人が公衆浴場に入れないのはおかしい。自由主義の理念に反している。
刺青を見たくない人は自宅風呂に入る自由とかお庭でビニールプールで遊ぶ自由とかを行使してください。
なんで「他人の自由な行動を見たくない自由」が「他人の行動の自由」を抑圧してまで叶えられるべきだと思っているんだろう。本当に謎。
自由を「権利」に置き換えてもいいよ。「刺青を見ることなく公衆浴場に入る権利」よりも「刺青を理由に入浴を妨げられない権利」の方が重要でしょ。少なくとも前者の人は、公衆浴場に入る権利は奪われてないよね。公衆浴場の光景が自分が望んでいるものではないってだけの話で。でも公共空間に自分が望まないものがあるのなんて当然なんだから、望んでいる光景を見る権利よりも誰かに望まれてないって理由で入浴を拒否されない権利の方が遥かに重要。
刺青も少女像も巨乳ポスターも、「(ある種の人にとっては)見ていて不愉快」程度の害しかない(ナイフで刺すみたいな具体的な加害ではない。ちなみに、私はどれもまったく不愉快とは思わない)。見たくないなら目を背けるなりすればいい。どうしてそんなに自由を制限しようとしたがるんですか?
ネタバレをする自由は当然あるので好きな作品はネタバレ踏まないように注意する派です。基本的にはネタバレ踏むのは自己責任だよね。ネタバレ踏んでチクショウって思ったこと何度もあるけどそれは踏む私が未熟なだけでネタバレ感想書く人のせいじゃない。
もちろんあなたのフォロワーにはネタバレを理由にあなたをリムる自由がある。
100字じゃ説明できないよね。ありがとう増田。原理原則から考えないと、金属バットや愛トレ、今回の胸などで手首がねじ切れちゃう。
ほんとにね。あいちトリエンナーレ問題で一緒に表現の自由のために戦ったはずの人たちからさんざん弾が飛んでくるの、裏切られた感がすごくて絶望的になるよ(公的な施設は抑制的であらねばならない、とか、お前それ愛知芸術文化センターでも同じこと言えんの? っていうね。TPOとかくっそ笑う。じゃあビジネスシーンではカカトの高い靴を履くのがマナーとか言われても文句言うなよと。まあ私はスーツの強制もヒールの強制も間違ってるそんなTPOはクソくらえって主張するけど)。左右の表現規制派からあいトリの天皇アートも日赤の宇崎ちゃんポスターも守り抜いていこうと改めて決意。とりあえず来週にでも久々に献血してくるわ。
もし夫が、夫じゃなくてもいいけど、家庭にいる誰かしらが子供を虐待しだしたら、自分は止められないと思う。助けもたぶん呼べない。虐待に加担して、最悪死なせてしまうと思う。
自分は母親の顔色を伺って生きてきた。母親の顔色を良くするためなら何でもした。嘘の友達の話をして社交的な子供を演じたし、笑顔ですべての家事やゴマスリをして母を気遣う子供を演じてきた。
結婚までは実家で暮らして母の期限取りを続け、母に月15万ほど生活費を収めていた。こんな私に理解のある夫と出会い、家を出て、子供が生まれた。
夫は出来た人間だから、虐待はしない。自分の機嫌で他人を支配しようともしない。
でももし、例えば夫が事故や脳卒中なんんかで脳内環境が変わってしまって、攻撃的になって虐待をはじめたら、私はまた母ししてきたように彼に隷属し、機嫌を取る生き方しかできないと思う。
頭では通報するとか、子供連れて逃げるとかわかってるんだけど、そうすより前に空気を吸うように、機嫌取ってしまうと思う。子供を虐待して喜ばせなきゃって考えてると思う。精神科の先生はこういうのを自動思考って言ってた。自動思考が始まると思う。
船戸結愛ちゃんのお母さんに関する報道を見て、事実は結局どうなのか他人にはわからないが、述べられるストーリーに矛盾はないように思えて、書いた。お母さんに減刑をとかそういう意図じゃなくて、吐き出したかったので書いた
「とんでもないことをしたと思っている。被害者の方に謝罪したい」とか言ったとして、
これって反省しているとみなされて情状酌量の余地ありってなるのかな。
代理人が返しに来たってことは遅かれ早かれ逮捕されそうなことくらいはわかってて、
この事件に限らず事件を起こしたことに対して反省している(フリも含めて)からって
減刑したり刑期を短くするのってなんかちょっとモヤッとするんだよな。
例えばいじめられていた子供が追い詰められていじめっ子を刺し殺した場合に
ここでやらなかったら自分がやられていたかもとか、そういう経緯とかに対して
減刑とかを考慮するのはわかるんだけど、後から反省しているって言ったところで
もうやったもん勝ちみたい見えるなってのはある。
京アニ放火事件の容疑者の氏名が京都府警から公表された。もっとも公表の何時間も前からその名前はネットで取り沙汰されており、特定班の精度にも戦いたが、今回の本題はそこではない。氏名の公表により顕著になった、「事件を個人問題として容疑者を叩く」人たちへの違和感についてである。
事件が報道されてから、ネット上には事件に関する様々な感情が溢れていた。心配する人、怖がる人、悲しむ人、憤る人、放心している人。それらを目にする中で、なんとも言えぬ違和感と共に目に留まった言葉があった。容疑者が逮捕される際に発したとされる言葉に触れた上で、こう書かれたものだった。
「そんなことは人を殺す理由にならない。こいつほんとに許せない。」
よく見ると似たようなコメントは沢山あった。死刑でさえ甘すぎる、精神疾患で減刑とかなったらまじふざけんな、苦しんで死ね、等のかなり強い言葉が延々と流れていく。氏名が公表されるとそれらの言葉はさらに個人攻撃の色を増した。凄惨な事件に対する当然の反応と言えるかもしれない。だが、私にはなぜかどうにも不自然に感じられた。しばらく考えを巡らせた結果、違和感の正体はそれらのコメントの裏にある「事件の個人問題化」ではないかという考えに至った。
容疑者の名前を挙げて個人としてバッシングする。容疑者を悪人と見なしているからだ。常人の自分にはとても理解できない凶行を犯したから。被害妄想によって勝手に逆上した幼稚なやつだから。自分たちはまともだけどこいつはおかしい。しかし、その「おかしさ」を容疑者の問題として向き合おうともせず、単純に蔑むというのはあまりに筋違いではないか。その「おかしさ」は、本当に容疑者だけのものなのだろうか。私はそうは思えなかった。蔑む側の指摘する「おかしさ」が、容疑者の中に自然発生的に芽生え、ここまで爆発するというのは、かなり無理があると感じた。
最近のもののみならず、衝撃的な傷害事件の容疑者の年齢を見て「就職氷河期」や「ロスジェネ」という言葉がよぎる人は多いのではないか。その時代に就職をしなければならなかったというだけの理由で、一生不安定な生活を送る人たちは数多くいる。就職難が事件の直接的な原因であると言いたいわけではない。しかし、強い社会不安があったり精神疾患を持つ容疑者たちが、それらを始めとする社会の歪みの弊害を真っ先に受けて追い詰められていったことは容易に想像できる。
精神疾患を持つ人は社会を生きづらい。先天的/後天的に関わらず。疾患でなくてもどこか生きづらさを抱える人たちというのは存在する。しかし、生きづらい人たちが事件を起こすということが納得されて良いわけがない。それこそおかしいのではないか。そのおかしさはその人たちだけのものだろうか。その背景を理解しようともしない「まとも」な人たちのものでもあるのではないか。
何かが起こるには必ず原因がある。論理的な文脈を持つものもあれば、脳のここにあるはずのあれがない、といった物理的な理由の場合もあるかもしれない。何にせよ、自分が理解できないということを全て相手の問題にして蔑むということが果たして無責任でないと言い切れるのか、私たちは一度考え直してみるべきだと思う。全ての犯罪は個人のみの問題ではなく、社会の問題なのだ。
未就学女児に強制性交の男 懲役3年8カ月の実刑判決【佐賀県】
https://www.sagatv.co.jp/news/archives/2019061800366
今年2月、県西部にある商業施設のトイレで未就学の女の子に暴行したとして強制性交などの罪に問われた男の裁判で18日佐賀地方裁判所は懲役3年8カ月の実刑判決を言い渡しました。
嬉野市嬉野町の無職の男(22)は今年2月、県西部の商業施設で当時6歳の未就学の女の子を屋外の女子トイレに連れ込み暴行を加えたとして、強制性交などの罪に問われていました。
検察側は、被告が手袋をして犯行に及んだことなどを指摘し、「計画性のある悪質な犯行」として懲役5年を求刑していました。
18日、佐賀地裁の今泉裕登裁判長は「犯行は卑劣でわずか6歳の被害者が受けた精神的苦痛は大きい」としながらも「被告には知的障害があり、衝動の抑制が困難だった」として懲役3年8カ月の実刑判決を言い渡しました。
すごい判決。
そして
救いといえば実刑にはなっているところか。
刑務所に入れても更生不可能な知能レベルならそもそも無罪になるから、今回まだ更生できる知能が残っていると判断されたのかな。
飯塚某のアクセルの踏み間違いという過失でさえ凶悪犯罪者のように大騒ぎしていたのと対照的に、今回はネット上の反応を見る限り元事務次官を叩く声は大きくなく、むしろ擁護や理解できると言った声まで上がる始末だ。減刑の嘆願書を書こうなどという書き込みさえ散見された。
だが事務次官は明確な殺意を持って殺したのであって、そちらの方が叩かれない現状ははっきりと異常事態だと言える。今回殺された被害者は私個人としては付き合いたいタイプではないし、おそらく多くのネットユーザーにとってもそうだろう。生きている時にあのツイッターが見つかっていても、異常なネトゲ廃人を見つけたと話題になってもおかしくないような強烈なダメ人間っぷりである。
要は自分が嫌いな男が殺されたのだから凶悪な事件ではなく、つい先ごろ同じような境遇の男が通り魔事件を起こしていたことから、事件を起こす前に親が子供を殺したというのは元事務次官の自己犠牲を伴った美談のように捉えている層がとてもたくさんいるということだろう。
同じような境遇の容疑者による似たような事件があったから子供が同じような事件を起こすかもしれない、だからそんなことが起きる前に殺しておこうと元事務次官が供述しているようだが、この考え方を正当化させていくと別に親でなくてもそこら辺の引きこもりを全く見ず知らずの第三者が、未然に事件を防ぐために殺すことまで正義とされてしまう。この事件で甘い判決を出してしまえば日本中で同様の事件が起こる下地はふんだんにあるわけで厳罰は必然だろう。親だから子供を殺すのは製造物責任で許可されるのだと強弁する向きもいたが、その人物の過去のツイートに憲法改正反対などと書いてあり、よく理解していないものが改正されようがされまいがどうでもいいだろうと思った。