はてなキーワード: 減刑とは
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>この例えを用いトランス女性について語られる時、それは「差別」となります。彼女らが審議されるのは教室にいてもよいのかという「存在そのもの」が問われているのです。
存在を許されるかどうか、他人に審議される事が当人にとりどれ程恐ろしい事か、また審議者がいかに傲慢か想像に難くありません。— シダーローズ (@Cedrus05) April 26, 2019
うん、ぐうの音も出ないほどの正論なんだ。教室にいてもよいのか、存在そのものを問うのは傲慢なんだ。忘れてた。なんで忘れていたのだろう。多分、ある種の属性を持った子どもたちが「教室にいてはいけない」と公的に認定されるのにあまりにも慣れ過ぎていたからなんだ。
その属性を持った子どもたちが、その属性を持っていない子どもたちと同じ教室にいたいと願ったことが報道されても「特別な学校に行け」と言われておしまい。Twitterで何か月も論争になることはない。もちろん、著名な学者が署名運動を先導することもない。
来年も再来年も、その属性を持った子どもたちは「特別の学校に行け」と言われ続け、同じ教室にいたいとの願いはかなえられることはない。
そんな子どもたちが同じ教室にいることによる懸念として、「異常行動による被害」がWikipediaにさえ当たり前のように書かれる。
ときには、そんな子どもたちが親に殺害されても、「悲劇」として加害者に減刑嘆願署名が集まるほどだ。トランスジェンダー女性を殺害した加害者の減刑嘆願署名なんて集めようものなら「ヘイトスピーチ」として批判されることであろう。
トランスジェンダーに対して行えば「ヘイト」「差別」とされる行為も、ある種の属性を持った子どもたちに対してなら同じことをしても当然のこととして片づけられる。
そんな子どもたちが成人して、特別の施設で生活することがある。その施設が襲撃され、19人の男女が殺傷されて初めて、取ってつけたように「共に生きる」などと呼びかけられる。
もう何十年も前から、「同じ教室にいてはいけない」と言われ続けてきたのにね。
「子育ては大変なんです。だから子殺ししてしまうのもわかる」<わからん。
「子育ては大変なんです。だからサポートして下さい」<わかる。
三つ子の子殺しをしてしまった母親の実刑判決を免除する請願の署名が2万も集まってるらしいけど、全くわからん。
子供を殺してしまいそうな程追い詰められているなら、もっと手前で助けを求めるべきだった。そうするのが親の責任だと思う。
子供を殺してしまいかねないくらいに大変な子育てがあるのを分かって欲しいという気持ちはわからんでもないが、だから子供を殺しても減刑を、って言ってたら子殺しは止まらないだろ。
大変な子育てにサポート体制を整えて欲しいとか、大変ならちゃんと助けを求めろと啓蒙するとか、そういう方向に持って行かんと。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
https://togetter.com/li/1259890
とか見てて思うんだけど
刑罰って感情を晴らすためでも、被害者・加害者のためでもなく、将来の犯罪を予防するためにあるべきじゃないか?
前から「責任能力がないから減刑」とか意味わからんかったし。被害者側の気持ちってのも他人には結局推し量り切れないと思う。
だったらいっそ刑罰を「将来の犯罪被害を減らすためのもの」と割り切ればいい。再犯の可能性を減らすのに効果的なら、懲役でも死刑でも経済活動の制限でも投薬でも、なんでも柔軟にやったらいいじゃないか。
「この罪は重い。判例も鑑みて懲役〇年」とかより「この犯罪は再犯の可能性が高く、更生施設によるケアでも低減が難しい。よって懲役〇年と投薬」のほうがはるかに納得感があるだろ。数字も統計か何かで決めれるだろうし。
金の亡者には経済的制限を、性欲異常者や粗暴者には投薬や筋力低減を、あらゆる自制が効かないなら社会からの隔絶を。これより合理的な方法ってないんじゃないか?なんでやらないんだ謎すぎる