2019-07-19

事件個人問題化する」恐ろしさについて

 京アニ放火事件容疑者の氏名が京都府警から公表された。もっと公表の何時間も前からその名前ネットで取り沙汰されており、特定班の精度にも戦いたが、今回の本題はそこではない。氏名の公表により顕著になった、「事件個人問題として容疑者を叩く」人たちへの違和感についてである

 事件報道されてからネット上には事件に関する様々な感情が溢れていた。心配する人、怖がる人、悲しむ人、憤る人、放心している人。それらを目にする中で、なんとも言えぬ違和感と共に目に留まった言葉があった。容疑者逮捕される際に発したとされる言葉に触れた上で、こう書かれたものだった。

「そんなことは人を殺す理由にならない。こいつほんとに許せない。」

よく見ると似たようなコメントは沢山あった。死刑でさえ甘すぎる、精神疾患減刑とかなったらまじふざけんな、苦しんで死ね、等のかなり強い言葉が延々と流れていく。氏名が公表されるとそれらの言葉さら個人攻撃の色を増した。凄惨事件に対する当然の反応と言えるかもしれない。だが、私にはなぜかどうにも不自然に感じられた。しばらく考えを巡らせた結果、違和感の正体はそれらのコメントの裏にある「事件個人問題化」ではないかという考えに至った。

 容疑者名前を挙げて個人としてバッシングする。容疑者悪人と見なしているからだ。常人自分にはとても理解できない凶行を犯したから。被害妄想によって勝手に逆上した幼稚なやつだから自分たちはまともだけどこいつおかしい。しかし、その「おかしさ」を容疑者問題として向き合おうともせず、単純に蔑むというのはあまり筋違いではないか。その「おかしさ」は、本当に容疑者だけのものなのだろうか。私はそうは思えなかった。蔑む側の指摘する「おかしさ」が、容疑者の中に自然発生的に芽生え、ここまで爆発するというのは、かなり無理があると感じた。 

 最近のもののみならず、衝撃的な傷害事件容疑者の年齢を見て「就職氷河期」や「ロスジェネ」という言葉がよぎる人は多いのではないか。その時代就職をしなければならなかったというだけの理由で、一生不安定生活を送る人たちは数多くいる。就職難が事件の直接的な原因であると言いたいわけではない。しかし、強い社会不安があったり精神疾患を持つ容疑者たちが、それらを始めとする社会の歪みの弊害を真っ先に受けて追い詰められていったことは容易に想像できる。

 精神疾患を持つ人は社会を生きづらい。先天的/後天的に関わらず。疾患でなくてもどこか生きづらさを抱える人たちというのは存在する。しかし、生きづらい人たちが事件を起こすということが納得されて良いわけがない。それこそおかしいのではないか。そのおかしさはその人たちだけのものだろうか。その背景を理解しようともしない「まとも」な人たちのものでもあるのではないか

 何かが起こるには必ず原因がある。論理的文脈を持つものもあれば、脳のここにあるはずのあれがない、といった物理的な理由場合もあるかもしれない。何にせよ、自分理解できないということを全て相手問題にして蔑むということが果たして無責任でないと言い切れるのか、私たちは一度考え直してみるべきだと思う。全ての犯罪個人のみの問題ではなく、社会問題なのだ

  • でもキモくて金のないおっさんが容姿差別や年齢差別により正規雇用から排除されているのは個人の問題であり自己責任だと決めつけ見捨てることを肯定するんですよねわかります

  • その背景を理解しようともしない「まとも」な人たちのものでもあるのではないか。 そうだよよく気づいたね あれはいつまでも自分が五体満足で順風満帆であると信じないと生きて...

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