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https://anond.hatelabo.jp/20210504201554
左派政党が理念先行型というのが元増田の指摘にあってほんとその通りだと思うが、この原因について自分なりの考えを書いてみた。
まず、左派の思想で典型的なのは人権、男女同権、貧困対策だと思うんだけど、こうした現代の左派の理念を普遍的で絶対的だと多くの左派が勘違いしている気がする。
例えば、男女同権なんだけど、もし、現代人がタイムスリップして江戸時代以前で布教するなり活動するなりしてそうした社会が成立するか少し想像してみて欲しい。
産業革命以前の社会に男女同権を持ち込もうとしても無理か無駄で終わると自分は思う。
産業革命以前の工業化、機械化されていない社会では人間の筋力が労働力や防衛力に直結する訳でそうした社会の元では
男女分業には一定の合理性があって、もしかすると当時はそのことがより文明的だったのかもしれない。
現代の日本で暮らす我々からすれば許容し難いけれど、今は良くないこととされていることが皮肉にも昔は合理的でよいことがあっても不思議じゃない。
つまり女性を解放するためには一般の女性を目覚めさせるためにも女性の権利の活動家の方々の活躍が必要なことは言うまでもないけれど、
やっぱり人間の筋力に依存しない社会全体の技術の発展も同時に必要だったのではないだろうか。
(技術の発展は必須というのではなくて、場合によっては理念の実現の難易度を下げてくれる要素もあると思う)
というか、前者ばかりが注目されて後者を左派の思想家や政治家が語らなさすぎると思う。
男女同権の話だけだとアレなので貧困についても同じだと思う。
その原因はもちろん、現代には基本的人権の尊重や福祉の思想によって弱者救済の制度があるからだけれども、
一方でそうした福祉を制度として導入したり、運用できるのも社会全体で見たら圧倒的に現代の方が裕福だからというのもあると思う。
「再分配の強化!」に比べれば左派成分は少ないかもしれないけれど、長い目で見たら「皆で豊かになろうぜ!」でもそれなりの貧困対策は見込めるんで
雑な話なんだけれども、まあ、適当に
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3.今まで十分に活躍できなかった弱者層が新たに社会に進出します。
(彼らの協力でさらに科学技術や社会全体を発展させる難易度が下がります)
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みたいな分かりやすい左派の発展モデルを用意すりゃええのにな。
(3は相当に嘘くさいしこれは例えばね)
白饅頭の言い草って、全部が全部「バカにバカと言ってはいけない」なんだよ。
バカは前提なんだよ。それを許そう、と。何様だよ。
「賢いリベラルがバカにバカと言うからアメリカもヨーロッパも日本もダメになった」とか、
バカを前提にしてリベラルにマウント取るために「バカに馬鹿と言わないオレ」を演出してるでしょう。
それも、リベラルへの提言みたいな言い草で、徹底して部外者のフリして美味しいところだけ持っていこうとする。
それに、流行りの思想家を持ち出して、「サンデルがー」「ピケティがー」って、彼らの思想的背景を無視して
都合よく言葉を切り取っているのも、実のところ読者をバカにしているのよ。どうせわからないだろうと。
徹底的に自分以外をバカにしながら、小賢しいことを言ってマガジン購読者数稼いで、いっちょ前にラジオとか出て、
「若者の代表者」とか「ネット論客」とか、誰かの代表みたいな口を聞いている、その誰かをコケにしまくっているくせにな。
どんだけバカにしているの?
追いついたとかアップデートしろとか、人類の思想が不断に進歩するなんて妄想もいいところ
悪しざまに行ってしまえば、自治会とかのコミュニティでルール決めれば正しい程度の言い分。
もちろん、いろいろ留保はつけてるが、それが社会に馴染みにくい少数派に厳しいルールになるのは当然。
少し前のリベラル(これを、政治学用語でニューリベラルと言う)は、そういうしがらみを破壊して、変人にも居場所があるという感じだったんだが、サンデル他が叩き潰しちゃった。
で、ここで捻じれがあるんだが、この時に、サンデルと一緒にリベラルをぶっ叩いていたのが、まあ左翼。
どうしても、自由主義というのは強者の理屈になりがちで、また道徳的に非難に値する連中に対してやさしい。
そういうのを批判していた人たちがいた。その代表格が、ユルゲン・ハーバーマス。北守とかが大好きな思想家だ。
ノリとしては、矯風会みたいな宗教保守とラディカルフェミニストが今日として、ポルノという悪しき自由を叩いているという構図に近い。
父殺しといえば、ガンダムのテーマの一つでもあったと思うんだよなあ
初代ガンダムは酸素欠乏症で、母親も銃を撃つような野蛮な子供に育てた覚えはないとか平和ボケしてて、
そりゃ、ワイがジオン兵に撃ち殺されても良かったん??あーん??となるわなあ
テレビシリーズ5話でシンジくんがオヤジをディスると、レイちゃん激昂してビンタ一閃。これ、今から思えば不自然に感じませんか。レイちゃんってそんな激しいやつか? ナメた口をきくガキは即座にビンタ。お前は桃井かおりか。キャラがきちんと固まってなかったところに、美少女ちゃんからいきなりステーキ突然ビンタされるショックと恍惚を優先させたんでしょ。
いや、綾波レイ=ユイなのだから、息子とはいえ、最愛の旦那をディスられたのだから、ビンタをするのは当たり前というか、
普段は大人しいマッマやけど、息子がパッパのことを糞味噌にこき下ろしたら、誰のおかげでご飯が食べられてると思ってんの!?
それに対してワイは、神様のおかげやし、ワイが生きとるのも、母ちゃんや父ちゃんが生きとるのも、
父ちゃんが食える仕事にありつけたのも運であって、運というのは人間にはどうにもならん、
それを面白おかしくいじれるのは神様だけの特権であって、思い上がるな、人間風情が、
みたいにハガレンのラストみたいなことをワイは思うわけやけど、
そもそも父殺しだのキモい解釈であって、要は男の子が父親と母親を女性として奪い合うみたいな深層心理があるんでないの?
みたいなことを心理学者だの思想家だのが言うわけだけど、ねーよwとしかワイには思えないわけで、
あのな、半分嫌々かもしれない見合いで結婚したうちみたいな家庭にな、そんな解釈は成り立たんのだよ、
歯が付いた女性器という下の口に陰茎を噛み切られたがってるからだ、
とかどうやったらそんな結論に到達するんだ?
ワイはそこまで変態やないぞ、とか思うわけだけど、エヴァはそういった解釈を踏襲しているわけで、
だからゲンドウとシンジはユイを奪い合ってるし、ゲンドウは死んだユイに会いたいがためにレイを創ったりしたのだろうし、
シンジはゲンドウを父殺しして、しかしながら母とは別の女性を求めなければならない、近親相姦ものではないのだから
で、テレビとかでそれはアスカの役目のように思わせておきながら、
アスカはクローンとはいえケンケンとかヘムヘムみたいな🐶のような男性が好きだったわけで、
じゃあどうすんべ、と庵野氏は考えたんだろうけど、
まさか庵野氏まで刑事コロンボのように「うちのかみさんがね…」みたいな男性になっていたとは露知らず、
新しいエヴァの世界のキャラクター設定画に貞本氏らしさが感じられず、
これってモヨコだよなあ、違うのかもしれんけど自分にはそうにしか見えないんだよなあ、とモニョモニョさせられて、
だったら飛行石持った俺の嫁が空から降ってくれば問題ないやん、みたいに思ったのかどうなのか知らんけど、
なんかそんな感じで、ケジメは付けたいんだろうけど、内心さっさとエヴァを終わらせて次のネタをやりたいだ、俺は、
みたいなのが感じられて、でも観に行ってないんで知らんけど…
確かに非リベラルやアンチリベラルの意見だって、インターネットで吐き出するぐらいは自由にできるさ。
書店に本を並べることもできるだろう。
流石にそれらを直接口封じされるほどヤバい状況にはなっちゃいない。
だけどそういうのって、学問だの批評だの言論だの民放テレビだのアカデミー賞だの直木賞だのNetflixだのの場からは、価値観のアップデートができていない野蛮で遅れたアホの野次だとか、衆愚の自尊心をくすぐる思想的ポルノでしかないと見られてるじゃん。
非リベラル側がストーリーを語る権利がないがしろにされているってのは、その辺を指してるんだと思うぞ。
リベラルの元増田からすれば「世間一般には非リベで保守の奴らのほうが多くて、俺らは数で負けてるんだから、優位にあるわけがない」って感覚なんだろう。
でもな、数の問題じゃねえんだわ。
なんだかんだいっても言論の中心ってのは、やっぱ格調高そうな大学の先生とか、文化人とか、テレビとか、賞レースに参加する作品とか、大企業のプレスリリースとかなんだわ。
たとえその担い手が人数としては少なくても、その辺を通じて出されるメッセージは、真面目なメディアを通して、真面目に扱われ、真面目に広められる。
(アメリカのFOXは、あの極端な保守があのメジャー度なの意味わからんしこえーな。扱われ方の実態をよくしらんので置いておくが)
虎ノ門ニュースだのまとめサイトだの平積みの愛国本だのは、影響力と売上はあっても、結局ゴシップやカスとり雑誌、流言飛語のたぐいでしかない。
俺はあの辺に触れてないけど、たぶん愛好者層のほとんどは自分たちが好んでる情報がうさん臭くてバカにされるもんだってのは自覚してると思うぞ。
たとえばいくらソシャゲが売れてようと、そのプレイヤー達ですらゲームのトレンドを作るのはコンシューマや大作PCゲーだと思ってる。
ユニクロヘビーユーザーでも、世界のファッションを動かすのはルイビトンだかエルメスだかだと思ってる。
今、言論における重鎮たちは圧倒的にリベラルが多いと思わないか?
たまに芸能人だの思想家だのが非リベラルなことを言う場合、みんな「敢えて言う」とか「歯に衣着せぬ本音を」みたいな前置きをするか、「過激発言」みたいな後先考えぬ炎上芸ぽい奴ばっかりだ。
カズオは、リベラルがストーリーを語る権利を自分たちの専売特許であるように感じてる、と言った。
僭越ながら俺が表現しなおすならば、「語ったストーリーを聞いてもらえる権利が、リベラルに偏っている」という問題だ。
もちろん厳密な権利論では、語られてる主張を聞くかどうかってのは聴衆に任せられる部分であり、語り手が「俺の声を絶対聞け!」と要求する権利はない(あったら世の中がやばいことになる)。
だが、非リベラルの意見には、世間的な大義名分が与えられづらいのは確かだ。
非リベラルの意見は、真面目な高尚な場で、真面目で高尚に扱ってもらいづらい、ともいえる。
リベラルの人間は、それは非リベラルというレッテルで聞くのを拒否しているわけではなく、実際に聞いた中身が余りに暴力的だったりくだらないから反対しているだけだ、と言うかもしれない。
でも、それはリベラル価値観で暴力的でくだらないとされてるにすぎないのかもしれない。
ならますます不味いぞ、世間全体がリベラル価値観に寄ってるということだから。
あと後編の方、何十も前の死んだ作家が非ポリコレだからどうの、なんてのはどうでもいいとこだろう。
露骨に古典が燃やされだす、もしくはドラマや映画や批評本で古典を題材に撮ったものが連発されだしたなら取り上げる意味が出てくるけどそうじゃないからな。
いまこそ実存主義を再起用するべきだと思うんだよな.(哲学に詳しくないため間違いがあったら遠慮なく指摘してもらえると助かります.)
時代遅れな考え方かもしれないし,そもそも哲学は実際の社会に影響を与えないと言われている感じもある.
だけども閉塞感や虚無感に耐え切れず社会自身が「昔はよかった」と回帰するような社会は決して防がなくてはならないだろうから,その際には特効薬の候補になると感じる.
確かに「サルトルは乗り越えられた」なんて言われて,構造主義へと重心が移り,実存主義はそれこそ歴史の中に閉ざされてしまったわけだ.
構造主義がより正しく思えるのは,フィールドワークを基にした裏付けが取れていること,思想の根底にある偏りを見透かすことができたことだと思う.
この点については,自身が西洋とは異なる文化背景にある日本で過ごしてきたからこそ納得感がある気がする.
しかし時代背景が大きな要因の一つになったと思えて仕方がない.
サルトルがもてはやされ始めたのは戦後の混乱期(平穏が訪れるまでの過渡期)だった.
少年期に戦争を経験して,これまでの規範とは異なった生活,のらりくらりと暮らしていた若者が『実存主義者』だとオトナ達に揶揄された時代である.
そんな中でサルトルは「実存主義はヒューマニズムである」という講演をきっかけとして有名になった.(もっともそれ以前のサルトルは実存主義を自称したがらなかったようだが)
他方,レヴィ=ストロースが「野生の思考」を携えて登場したのは1960年代である.
このときにはWW2から既に十数年経過し,ドイツが明確に西ドイツと東ドイツに分断され,朝鮮半島も同じく南北に分割されていた.
このときにはもう冷戦構造が成立しており,生きる目的や規範と言われるようなものが国家もしくは共同体によって掲示されているようなものであった.
それはざっくりと表現すれば,西側諸国では「東側らしくない振舞いをせよ」,東側諸国では「西側らしくない振舞いをせよ」といった具合に.
そんなような状況下になっていったわけだから,構造主義がより理解されやすく,より勢力をましていったのだと私自身は思う.
別に実存主義に分類される哲学者や思想家はサルトルだけではなく,他の著名な人物にはニーチェやヤスパース,ハイデガーなどがいる.
キルケゴールも忘れてはいけないだろう.場合によってはパスカルも実存主義に分類するそうだ.
この実存主義と呼ばれる思想に一貫しているのは過渡期をきっかけとした点にあると言える.
例えば,目の前の状況に対して挫折するだとか,死へと進み続けることを自覚するだとか,大戦によってこれまでの規範が形骸に近くなってしまっていたりだとか.
そういった既存の規範(あるいは構造,世界観)に綻びが生じた状況において,次の新たな規範が構築されるまでの過渡の段階で実存主義的な発想が生じてくると考えられる.
あいにく今現在の私たちの状況を鑑みるに,私たちの考え方の根底は再び綻びを見せてきている.
新型コロナウイルスもその一つだろうし,資本主義を盾にした新自由主義の挙動もその一つだろう.
この繁栄を盲信することのできない過渡期に生まれたことを悔いても仕方がない.
人間は自分自身で時代を選ぶことはできないわけで,その中でうまくやっていくしかないわけである.
この独裁の岐路というのは、「独裁か非独裁か」という選択肢ではなく、「右の独裁か左の独裁か」というものだ。
両者とも意図的な独裁を求めているわけではない。現状の戦いは経済の自由を強く押し出す右サイドと、それに反発して同じくらい社会的公正を強く押し出す左サイドの戦いであり、互いに問題があるというのが独裁たる所以だ。
右サイドが強く押し出す「経済の自由」の理想は、とにかく自由に経済活動をやらせることで圧倒的な利益を生み、自由にやらせることで高速で社会に循環させることで国を富ませるというものだ。
しかし、少なくとも現在の日本や韓国では万人に与えられるべき経済的自由が経済的勝者によって独占されているが、それも自由な競争下に起こったことであるために放置されて逆に自由というものが行き渡らずに経済進歩や技術進歩が停滞し、格差が拡大しているのが現状だ。
意図的な独裁と言うより、システムエラー、メンテナンス不足で独裁に突っ走っている感じである。
対する左サイドがはこの自由の再分配がうまく行っていない状況を打破すべく社会的公正を訴えている。資本主義であれ社会主義であれ、社会システムが公正でなければ停滞するためだ。
しかし、現在の左派は哲学的アプローチや定義の不足、イデオロギーの曖昧さ、メディアの質の低さなどの様々な複合要因により、「なんらかの正義の名のもとに敵対者の人権を奪う」という勢力が力をつけている。
これは世界的にこの傾向があり、大いに問題があり、対処すべき人物であるとは言え、トランプ氏をあらゆるサービスから締め出すなど、明らかに人権意識に欠ける安易な対処方法を選択しており、非常にヒステリックになっている。
正義感を原動力に活動する集団が権力を得るとほぼ間違いなく独裁者になる。「正義」とは絶対的なものであるため、事情を鑑みず、他者を認めない一方通行な部分があるためだ。
そして大変残念なことに、日本においてこの先の選択肢は今の所この2つの独裁しか無い。
一応現状に合っている選択は左派ではあるが、左派の政治家、活動家、思想家の質が右派に比べて著しく低くて品位に欠ける現状も暗澹たる気持ちになる。
ほんとどうしたらいいんだろうね~。
何を見て「目の当たり」にしているとか思ったのか知らないけど、勘違いだと思う。
でもお前らに利益供与しているところを「目の当たり」にできるわけないだろ。
どんな敏腕ジャーナリストだ。
お前らが普段目の当たりにしているのは、増田やツイッターの、何を言っても反論してくる支持者とかだろ。
そんなわけねー。
お前らが目の当たりにしているのは、反ポリコレ層。
反正義が行動の主軸にある人たち。トランプ支持者みたいなもん。
自民とは支持者を守って利益を渡すと思われている、のではないよ。
しかも実際に速攻で切り捨てているよ。セクキャバ高井みたいにな。自民だったら猛烈な反省ポーズを促させてギリギリ守っただろう。リベラルっていうのは、オバマもずっとトランプに言われてた。ノーベル平和賞が欲しいがためにアメリカを優先しなかったとか。
正義をするからには実際そうなるんだ。正義は不寛容で冷淡で犠牲を強いるものだ。
これを支持できるのは、守られなくても自分はなんとかできると思える富裕層とか、正義の価値を信仰している大学教授や思想家とか、自分は絶対に公明正大で悪になったことなどないと考えている良識()派だけだ。
こういう話はずーーーっとされているんだけど、お前らは「正義を信じないのは悪人だけだ」とか頭のなかで思っているから、立民を信じない国民はバカで、自民支持者は金をもらっているとかいう妄想から離れられないんだよな。
もらってねーよ。
そんなこと思っているから支持できないんだよ。
「困ってる人は助けない方がいい。
困ってる人は困ってる方が良いからその状態を解決しないし、助けると自力で困難を抜け出す力が付かない」みたいな雑なツイートが流れてきた
Twitterのフォロワーがファボってたから目についた。Twitterで言うとフォロワーを煽ってると思われそうで嫌だからこっちに書くが、
日本人ってこういう単純なモデルに当てはめて現実の複雑さから逃げる怠惰な言説が大好きだよねと思った
貧乏人の経済学という本がある。発展途上国への経済援助についての著者の成果をまとめた本で、
著者のバナジー&デュフロはまさに発展途上国援助への功績を称えられてノーベル賞を受賞した
著者のアプローチは極めて実証的かつ定量的なもので、これまで途上国援助の方面で言われていた二つの理論、
援助は貧乏人を怠け者にしてしまうから少なくした方が良いという言説と、
片や、貧乏人が貧乏から抜け出せないのはまさに援助が足りないからだ。もっと増やし方が良いという言説に対して、
可能な限りの比較対象実験を行い、そのどちらも不十分な理屈で、現実はもっと複雑であり、
モデルによる過度な単純化への危険性を明らかにしたことが、ノーベル賞に評価された
今回Twitterで流れてきたツイートに関しては、真っ先にバナジー&デュフロの警告を思い出した
世の中そんなに簡単にお前程度の思いつきでスパッと切れるわけねーだろバーカと思った
Twitterの思いつきに対してあんまり過度な正しさを求めるもんでもないと思うが、
世の中に物を申す一見偉そうな思想家やら社会学者やら経営者やらも、思考の程度は大体似たり寄ったりで、
子供が小学一年生の男児なんだが、どうやらサンタの真相に感づき始めてる。
一応、話は合わせてくれているが、見ず知らずの老人が無償で玩具をくれるという謎の行動に対して疑いを持ち始めてるのが伝わってくる。
だいたい、サンタからのプレゼントとか言って、社会全体で子供たちを欺(あざむ)くのはいいけど、それだったらバラすときの最適解も用意しとけよ。
各家庭に丸投げしやがって、現場研修とかOJTとか都合のいいことを言って、新入社員の教育を現場に丸投げするタイプの人事部か。
よく『戦争は、始めるよりも終わらせる方が難しい』なんて言うけど、サンタも全く一緒だわ。日本人は先の大戦から何も学んでない。
サンタクロースの設定は「満5歳までの子に〜」みたいな枕詞をつけて時限立法的な制度にしておくべきだったと思うんだよな。そもそものシステム設計に不備があるだろ、これ。
俺はこのあと子供になんて言えばいいの?
「サンタとは、世界の親たちが子供を想う気持ちの概念の象徴であり、概念ゆえに実態があるわけではないんだよ」
とでも言って煙に巻くか?
だいたい、どんな説明をしたとしても、息子から「だからと言って僕を欺いていい理由にはなりませんよね?」って言われたら完全に論破されるわ。
もう俺の能力では対応しきれないから、文科省あたりで事後処理の方針を打ち立ててくれよ。
もしくは、フィンランドとかサンタビジネスでガッポリ儲けてるんだろうから、責任とって後始末にあたれよ。
もうさ、この際、日本はサンタを廃止して天皇からのプレゼントってことにすればいいじゃん。
クリスマスプレゼントって言うのも止めて恩賜(おんし)って呼べばいいって。
辻褄を合わせるために、大日本帝国憲法の4条を復活させて「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ……」の「統治権」を、国民の財産までをも掌握する権利と拡大解釈すればいい。
これだったら親から子供に直接プレゼントを渡しても嘘にはならない。これぞ現代版の国体明徴運動や。
なんか最後は、サンタという赤の思想に対する極右思想家の妄言みたいになってしまったが、とにかく俺は子供を騙してきた落とし前のつけ方について真剣に悩んでいるわけよ。