はてなキーワード: 年子とは
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20150728/k10010169971000.html
「退園が問題なのではなく復園出来ないのが問題なんだキリッ」ってのが多いけどさ。
実際は殆どが復園出来ると思うよふつーに。
優先権つけるというし、年子で産む人は少なくて大体の人は上が2歳だろうから
育休1年取った後は大体3歳になってるだろうけど、3歳になると幼稚園への転園者が出て空きが出るからね。
年子とか上がまだ2歳になったばかりとかで育休消化後もまだ2歳って子は僅かだろうし、
その僅かくらいの人数なら優先権あれば何とかなるだろ。
ぼちぼち梅雨もあけて
夏祭りの季節だ。
なんのかんのいいつつ盆踊りは
毎年子供といっしょに見に行く。
そこでいつも思うのだが…
ちゃんと曲に合っているか、叩く人は本番前までに確認したことがあるのだろうか?
派手なアクションで叩いて、それで本来叩くタイミングを外しているだなんて、そのアクションに何の意味があるのだろうか?
練習不足でリズム感もへったくれもないのは論外なのだが、派手なアクションでリズムを外している太鼓を沢山見かける。
技術的に余裕があってのアクションならば、聞いていても見ていても楽しめるが、全くそうではなく、むしろアクションありきの叩き方を練習しているとしか思えないものばかりだ。
よっぽどのリズム感を持っている人ならばまだ何とかなるだろうが、町の盆踊りごときではそんな人材は滅多にいない。
見た目の派手さなどどうでも良いので、本来のリズムを叩いて欲しい。
蛇足だが、先日横須賀に行った際に楽器屋に立ち寄ったのだが、米兵と思われる若い男性がギターを試奏していた。
別段上手いギターではなかったが、要所要所では良いリズム感で弾いていた。聞いていて悪い気はしない。
いや「これから豊かじゃなくなる国なんだからしょうがない」とあるから、
豊かな国であってもそんなんあるのか?と突っ込んだだけで。
でも入園できる保証がない!とか騒いでるんだけど、現実的に考えると
待機児童多い自治体は普通は年度途中では入園できず、生まれた下の子も年度初めの4月まで入園できないので
最低でも4月まで育休取るのが普通(取れない会社なら上の子産んだ時点で辞めてるだろう。でなきゃ認可外にするか)。
そして年子で産む人は少ないから上の子は2歳という人が多いだろうし、その子は育休終了時に3歳になってる場合が多いだろう。
んで3歳以上は待機児童は激減する(3歳になると幼稚園に入れるので、保育園から幼稚園に転園する子や待機児童でも諦めて幼稚園に行く子が多いため)から
愛する妻との間に出来た子供。
その小ささとは相反する大きい産声から、命の力強さと父になった喜びを実感した。
「守るべき者が増えた。妻子の為にもしっかり働いて幸せに暮らせるよう頑張らねば。」
そう心に決め、仕事の忙しい時期ではあったが毎日帰りに病院に通い、帰宅後にまた仕事を続けるという日々を何とかこなして乗り切った。
子供が出来た。嬉しい。早く3人で暮らしたい。その想いが働く原動力だった。
ちょっと長めな入院と実家療養を経て妻子が帰ってきた。初めての3人暮らし。
「仕事も家庭も両立するぞ!!」張り切っていた。ただ、張り切り過ぎていたのかもしれない。
夜泣きが続く、泣き止まない。
育児のことは任せろとは言ったものの明日も仕事がある。少しは寝ないと。
産後に高熱が出た。どの病院で検査をしても診断結果は原因不明ばかり。通院と入院が続く。
会社を休んで何度か病院に行ったが、仕事の納期は変わらない。休んだ分は夜や土日に働いた。
突然の退職者のフォローもあり、普通に業務をこなす分にももうキャパシティを超えていた。
当時自分よりも忙しい人が居たことや、業務を任された後でやっぱり無理ですとなると今後に影響が出るのではとの恐れがあり、これ以上強くは言えなかった。
家族が増えたため、月々の出費は増える。
産後は会社を抜けたり休んだりすることが多かったので仕事はこれ以上休めない。
妻子は近くに住んでいる義両親が預かってくれている。
周りに相談したら、大変な時期だろうとは思うけど将来のことも見据えて仕事に勤しむべき。
そんな時、再度妻が体調を崩した為休んで欲しいとの話があったがもう休むことは出来なかった。
・家庭は大事だが、家庭の為にも仕事もこなさないといけないと主張する夫
・家庭の為に仕事を休んで欲しいと主張する妻
当然口論になったが、体調が良くなるまでは実家に居てもらうことにした。
本来であれば一番時間を掛けて家族で過ごしたい時期だが、感情を殺して今すべきことを頑張ろう。
「守るべき者の為に、今は頑張って働かねば。」そう思って働いた。
やっと仕事が落ち着いた時のことだ。
妻も少しずつではあるが体調が良くなってきたようだ。
そろそろ3人で暮らせるんじゃないか?
お互い余裕が無く、ストレスが溜まっていた時期は衝突が多かったけど、今は余裕が出来た。今なら何とかやっていけるんじゃないか?
そんな時だ、妻から別居の話が伝えられた。
理由は、
「一番守って欲しい時に守ってもらえなかったから。」
ショックだった。
守る為、来月以降の費用を稼ぐ為に働いていたつもりだった。
しかし、不確定な未来より、今、この場で困っている妻を助けなかったことは、妻にとっては耐え難いことだったのだと思う。
修復が難しいことを悟ったことから早々に離婚することとなった。
私の考えていた「守るべきものの為に〜」との考えは、すべて自己正当化や自己都合による理由付けであって、家族にとっては虚像以外の何物でもなかったのだ。
結婚生活に不満がなかったわけではない。
確かに妻とは衝突が多かった。
しかし、不満があっても、それでも、家族のことは一番大切だった。
しかし、その家族の為には家を空けて仕事をしなければならない。
休めるものだったら休んでるが、それが叶う状況ではなかった。
どうすればよかったんだろうか?
無理に休んでクビになったりしたら、家族が露頭に迷う恐れがあった。
無理に働いた結果はこの様だ。
ただ、この結末を知っていれば当時は会社を辞めてでも家族と向き合うべきだったと思う。
先週離婚が成立した。
守りたかった者は、もう居ない。
1歳児をコントロール出来るわけがない。出来るとしたら、単に虐待しているだけだ。
上が下の面倒見てくれるなら、元ブログ言う所の「自分の意思とは無関係に自分のやろうとしていたこと・したかった行動を子どもに遮られる」事は無いからね。
「二人目以降の方が楽」と言われる所以(もっとも二人目でも年子とかで上が頼りにならない年齢なら一人目より大変だが、5歳ならかなり使えるからね)
個別にも変な記述が多いな。どうせ増田なんて独身非モテばかりだと思って適当書いてるんだろうけど。
そんなことわざわざしなくても、5歳にもなったら勝手に一人でトイレ行って一人で用足すだろ。
すぐ椅子を立って食べるようであれば、座卓ではなくダイニングテーブルにする。
5歳にもなって椅子に座って食う躾が出来てなかったのかよ。3歳児だってそろそろ座れるようになってるべきだが。
そして1歳児は座卓だろうがダイニングテーブルだろうがどうせベビーチェアだし
5歳になって昼寝するの?
つか5歳児と1歳児を一緒に外で遊ばせるって体力的にも身体能力的にも無理だし、1歳児は目を離せないから
どうせ5歳児と3歳児は放置で勝手に遊ばせて、1歳児しか相手してないんだろ。
そもそも元ブログは子がまだ2ヶ月だから、一番下でも1歳(それも後半っぽい)の増田とは話が全く違うわけで。
離乳食開始時期を知らないくらいだから、2ヶ月児の生態なんてのも知らないんだろうな。3人もいるのに。
そりゃ奥さんブチ切れて実家帰るわ。
知るかよ、んなもん。と言われそうな話。
・
その進路ってけっこう幸せだったなー、結果的にもすごくありがたかったなー、と思うので
同じ進路に子供も進んでほしいと思った。
・
私の時9倍だった倍率が、今年は6倍程度だったので、本当に縁がなかったんだろうな、と思った。
・
子供が、その可能性をもっとも広げられる(行きたいと思う方向をつぶさずにいられる)進路はどこだろうか。
当初某私立もいいよねー、と思ってたけど、そこの学長のインタビューを読むと
(私の考え方とは)ちょっと違うな、と思うし、
でももしかしたらうちの子にはこういうのがあってるのかも、とも思う。
・
小さいうちは親の考え方に合うかどうかで選んでしまうけど、
けれども小さいうちにエスカレーター系に放り込んじゃえば親子ともにけっこう楽だよねとも知っているので
なんだかぐだぐだと悩んでいるところ。
ぼくは小さいころお金が好きだった。母子家庭で家が貧乏だったからだと思う。電気やガスを止めたり、おやつをうちだけ少なくしたり、母に徹夜で内職をさせる。不憫だ、子どもが不憫だと時おり、母を涙させる。そんなお金の力に引き寄せられたのかもしれない。
小学校二年生までのぼくの趣味は、おこづかいや、数少ない親戚から年に一度もらえるお年玉、たとえば数千円。それを両替機で崩すことだった。全部10円に。お金が増えるのがすきだった。受け皿に硬化が落ちてくる、あのジャラジャラッ、という音もすきだった。全部10円玉になると、店のおばちゃんに数十枚の銅色の硬化を渡した。きびすを返し両替機に銀色の硬化をまた突っ込んだ。繰り返し。迷惑なはなしである。
小学校三年生に上がると、その行為がまったく無意味だと悟った。今度は本当の意味でお金を増える方法をかんがえはじめた。勉強にも友達にもそれほど興味はなかった。
最初のぼくのビジネスは、自販機の小銭と落ちている空き瓶をあつめることだった。今はどうかしらないがその頃、一本あたり10円で特定のビンを買い取ってくれる駄菓子屋があった。たとえば、コカコーラ。スプライト。
二週間後には町内の自販機地図をつくり、近所の子どもたち数名を組織化してビジネスを拡大した。上がりは折半だ。軌道に乗った矢先、浮浪者のボスに一喝されてそのビジネスはご破産となった。
次は自販機ビジネスの資本をもって、今でいう「せどり」に挑戦した。カメレオンクラブ、キャンプ、わんぱくこぞう、遊コン。情報化前夜の昭和末期。ゲームカセットの買取価格と販売価格が逆転している商品をしらみつぶしに探しては、他の店に売りとばした。これも仲のよい同級生を組織化した。仕入れの費用がない場合はぼくが肩代わりした。が、ただ、店舗が密集しているわけではなかったので、仕入れの問題であまりうまく行かなかった。そのうち同種のカセットの買取に制限つきはじめた。息の短い商売だった。
中学生になってやったのがパソコン通信のログ取得代行する、というサービスだった。今思うととこれは犯罪だったかもしれない。Nifty-serveやPC-BANの規約はもう見れないので許してほしい。日夜マニアックな議論が繰り広げられる大手パソコン通信サイトのログをダウンロードしては草の根BBSで知り合ったおにーさん達に高値で売りつけた。ただのテキストが垂涎の情報となる時代があったのだ。
小さな商売としては、ビックリマンシールの仲買。発売日前に週刊少年ジャンプが並ぶ店を見つけて手に入れ時間貸し。CDのダビングを手伝ったりした。もちろん牛乳配達や新聞配達もやった。
最後にやったのはパチンコだった。本当はアルバイトをしたかった。が、中学生を雇ってくれる福祉的なビジネスマンを当時のぼくにみつけることはできなかった。ぼくの世代には一時期これで食べていた人が多いと思う。といってもぼくが中学生の頃なので、羽根物・権利物・フィーバー機など釘の甘い台をみつけては打ち止めにする。という同世代のパチスロプロより1つ前の世代だった。あからさまな中坊がパチンコ屋に来ても見て見ぬふりをしてくれる、牧歌的な時代だった。LUNA SEAが有線放送でよく流れていた。軍艦マーチももちろん流れていた。
そうしてぼくは晴れて16歳になり、まっとうに労働を金銭と交換し、またそれの再生産を繰りかえす立場となった。
ぼくはなるべくして中卒になった。1つも願書を出していない。
義務教育、学校に行く理由がまったくわからなかった。お金を稼ぐ事以外世界に意味がないと思っていた。だれも勉強をする理由を教えてくれなかった。貧乏な家の親、多くの市井の公立小学校の先生にはそれを子どもに説明する能力が、ない。ぼくも30をすぎてようやく勉強をする理由を先人の言葉を使って説明できるようになったくらいだから、無理もない。
高校へ通うには学費が多くかかると知った。これも進学しなかった理由の一つだ。さすがに15歳の僕にもわかる。母親の稼ぎだけで四人の年子が高校に行くのは不可能なことを。ぼくが行けても下の弟二人はきっと中卒だろう。
中学三年の担任は、進路相談でぼくが進学しないというと、とりあえずその場をなあなあで済ませた。その後、考えをあらためさせるべくぼく親友、山根を狩り出した。ぼくの説得を試みたのだ。まったく進学しない中卒は珍しかったらしい。無論、とりつくシマもなく断った。二人の目には、ぼくの事が、世界中を敵だと考え怯える、野生児のように見えたと思う。そんな目をぼくはしていた。
その後、労働でお金を稼ぐことより、お金を作る仕組みのほうに興味を捨てられなくて、自分で商売を始めるんだけど、それはまた別の話。
25歳、女。
会社の健康診断で子宮頸がん検査でひっかかって、あれよあれよという間に病人になってしまいそうだ。
検査結果を土曜に聞きに行く。不安だから寝てしまいたいけど眠れなくてこれを書いている。
ここ一ヶ月、ずっともうすぐ死ぬかもってことを考えていた。
それなら痛み止めだけもらって大人しく死のうだとか、
そういうことを誰にも言わずずっと考えていた。保険はあるし正社員だけど、
バイトみたいな誰でもできるような仕事しかしてないし、仕事も新卒3年目にしては動けるって程度。
そしたら「あれ、わたし、生きていたくない?」って気がついた。
生きてることよりも死ぬことよりも、お金がかかることが怖い。稼げなくなることが怖い。
実家はお金あるけど、あまり個人として尊重されないから関わりたくない。
仕事も趣味も楽しい。でも何か、自分を生に縛り付けておくものが欲しい。
百万二百万かかっても生きていたいと思えるような、そういう何かが欲しい。
私は死にたくないと思えるのか。お金かかるなら死んでもいいや、は、あまりにも惨めだ。
何か、この世に、未練が、欲しい。
続き もしかしたらガンかもしれない2
http://anond.hatelabo.jp/touch/20140713223836
http://anond.hatelabo.jp/20140714200210
仕事サボってはてなに来たら自分のエントリがなんかトップに来てたのと、その後はてなのパスワード忘れたから報告ができなかった。
三ヵ月後の検査の結果、なんともなかったときは検査した病院から田町の駅までスキップして帰った。
ごめんうそついた。途中で力尽きた。
なんともなかったよ。
やった!!!
やさしい増田と、冷静かつやさしいブコメのおかげで、すごく怖かったけど検査にいけたよ。
誰にも言えなかったんだ。友達にも同僚にも。がんばれたよ。本当に助かった。
あのままだったら怖くて検査に行かず、一人でメソメソしてた。
最初にブコメとか、くわしくて優しい増田読んだときは一人でサイゼでぼろぼろ涙流してた。
どこのだれとも知らない人たちが声をかけてくれて、本当にうれしかった。ありがとう。ありがとう。今も思い出し嬉し泣きしてる。
http://anond.hatelabo.jp/20140714033402
あなたに助けられました。あなたのおかげでがんばれた部分が大きいです。
声をかけてくれたネットのむこうの知らない人たちの幸せと、長寿と繁栄を。
それが贅沢なら、せめて明日500円玉を拾うぐらいのラッキーを。
こう言っても何もお返しできないので、
せめて職場の女子に「去年子宮頸がん検診うけて引っかかって死ぬかと思ったけど、後になんともなかったよ」って広めてきた。
私もそうだったけど「引っかかる=死もしくは赤ちゃん産めない」だと思ってるぽかったから
すこしは感謝を前に送れてるかな。
はてななんてよく見てたけど初めて使いました。
Twitterでこれが凄く話題になってたけど、ネタ的なツイート以外は叩かれ過ぎててちょっとムカついた。
「骨格標本」「骨と皮だけ」「あり得ない」「そんなやついるわけない」などなど。
ネタ的なツイートだとオオサンショウウオと同じとかね、それはいいよ
みんなそんな奴いないと思ってるから好き勝手書いてるんだろうけど、ここにいます。
最近バストはかってないからよく知らないけどDカップのブラがちょうどいいです。最近37kgになりました。
まあ確かに不健康だし起立性低血圧で立ち上がるとふらふらして目も当てられない状況。数秒後には歩けるようになるけど。
もっと体重を増やしたいし身長も160cmは欲しい。これが私の理想。
でも去年子供を産んでちゃんと子育てしてます。こんな時間に書いてるのは夜泣きで起こされてもう目が覚めてしまった。外明るいし
意外と二の腕や太もも、ふくらはぎに肉がついてるし産後だからお腹もちょっとぷにぷにだし。
そこまでガリガリじゃないよってことが言いたいだけなんです・・・。だからそんなに叩かないでください。あと蹴ったぐらいじゃ骨は折れません。
夜店といっても、お祭りの屋台、稼いだっていっても1祭り1000円くらいな小学生時代の話。
小4のころの俺の家は給食費がなんとか払える程度に貧しくて、とてもじゃないが近所で行われるお祭り用に金なんてくれる余裕なんてなかった。
ということで、前年、年子の兄と三歳下の妹がお祭りに行ったときなんか、妹が金魚すくいをずっと眺めているものだから哀れに思った兄がなけなしのお年玉の残り分で
金魚すくいをさせてやって、案の定取れなくて、でも金魚はもらえて、そして案の定、家に持って帰って返してきなさいといわれて兄妹が号泣している様を家で見た時には、
子供心にさすがにこれは悲惨だと思ったわけだ。俺はこの環境は自分の手で変えなければいけないと決心した。兄たるもの金魚すくい位は安心していくらでもやらせてやらねばならない。
思いついたのは、みんなたこ焼きもヤキソバもお好み焼きも食べたいという選好をもっていてそれをかなえるサービスがあればそこにお金が発生するんじゃないかというものだった。
祭りに金を持っていくものだと知らなかった頃、友達2人と祭りに行ったとき結局、食べ物を分けてもらうことになり、情けなかったけどこれ一番得しているの俺じゃね?と思った体験が決め手だった。
これだ、ヤキソバを買うやつとたこ焼きを買うやつを媒介すればいい。これに10円の手数料をつけたら、俺は金を手にすることが出来る。
まず、俺がはじめたのは、1か月前から祭りについての話題をクラスですることだった。パイを広げなければ、手数料ビジネスは成り立たない。
俺は祭りのチラシを教室のロッカー棚の上に置くなどの策も弄した。幸い、クラスでそこそこの発言権を有していた俺のおかげで、今度の祭りはすごいと雰囲気がクラスに満ち溢れ、
それは隣りへ、さらには学年をまたがって伝播すらしていった。さて、ここからが本番だ。
おれはまず友達5人を集めた。そして、例えば、お好み焼き買って、その半分と相応分のたこ焼きを交換したい吉田太郎君に、
吉田太郎お好み焼きたこ焼きと中央に書いた紙の切った左端を渡した(いわゆる勘合札)。
もちろん、友達には金を徴収しなかったが、この右端を10円で買う人を見つけるのが俺の次の仕事となった。
さて、必死さのおかげで5人にこれを売ると、なんだかあいつ商売しているぞという雰囲気が学年で認知されるようになった(同学年に売ってたからだが)。
僕、私もこれ交換したいんだけどというニーズが来るようになると機は熟したと言っていい。つまり、左端を金をもらって獲得するできる時期が来たということだ。
そして、必死の営業のおかげでどのような右端ニーズがあるかも分かっている。仕入れからも金をもらい、それを売る、黄金のサイクルが形成された。
こうした経済活動は、左端側を得た(条件を提示した人間)の要求を叶えるため、右端探し(条件を受け入れる人)を学年を超えたものとする。
兄の活躍もあってか、販路は小5にも拡大、一部の小3、小6マーケットを獲得した結果、俺と兄は100人のマッチングに成功し、1360円を稼ぐことに成功した。
祭りの日は愉快なものだった。わずかに余った左端のニーズに応えることもあって、俺はヤキソバを買い、半分をたこ焼きと交換した。
そして、10円を介することなく友達と食べ物を分け合い、そして、兄と一緒にお祭りに来ていた妹に金魚すくいを2回(兄から俺から1回ずつという形で)させてあげた。
やっぱ取れなかったし、そして今回は金魚もらうのを妹が断ってたので家で金魚が飼われることはなかったが、それでも楽しさは減ずることがなかった。
必死になってお金を手にしてよかった。情けなさもなしにおいしい食事と祭りを楽しめていることが最高に嬉しかった。
結局、最高の一日のあと、やはり俺の行動は問題となり、3,4か月して給食費が払えなくなったのが決め手となり、
それでも夫と2人の時は言葉もわかる同士だったから、どうにか時間を作れた。
子供の夜泣きに付き合うたびに、家事も育児もろくにせずに勉強する夫がうっとおしそうに私をみた。
羨ましかった。
これまでは添い寝をしないと、気づいた時にグズグズと文句をいう子供だったけど、学習の時間を設けてからは、子供が寝たあとに私が勉強することを良しとしてくれて、子供の就寝後に勉強できるようになった。
「ちょっとさみしいけど、おかあさんも、おべんきょうしたいよね。おべんきょうたのしいもんね。」という子供に、申し訳ない気持ちもあるけれど、勉強できることがただただ嬉しい。
夫の新婚当初の浮気が原因で子無し夫婦を選択したが(最初はピル飲んでたが今は二人共パイプカットと卵管縛った)母親にも義理母にも責められることなく共働き生活をしている。
最初の浮気以来あやしいこともなく(バレないようにうまくやってるのかもしれないが、もう気にしないことにした。)割と平穏で、他人には仲の良い夫婦としてやっている。
傍目には「子宝に恵まれなくてかわいそう」って思われてるんだろうけど。
大抵この手の生活を選ぶと親がうるさく言ってくるものだが、旦那の両親は「馬鹿息子が悪いので嫁は責めない」
私の両親は「心の狭い娘が悪いので夫は責めない」となっているからか世の中によくある小梅ババアにはなっていない。
それは直接言われたことはないけど、まぁ、雰囲気として察してる。
ただ田舎育ちの親戚もいたりするので、その人たちからは口汚いことを言われたりもする。
両親は不妊手術してるの知っているけど、親戚は知らないので。
じーちゃんの葬式の時にそんなめんどくさい親戚の一人(私の父親の弟)が私に絡んできた。
まぁ三年子無しは去れとかいうそういうたぐいのことなんだが、私はいつものことだなぁと聞き流していた。
が、絡み酒でめんどくさいなぁと思っていたら母がついにキレた。
反論してくれるのも嬉しかったけど、そのあとの言葉もありがたかった。
母は大学院にも行き、修士号までとっていた人だったが、色々あって研究に断念したところで父親と出会いそのまま結婚してしまった人だった。
本人も「今となっては逃げだった」と認めていた。
同級生は働いてそれなりに社会的地位がある人もいるらしく、やはり後悔したこともあったそうだ。
それでも家庭でしっかりお母さんをやっていた母親を尊敬しているし、そんな母親から私のような勉強しか能がないクズが生まれてしまったことが申し訳なかったころもある。
母親はこう続けていた。
「娘はわけあって子供を産まないけど、その分私が諦めた社会人としての道をしっかり進んでくれている。
子供を持つことは素晴らしいことだけど、それど同時に失うものもたくさんある。場合によっては子供から得られることより失うもののほうが大きい。
私はそれを体感した時期もあったし、今でも後悔することはある。
だから娘は私の分まで社会で働いて頑張ってくれてると思ってる。
娘に私は同じような喪失感を味合わせたくない。だから娘が望まないなら生んてほしくなんてないし、
それよりあなたの娘(私にとってはイトコ)は彼氏ができても長続きできず婚期逃しそうじゃない、
娘と違って学もなくて専業主婦にでもならないと生きていけそうにないのにどうするの?」
そしたら案の定おじは、
「口の立つ女だな!余計なお世話だ!」
返していた。
母親はそれ見たことか、という表情で
「あなたが言ったことはそのまま同じことよ。不快さと自分の愚かさがわかった?」
と言い放ち、おじを黙らせていた。
おそばせながら、感想。
評判通り、気持ち悪いというかなんというか。
シングルマザーは大変ということを描きたかったわけではなさそうだ。
田舎暮らしの苦労、田舎の人の優しさについてというのもやっぱり違う。
田舎暮らしイコール自給自足という、あくまでイメージの中の田舎暮らしであって、リアリティが全くない。
で押し切る強引さ。
田舎育ちの僕からすると、あの田舎暮らしの描き方がちょっとイラッとさせられるみたいに、子育てをしているママさんたちからすると、やはりあの子育て描写はイラッとさせられるんだろう。
僕は当初、リアルな世界にファンタジーの生き物が同居するトトロの世界観を期待していた。
蓋を開けてみると、現実のようで現実でない、ファンタジーの異世界の話だった。
シングルマザーも田舎暮らしも、狼男も、おおかみこどもも、なにかのメタファーであって、ただの舞台装置。
ほかに主題はあるんだろうなと思いながら観た中盤。
ようやく、一番の主題が逆の性格の兄弟が別々の人生を歩み出す、ということだということに気付く。
「でもなぁ、それを描くためにおおかみこどもっていう設定いるのか?
ヤンキーの兄弟とかにして、片方が普通の生き方になって、片方はヤンキー街道まっしぐらとかでいいんじゃないのか?
ヤンキーじゃなくたって、オタクの兄弟とか、相撲とか歌舞伎の家に産まれた兄弟とか、そういうのにしたっていいだろうし」
とか考えてラストを予想しながら観た。
僕が考えたラストシーンは、二人ともそれなりにいろいろあって、挫折して戻って、家族の絆を確認しあってハッピーエンド、という感じ。
ところが、読みははずれて、
「姉は人間として生きていくことにしました。弟は狼として生きていくことにしました。二人とも家を出たので、母は一人で暮らしています。」
ということに。
「…、…あ、そう、だから?」
なにを感じろと。
遅かれ早かれ、兄弟が別々の生き方をしていくのは、当たり前のことでありまして。
わからない。
結局、なにを伝えるための作品だったのか。
・ちゃんと避妊をしよう!(たとえ獣姦でも)学生が子供をつくると大変。
・キジ美味しそう。
この記事を読んで思い出した。
入会なんて聞いてない ―― 父親たちの語るPTA(前編)
http://synodos.jp/society/5096
子供が通っている学校のPTA保護者の部は、執行部といくつかの委員会から成り立っている。
各委員会には委員長と副委員長が各一名、その他は平委員という感じ。
通常の委員会に加えて年数回ある総会にも参加しなければならない。
当然これらの集まりは基本平日であり、まじめに全部参加していたら有給なんて吹っ飛ぶ。というかおそらく足りない。
保護者は通常、児童一人につき最低二回(場合に寄っては三回)、何かしらの役員をやらなくてはいけない。
免除はない。保護者本人が入院中か妊娠中の場合に限り、その年の役員は免除される。
八年の間に役員を五回か六回は引き受けなければならない計算になる。
しかし夫婦ともにここ数年で持病持ちとなってしまい、互いに休職や退職を何度か経験しているような状態。
正直無理ゲー。
だけどもやらないわけにはいかない。
一回目の役員はそれなりにこなして、二回目の役員を引き受けることになった。
委員会最初の集まりで委員長と副を決めるのだが、私はこの日仕事が休めなかったため欠席。
その夜、知らない番号から電話がかかってきて「あなたが委員長に決定しましたのでよろしくお願いします」と言われた。相手は執行部の役員だった。
ええええええええええ。
「家庭の事情で平日の役員会には参加できないので、申し訳ないのですが委員長は・・・」と断ると、電話の向こうからキレ気味の声が聞こえる。
「仕事しているのもご家庭の事情があるのも、皆さん子育てしていて大変なのは同じなので!!」
ごもっとも。
「・・・すみません、考えさせてください」と言いながら会話を終える。
大体なんで面識ない人が連絡網にも載せていない私の携帯番号知ってるんだよ、誰だよ勝手に番号教えたの。
翌日仕事を終えると、昨日とはまた別の、知らない番号で着信履歴が埋まっていた。
着信攻撃に恐怖しながら電話に出ると、副委員長になったという人からの挨拶だった。
後日、執行部役員さんに「やはり引き受けるのは難しいので辞退させてください」と連絡。
そしたら役員さん、こう仰る。
「それならば委員全員を集めて、ご自身の事情をすべてお話して、全員の賛同を得てください。それならば引き受けなくても結構です。」
家庭の事情を?
全員に?
そうなの?そこまでしなくちゃいけないの?
おまけにこっちは今休みも取れなくて、平日帰宅できるのが21時過ぎで、土日もどうなるか分からない状態で、招集なんてできないですよ。ああああああ。
会話の中で「役員っていうのは保護者としての義務なんですよ」「責任感がない」「保護者失格」って言われたときはさすがに後で泣いた。
みんな大変なのは分かってる。
独身時代にはボランティア活動や小学校の手伝いをしていたこともあるので、そういう活動自体が嫌というわけではない。
そこまで言わなくちゃいけないの?
役員できなくなった人は親を辞めなくちゃいけないの?
PTAを退会したら楽になるのかな、と思った。
でも退会するのにもエネルギーが必要なのかと思うとなかなか踏み出せない。
世の中の保護者は大変な状況下でもPTAの仕事をこなしてるんだよね。
役員できない自分が悪くて、ただ逃げてるだけなんじゃないかと考えてしまう。
はあ。
生年で言えば2004年生まれの比率がやけに多い気がする。
・自分はドラマは見ないが、バラエティー番組(ありえへん世界とかホンマデッカTV)
とかにたまに子役が出て、しっかりした受け答えしている。
妻に子役の学年確認したら、大体が「1学年下」との回答。
「1学年下でも、ここまでしっかりした受け答えするのだから、お前も見習え」と
上の子に小言いうことになる。だから2004年生まれの子役の印象は強くなる。
「自分が個人的に2004年生まれ子役を気にするんだろう、2004年生まれ子役の絶対数は多くないんだろう」
と思っていたが、どうやら2004年生まれ子役は絶対数も多そうだ。
・業界には「花の2004年組」という用語があるらしい。鈴木福君とか芦田愛菜ちゃんとかですな。
他にも何人か有名子役がいるらしい。
・だが、2004年生まれが、前後の年代より出生数が多い、と言うこともないだろうし、
2004年生まれが先天的に前後の学年より演技が上手、と言うこともないだろう。
どういうメカニズムで「2004年組」が形成されたのか?
・メカニズムその一。この子たちが3歳になったころ(2007頃)に、ミニバブルで広告量が増え、子役需要が増えた。
・メカニズムその二。学校ドラマとか撮影する際、例えば芦田真菜ちゃん主役のドラマを制作する際に、
「どうせなら、芦田愛菜ちゃんと同じ学年の子役を選ぼう」となる。
2003年生まれ2005年生まれでもドラマは撮影できるが、「2004年生まれを落選させてまで選ぶ」理由はない
・逆に言えば、2003年生まれ2005年生まれの子役は、
「芦田愛菜ちゃんや鈴木福君と同学年でないため、学校ドラマのクラスメイトに選ばれにくい」というハンディがある
・別に視聴者から見たら、「2003年生まれでも2005年生まれでもいいじゃん」となるが、
このころは1学年違うだけで先輩後輩になるから、学年違う子供が混じると、現場の空気が堅苦しくなる。
・メカニズムその三。愛菜ちゃんや福君と共演する機会が多い「2004年のクラスメイト子供」は、
共演回数が多い分、演技も上達していく。その結果、更に出演も増える好サイクル。
つまり「後天的に、2004年生まれ子役は演技が上手くなっていく」
・更に言えば、ディレクター側が、「2004年組の競演」と話題作りの為に、意図的に2004年子役を使ってる面もあるだろう
友人が子どもを望まないなら長期戦で落とし込めばいいし、彼氏との子どもが欲しいなら別れればいいし、父親を問わず子どもが欲しいならやっぱり別れればいい。
自分の子どもが欲しいってなったら女は身体的出産条件さえクリアできればなんとでもなる。
私の友人は30歳すぎて年下の彼氏に振られたあと出会い系で知り合ったバツ一ピザと結婚して今は三児の母だ。
結婚を渋る彼氏(出会い系は遊ぶために登録していた)を1年掛けて説得し、結婚したらこれまでの「太ってるアナタもいいわあ」から一転して徹底した食事管理を始め、毎日基礎体温をつけさせ、1年後には第一子を胸に抱いていた。そこから年子でぽぽぽぽーんよ。
旦那さんは精神的にちょっと弱い人らしく会社も休みがちで収入が少ないけど、友人が独身時代に貯めたお金でなんとかなってるって。
タイトルのまんま。
17歳の頃、初めて女の子とセックスして、そろそろ十数年が経つ。
早い。光陰矢のごとし。
で、なんだろう。
みんな、どの瞬間で童貞を無くすんだろう。
女を脱がせた瞬間か、挿入した瞬間か、果てた瞬間か。
別になんの感慨があるわけでもなく、レベルアップのBGが鳴り響くわけでもない。
かくして僕は童貞からのクラスチェンジのタイミングを測りかね、気持ち的に童貞を続けていた。
それから、今の年まで素人だけでも二十人くらいの女性と関係を持った、筈だ。
一種の病気なのかも知れない。童貞という概念につきまとわれて、振り払いきれずに年を重ねた。
それが、昨日。
去年の今頃は童貞は身近だった気がする。
でも、いまは無い。
思い当たる節は、去年子供が生まれた事か。