はてなキーワード: 天狗とは
俺みたいな中3でグロ漫画描いてる腐れ女他にいますかっていねーか、ははを地で行くアレだった時代と数々の痛々しい発言を思い出して苦しい。中学生にしては画力もありネットでおだてられて完全に天狗だった。なんかわからんけど異様に暴力性を持て余している時期だった。一歩間違えれば自分も他害をやらかしていたんじゃないか?あの頃の自分が全く信用できない。私には漫画があって幸運だった。暴力性をまあまあ安全に叩きつける方法を知っててよかった。あと性的な方面に行かなかったのも幸運だったかもしれない。ネットのたぶん大人の人達にからかわれてたしデジタルタトゥー的なことにならなくてよかった。振り返ってみるといろいろと紙一重な運に恵まれてた。あーあでもまた当分身内から犯罪者予備軍扱いされるんだろうな。気が重いぜ。
横槍だけど、そういう自問自答をしてきたのよ、男オタクがというより昔のオタクは。
「生モノは対象の目には絶対触れないところでやる」という不文律もあった。
でもあなたは、そういう自問自答をしてこないまま、蝶よ花よと天狗のままに成人したのだろうし、
そういった女性のオタクが最近増えてきたから今回のVは心が折れたんだろうし。
「自分の快・不快が最も優先されて当然だし、言いたいことを言う欲 > 推し対象の幸せ」
みたいになっている人が最近増えているようで、平成のオタクとしてはちょっとどうなのかなって思いました。
TikTokやっているってあたり、それなりにお若いんでしょう?
この件で攻撃的になるのではなく、少し他者を気遣う心を持って欲しいところ。
そして、なんでそのVの名前をいちいち出すの? 鍵垢とかで言えば?
元増田や延々とやり取りしているあなたみたいに、心が折れたVが、「トラウマが~」を見て余計に傷つくかもしれないという可能性を考えずに言いたいことだけ好き放題書いているのを見てそう思いました。
普通に生きることはできないけど、普通じゃなく生きることもできない。
小学校のころは、いつもクラスで一番賢かった。本当はそうではなかったかもしれないけど、少なくともセルフイメージはそうだった。誰よりも本を読み、おばあちゃんからはいつも「〇〇ちゃんが賢いのは本をよく読むからだね」と言われた。
発言するのが好きだった。その割に学級委員などをしたことがなかったのは、人望が無かったからだ。正義感も強く、ただ時々パニックになって泣き出したり起こりだすことがあった。大体ちびまる子ちゃんの前田さんを想像してもらえればいい。正義感が迷惑な方向に強い子。自分の思い通りにならない世界が気に入らない子供。
神童と呼ばれた(主におばあちゃんから)私は母に進められて中学受験をした。勉強は少しもしなかったけど、模試でA判定以外を取ることはなかった。難なく合格し、通い始めた矢先、課題が終わらずに不登校になった。
休みがちになった秋、親からスマホを買ってもらった。それまでは3DSでインターネットをしていた。いつもエロい知恵袋の質問や、まとめサイトを見ていた。スマホを買ってもらってからは、ツイッターと2ちゃんにのめり込んだ。ツイッターは今も続けているが、今に至るまで特定の友人どころかコミュニティに所属するということが、インターネット上ですらできずにいる。
同じ秋、所属していた部活のライングループに、エロ画像を誤爆した。ますます学校に行きづらくなり、挨拶もせず部活を辞めた。
不登校でもエレベーター式に高校生になれてしまった。単位制のため出席しないと卒業ができない。私は頑張って学校に行った。高2までギリギリで単位を取ったが、高認の存在を知って通学をやめた。本当は理系に行きたかった。忙しいからと親から文系を勧められて、結局文学部に行った。この選択が合っていたのか間違っていたのか、今となってはわからない。
出席日数はギリギリでも、高校に入って勉強を始めた私は中学の頃は酷かった成績が、上位20%程度をキープするようになった。学校に行かないでこれなら何でみんな学校なんか行くんだろう、間抜けめwと、内心私は天狗だった。しかし逆だ。クラスメイトの顔を覚えず、交流しようという気もなく、家でテスト勉強だけしてていいなら誰だってその程度の成績は取れる。
私は良い気になっていたが同時に辛かった。どうして自分は普通みたいに楽しいJK生活を送れないのだろうと思った。中学生のオタクが皆そうであるように、オタクの友達なら私にも数人いたが、一人はいつの間にか学校を辞め、何人かはCP違いで喧嘩になり(というか私が一方的に攻撃し、当然縁を切られた)、何人かは私が約束をドタキャンするなどの不義理を重ねたため、話しかけて来なくなった。
どうして普通にできないんだろう、どうして私に楽しいことは何も無いんだろうと思った。担任の勧めでバイトを始めた。短期の品出し。お金をもらえるというのが嬉しかった。対等に評価される。私以外のバイトはみんなでラーメンを食べに行ったりしていたが、私は一度も行かなかった。それでも、自己啓発本を読むのが趣味だという大学生と話したり、専門学生のお姉さんに「メイクしないの?」と聞かれたり、他校の男の子の「卒業したら髪を赤に染めたいが、バイトは続けたいから毎日黒染めスプレーをする」という馬鹿げた計画を聞いたりするのは楽しかった。ほんの少しでも社会と関われている実感があって、確かにそうだった、と思う。
友達はできなかったが、生きていけるという自信はついた。ノー勉で高認を取得し、センターを受け、思ったよりも点が良かったので、国立大学を受け、受かった。思えば、この時が一番楽しかった。
話は飛んで私は大学生になる。大学は心地がよかった。一人でもそんなに浮かない。文学部の評価はほとんどがレポートだから、過去問がなくても単位が取れるし、中高を反省した私は、頑張ってなんとか講義を休まないようにした。
それでも6年間の癖は抜けず、授業を寝過ごし、サボり、単位は落としたし、レポートの締め切りを勘違いしたり、必要な事務手続きを怠ったりして苦労したが、なんとか見かけだけは論文に見えないこともないボロボロの卒論を出し、私は卒業した。
専攻の人数は少なく、みな友人同士だった。私だけがその誰とも仲良くなかった。挨拶をすれば仲良くなれるというネットの記事を鵜呑みして半年間毎週挨拶だけしていたオタクっぽい女の子たちも、学期が終わると他人同士になった。
卒業式には行かなかった。
私は公務員試験を受けたが、筆記は受かるのに、面接は全部ダメだった。
大学に行けばなんとかなると思ったが、ならなかった。どうやって生きていけばいいのかわからない。私は自分が頭がいいと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
世間の普通に当てはまることができないとずっと悩んでいたけど、大学に入ってから、世間の普通に当てはまらない人をたくさんみた。大学院でラカンの研究をしている人、アーティストとしても活動する非常勤講師、批評家、作家。
私はなんとなく自分が作家になると思っていた。昔から国語が得意だったし、私は世間の普通とちょっと違うから。
でも、大学に行って、どういう人がそうなるのかを知った。書く前から私は何かになることを諦めた。それに、これを読んだ人ならわかるだろうけど、私は決して文章が上手くない。現代文の偏差値は、果たして何を図っていたのか、私にはわからない。
でも編集者は忙しそうだから辞めた。コミュニケーション能力がいるらしいし。私にはもっと地味な仕事が向いてる。
どうすればいいんだろう。
そこそこ緩い運動部だからか人数が結構いた。各学年25人くらい。
そこそこ緩い運動部だからみんな練習もテキトーだった。顧問は強面だけどあんまり練習見に来ないし。
少年団あがりの子もいたけど運動神経が良かっただけの素人自分がレギュラーになれるくらいにはダラダラした部活だった。
野球やバスケやバレーといったチームスポーツなら話は別だろうが、卓球は個人競技だ。強いやつが偉い。というかそもそも部長が練習メニューの先頭に立つので実力がある人しか務まらない。
勉強ができないので打ち込むことが部活しかなかった自分は既に三年生に勝率9割越えだった。同学年や後輩には勝率10割だった。
当然私以外の誰が部長をやるんだくらいの気持ちでいた。周りにもそういわれて普通に天狗になっていた。人望は知らないが、普通にみんなとも仲良くやっていたつもりだった。
でも顧問が指名したのは私じゃなかった。なんかプライド的なものが勝手に崩された気分になった自分へ追い打ちをかけるように、顧問は「お前には佐藤のようになってほしいんだ」と言った。
佐藤というのはひと学年上のエースで、私の勝率を削ってくる唯一の人だった。
この人は圧倒的に一番強かったけどクラブチームに所属しているため部活に常に参加できるわけではなく、それで部長を辞退し副部長になった人だった。
佐藤先輩は自分にも他人にも厳しくて、部長がちょっとぽやぽやした人だったこともあって、後輩を怒る嫌な役回りは全部その人がやっている状態だった。
当然後輩には蛇蝎のごとく嫌われていて、私も口うるさいし全然勝てない佐藤先輩にめちゃくちゃムカついていたが、高校生になってから振り返るとめちゃくちゃ周りのことを見ている良い人だったなと思った。
もし時間が巻き戻せるならこの時の顧問に「私は佐藤先輩じゃないんですけど」と言ってやりたいが、当時の高かった鼻が折られた直後の元天狗自分では何も考えられずに「ハア…」という生返事しか返せなかった。
私は全然自分に厳しくないし、他人にも厳しくない。だれかを怒るほどのエネルギーを持っていないし、自分が練習したいだけだ。
今羅列していて思うがこの性格でよく自分が部長にふさわしいなどと思い上がれたのかも不思議である。まあ一つ上の部長がのんびりしていて一度たりとも怒ったことがない穏やかな人だったから、それを見ていたら自分でもどうにかなるとでも思ったのかもしれない。
部の引き締め役を私に期待していたんだとしたら無茶苦茶見る目がないというか生徒を見る気がなさすぎるし、実際私は特に情熱をもって後輩を指導するわけでもストイックに自分を追い詰めた練習をするでもなく普通に中学の部活生活を終えた。
まあ当の顧問は部長を指名するだけ指名してその翌年の春に異動していったんだけど。私が三年になって新しく来た顧問は卓球のルールさえしらない上に新卒教師だったんだけど。
卓球あるあるといえば、大会では一日に何十試合と同時にやるので、同じ部内の応援が非常にだるい。面倒くさいじゃなくてだるい。
大会で最後の方まで残るのは佐藤先輩ぐらいのもので、他は大体2,3回戦くらいで負けてるので、佐藤先輩の試合を応援するためだけに一日中会場に残らされるわけである。
中学生の残酷な集中力の無さといえば、早く帰りたいから先輩早く負けてくれないかなーとか大笑いしながら言う始末である。
当然厳格な性格の佐藤先輩がそれを見過ごすはずもなく、「まともに応援する気ないなら帰りなさい」と怒りだし、けどそれで「じゃあかえりまーす」と言えるほどの度胸は卓球部員にはないのでしぶしぶ適当にナイッサーとか言っておくのである。私はこれがだるくて自分も最後まで試合に残れば応援しなくていいんだ!と思って強くなったクチである。しょうもねえ理由。
自分は応援されると逆にやりにくいので自分の試合中に観覧席の後輩たちが遊んでようが特に気にしなかったけど、負けることを期待されるならそりゃ先帰ってくれよ、とは常々思っていた。一応部活も教育なのでそんなこと顧問が許すはずもないけど。
これもまた卓球あるあるなんだけど、試合で負けたら次の試合の審判をするまでがセット。だから部員たちは応援の仕事が終わっても、審判をする先輩及び私を待たなくちゃいけないわけである。こういう時に限ってフルセット。そもそもトーナメント戦なら後半になるにつれ実力が拮抗するから試合が長引くのは仕方ないんだけど。
県大会とか佐藤先輩がいたころはまだ良かったけど、先輩が引退してからは試合前のウォーミングアップする相手がいなくて困った。試合に出もしねえ部員を引っ張ってくるわけにもいかないし、そもそもウォーミングアップなのに変な癖つきまくり部員と打ち合ったら逆に疲れるし。新顧問はラケット握ったことすらないし。
仕方なく顔見知りの学校のウォーミングアップに混ぜてもらうわけ。これ奇数のとこがねらい目なのマメな。大所帯の学校にはもれなく嫌な顔されるし、できれば自分が空台とってから交渉した方が吉。「ここ使わせてあげるから練習混ぜて」って。大きい大会ならウォーミングアップ用の台も学校ごとに指定されてたりするんだけどね。学校ごとに指定されても相手いねーんだが?!これはもう自分で補えということですよ。
あーよく覚えてるなあ。競技としては好きだったんだろうな、卓球。けど二度とラケット握りたくねえな。
いつだよ、いい思い出って振り返れるようになる日は。
山に登りたいから、と言う理由で上を目指さず、自宅から通えるそこそこの大学に進学して登山三昧。ところが、ある日、偶然(?)山小屋に来ていた准教授に、大学院の山岳教育プログラムなるものを知らされる。
下山後、准教授に誘われて研究室を尋ねると、何故かその場にここなさんが。准教授とここなさんに、一年中山籠もっても誰も怒られないどころか、それを仕事にできると騙されて と聞かされて、学部卒業後、その教授が所属する山岳教育プログラムのある大学院に進学。
さらに気がつくと大キレットを滑落する勢いで転がり落ち、ふと気がつくと先進地であるヨーロッパの大学に留学。
その頃、日本で山岳メディアのライターを始めていたひなたに強制され 頼まれ、現地からコラムとVlogをアップしはじめたところ人気に。それで手に入れた金を丸ごと山狂い山岳文化に関する研究につぎ込み、若手研究者として頭角を現す。
しかし、本人の行動様式はあまり変わっていない。(ただの山馬鹿)。しかしなぜそんな楓が学術界でもやっていけてるのか?その正体は、いつも論文のSecond Author以下に載っているYuuka Sasahara (Holy Hope High school)の名前にヒントがある。
特にこだわりも無く、父親も無いかを強制する事も無かったので、大学は得意な科目があるところに進学すればいいかなーと思っていた。ただ、両親と離れるのもなんとなく嫌で、自宅から通える条件の大学を選んだところ、なにげにかなりのレベルが高い大学に合格。
大学生活も楽しくやっていたが、その頃から父親の仕事に興味を持つように。ライター業、文章と写真だけでは無く映像を撮影しなければならない事も増えた父親のアシスタントとしてついていく。
いつの間にか撮影する側から、撮影される側になっていて大学在学中にライターデビュー。卒業後は、父親が法人化した会社に所属して、山岳と自然、それを切り口に地域などもテーマにした専門ライターとして、日本中、そして世界を歩き回る。
ヨーロッパに留学した楓を尋ねて行くも、楓のあまりにも無頓着な生活に、機材一式をを置いて帰り、ゆうかにチクると言う暴挙を働く。それがきっかけで楓をタレント研究者として父親の会社に所属させ、自分自身と二大看板で活躍している。
高校は、あおい、ひなた、楓とおなじ高校の、奨学金制度を利用して進学する。授業料の免除は受けられたものの、私立高校は授業料以外もお金がかかる。また登山も続けたかったので、アルバイトを始めようとする。
しかし、母親はそれは助かるけれども、せっかく良い学校に入れたのだから、学業に専念して欲しいと言われて反対される。思い詰めたここなは、先生に相談すると、先生から、学校の運営法人が小学生向けにやっているサイエンススクールのアシスタントバイトを紹介される。
そこの講師できていた准教授と仲良くなり、大学の研究室に出入りするようになる。(そこで、楓さんの話をしたところ、准教授は楓さんを捕獲に動く)
3年生になるころには単著論文が論文誌のプレプリントに発表。プレプリントとは言え大学のレポジトリであり、それを学校が宣伝したために一躍時の人に。しかしそれは大学の奨学金を問題なく得るための動きで、それをテコに大学に全面的に奨学金を受けて大学に進学。高校時代に執筆した論文は、当たり前のように査読を通ってインパクトファクターの高い論文誌に掲載。さらに2年時でスキップ申請(修士への進学)して修士号を得て製薬会社の研究所に就職。その研究所では開設以来最年で少採用であった。
普段は、世界中から集められた様々な植物から、薬になりそうな成分を探し、研究しているが、自分で趣味を兼々山々をさんぽ。なんでもない場所から新しい研究成果を見つけてくるので、実は天狗かなにかではないかと噂がある。
みんなの癒やし。
いや、ちゃんと就活なりなんなりをロクにやらなかったせいなのもあるけども。
元々理系脳では全くなかった。小学校のテストで算数はよく再テストになってたし。
高校受験の際市内でも割合レベルの高い学校も合格できると塾の先生から言われた。
でも当時家庭の事情もあって確実に公立校に合格したかったからレベルを下げて中の下くらいの高校を受験し、無事入学した。
思えばこの頃から努力や挑戦から逃げる癖や他人の目を気にする癖が付いてしまっていたのかもしれない。
そしたら学年2位の成績を取ることができた。もちろん苦手だった理系科目もだ。
当時僕は自動車とか飛行機に興味を持っていた。まあエー○コンバットとかグラ○ツーリスモの影響もあるし、中学の時離れていたミ○四駆を再開したってのもあった。
ちょうどテストの成績も良く天狗になっていた僕は自動車の開発に携わる人間になると三者面談で豪語した。
ただ決めたからには色々リサーチしておくべきだったのだが当時の僕は大学行けばまあなんとかなんやろみたいな感じでのらりくらり過ごしていた。
高校2年、数学系の成績が悪くなる。とは言っても充分上位にはいたので特に問題視はされず、教師からは是非この成績活かして推薦で大学に進んではと意見をもらっていた。
ここでその道に進むとはどういうことなのか、というのをきちんと理解していなかったのがダメなところだった。
高校2年の冬辺りから音楽ゲームの影響で音楽(電子音楽)ハマりだす。
コレが後々いろんな出会いを生み出すことになるし結果的に今の状態を生み出すきっかけになる。
推薦入試で県内の中堅私大に合格した。もちろんオープンキャンパスにも足を運んだ上で決めた。ただ今思えばここで「県内で近いし大学生になれるならココでいーや」みたいな気持ちがあったのも事実かもしれない。
推薦が決まった後はまあそれなりに真面目に授業を受けつつ、友人が音楽製作始めていて僕も興味あるしやってみるかとiPhoneでいじくり始めた。
そしたらまあ思いの外楽しかった。ただ今思えばココでちゃんと音楽の勉強とか自分でしておけばよかったと後悔している。
前期はまあそれなりに突破した。後期基礎科目なのにも関わらずいまいちついて行けず二つ単位を落とし、物理の授業はほぼお情けで合格と言ったところだった。
この時点で専門科目よりも教養とか英語とかの授業の方が楽しいと感じていた。今思えばこの気持ちに正直になっていればと思う。
世間は大学生らしいことができないだのなんだので騒いでいたが、僕は電車に乗らんでいいし色々ラクできるしええやんみたいな気持ちになっていた。
というかこの時点でもう自動車開発とかの気持ちはなくなっていた。この頃に音楽製作によりハマりだして色々買い揃える。ただ基礎からの努力を怠っていて色々不便を感じることもある。(この基礎からの努力を怠る悪癖は後々牙を剥く)
オンライン授業のせいにするわけではないが、大して理解せずともまあ単位は取得できた。できてしまった。
しかし、メールとか掲示板とか見ないバカだった僕は就職ガイダンスにロクに参加しなかった。というか気づいてなかった。意識クソ低い系の学生だった僕はインターンとか意識高い系のすることやろとか思っていた。今考えるとアホ極まりない。
というか今考えると意識的にシャットアウトしてたかもしれない。
同時にもう大学の授業に面白みを感じてなかったが、真面目系クズな僕は超低空飛行ながらも単位を取り続ける。
ここいらで自分の考えていたモノ作りはある種芸術的な方向であったと気づくべきだったかもしれない。
というか大学生になるべき人間ではなかったことにさっさと気づくべきだった。
もうこの頃には自動車の開発とかには全く興味がなくなっていた。研究室の配属希望を出すが、自己PRの解釈を間違えてクソみたいなことを書いたら第六希望くらいの大して興味もない研究室に配属される。
秋辺りからポツポツと1dayインターンとか行き始める。ちなみに自己分析だのspi対策だのES雛形作成だの全くしていない。
機械科だから機械の仕事をすべきみたいな考えでその辺りの会社を見ていた。
特に企業研究とかしていなかった。バカだ。この時点で音楽のが楽しくなってそっち方面で何かできたらと考え始める。
そうこうしてる内にまあちょっと音楽関係でいいことがあったりとか実験がクソ忙しく(実際にはレポートとか課題とか先延ばしにしまくってたクズ)なって就活から遠ざかる。
というかオンラインのガイダンスも後でまとめて受ければいいやで先延ばしにしてそのまま忘れるんだが。
合同説明会とかにも行き出す。今更かよ。合同説明会に行き、通路を通っただけでウチどうですかどうですかと声をかけられて、顔を覚えられたりして恐怖を感じ、トイレに逃げたりした。
3月、エントリーが本格化してくる時期。ようやくエントリーシートなどに取り掛かり始める。が、ここで最悪のつまづきをする。エントリーシートが全く書けない。そもそも将来のビジョンって自分にあるのか。学生時代何を頑張ってきたのか。自分は何をしたいのか。何者なのか。急激にどうにもならなくなってくる。今思えばうつ病に両足突っ込んでいた。ロクに寝れなくなった。食欲もなくなり、ゼリーをかろうじて胃に流し込む日々。
コレもすべて大学生活、もっと言えば高校生から自身の適性やキャリアプランを考えなかったツケなのだが。
こんな就活のしの字も分からない自分に誰かを頼る資格もないと考えひたすら内側で自問自答する日々。
就活の助けになるだろうと登録したエージェントからはメールや電話爆撃で電話に出るのも怖くなる。
このままじゃもうニートまっしぐらだ。周りに自身の、周りからいい子だと言われ続けた自分がこうなってしまうなんて。このままじゃ大学の名前にも傷が付く。
そんな気持ちで一杯になった自分は急に自殺しようと自室の窓から飛び降りた。まあ直前で怖くなってしがみついたおかげで打撲と派手な擦り傷で済んだのだが。まあしばらくは上手く歩けなくなった。
この頃はロクに思考も出来てなかった。よく嘔吐もした。体重も落ちた。
昔からその場の楽ばかり選び、他人からいい子で見られる為に生きてきたことに気づく。真面目系クズだ。
そんな中、企業の方との面談が入る。そこでなぜこの大学に、この学科に入ったのですかと聞かれる。
そこでクソみたいな思考の僕は焦点の合わない目でこう答えた。
クソみたいな考えだ。
そんな最中母親からこう提案される。音楽に興味があったなら卒業後に専門学校への進学も視野に入れてはどうかと。
昔(特に高校生)の僕はストレート大卒ではないといけないという考えに囚われていた。周り道した人と出会わなかったのもあるが。
作曲を仕事にするのは難しいが、音響のこととかなら視野に入るのではないかというアドバイスも貰った。ちょっとその気になりつつ、それがある種就活からの逃げではないかと罪の意識に囚われ、いまいち吹っ切れない。
この頃は理由もなく突然泣き出したりとかもよくあった。
そんな状態で4年生卒業研究が始まる。もうこの時点で単位は卒業研究以外すべて取り切っていた。
まるで興味のない分野、そもそも興味が薄れていた専攻、そしてこのような精神状態。決まったテーマも希望のテーマから外れた。
研究室で昨年の論文に向き合う。が、何も知識がない、というか応用することが全くできなかった(数学は公式を暗記して解くモノと思っていた)僕はもう何も理解することができなくなっていた。周りはどんどん前に進んでいるのに自分はどうして何もできないんだという気持ちになり、ますます自身を追い詰める。
研究室に行っても全く集中出来ず、じっとしていられなくなって席をよく立ったり、昔からの癖であった消しゴムとペンの戦いごっこが辞められなかったり、高校数学の知識が抜け落ちてたりしていた。というかどのように卒論を進めて行けばいいのか、という計画もできない。とはいえ研究室には行かなければという気持ちで毎朝嘔吐したりしていたがなんとか向かっていた。
5月、半ば辺りから徐々に食欲とかは回復していった。とはいえ、集中力散漫なままだし頭の中にずっとラップがかけられている感覚は抜けないし、風呂に入る気力もなかったり、帰宅すれば即寝落ちみたいな日々が続くのだが。研究報告のパワポもロクに仕上げられず、自身を殴ったりした。
そんな中共同研究者が失踪した。後で卒業研究2年目の先輩に聞いたのだが去年も1人失踪したらしいしなんなら所属学生全員卒論落とす可能性もあったとかなんだとか。
自身のテーマに関係する部分の勉強会に参加した。しかし、教授の言ってることがまるで分からない。どうにもならない。卒論は書けるのか。
今月号のアフタヌーンに掲載されている『天狗の台所』って漫画でピェンローって鍋を紹介していた
干し椎茸の戻し汁で白菜と鶏肉と豚肉と春雨を煮て、ゴマ油を垂らし、塩と一味とうがらしをスープに溶かし、それをつけ汁にして食べる鍋だ
この鍋は昔、木村紺の『神戸在住』でも作中に登場していて、その際は大根のべったら漬けと一緒に食うと美味いみたいな話をしていたような記憶がおぼろげにある
元ネタはどちらも妹尾河童という人の『河童のスケッチブック』という本で、『天狗の台所』ではコマ外に参考先として記載があり、『神戸在住』では作中の登場人物がその本を読んで作りたくなったと語っていた
二回紹介されると、そんくらい美味いんかなと思いながらも、鍋の季節ももう終わるから誰か作ったことある人がいたら感想を聞きたくなった次第
何とかしなきゃ!とか、不在票入れさせないように家にいるようにしよう!みたいな風潮強かったし、
そうするように心掛けてきたけど、最近の配送業者、それに甘えて若干天狗になってる気がする。
遅配は当たり前。遅れてもお詫びも何もない。
昨日の尼なんざ、会社で受け取る予定してた荷物が、予定より数週間前倒しで配送来られて受け取れず、再配達の手配をした。
足怪我してたが、無理やり配達日に出社した。でも夜の最終便終了間際になっても来ない。
問い合わせた所、
「今日再配達予定でしたが、荷物の持ち出しはしてません。尼から再配達の手配お願いします。」と詫びもそこそこに言い放ってきやがった。
ふざけてんのか。当初の予定が完全に狂って足怪我しててもこれ以上は迷惑かけられないと必死に出社したのに、、、
うちの会社は基本在宅体制で社内に誰もいないなんて事はしょっちゅう。だからこそ今度こそは受け取らないと、と足引きずって出社したのになぁ。
事情説明して、次出社できるのせいぜい1週間後、、、と言ったら「その日は保管期間過ぎてるのでキャンセルして買い直してください」だって。
とはいえ品薄商品でキャンセルは出来ないから、結局出社してる人がいる日に合わせて、その人に受け取ってもらう事にした。
向こうのミスなのに向こうは詫びもテンプレ未満で、こちらの事情も汲み取らず何の譲歩も示さない。
強めのクレーム口調になってしまったが、むしろよくあそこまで抑えたと思ったわ。〇ねとか言いそうになった
今日も、これは別の会社だが、朝8時に配達出ました!と配送状況に出てたが一向に送られてきやがらん。