はてなキーワード: 事実上とは
それくらいなら全然耐えられそう。どうしてこうならなかったのか…
https://gendai.media/articles/-/121235
【1】1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能だ。ところが、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきた。いっそう働かせるために、実質的に無意味(ポイントレス)な仕事がつくりだされねばならなかった。とりわけヨーロッパや北アメリカでは、膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心かんがえている業務の遂行に、その就業時間のすべてを費やしている。こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、わたしたちの集団的な魂(コレクティヴ・ソウル)を毀損している傷なのである。けれども、そのことについて語っている人間は、事実上、ひとりもいない。
@moonchild3606
面白いことに、私が初めて「ティアーズ オブ ザ キングダム」をプレイしていたときは、楽しんではいたものの、リニア ゼルダのファンとして、現在のゼルダにはもう自分の居場所はないという沈んだ気持ちから逃れることができませんでした。 だから青沼がこれほどのことを言うのを聞くのは、正直少し胸が張り裂けるような思いだ
@schl0ck
右? 物事が永遠に同じであるべきではないことはわかっていますが、私がゼルダの伝説のゲームに夢中になったのには特別な理由があり、それらの理由のほとんどは最近の 2 つのゲームには存在しないか、あまり焦点が当てられていません。
@starscythe2099
伝統を拒否する。 変化を受け入れましょう。 いい感じだよ、男。
@boughtinbloodendless7813
@starscythe2099 間違った伝統がそうなるのには、それが機能する理由がある
@Malorak
@starscythe2099 ...これはアートには当てはまりませんが、爆笑。 ロック音楽が好きな人に、「2023 年になったので、音楽も変わります。新しい音楽を聴いてください」と言うところを想像してみてください。 確かにそれを好む人もいるでしょうし、オープンマインドでいることは素晴らしいことですが、おそらく 2023 年の音楽は彼らにとって合わず、後でもう一度試してみて、新しいロックが何をしているのかを見たいと思うかもしれません。 それは100%大丈夫です。 ジャンルには理由があって存在します。 どちらも存在する可能性があります。 非常に奇妙なテイクNGL。
@dericandkhristy
@schl0ck ところで、OoT とムジュラの仮面を「同じ」だと考える人はいますか? 風のタクトやトワイライトプリンセスはどうでしょうか?
ゲームは、ストーリーと一部の進行の直線性、妖精が優れた回復アイテムであること、宝箱を開けたときの「DA NA NA」などの核となる側面を維持しながら、常に異なっています。
なぜ任天堂が伝統的なゼルダの要素をすべて(まあ、ほとんど)捨てなければならないと決めたのか理解できません。
自由を増やすためだけに、公式全体を破壊することなく変化を起こすことができます。
人々が問うべき質問は、どんな順序であれ寺院を建てることに、私たちが失ったものすべてに本当に価値があるのかということです。
答えは簡単です、ノーです。
@dericandkhristy
@SirMalorak 素晴らしい投稿です。 👍
@LinkMountaine
@dericandkhristy ただし、実際には何も失いませんでした。 いくつかのことは単に異なって処理されます。 ゼルダシリーズは常にこのスタイルに合わせてデザインされています。
@cyd_hunter99
@LinkMountaineer いや、全然違う気がする
@LinkMountaine
@cyd_hunter99 まあ、間違っているかどうかはあなたの選択です。
@thatnerdygaywerewolf9559
@LinkMountaineer ただし、物は失いました。 失われたものの 1 つは、能力の進歩の仕組みでした。 古いゲームをプレイしていくうちに、徐々に新しい力や能力を獲得し、パズルを解き、環境と対話するための新しい方法を提供します。
BotW にはこの要素がほぼ完全に欠けていました。環境と対話する新しい方法を提供する新しい能力はゾーラ アーマーとおそらくラヴァリのゲイルだけでしたが、どちらもパズルでは使用されませんでした。 残りの能力は単なる戦闘補助者でした。
TotK は、すべての賢者の能力に環境効果とパズル解決の応用があったため、この点では少し優れていましたが、初期能力に比べればまだマイナーであり、過去のゲームで新しいアイテムを入手するほどゲームプレイに影響を与えません ( さらに、その使用方法によっては多少の手直しが必要になる可能性があります)。 さらに 2 つの隠された能力がありますが、1 つは主な能力の退屈さを取り除くだけ (オートビルド)、もう 1 つは小規模で戦闘のみです (地震テクニック)。
編集: 新しいアイテムやパワーが戦闘に影響を与える方法もあります。一部の敵は事実上「パズル」の一部であり、対処するには多様化する兵器のさまざまな部分が必要です。 BotW には再びこの要素が欠けていました。新しい能力は、面白いというよりも、単に退屈を軽減するだけ (ウルボザの怒りはダメージ スポンジの敵に対して役立ち、ミファーの恩寵は料理の必要性を軽減します) か、アクションを自動化する (ダルクの保護は自動で完璧なガードです) ためです。 TotKは、時間の経過とともにより多くの「パーティーメンバー」を提供し、ランダムな武器では戦えない一部の敵(特定のダメージタイプを必要とする鎧を着た敵やギブド)、および大きく異なると感じられる他の敵の間で、再びBotWよりも優れていました。 あなたが見る他人(暗い手)から。 そして、TotK がこの面でどれだけ改善したかについては実際に満足していますが、あなたの能力セットは依然としてほぼ一定のままです。
@Buttertruemu
それをどう説明したらいいのかわかりませんでしたが、あなたは私が表現できるよりもずっと上手に表現してくれました。 楽しかったけど、もっとリニアなゲームが恋しい
@ausgod538
@SirMalorak 会社が両方をやりたくない場合、両方は存在できません。
@therealpskilla502
古い LOZ ゲームを説明するときに「リニア」という言葉を軽蔑的ではない方法で使用でき、それによって嘲笑されることがないのは素晴らしいことだと思います。 シリーズが時間の経過とともに進化するのは問題ありません。私は新しいコントロール、ラッシュラッシュ、新しいアーマーセットなどが好きですが、LttP に遡る数十年にわたるシリーズのアイデンティティが何であったのかを忘れないようにしましょう。 SSが嫌いでオープンワールドの流行に乗って、同じ年に発売されたスカイリムに夢中になった人がいたような気がします。 SS には問題がありましたが、それはモーション コントロールと反復性によるものであり、直線性そのものではありませんでした。 当時の一般的なコンセンサスは「リニア = 悪い」となり、結果として LOZ のファン層は分断されました。 これで 2 つのオープンワールド LOZ ゲームができました。どちらもそれ自体は優れていますが、オープンワールドと非直線的な進行があるというだけで、ロック付きの没入型で直線的なダンジョンが少なくとも 7 つ手に入らないというわけではありません。 アンドキーまたはパズルボックスのゲームプレイは、ベテランのファンにとても愛されています。 (マップのサイズに基づいて、ダンジョンは 10 ~ 13 個程度が望ましいです)。 シリーズの中核となるゲームプレイ要素を完全に削除して、反復的な神社やアクティベート 5 ターミナル スタイルの「ダンジョン」に置き換えても、ファンの半分を疎外しないと期待することはできません。
@dpackerman4203
正直に言うと少し侮辱的でもあります。 長年のファンとして私たちは古いゲームが大好きですが、彼は基本的に、それらは時代遅れであり、もう重要ではないと言いました。 そしてイライラするのは、Botw からやってきた新規ファンが同じようなことを言う人がたくさんいるということで、それが本当に気になります。
@saxor96
@ausgod538 それが問題です。 私たちは彼らがBSの理由でそれを望んでいないことを批判しています。
彼らが単純に「オープンワールドのダイナミックさをもう少し探求したい」と言ったのなら、古いシステム自体が時代遅れでもう良いものではないことをあからさまにほのめかすよりも、もっと耐えられるでしょう。
@therealpskilla502
@dpackerman4203 先代からのシリーズベテランということで、本当に老けたなと感じます(笑)
@vanyadolly
オリジナルのゼルダファンとして、私は新しいコンセプトを本当に楽しみにしていましたが、正直に言うと、NESゼルダを機能させる要素はまったく組み込まれていませんでした。 これらのゲームは、新しいアイテムを獲得するたびにさらに探索することを促す直線的な進行を持っていました。 世界は空虚で目的のないものではありませんでした。 現在、彼らはオープン性を重視するあまり、ゲームプレイだけでなくストーリーもそのせいで損なわれています。 個人的には、ゼルダ ゲームの魅力を満たすものはほとんどありません。
@vanyadolly
@LinkMountaineer絶対に違います。 私は基本的に古典的なゼルダのファンなので、そのような話は聞き飽きています。 オリジナルのゲームは直線的に進行するオープンワールドを持っていたため、リニア ゲームとの共通点が多かったです。 それがこのゲームを素晴らしいものにした理由であり、現在のゲームに欠けているものでもあります。
@gamgee3393
@starscythe2099 それはひどい哲学です。もし変更がより悪いものであれば(ゼルダの話ではなく、一般的に)、私たちはそれを受け入れるべきです。 私たちのリーダーや、お気に入りのフランチャイズを支配する人々に挑戦するのをやめたら、私たちは結局、ずさんな消費と生活をすることになるでしょう。
@LinkMountaine
@vanyadolly あなたの聞き飽きたことは本当に気にしません。 現実は現実だ。 また、直線的に進行するオープンワールドを実現することは物理的に不可能です。 オーバーワールドに後で開かなければならない場所がある場合、それはもはやオープンワールドではありません。 この 2 つは相互に排他的です。
@therealpskilla502
@vanyadolly よく喋ります。 他のすべてを犠牲にして「無限の自由」を追求することは、直線的な物語の進行に基づいて構築されたシリーズとは相容れません。 私が「物語の進行」と言ったのは、これにはストーリーとゲームプレイの両方が本当にユニークな方法で含まれているからです。
@kylemccrory8509
@starscythe2099 そのようなものを単に理由として拒否するのは十分な理由ではありません。
@vanyadolly
@LinkMountaineer 不可能ですが、なんとか 1986 年にそれを実現できました。Elder Scroll はそれを何度か行いました。 BotW と TotK がオリジナルのゼルダ ゲームに似ているというのは完全な誤りです。 オリジナルのゲームには、リニア ゲームやその 2D 後継ゲームとの共通点が多くあります。
オープンワールドとは、すべてのエリアに 100% アクセスできることを意味するものではありません。 もしそうなら、現在のゲームは、進行の背後にいくつかの制限がロックされていたオリジナルとの共通点があるとは言えません。
@LinkMountaine
@vanyadolly 私は、過去のゼルダ ゲームが範囲の点で BotW や TotK に似ているとほのめかしたことはありません。 実は注意してください。
実際、オープンワールドとはその定義そのものが意味するものです。 いつでもどこでも制限なく行くことができます。つまり、世界は真にオープンです。 したがって、オープンワールド。 私は本当にそれは自明のことだと思いました。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別によって殺されたようなもの。
たとえばulをフレックスコンテナとして、その子要素liの子要素imgに対してmax-width:100%をかけていたとします。
デフォルトだと、imgを内包したliがulの中で横並びになり、さらにliの横幅は自動的に親要素の横幅をliの個数で割った分だけ縮小されますが、ここでflex-wrapにwrapをかけると、imgで表示する画像のサイズがある程度大きいと、wrapとしないときよりもliごと大きく表示されます。
しかしliの横幅はそもそも指定していなくて、しかもその子要素のimgに対してmax-width:100%をかけているということは、そのcssの指定の意味を論理的な日本語で表すならば、imgはliの大きさを基準にその100パーセント分の大きさで表示しろという意味の指定になると思います。
しかしその基準であるliの大きさを定めていないのだから、imgの大きさも定まりようがないというのが論理的な解釈だと思います。
それでも実際はwrapをかけるかかけないかでそれぞれ一意的にある大きさでimgが表示されるわけです。
ようするにcssはそこに記述されているプロパティの兼ね合いで最終的にある要素がどういう風に表示されるのか、その挙動を理詰めで予測するのが困難な部分があって、それはプログラミング言語よりもある種厄介な癖として立ちはだかっているように思います。
上記の例の場合も理詰めで挙動を予測するには、プロパティの性質に関する論理的な情報が不足しているように感じます。「imgはliの大きさを基準にその100パーセント分の大きさで表示しろ」という情報から、実際どのような大きさでliやimgが表示されるのかはっきり言って予測しようがないと思います。
多くの参考書にもどう挙動するのか一意的な推測を可能とするだけの情報は書かれていません。
もしかしたらcssの公式の仕様を端から端まで参照することで過不足なく挙動を把握するための情報が手に入るのかもしれませんが、仕様のどこか今の自分の仕事にとって必要な情報なのか見極めるのにはなかなか困難なところがあるという意味で、情報に対するアクセスの困難性があると思います。
私はjavaも学習しました。極めたというところには全く到達していませんが、それでもああいった言語は書いた通りに動くものであるということを実感しています。つまり自分が今書いた、書こうとしているコードがどのような動きをするのかを予測するための、各記法や関数に関する文法が情報として過不足なく学習者に提供されているように思います。
cssにも事実上として「文法」なるものはあることは前述の例からも疑いの余地がない(先に書いた解釈以上に要素の表示を決定づけるための文法がないなら、要素の大きさは決定不能ということになる)のに、その情報がいまいち曖昧に提供されているきらいがあるように感じます。
https://coliss.com/articles/build-websites/operation/css/about-css-layout-algorithms.html
↑このような「レイアウトアルゴリズム」と語るサイトも見つけはしましたが、私の言っている文法、すなわち、要素の表示のされ方を決定づけるための処理のフローと、概念的に同質なのかはいまいち不明です。
他の端的な例としては隣接する要素同士がネガティブマージンなので重なった場合、z-indexを指定してない場合はどういう法則でどちらの要素が上にくるのかとかも、本来は明確なアルゴリズム、文法に則って決定されているはずなのに、多くの初学者あるいは中級以上の方でさえも当て推量とセンスと試行錯誤で、なんとか自分の意図通りの表示になるように調整を繰り返すことを余儀なくされているかもしれません(意外と単純で要素の名前について辞書順ベースでどちらが上にくるか決定されてる?)。理詰めで考えさえて設計しさえすれば一発で自分で思い通りの挙動(表示)をさせる、ということが困難な言語がCSSの癖として立ちはだかっているように思います。それはある種プログラミング言語が持つそれよりも厄介な癖だと思います。プログラミング言語の方がある意味で「素直」に挙動してくれると私は思います。
同じように感じた人は教えてください。またそういう感覚を卒業してCSSの挙動が論理的に手に取るようににわかるぞという方は今後の学習に関するアドバイスをしていただけると助かります。
帝国建設は、住宅建設業を営んでいるが、第三帝国の事実上の国策会社である。
帝国建設が用地を取得する場合、土地の面積は2倍に錯誤されて測量されることが常である。したがって、担保価値、融資額もまた2倍になる。
もとより帝国法務局と帝国警察庁、土地所有者(多くは金融機関の代理人)とは、60年以上前に用地確保に関する密約をしており、互いの違法や錯誤を指摘しないことは暗黙のルールである。
用地測量の錯誤については、用地を各住宅ごとに分筆する際の再測量によってほぼ正しく訂正され、登記される。
帝国建設の住宅は、融資金額に準じ、通常の倍の価格で売り出されることになるが、そのことは当然の習慣であるとされている。
事実上の国策会社とは、その独占状態や違法を議員に見逃させつつ、新規住宅数などの数字を増やし、GDPを上げることによって運営されるということである。
いやさ、弱者男性なりの生きづらさ、とかはあると思う。
だけど、弱者男性「だと言う理由だけで」差別されてる例って無くない?
低年収差別とかは女性も含まれるし、貧困女性の男女関係ない貧しさの部分をフェミニズムは救ってくれないでしょう。
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追記・
誰が誰を好きになってもいいんだよ。
恋愛に差別を持ち込む気なら、若くてオッパイが大きい女性を選んでる、あなた達こそアウトになるけど、それでい?
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追記・
両方差別でいい
それは正論だけどさ… でもサバンナ始め自然界は基本的に弱肉強食なのに、どうして人間だけは甘えやかされるのかな?
いわゆる「あてがえ論」もそうだけど、恋愛のモラルを責めるのは、今でさえ低い恋愛のモチベーションをさらに下げて少子化を加速するだけだと思うよ。
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追記・
うーーん…
https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027
既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さない道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも、質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現に表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。
まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。
その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会の構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見を表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現の規制は認められてきたわけで、その議論を担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり、表現の規制についてもその限界は議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。
ここで、「出版(表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論の余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり、出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定の尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。
その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場の問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体が表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能の広告規制のように、実際には事実に反することを理由に法規制される出版行為がある場合もあることからわかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現そのものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点からの規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界の判断は批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。
インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から、批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見が散見されるが、批判表現は表現の自由で認められるべき重要な表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人のツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題も存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要な表現を一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。
いろいろとデータが出てくると
はてサの言い分が、「結婚にこだわるのをやめよう」みたいにスライドしてるんだけど
(金銭的・制度的問題なのだという自説に固執したいみたいなのだけど)
例えば、イケメンヤリチンが10人孕ませたとして、10人の父として扶養費を出せるわけがないんだから
んで、そういう制度にしてまで女様に子供を産んでくださいませという方向だと
今でも、離婚して女様は生活保護を申請し、裕福な生活を「一家で」営む人がいるようだけども
個人的な感想だけども、そこまでして国体を維持しようとするくらいなら
アメリカだってフランスだって(弊害はともかく)そうして国体を維持したわけさ
多分、フランスはもう少ししたら民族構成がガラッと変わると思うぞ
女様を優遇して平身低頭お子を産んでもらうことに全力になるくらいなら
変な話、持病持ちで慢性的に離席リスクのある人は、就活ではそのように遇されると思うんだよ
ここに対して
例えば二人生むとしたらば
これを通常の人と組ませる場合、在籍してるのに戦力にならないという人員を抱えることになる
人員補充したくても、子持ち様が復帰したら仕事がなければならないから、それも難しい
常に余剰人員を抱える事になり
それはサービス対価へ跳ね返ることになる
とのアドバイスをいただいた。
だけど、俺は男だ!!!
俺は弱い。
だけど、社会によって事実上のトランスジェンダーに誘導される怖ろしさが、みんなにはわかるか?!
わかんなそうだな。
「〇〇君のことは男性として見れない」なんて言われたことないもんな。
温もりの思い出がなくても、
それでも趣味に逃げてればやり過ごせる、俺には孤独耐性がある、
——…そう思ってた。
三十代後半に突入するまでは。
突然、来た。
或る日、もうどうにも我慢できなくなった。
だけど未成熟なコミュニケーション能力では恋愛はおろか異性を傷つけることしか出来ないだろう。
学生時代はとっくの昔に過ぎてる。
ああ。
どうすれば、いいんだろう。