はてなキーワード: 追従とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1667751
まず前提として、増田はエキスパンションジョイント(以下Exp.J)のメーカーカタログをみてどれを使うか選定し、
Exp.J部分の断面図を書く仕事をする程度にはExp.Jのことを知っている人間です。
「Exp.Jが壊れたのは想定通り機能した結果であってあの状態が正しい」
という言説がネット上にまことしやかに流れているので、この場をお借りしてプロヘッソナルの意見を言いたい。
たとえばビルのA棟とB棟の間に渡り廊下があると思ってください。
A棟とB棟は基本的に揺れ方がシンクロせず、それぞれの周期で揺れますので
その2つの揺れのねじれが渡り廊下に負荷を与え、付け根の部分にヒビが入り、分断し、壊れてしまいます。
それを防ぐためにあらかじめ隙間を作っておき、建物の構造部分に深刻なダメージが出ないようにするのがExp.Jです。
そしてExp.Jというのは本質的に隙間部分のことであり、今回壊れたのなんのと騒いでいるのはExp.Jカバーと呼ばれる部品です。
(参考資料 https://www.abc-t.co.jp/products/material/fitting/expansion/ )
隙間があると人が通るのに危険だし、雨風が吹き込んだりするし、また見た目もよろしくないので
金属などでできたカバーを付けて人が通れるようにし、見た目的にも隙間を塞いで室内空間となるようにします。
いざ地震が起こって建物が揺れると、この隙間が広がったり狭くなったりしますが
Exp.Jカバーはその動きに追従するように作られているので、通常の揺れなら壊れません。
ただし想定以上に揺れてしまった場合はカバーが外れたり曲がったり壊れたりし、
ひどいと建物同士がぶつかって床や壁のタイルが剥がれたりすることもあるでしょう。
それが今回のようにネットで騒ぎになるような状況ということです。
しかし本質的にExp.Jのついている部分は建物の端部なので、
そこが壊れても建物全体に構造上の危険が起こることは少ないでしょう。
Exp.Jがなくてボッキリいったら最悪建て替えなので、
隙間をアホみたいに広く取れば建物どうしはぶつかりませんが、
デカいカバーをつけるのはコストも掛かるし見た目がカッコワルイので、
そこは程よいところで隙間の幅を設定します。
だから今回のような大きい地震だとその幅を超えて揺れ、壊れることもあります。
カバー壊れたらそんとき取り替えればえーやろ。ということです。
(もちろん壊れないに越したことはないし消耗品というわけではない)
そして、壊れることで役割を果たす、というのはぜんぜん違うのです。
もっと詳しくExp.Jについてわかりたい人はこれを読め!
図解付きでわかりやすい!
今回のCOCOAの不具合の件、自分たちだったらどうするべきだったと思いますか?
今回のバグは流石にひどいとは思うものの、実機を複数使って検証するのってなかなか大変ですよね。
前提確認:
・アプリは変更したくなくてもAppleやGoogleのAPIがどんどんバージョンアップして変わっていく
・APIバージョンアップに追従するためアプリもバージョンアップしていた。つまりメンテ契約はしていた
・初期バージョンではうまく動いていた機能がAPIバージョンアップ対応で動かなくなった
さて、この件で、「最初から五輪反対だし、いい機会だからやめちまえ」派とか「コロナで五輪どころじゃないから残念ながら中止」派あたりは、迷いなく森を叩ける。なんなら、いっそ本人自体が女性差別主義者であっても、『公の場でアレ言っちゃうのはさすがに不謹慎ですよねぇー(ニヤニヤ』くらいのノリで森叩きして、でもって森を更迭すれば五輪自体の推進力が落ちるので、自動的に五輪中止に繋がってバンザイ、ということで連帯している。困ってるのは、本来五輪を推進したい人。森を下ろさないと五輪自体がダメージ食らうから森を下ろしたい。だが森を下ろすとこのコロナ禍では、推進力を失った五輪は開催不能になる。それで判断が停止してしまっている。悪意ではなく、ダブルバインドで判断停止して止まってしまっているのだろう。だが、それは悪手だ。アリンコよ。
このまま手をこまねいていればトウキョウ2020は「女性差別五輪」「レイシストオリンピック」として記憶されることになるぞ。なにせ、公式の場で差別発言をした上で(同席した委員もそれを咎めるどころか追従笑いをするヤツまでいる始末)、その”謝罪会見”では逆ギレして記者を恫喝するような人間が日本を代表する五輪組織委員会の長なのだ。こんなオリンピック見たことない。差別肯定の老害パワハラオリンピックだ。あれが問題ないというなら、じゃあ開会式で森喜朗のあの「差別演説」と「”謝罪”会見」をセットで世界に向けて見せても大丈夫だと思うのか。それとも生で原稿無しで挨拶させて「女性アスリート増やしすぎると競技が終わらなくなるから。もっともみんなわきまえとるから大丈夫かねえ、なんつってな。ワッハッハ」とか言わせてみればいい。そこまでいかれてるなら、いっそやって……いや嘘だやめてくれ。そこまでやったらさすがに全日本人が海外に顔向けできなくなる。
そして思考停止の状況というのは、こういうこと(開会式で全世界放映)をリアルタイムでやってるのと同じだと自覚した方がいい。君らは藪に頭だけ突っ込んで隠れたつもりの七面鳥か何かか? 既に演説全文の書き起こしが報道されているのだから、海外の目を免れると思うのはズレている。その結果、世界中から批難が集まってしまったら、もうその後アレが長を退こうが退くまいが、全部終わりだぞ? 自分らの手で引きずり下ろせば、まだ僅かにワンチャンある、って段階なのに、薄ら呆けて判断停止してしまっている推進派が哀れでならない。まあそうやって、泥船が錨と共に沈んでいくなら勝手にやって欲しいが、そんな泥船に乗せられて、一蓮托生にレイシスト扱いされる関係者及びオリンピックが本当に気の毒だ。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
ぺっとのうさぎを殺して
もう1度やってみろよっていってみな できるならな おれは1度でもやる気になれない
さいしょの1度が重要と思わないということはわかった。2度チャンスが有るとおもうんだろうなぁ
ちなみにプログラマーの場合もう1個はやってなくはないが、通常料金2倍 まいかい設計から作ってるんだよ。コピペだと権利がないから
あやまるなら、すぐに謝れ 速さとしては光速より速く謝れ
無理だろうけど、察して
カメラを避けたら、撮影するためにカメラをこっちに向けて追従してきたカメラマンもいたけど
消せばいいだろうと思っていることに対して察するにあまりある神様はしょうがない
馬鹿の面倒を見る人間を雇って8000円得る権利より、馬鹿の相手をせずにネット設備だけで2500円の方が採算が取れる。
主要3社が10年ぐらいじっくり市場調査をして、マーケティングオペレーションマネージメントした結果出した結論が「馬鹿の相手は他所に押し付けるやり方が出来るなら単価が1/3になってもその方が儲かる」という結論を出した、と。
これから大手通信事業者の本社チームは、自分でインターネットを使える客だけを相手にして、市場にあぶれたスマホを持ってるくせにネットで契約もできないクズ共は生き残りに血眼になったショップの連中に介護させる戦略に出た。
そういうことなんだろうか。
確かに、現在の市場だと中間層は底辺層と一緒にショップで契約することになるから、ショップは殿様商売を続け、面倒な客が来たら「本部におなしゃーす」とぶん投げてくる。
だが、中間層を本部が吸い上げた上で「お前ら、もう要らねえから」と圧をかければ、投資を回収しようと必死なショップオーナーとかは今までなら本部丸投げで諦めていたような客からも必死に信頼を勝ち得ようと努力する。
残った数少ない金蔓の取り合いのために必死にサポートをするようになるのは明白なわけだ。
それによって本社チームは今まで丸投げされていた馬鹿の相手から開放され、対応チームの削減によって余計なコストは減り、売上は減ってもショップに取り分を分ける必要がなくなるから差し引きで少し得になる。
そういうシステムか。
あくどいぜ。
乱立したショップが餌不足で飢餓状態になることが前提となってるようなシステムじゃねえか。
とんでもねえことを考えやがる。
実現可能性90%
・docomoの新料金プラン(以下「ahamo」とする)にauとSoftBankが追従する
・MVNOはかなりの数が淘汰される
・ahamoへの乗り換えをdocomoショップでやろうとする人間が出てくる(諸々は全部ネットでやらなきゃいけない)
実現可能性80%
・不採算店の閉店が相次ぐ→これにより地方の年寄りは丁寧な対応を受けられなくなる
・ahamo等の割安プランを契約している人のショップ対応は有料になる
・日本全国にアンテナを設置しahamo等の割安プランを導入出来るのは大手3社くらいなので新規参入は今以上に困難になる
・楽天モバイルは散々アピールしてきた2980円に並ばれ電波網も大手3社に太刀打ち出来ずジリ貧になる
実現可能性70%
・ahamoが実質的にはサブブランドと変わらないというカラクリが政府にバレてしまい更なる値下げを要求される
・端末割引が無くなり通信費が安くなる分端末代が高くなり合計で見ればトントンになる
こんなことマジで増田にしか書けないので、ところどころボカシながら書く。
ふたつ離れた私の姉には、付き合って半年ほどの彼氏がいる。姉と私は親元を離れて都心でルームシェアをしており、たまに姉の彼氏が遊びに来る(泊まりはしない)。姉彼は明るくて友達の多いスポーツマン。姉はどちらかと言えばインドアだけど波長が合うらしく、二人はとても仲良しだ。
ある時、姉は彼氏から後輩♀を紹介された。大学のサークル仲間だったというその子(仮に花子とする)は、姉彼いわく友達のいない人見知り。姉彼は姉に「花子とは趣味が合うと思うし、よかったら仲良くしてやって」と言っていたらしい(姉はやたらと女に好かれるタイプである)。
よくよく聞けば、姉彼と花子はそこまで親しい間柄でもないと言う。年に数回、複数人で会うくらい。姉彼が「彼女ができた」と話したら、花子が「会ってみたいな」と言った……という話だった。その時点で「ん?」である。たまに飲む程度の先輩の彼女に会いたがる『人見知り』とは……。
もやもやしつつも会ってみれば、花子は意外と普通の女の子だったらしい。仮にも恋人である姉の目の前で彼氏にボディタッチするのは目についたものの、ベタベタするというほどでもなく。ハキハキ喋る明るい子、という印象だったとか。
学生時代の話になり、姉が母校である地元の中高一貫女子校の名前を出したところ、花子はその学校を知っていた。花子の実家は姉の母校の近くだった。姉が「花子さんはどこの中学なの?」と尋ねると、花子は県内の公立中学校の名前を答えると同時に、「あまり良い思い出がない」とも言っていたという。花子の出身校は妹の(つまり私の)母校だったが、勘の良い姉は突っ込むのをやめた。(私も姉と同じ女子校を受けたのだけど、落ちたので公立に入学した)
花子が席を外した隙に、姉が「普通の子に見えるけど、本当に友達がいないの?」と姉彼に聞くと、どうやら中学でのいじめが原因で、同性とうまくやれないらしい。で、帰宅した姉は私に花子のことを尋ねたと。
前置きが長くなったが、ここからが私の話だ。
目立つ子だったから卒業して10年経った今でも記憶に残っている。クラスの中心的な存在だった。良く言えばムードメーカーだが、悪く言えばクラスの雰囲気を変えてしまえるような子だった。主に悪い方向に。
ちょっとしたことで機嫌を損ね、昨日まで親友だった子に冷たく当たる。そうすると周りが追従し、ターゲットの子は悪口の的で(花子の悪口にみんなが同調する感じ)、ゆるやかに仲間外れになる。ただし、花子は気まぐれなので長くは続かないことがほとんどだった。ほとぼりが冷めればまた『親友』。ターゲットは別の子にうつる。
印象に残っているのは、花子の「ダサい」と言う言葉だった。花子にダサいと言われた子はダサい。本人もダサいし、その子と仲良くしているのもダサい。だから孤立する……という仕組みだった。髪型がダサい、顔がダサいから始まって、最後には『存在がダサい』になっていく。
私も一度、ペンケースが花子とかぶってしまったことで短い期間だがターゲットになった。「あんなダサい子と同じとか最低」と聞こえよがしに言われたのをよく覚えている。1週間後、ケロッとした彼女の「おはよぉ」ですべてが元に戻ったことも。
……と、いうことで花子には良い印象はなく、いじめっ子でもあったのは確かだ。けど、だからと言って「花子がいじめられていた」という話に心当たりがないわけではない。
中2でクラスが離れることを祈っていたけど、また同じクラスになってしまった。
花子は相変わらずで、新しいクラスでも短期間でターゲットを変え、ローテーションで仲間外れにしていた。一緒に悪口を言うのはしんどかったので、わたしはずっと愛想笑いで花子を持ち上げる戦術をとり、ターゲットにならないように必死になっていた。……そんな花子の独裁が終わったのは、中2の秋ごろだった。
単純な話だ。花子がターゲットに選んだ子が、孤立しなかったのである。みんなが同情しつつもターゲットの子を避け始めても、その子と仲良しだった光子(仮)は変わらず彼女のそばにいた。
光子は可愛くて明るい人気者で、花子も一目置く存在だった。だからターゲットになったこともないけど、今まで花子を特に嗜めたりもしなかった。そんな光子の反旗(ってほどでもないかもだけど)にクラスの雰囲気はずいぶん変わった。なんていうか、花子に従わない道があるんだと気付かされた感じだった。光子が何も気にしてないテイでみんなに普通に話しかけるので、光子と会話するうちにターゲットの子とも話すようになり、ターゲットの子はターゲットではなくなった。
光子の「性格が合わないから花子とは少し距離を取る」というスタンスがクラス全体に広がった結果、みんなが花子から『距離をとった』。花子は孤立することとなったのだ。
最初は花子は怒りを燃やして、光子の悪口を言ったり、喧嘩をふっかけたりしていたが、光子は相手にしなかったし、誰も花子に加勢しなかった。
花子は今までの自分の行いをすっかり忘れてしまったのか、早々に担任に泣きついた。クラスの女子は担任と個人面談するはめになった。私は昔ターゲットになり辛い思いをしたので、できるだけ花子とは関わりたくない旨を伝えたが、担任は「悪いところがあるなら指摘して直してやるのが友達」なんて言っていた。だけど、花子に対してそんな面倒なことをする友情?体力はすでに残っていなかった。
担任はどうにかして花子と光子を仲直り(?)させようとしていたし、花子も光子だけは格上と認めたのか、媚びるようなことすら言うようになった。けれど、少しでも態度が軟化すると光子と友達の間に割って入って他の子を孤立させようとする(光子の無二の親友としてクラスを牛耳りたい、みたいな感じに思えた)ので、時間が経つほど光子と花子の間の亀裂は深まっていった。
クラスでの返り咲きを諦めた花子は一時期、休み時間に他のクラスまで『出張』するようになった。けれど、そこでも花子の思い通りにはならなかった。中心人物の女子と揉めて、ほぼ出禁みたいな扱いになった。結果、無視もされないし会話もでき、聞こえよがしの悪口もない自分のクラスにいるのが1番マシだと思ったのか、自分の教室から出ることはほとんどなくなった。
『花子と同じことをしてはいけない。無視はしないし話しかけられたら普通に答える。けど、遊びに誘う必要はない』というのが、クラスの暗黙の了解だった。比較的花子と家の近かった私は、たまにに「一緒に帰ろう」と言われた。理由をつけて断ることも多かったけど、「待ってるから」「何時でも良い」と言われると、毎回無下にもできなかった。花子もその頃には流石に学んで、自分から積極的に誰かの悪口を言うことはなかった。けれど、たまに「◯◯ちゃんって××なとこあったりする?」みたいに誘導している感じはあった。微妙に心当たりのある、他の子だったら「まぁ、そういうところもあるかもね」と言ってしまいたくなる言い方だったけど、乗ったら終わりと分かっていたので流した。たまに「遊びに行きたい」みたいな空気を出してくることもあったけど、全力で鈍感を装った。
花子が立場を失ったことを、当時の私ははっきり言って「いい気味、こんなんじゃ生ぬるいくらい」と思っていた時期があった。実際中学生にしては大人な対応だった気がしている。
その後は不思議と花子に関する恨みも消え、花子が何を考えているか、どう感じているかにまったく興味がなくなった。花子の機嫌を窺わなくなった後半の中学生活は、前半と比べ物にならないくらい楽しかった。
『本人がいじめと思ったらいじめ』とするなら、あれはいじめだったのだろう。でも、性格の合わないクラスメイトを遊びに誘ったり、積極的に話しかける義務が、中学生にあるんだろうか。あれがいじめだったとして、いじめっ子は私たちか。そうだとしたら、この場合でもいじめる方が100%悪いんだろうか?
もちろん私の知らない何かがあったのかもしれないし、私の記憶が美化されている可能性もある(他の同級生にも聞いてみたけど、私と同じ記憶だった。ただし私と同じ立場なので参考になるかは不明)。でも花子の同級生としては、彼女が姉彼に語ったと言う「ひどいいじめ」には首を傾げざるをえない。
余談だけど、大学に入る前の同窓会で、クラスの男子がこう言ったのを覚えている。
「花子も1年の時はいじめみたいなことしてたけど、2年になったらおさまったし……うちのクラスって、マジで仲良かったよな!」