はてなキーワード: 荻上チキとは
※キズナアイの公式設定が無性と言及されていることはここでは脇に置いておく。気に入らない方は「女性型」と適宜置き換えてほしい。
①は個人的に許容範囲内ではないかと思っているが、感覚が麻痺しているだけかもしれない。これは今回のNHKキズナアイ起用に問題を感じている人の間ですら意見が別れていたように思う。問題は②である。
②のロールモデルの問題については、確かに問題だと思う。今回の件以外でも同種の構造を見つけてはモヤッとしたものを抱えていたのは確かだ。キズナアイをそのキャラクター設定に沿って扱ってもなお、このロールモデルから解放することはできたと考える。考えるのだが、みんな本当に常日頃真面目にそれ考えているのですかと思ってしまうのである。
たとえば荻上チキ氏のセッション22という番組でこの問題に触れたそうである。聴けていないので恐縮だが、この件についてジェンダーロールの問題を主に扱い、自分の番組が同じ構造であることにも触れたそうである。立派な態度であると思う。
※インターネットでは「自己弁護に終始した」と書かれているが、聴けていないのでその内容がどのようになっているかわからない。触れているだけとても偉いと思う。
ところでこの番組にはわりと多くのフェミニストの学者がゲストに呼ばれていたように思うのだが、チキ氏が自己言及する前にこの構造を指摘していた人はいたのだろうか。個人的には観測できていない。
そのようなわけで、今回の件が「萌え」をフックとしてジェンダーロールについて啓蒙するための生贄にされてしまったように見えてしまってモヤモヤするのである。もちろん日本に性差別がないなどとは口が裂けても言うつもりはないのであるが。
だからこうなってしまったからには、この問題に噛んでしまった皆さん(もちろんオタクも含むよ)には常日頃からこの問題について考え自分の立場に近いからといって妥協せずに問題視していってほしいのである。決して「萌え」が焼かれただけになってほしくない。
自分は、今までフェミの主張を聞いてきて、全てに賛同はしなくとも琴線がどこにあるのかぐらい理解してたつもりだったけどね。今回の件は予見できなかった。NHK側やキズナアイ側もオタク達もそうなんじゃない?そしてフェミ側すらも。
「女性が聞き手はNG」ってのが、荻上チキラジオの件で「フェミ側に理解を示している荻上チキ」にすら価値観の共有が出来て無いのは明白。
NHKだからNGってのも意味不。キズナアイってこの件以前に、日本政府観光局(JNTO)の訪日促進大使に就任してて、そん時はフェミの反応なかった。
エロとか性的表現って点も、直前の「ラノベ表紙問題」の時と争ってるラインが違いすぎる。しまいにゃ萌え絵は性的ニュアンスとか言い出す始末。今までフェミとオタクとで交わされてきたゾーニングとかの論争はなんだったんでしょうか?ってぐらい前後の脈絡無さすぎ。
正直、事前に提示・共有してない君らのロジックでウダウダ文句言われても、知らねーよ。行き当たりバッタリの後出しジャンケンとしか思えん。
「女性が聞き手はNG」とか腐る程他に例がある以上、フェミ側の行動不足からくる問題でしょ?オタクにあたんなよ。しかも今回の件以外に広める気配も無し。
フェミは一人一派とか言い出した辺りからブッ壊れたかなぁ?一人一派はつまり一派一票ってことで、弱小短命派閥に分裂したって事でしょ。
この考え方に至るまでにはいろいろと今までのネット経験が影響する
2000年代、今のようにテレビの全録機器が不十分だったりYoutubeのような動画投稿サイトがほとんどなかった頃、テレビで放送されたニュース番組などでの出演者の発言を後になって確認するには、当時のリアルタイムのネット投稿が重要な証拠とされていた
荻上チキが福島瑞穂議員の朝生失言デマを証明するために使用したのは、2ちゃんねるの実況板の投稿だった
どんな出来事でも後になって当時を知らない者が当時の解釈を歪めて再解釈することは故意でも過失でもよくあることだ
そういったことに対抗するために、この世界の片隅にいる何の影響力もない一市民でもリアルタイムで世の中の出来事に対して何かしら発信を残すことが重要であるのだ
インターネッツにわか知識マンと荻上チキ(同一人物かもしれない)がよく口走る台詞であるが、どうも正しくはないらしい。
欧米の道迷いに関する書籍「mountain navigation」には以下の記述がある。「
work your way slowly downhill folowing streams, as these tend to lead eventually to havitation」とあるように、川筋に下っていけば、やがて居住地にたどり着くという考え方もある。
とあり、川が必ず人間の領域に接しているのであるから川を回避するのは必ずしも得策とは言えないということだ。
但し、日本の山である場合には川は必ずしもslowlyではなく急で滝もあるというのはその通りだが、反対の登る時を考えると、「登ったからといって必ずしも登山道に復帰できるとも限らず、寧ろ悪路により滑落するリスクもある」のであり、そもそも山の中腹以上であるなら登山道に復帰するまでは短いが、山裾であると尾根であってもヤブが多いためそのもの移動に危険性とコストが掛かり、道なき登山は無意味であると考えられる。
これらのことにより、本書では「登るのが良いとも下るのが良いとも言えない」と結論付けている。
増田のゆる登山家供も、試しに山で迷った時などに荻上チキだったりインターネッツにわか仕込み知識で二重に遭難しないようにしろよ。
パワハラそれそのものや増田の書き込みという関係をもってハラスメントとするかみたいな話はしてへんやろ。
https://miyearnzzlabo.com/archives/49707
セクシャルハラスメントというのは、コミュニケーションの中で受け手の側が「ハラスメントだ」という風に感じた時に、それが問題として事実認定をされる必要があるわけですね
事実認定というキーワードがあるので、「事実認定されるまではセクハラ はセクハラ ではない」という論理にもなり得るが、なら事実認定させなければセクハラ なりハラスメントをやり放題か? という部分は倫理的な問題だ。
「コレをハラスメントだと思う、やめて欲しい」と言われたら即時停止するのが当然だろう。
アニメの作り手は一つの作品だけでも沢山いるので「なんで殊更声優に詳しい人が多いんだ?」という疑念は、全くアニメを観てなかった2年前の私も持っていたのだけれど、いざアニメを観るようになってからは、三度「彼らもこうやって声優のことを好きになったのかなぁ…」と思うことがあったので、そのあたりの経験を増田に投げてみようと思った。
アニメにハマった初期の頃は声優の名前を気にせず、物語の好き嫌いだけで観ていた(そういう意味では「アニメ=魅力的な原作を動画化したもの」という認識だったのかもしれない)のだけれど、去年ニコニコ動画で「ふらいんぐうぃっち」を観ていたとき、作り手に言及したコメントがたくさんあったので、自然と本作の監督、脚本、絵コンテ、音楽、背景等について興味が湧き、めっちゃ調べまくったのを覚えている。
それ以来、アニメは必ず作り手が誰かを気にしながら観るようになった。自分の好きな作品に関わるスタッフが別作品に関わっていれば、観てなくても好みの作品であることが分かるので、そういう「好きなスタッフ」を増やしていくことが、大好きな作品に出会うための一番の指針になるからだ。でもこの時点ではまだ、殊更に声優を意識することはなかった。声優の演技は基本ディレクション次第で、いい演技=いいディレクションだと思っていたからだ。
最初に声優の凄さを実感したのは〈物語〉シリーズだったと思う。どのキャラも作中で掘り下げていて必ず見せ場があるので、一通り中の人の好演を観ることができる。おかげでキャラと中の人の名前が一致するのにそれほど苦労しなかったのだけれど、そんな彼らが別の作品に出ていたのを観たとき、声がまるで別人みたいな声色や喋り方で(別人格だから当たり前なんだけど)、いくらディレクションが違うとはいえこんなに多彩な演技ができる声優ってすごい!と感じ、以降気になったキャラの中の人は「作り手」として積極的に覚えるようになった(この頃はまだ、アニメ作品の主演声優すら覚えてない事が多かった)。
一方、明確に声優個人の人となりを意識したのは「てさぐれ!部活もの」シリーズだった。これは中の人とキャラクターの境界が非常に曖昧な作品なので、本作に限り「このアニメを好きになる=中の人を好きになる」といっても過言ではない。また、本作はニコ動で公式ラジオを今でも無料開放しており、声優同士の馬鹿騒ぎや、それに対するファンからの愛のあるコメントを見ることができる。そこではどの声優も独特のいじられ方をしており、非常に愛に溢れた独特の空間になっている。当然声優個人に興味が湧いたので各声優のニコニコ大百科を見たのだけれど、どの声優のページもあらゆるエピソードや出演作を網羅的に記載していて驚いた。あまりに面白かったので、暫くの間声優の大百科サーフィンにハマっていたくらいだ。これだけの情報をまとめるファンたちはすごい。もはや一種のエンターテイメントである。おかげで、特定の作品の中の人を全員覚えることが出来た(全員覚えたのは本作だけかもしれない)。この頃から特定の声優目当てでアニメを観ることが多くなった気がする。
てさ部がキッカケで多くのアニメに(広報として)公式ラジオ番組があることを知った。この手のラジオは大抵出演声優がMCを務めているので、そのアニメのことを詳しく知りたいからと聴くうち、どんどん声優に詳しくなっていく仕様になっている(特にラジオはSound Onlyなので、声と名前を一致させるところから始める必要があるのも、これに拍車をかけている気がする)。
広報のための番組とはいえラジオはラジオなので、たまに声優個人の近況報告の中で友達の声優や同じ事務所の声優が話に出て来たりするのだけれど、その度調べていくうち「声優のラジオ界隈」というコミュニティにたどり着き、そこからは芋づる式に声優に詳しくなっていった(例:水瀬いのりさんのラジオにちょくちょく出てくる大西沙織さんと一緒にラジオをやってる佐倉綾音さんと仲がいい加隈亜衣さんと東山奈央さんとか)。ラジオを聴く限り声優は職業柄、横のつながりを大切にする人が多いようだ。声優は基本的に他事務所の声優と一緒に仕事をする機会は多く、同じ事務所の声優と一緒になる機会が少ないので、事務所を越えて交友関係が広がる傾向にあるとのこと。声優による、事務所を越えた労働組合を作る日が来たりして。
私はもともとラジオ大好きっ子だったので、ラジオパーソナリティの人となりが好きという理由だけで、福山雅治さんも荻上チキさんも伊集院光さんも朝井リョウさんもオードリーも菊地成孔さんも花澤香菜さんも西明日香さんも小澤亜李さんも黒沢ともよさんも吉田有里さんも本渡楓さんもラジオで聴いている。そう考えると私には「演者として好きな声優」と「人として好きな声優」がいるということなのだろう(必ずしも可分ではない)。ラジオという媒体は多かれ少なかれパーソナリティのプライベートを切り売りする仕事なので、聴けば聴くほど彼らを好きになってしまうのだ。例えば黒沢ともよさんのラジオを聴こうと思ったキッカケこそ「宝石の国」での演技に感動したからなのだけれど、「それはそれ、これはこれ」みたいな。
だから、「声優は好きだけどアニメは観ない人」も「アニメは観るけど声優には詳しくない人」もいて当然だと思う。なんせ声優の仕事は多岐に渡るので「アニメの仕事」は声優のいち側面でしか無く、「アニメに詳しい人が知る声優」と「声優が好きな人が知る声優」は必ずしも一致しないのだから。強いて言えば、多くの声優はアニメが大好きなので自然と「アニメが大好きで声優にも詳しい人」が多くなるのだろう。私みたいに。
よくアニメ実況のTLやニコニコのコメントで声優いじりのネタを書き込む人がいるけれど、あれも「普段ラジオや生放送で馬鹿騒ぎしてる人がアニメで真面目に演技している(笑)」とか「あの作品ではあんなにコミカルな演技してたのに(笑)」っていう、ある種声優本位な観かただったりするので、それはそれで楽しそうだ。
でも私にも全く分からない分野があって、たとえばアイドル声優(アイドルを描くアニメ等の作品と同時展開でリアルでもライブイベント等を通じてアイドル活動を行う人たち)だ。本当に何もわからない。もちろんそれは特定の声優をさすカテゴリではなく、あくまで声優のいち側面でしか無いのだろうけれど、個人的な観測範囲ではどうもファン層が異なるように感じる。あの界隈はやっぱりリアルでのライブに行かないとその本質が分からないものなのだろうか。もし増田erの中にアイドル声優(狭義)にハマってる人がいたら「アニメをどう楽しむのか」とか「アイドル声優と声優じゃないアイドルの違い」とか聞いてみたいな。あと、アニメキャラクターの性格と中の人の性格は当然違うわけだけれど、ライブってどうやって楽しむんだろう。やっぱり「それはそれ、これはこれ」なのかな。
TBSラジオ「荻上チキSession-22」の、6/7放送分のアーカイブを聞いて、同じTBSラジオの「アルコ&ピースD.C.GARAGE」が炎上していることを知る。
アルピーのラジオはANN時代から、「不要な奴をあえて主人公にする」「半端なやつにこそ価値がある」っていうような企画をやってきた。今回は(勝手に)「不要」と見なした相手が全然半端ではない、マーベルと黒人とヒスパニックの歴史を背負ったヒーローだった。そこを配慮せずに企画を発信してしまった「アルコ&ピースD.C.GARAGE」は、見識の浅さを批判されてしかるべきだろうと思う。全体的に、私もSession-22の荻上さんに同意だ。
という前提の上で、アルピーの一ラジオリスナーとして、アルピーのラジオ文脈的なものを知ってほしいという気持ちもある。上にも書いたが、アルピーのラジオは、ANN時代(=2012から2016までやってたアルコ&ピースのオールナイトニッポン時代)からずっと不要な奴を主人公に祭り上げるという企画をやってきた。
ANNの「平甲子園」とかそうだった。平甲子園は、「我こそは不要」というリスナーを募って、野球チームを作ろうという企画。
・友達がいないから、教室で地図帳の日本地図の県境をずっとなぞっている。日本はすぐになぞり終わったから世界地図に移行した。
・PTAの副会長だけど、ぜんぜん意見が取り入れられない。私がいなくても行事も会議も滞りなく進む。絶対私は必要ない。
・卒業式のサプライズで、クラスメイトが担任の先生が好きな歌を届けるという企画をしていたが、自分だけ知らされていなくて、一人だけ歌詞カードを持たずに俯いていた。
など、何か聞いてて涙が出てきそうなエピソードが集まり、数ある不要エピソードから選りすぐられたリスナーが、野球チームを結成。最終的に、このチームは甲子園を飛び越えてメジャーリーグでレッドソックスと対戦し、「不要なやつなんていない」ということを証明する。
アルピーのラジオには「何者でもない不要な奴」を敢えて中心に据える企画を打ち、アルピーの二人の演技力とトークで「何者でもない」やつを「何者か」にしてしまう。という流れがある。
アルピーのラジオは、学校でいうと、スクールカースト上位にはいられない、成績もよくない、オタクやマニアというほど何かを極めたわけでもない、中途半端で居場所のない人を主人公にする。みたいなことをずっとやってきた。
だから、今回も、「キャプテン」ではなくて、「キャプテンには内緒だぞ」というファルコンに価値が見出されたのだ。
アルピーのラジオを聞いていると、端々に、学校の成績は悪くていじめられっ子だった平子っち、ガチ川崎ヤンキーには逆らえない酒井ちゃん、みたいな、「何者にもなれなかったアルピー二人の学生時代」エピソードが出てくる。アルピーのラジオには、パーソナリティ二人の、「男社会の中で男らしさを達成できなかった自分」みたいなものが流れていて、半端者たちがこのラジオに集う。佐藤多佳子さんの『明るい夜に出かけて』の主人公――大学を休学してコンビニでアルバイトをする行き場を失くした青年――も、その一人だった。
このような背景があるからこそ、酒井ちゃんも「キャプテンには内緒だぞ」なファルコンを好きになったんだろう。
Twitterのアルピーファンが指摘しているように、DCGではここ最近、ずっとファルコンの話をしていた。酒井ちゃんは同じTBSで放送しているうしろシティのラジオにゲスト出演した時すらファルコンの話を持ち出した。この回で、酒井ちゃんは、キャプテンアメリカ好きの金子さん(うしろシティ)に「キャプテンよりもファルコンがいいんだって!」と主張し続けている。酒井ちゃんがファルコンを好きなのは確かだ。
しかし、アルピーのラジオにおいては、「不要さ」こそが「主人公」の証となる。この文脈が炎上に繋がった。
確かに、アルピーのファルコン理解はめっちゃ「浅い」。マーベルを深く掘るでもなく、歴史的な文脈を踏まえて映画を見るような「見識」もない。
黒人の歴史とかよく分かんないけど、ファルコン、マジおいしいキャラじゃん!
みたいなノリしかない。だから、今回の炎上はなるべくしてなったと思う。でも、そういう軽くて半端なノリこそが、リスナーの居場所でもあった。アルピーのラジオは学校の端っこでノリで話してたことが日本中、世界中に発信されてしまったみたいなところがあり、アルピーもリスナーも「そういうつもりじゃない」と言いたいだろう。
だけど、パロディするなら、原作の文脈に乗るのは当然であって、怒っている人たちに「そういうつもりじゃない」と言ったって、自分からその文脈に乗りに行ったのだから言い訳しようがない。アルピーにはアルピーの文脈があるように……いや、それ以上に、遙かに長く、ファルコンにはファルコンが切り開いてきた文脈と歴史がある。だから、炎上させてしまった側から、「そういうつもりじゃねえんだよ」と言うようなものではない。指摘は真摯に受け取るべきだろう。
私は、「半端なやつ」と思って企画のネタにしようとしていた相手が大ヒーローだった、というこの滑稽さにこそ、アルピーDCGらしさを感じる。
TBSラジオの22:00-24:00のセッション22で活躍する荻上チキ氏。
彼は割と理論立てて物事を語る割に、一方の現実問題の部分を伏せて語っていたりと詭弁めいた語りが多いというのが良く言われるところ。
なんで、増田の力をもってして荻上チキの語りを論破してみよう。
因みにさっき言ってた事だと
「これからの日本は高齢化社会に突入するに際して介護の人員が圧倒的に足らなくなるということが言われていますが、介護の人員を増やすためには待遇を良くする事が絶対で、待遇を良くする事が出来ないのならば外国人を労働力として入れるという考えは間違っている」などなど力説されておられた。
肝心の「サービス減らせばいいんでね?」って部分には触れずな。
こういう部分にどんどん突っ込んで行こう。
前回早朝に書いたときは誰も見てなかったのでもう一度書く。
平和を脅かし、国民の主権を踏みつけにし、主権者国民の権利をないがしろにしつづけている。
今、安倍政権をとりまく種々の問題はすべてこの条文を改正しようとしているがために起きている。
それはクワトロ・バジーナがシャア・アズナブルその人であるというくらい公然の秘密だ。
70才を超え、TVばかりみている私の父でも知っている。
戦争放棄の平和憲法の条文を守ることを政治信条とする人間たちが、話し合いをする場でいつも話し合いをせず、相手をゆるさず、理解せず、ただただ痛烈に非難するだけなのに、国と国との紛争解決の場で、兵士や市民の命を懸けて武力を用いそうになっている極限状態で、急に他の人たちには決してまねのできないレベルの有意義な話し合いをするという。
なんという傲慢。なんという他人蔑視。なんという問題認識能力の不足。
これはごくごく単純なコモンセンスだろう。
トマス・ペインが今日本に生きていたら「イエス(高須)」と賛同してくれるに違いない。
安倍政権よりも真っ先に糾弾すべきは野党だ。まっとうな政治をするために欠けているのはまっとうな政権よりもまっとうな野党だ。
でもこんな国民のコモンセンスが決して共有されないマスメディア。
メディアの安倍政権追求報道を見ていると、「アポロは月面着陸していなかった説」を主張する陰謀論者の話を聞いているようでほとほと理性をすり減らしてしまう。こっちまで馬鹿になりそうだ。
どんなに有効な反論をしても黙殺されて、何か自説に都合の好さそうな材料を小出し後出しで持ってくる。
これはオールドメディアの自殺としてのちに歴史の教科書に載るべき事件だ。この事件の構図や裏側をスクープすることこそジャーナリズムじゃないのかね。いや本当に。
ところで、私はしがないサラリーマンだ。生活に必死だ。後進国の人々に生活水準でどんどん追い越されている立場のものだ。
でも、こういう私を赤化あるいはリベラル化しようとはせず、馬鹿にしているエリート層が日本の赤でリベラルだ。これも公然の秘密だし、コモンセンスだ。
こういう増田を書けば、私もネトウヨと揶揄されているものの一人になるだろう。
でも私は思う。私は荻上チキと文化論ではいい友達になれると。もちろんこれはコモンセンスじゃない。
でも彼は私のことを馬鹿にして決して友達とは思ってくれないだろうね。これはコモンセンスかもしれない。
さて私は2度転職して3度パワハラを受けた。今の野党がやっているような内容だ。
できるはずのない仕事量を押し付けてミスがあった。仕事の基礎を揺るがすようなミスだと騒がれた。でも本当は些細なミスだ。騒いでいる当の本人が協力すれば防げたし、わずかな時間でカバーできる。本当に基礎をゆるがすようなミスならばあなたはなぜそんなに無関係を気取っているのか、本当にあなたに責任はないのか、なぜそんなに非協力的なのか全く理解できなかった。
野党が悪魔の条文を守るためにやっていることは、国民の生活を脅かすパワハラ文化を日本に根付かせ、正当性を与えるようなものだ。
多くの人は見たことあるだろう。パワハラ現場を。あの野党のやり口はまさにそれではないか。
労働者を守る。代表する。と自認する立場の国会議員が労働者が苦しむパワハラのやり方を公開講座として日々メディアにのせる。
森友問題は、安倍昭恵さんの脇が甘くて詐欺師に懐にもぐりこまれたのが真相なのはコモンセンスだ。奔放な性格の昭恵さんを証人喚問して、そのうえで挑発して不規則発言を誘導し旦那の首をとろうという野党とその協力メディアの筋書きもまたコモンセンスだ。こういう本当に罪を犯していなくても有罪として裁いてやろうというやり口が職場ならパワハラだし、学校ならいじめのやり口そのものだというのは、もちろん、コモンセンスだ。
私はたまたま利益を上げることできる才能と運に恵まれていて3度ともパワハラをしのげた。だが、昭恵さんは相手が悪い。スターリンのように罪状はなんでもいい。最初から首だけを狙っているからだ。これもまたもちろんコモンセンスだ。
加計問題の本質は安倍さんの友人であれば人権は制限される。ゆがめられてきた獣医教育行政を正す機会と能力に恵まれても実行してはならない。安倍さんの友人が安倍さんと志を同じくして協力してはならないという点にある。安倍首相は常に孤立していなければ不正なのだ。これは野党とメディアのコモンセンスだ。一方で、セクハラをしたとされる福田財務次官よりもよほど悪質で、直接手まで出している鳥越俊太郎氏が別段問題視されず、その後もTVでご意見番をしているのは悪魔の条文の有力守護者であるからというのは国民のコモンセンスだ。守護者たちの友人関係は「善」なのだ。自分たちの連帯が素晴らしいからだ。
台湾出身で、台湾国籍をさかのぼって抜くために台湾政府に借りを作っている野党議員や、他人を疑惑の総合商社と非難しておいて自分が詐欺を働き、さらにそのうえで「ワークシェアリングだった」などと珍妙な言い訳をして今また首相を詐欺師扱いしている野党議員、そういう人たちがのほほんと議員を続けていられるのも悪魔の条文の守護者に加担しているからだ。これももちろんコモンセンス。
外国に借りを作った国家権力者がその後どういう行動をとるか、ドイツに特別列車を用立てられたレーニンがドイツと講和をして領土をたくさん割譲した例をみても明らかだろう。そして結局即時講和、平和を叫んでも実際は列強の干渉戦争を呼び込んでしまった。
自分の詐欺を十分に反省しない癖に、ほとんど女と甘酸っぱい時間を過ごせていない私のようなすばらしい日本男児をレイプ魔の子孫として世界に紹介し、歴史に記録しようとする。だれもまずは自分がやりすぎなくらい反省しなさいよと教えてあげない。他人にはやりすぎなくらい反省しなさいと強要してくる。20万人の性奴隷強制連行が嘘八百というもやはりコモンセンスだし、罪のない無力な市民を無実の罪で吊し上げ迫害するのが左翼の政治信条。これもコモンセンス。
私たちの知る権利、野党を正す権利、労働者としての権利、歴史的無実を叫ぶ権利、挙句の果てには総選挙で民意を示す権利でさえも憲法9条を守るという大義名分によって踏みにじられようとしている。この条文があるからこんなことが立て続けに起きるのか!?そうなのであれば、必ず!絶対に!すぐさま!憲法9条悪魔の条文は改憲されなければならない。これこそがここで一番言いたかったコモンセンスだ。
私がもし熱烈な護憲論者なら今すぐこの卑劣な改憲阻止運動を糾弾する。国民すら二派にわけて争わせる平和主義者・武力放棄論者があってたまるか。(武力蜂起論者なら合点がいく。)
そんなやつらには絶対に紛争を話し合いで解決できないだろう。今だって解決できないし、する意思もない。拷問の末無実の罪を自白させるようなことをやっている。まぁ、政治信条からしてそういうやり方が好きなんだろうけど。これもやっぱりコモンセンスだね。
平和を脅かし、国民の主権を踏みつけにし、主権者国民の権利をないがしろにしつづけている。
今、安倍政権をとりまく種々の問題はすべてこの条文を改正しようとしているがために起きている。
それはクワトロ・バジーナがシャア・アズナブルその人であるというくらい公然の秘密だ。
70才を超え、TVばかりみている私の父でも知っている。
悪魔の条文を守ることを政治信条とする人間たちが、話し合いをする場でいつも話し合いをせず、相手をゆるさず、理解せず、ただただ痛烈に非難するだけなのに、国と国との紛争解決の場で、兵士や市民の命を懸けて武力を用いそうになっている極限状態で、急に他の人たちには決してまねのできないレベルの有意義な話し合いをするという。
なんという傲慢。なんという他人蔑視。なんという問題認識能力の不足。
これはごくごく単純なコモンセンスだろう。
トマス・ペインが今日本に生きていたら「イエス(高須)」と賛同してくれるに違いない。
安倍政権よりも真っ先に糾弾すべきは野党だ。まっとうな政治をするために欠けているのはまっとうな政権よりもまっとうな野党だ。
でもこんな国民のコモンセンスが決して共有されないマスメディア。
メディアの安倍政権追求報道を見ていると、「アポロは月面着陸していなかった説」を主張する陰謀論者の話を聞いているようでほとほと理性をすり減らしてしまう。こっちまで馬鹿になりそうだ。
どんなに有効な反論をしても黙殺されて、何か自説に都合の好さそうな材料を小出し後出しで持ってくる。
これはオールドメディアの自殺としてのちに歴史の教科書に載るべき事件だ。この事件の構図や裏側をスクープすることこそジャーナリズムじゃないのかね。いや本当に。
ところで、私はしがないサラリーマンだ。生活に必死だ。後進国の人々に生活水準でどんどん追い越されている立場のものだ。
でも、こういう私を赤化あるいはリベラル化しようとはせず、馬鹿にしているエリート層が日本の赤でリベラルだ。これも公然の秘密だし、コモンセンスだ。
こういう増田を書けば、私もネトウヨと揶揄されているものの一人になるだろう。
でも私は思う。私は荻上チキと文化論ではいい友達になれると。もちろんこれはコモンセンスじゃない。
でも彼は私のことを馬鹿にして決して友達とは思ってくれないだろうね。これはコモンセンスかもしれない。
さて私は2度転職して3度パワハラを受けた。今の野党がやっているような内容だ。
できるはずのない仕事量を押し付けてミスがあった。仕事の基礎を揺るがすようなミスだと騒がれた。でも本当は些細なミスだ。騒いでいる当の本人が協力すれば防げたし、わずかな時間でカバーできる。本当に基礎をゆるがすようなミスならばあなたはなぜそんなに無関係を気取っているのか、本当にあなたに責任はないのか、なぜそんなに非協力的なのか全く理解できなかった。
野党が悪魔の条文を守るためにやっていることは、国民の生活を脅かすパワハラ文化を日本に根付かせ、正当性を与えるようなものだ。
多くの人は見たことあるだろう。パワハラ現場を。あの野党のやり口はまさにそれではないか。
労働者を守る。代表する。と自認する立場の国会議員が労働者が苦しむパワハラのやり方を公開講座として日々メディアにのせる。
森友問題は、安倍昭恵さんの脇が甘くて詐欺師に懐にもぐりこまれたのが真相なのはコモンセンスだ。奔放な性格の昭恵さんを証人喚問して、そのうえで挑発して不規則発言を誘導し旦那の首をとろうという野党とその協力メディアの筋書きもまたコモンセンスだ。こういう本当に罪を犯していなくても有罪として裁いてやろうというやり口が職場ならパワハラだし、学校ならいじめのやり口そのものだというのは、もちろん、コモンセンスだ。
私はたまたま利益を上げることできる才能と運に恵まれていて3度ともパワハラをしのげた。だが、昭恵さんは相手が悪い。スターリンのように罪状はなんでもいい。最初から首だけを狙っているからだ。これもまたもちろんコモンセンスだ。
加計問題の本質は安倍さんの友人であれば人権は制限される。ゆがめられてきた獣医教育行政を正す機会と能力に恵まれても実行してはならない。安倍さんの友人が安倍さんと志を同じくして協力してはならないという点にある。安倍首相は常に孤立していなければ不正なのだ。これは野党とメディアのコモンセンスだ。一方で、セクハラをしたとされる福田財務次官よりもよほど悪質で、直接手まで出している鳥越俊太郎氏が別段問題視されず、その後もTVでご意見番をしているのは悪魔の条文の有力守護者であるからというのは国民のコモンセンスだ。守護者たちの友人関係は「善」なのだ。自分たちの連帯が素晴らしいからだ。
台湾出身で、台湾国籍をさかのぼって抜くために台湾政府に借りを作っている野党議員や、他人を疑惑の総合商社と非難しておいて自分が詐欺を働き、さらにそのうえで「ワークシェアリングだった」などと珍妙な言い訳をして今また首相を詐欺師扱いしている野党議員、そういう人たちがのほほんと議員を続けていられるのも悪魔の条文の守護者に加担しているからだ。これももちろんコモンセンス。
外国に借りを作った国家権力者がその後どういう行動をとるか、ドイツに特別列車を用立てられたレーニンがドイツと講和をして領土をたくさん割譲した例をみても明らかだろう。そして結局即時講和、平和を叫んでも実際は列強の干渉戦争を呼び込んでしまった。
自分の詐欺を十分に反省しない癖に、ほとんど女と甘酸っぱい時間を過ごせていない私のようなすばらしい日本男児をレイプ魔の子孫として世界に紹介し、歴史に記録しようとする。だれもまずは自分がやりすぎなくらい反省しなさいよと教えてあげない。他人にはやりすぎなくらい反省しなさいと強要してくる。20万人の性奴隷強制連行が嘘八百というもやはりコモンセンスだし、罪のない無力な市民を無実の罪で吊し上げ迫害するのが左翼の政治信条。これもコモンセンス。
私たちの知る権利、野党を正す権利、労働者としての権利、歴史的無実を叫ぶ権利、挙句の果てには総選挙で民意を示す権利でさえも憲法9条を守るという大義名分によって踏みにじられようとしている。この条文があるからこんなことが立て続けに起きるのか!?そうなのであれば、必ず!絶対に!すぐさま!憲法9条悪魔の条文は改憲されなければならない。これこそがここで一番言いたかったコモンセンスだ。
私がもし熱烈な護憲論者なら今すぐこの卑劣な改憲阻止運動を糾弾する。国民すら二派にわけて争わせる平和主義者・武力放棄論者があってたまるか。(武力蜂起論者なら合点がいく。)
そんなやつらには絶対に紛争を話し合いで解決できないだろう。今だって解決できないし、する意思もない。拷問の末無実の罪を自白させるようなことをやっている。まぁ、政治信条からしてそういうやり方が好きなんだろうけど。これもやっぱりコモンセンスだね。