はてなキーワード: 平成生まれとは
若い頃は楽だったなー。
若い頃はな…
アラサーは大枠の「若い」を抜けただけでまだ老けきってもいない微妙な年頃なので、ほんの数年前を指して「若い頃」とはあまり言わない。
老化の始まりを自覚するが、まだまだ動けるし、社会的には比較的若手扱いの宙ぶらりんな時期だ。アラサーで若者の矜持を完全に捨て切っている人は少ない。
本当に増田がアラサーなら、遠い目をして「若い頃はな…」とぼやくのはイキりたい大学生みたいで少々ダサいので、「10代の頃は」と言い換えた方がいいかも。
私にはアラフィフに片足を突っ込んだ姉がいるが、彼女は若い頃出会いを求めて合コンに行っていた。
あの時代は出会い系サイト全盛期でもあったので、繁華街があるような土地なら簡単に相手が見つかったはずだ。
増田がアラフィフ以下なら、わざわざ寒い思いをして花壇のふちに座る必要はなかったのではないか。
「ああっ、ごめんなさい!タバコの灰がっ」
「っ」に加齢臭がこもっている。アラフィフ以上の人が若い頃読んでいた漫画には、語尾に「っ」を多用するセリフが多い。
当時はマチアプなんてYYCくらいしか無かったけど、それを使うより野生の男とエンカウントするのが楽で手っ取り早くて良かった。
なぜ前段で姉の話をしたかというと、ここがあまりにもおかしかったからだ。
私たちが大人になった頃にはもうスマホもLINEも、いわんやマッチングアプリも一般に普及していたはずだ。
https://www.ibjapan.jp/match-lab/history02/
今年34歳になる人は90年(平成2年)生まれ、25歳になる人は98年(平成10年)生まれなので、大手アプリそっちのけでYYCを使っていたアラサーは相当趣味が渋い。
たまに声をかけてくれる人があっても、オバチャン扱い笑笑笑
“オバチャン扱い笑笑笑”
“ヤニ食って”
明らかに平成生まれの語彙ではない。友達が使っていたらどこで覚えたのかと笑ってしまう。
文体の分析と模写が趣味の釣り師かな。露骨すぎるからもう少し抑えて。
夫は40前に差し掛かって、柔らかくなり、回数もできなくなった夫チンポ。
アラフォーにしては衰えが早すぎる。
元彼の今のツレに払う金はない。
「今カノ」でも相当に古いが「ツレ」は…ガラの悪い人なら言うのかなぁ。アラフィフ以上の人が使うイメージ。
平成生まれだけど悲しいかな、男オタクに悪い印象を持つことは起きても良い印象を持つことが起きないので、ほんのりと嫌い、のまま止まってる
発射もされなかった
コーチはサラダ油かなにかを使ったらしく、大量に腸内に入れられたようだった
誇張して覚えているかもしれないが、帰り道に油が肛門から垂れ流しで気持ち悪かったのを覚えてる
遅刻が多いから後で残るようにと言われてコーチと二人きりになった末のことだった
平成生まれだし怒鳴られることはあっても体罰は受けたことがなかった
でも知識として、お尻ペンペンの存在、その際に脱ぐこともあるとも何故か知っていた
何発か手じゃなく、多分冊子を丸めたもので叩かれた後で肛門をいじられた
なんだろうと思ったが不思議と抵抗はせず罰の延長と思ったままレイプされた
特に口止めもされずそのまま帰された
家には、泥だらけで帰ったら裏口から入って、シューズなど汚いものを洗う専用の洗濯機に汚れた服を突っ込み
パンツ一丁でリビングを横断してる時も油が垂れてて気づかれないかスリリングだった
それまで気づかなかったが、肛門に傷が入っていて洗うと痛かった
でも耐え難い激痛ではなかったし、寒いので湯船に浸かった
1週間経たないぐらいで親に病院に連れて行かれた
理由は言われず、その年は出てなかったと思うがたまに冬季喘息があったのでそれかなと思った
親は俺がレイプされたことを何故か察していたらしくその検査だった
コーチのやったことは何か良からぬことではないかというぼんやりした問題意識はあったので素直に全部話した
多分警察の人だったのか、日を分けて何人かの人に同じことを話した
親は別に泣いたり怒ったりなどせずいつもと変わらない態度だった
野球には行かなくなった
気になってコーチの名前で検索したが特に出てこなかったので事件になっていないようだ
中学生になり野球ではない部活に入ったら、かつての他校の野球仲間が先輩にいた
コーチはホモで小6に手出して辞めさせられたんだぞと先輩は面白話のように話してきた
俺のことは知られてなかったのか、俺がいないところで噂されてたのか
俺一人だけがレイプされて伝播するにつれて小6ということになったのか、何人もレイプされたのか
物理的傷はとっくになく、心理的傷も大してないが、コーチの犯行の全容は気になっている
今更親に聞くのもなあー
松本人志がそういう奴なのは有名では?これもジャニー喜多川に関する「ジャニーさんは若い男の子が好きだから(笑)」みたいに一般人にも娯楽ネタ的に扱われてきただけでしょ。
松本人志、「バナナマン日村どころじゃない!」過去のロリコン発言が発掘され物議に
https://dailynewsonline.jp/article/1527637/
「じつは松本は20~30代の時期には、自身でも”ロリコン”を公言しているんです。特に放送作家・高須光聖(54)との深夜ラジオ『放送室』(TOKYO FM)では『乳さえ出たら小学生でもイケる』『中学生が大好き』など、今となっては呆れるような暴言を連発。松本は、ほかにも2005年以前には『松紳』(日本テレビ系)では『平成生まれとセックスしたい!』と発言したり、『ダウンタウン DX』(日本テレビ系)でも『15歳ぐらいがストライクゾーン』などと語っている。未成年が好きというレベルではバナナマン日村どころじゃないと言えるでしょう」(週刊誌記者)
もちろん松本のケースは彼一流の(若い女性が好きという)”例え話”であり、まさか小・中学生に手を出したワケではないだろうが、その周辺には”状況証拠”が多過ぎるようだ。
アーティストのUA(46)も松本のおっかけをしていたようで、 1998年4月13日放送の『HEY! HEY! HEY!』(フジテレビ系)に出演した際に裏話を披露している。心斎橋二丁目劇場で出待ちをしていたというUAは「松本さん、ロリコンだったじゃないですか。私当時15だったんでイケるかな~、って思って」と当時を振り返り暴露。 浜田雅功(55)も「(松本は)ふつうに14歳とかと付きおうてたからな」と同意した。これには松本も「ウソ言うな、誤解されるやろが、ホンマ告訴するで」と反論するも、「ええよ、告訴してみい。勝てるもん俺」と自信をうかがわせていた。
祖父のような人が、昨日死んだ。
血の繋がった祖父は、自分の生まれる前に亡くなっていた、少なくとも父方の祖父は、割と早くに亡くなったらしかった。
母方の祖父は、母親が子供の頃に祖母と離婚しており、多分早くに亡くなったのだと思うが、仮に生きていても会うことはなかった。自分がいつそんなことを聞いたのかは確かではないが、物心ついた自分が、血の繋がった祖父、というものを意識した時にはどうやら亡くなっていたらしいのは確かだ。
「祖父のような人」は、僕が生まれるずっと前から、祖母と一緒に暮らしていた。多くの人が誰しも持つ思い出のように、自分も子どもの頃、祖母と彼の住む家に遊びに行き、甘やかされ、小遣いをもらい、トランプやら野球やら将棋やらをして、思う存分に遊んだ。
将棋のルール、司馬遼太郎、池波正太郎、他にもいろいろと、今ではどれが彼に教わったものか一々思い出せない程、いろいろなことを彼は教えてくれた。
むしろ、祖母と彼には、高級旅館に何度も旅行に連れて行ってもらったり、高級料理を食べたり、普通の人よりも随分いい思いをさせてもらった、祖母のお金だったのか、彼のお金だったのか分からないが。
祖父、おじいちゃん、適切な言葉は分からないが、彼は自分にとって唯一のそういった存在だった。彼は無責任で、冗談と嘘をよく話し、調子のいい軽口を叩き、良い人間とも思えないが、憎めない人だった。
陽気に昔の自慢話を語り、祖母や叔母に返す刀で昔の失敗をからかわれると、機嫌を損ねて無口になり、眠ければ眠り、食事の時は誰よりも早く食卓について料理が出てくるのをやたらと祖母に急かした。彼は一言で言えば、「簡単」な人だった。読書好きで、色んな経験をしてきたらしい割に難しいことは考えず、毎日似たようなことをして気楽な生活を送っていた。
祖母が彼と暮らし始めたのは、離婚した直後のようだった。母や叔母(母の姉、祖母の娘)は、彼のことを時折「おとうさん」と呼んだし、祖母、叔母、母、彼の四人で暮らしていた時や旅行をした話を聞くことも稀にあった。
ただ、彼は、外に出れば家族ではなかった。彼の苗字は一人だけ違った。祖母が「田中」(仮名、でもそれくらいありふれた苗字だった)と彼の苗字を口に出す時、聞いてはいけないタブーに踏み込んでいるようで、胸がざわついた。今でも克明にそのざわつきを思い出すことができる。
父方の家族に会う時、彼がその場に来ることは当然なく、それどころか、彼のことを口に出してはいけない、そんな人はいないものとして話さないといけないことは、子どもの自分にもいつの間にか十分過ぎるくらい分かっていた。
父は自分や兄や母とともに、母方の祖母の家に行くこともあったが、彼のことを嫌っており、彼と会ってもまともに話さず、彼の話を自分や兄から聞くと不機嫌になった。自分も兄も馬鹿じゃなかったので、幼い頃から、彼の話を父の前でしてはいけないことは分かっていたが、父は、祖母の家から帰ってくるたびに普段の落ち着いた様子からは考えられない程ぶっきらぼうに「田中はいたんか」と自分に聞いて、「うん」とだけ自分が答えると、より一層不機嫌になった。
母は、自分たち兄弟を育てながら、よく酒を飲み、よく荒れた。父は単身赴任で平日ほとんどおらず、母は毎晩のように台所で酒を飲み酔っ払って、自分や兄を理不尽に怒鳴って手を挙げ、警察や学校や塾にやたらと電話をかけてほとんど脅迫に近いようなクレームを怒鳴り散らかした。たまに帰ってきた父がそれを制止すると、コンクリートで出来た平成生まれの一軒家ですら、簡単に壊れてしまうのではないかという程の暴れ方で反抗した。酒を飲んだ母は、怪物だった。
母は、素面の時、神経質で、常に他人の目を気にしていた。タクシーの運転手にも、ずいぶん年下の店員にも、学校の先生にも、息子の同級生の親にも、そこまで丁寧に話さなくてもいいのにという程、丁寧に低姿勢に話した。素面の時も、酒を飲んで暴れる時も、母は「正しい社会」から向けられる目に怯え、苦しみ、酒を飲んだ時だけ、自分の正しさを暴力的に吐き出すことで、何とか自分という存在を保とうとしていた。
自分が中学生か高校生くらいの頃、彼には今は離れて住む子供がいることを知った。思えば「いない」とも聞かされたことはなかったが、はっきりとそれを聞いた時は、ただ胸の内で「そうだったんだな」とショックを受けたのを何となく覚えている。
それくらいの頃、叔母が離婚し、一人暮らしを始め、段々と精神を病み、盗聴されている、組織に狙われてるなどと、典型的な統合失調症の症状が出始めた。
この頃から父はよく自分にもはっきりと言い始めた。母が酒に荒れ、叔母が病んだのは、家庭環境のせいだ、母、叔母の親である祖母と、彼が不倫をして、母や叔母の実の父親を追い出したからだ、と。きっと母や叔母は、「外で言ってはいけない」ことを家の中で強く教えられ、世間の目を気にして怯えて生きてきたのだと。
それはある意味で納得のいく説明だった。祖母は、離婚の理由を、相手、僕の実の祖父の賭け事のせいと言っていたが、どこまで本当かよく分からなかった。
知り合い、昔からの友人である大学の同級生と会う時も、祖母は、「娘が二人いて、孫もいる独り身」として話しており、彼のことを誰にも言っていないようだった。
お盆、お坊さんがお経を唱えに祖母の家に訪ねてくる時、彼は訪ねてくる少し前に外出し、お坊さんが帰ってもういないことを電話で聞くと、すぐに帰ってきた。用事があって出かけるのではなかったから、すぐ近くにいたのだろう。祖母は、お坊さんが来る時間をいつも気にして、去年は遅かったとか今年は早過ぎるとか言っていたが、後ろめたさと面倒なことへの苛立ちが入り混じっていたのだと思う。
彼は、彼の子供とは長年会っていないようだった。彼の子供は、僕の父や母と同年齢程度のはずだが、彼の子供や、家庭のことを思うと、僕に罪はないのに申し訳ないというか、複雑な気分になった。彼の家族が彼のことをどう思っていたか分からないが、少なくとも誇りには思っていなかったのではないかと思う。
祖母と彼は、僕が知る身近な家族の中で最も夫婦らしい二人だった。時に自分の子どもたちを犠牲にしてまでも二人の時間を過ごし、お互い喧嘩し、お互い気ままに生きて、美味しいご飯を食べ、よく酒を飲み、一緒になってから数十年間を死ぬまで共に暮らした。
この一年程、彼はほぼ寝たきりになり、祖母は、彼の子供のところへ帰って欲しいと伝えていたようだが、結局最後まで彼が聞き入れることはなかったようだった。
彼とのことで一番はっきりと思い出せるのは、大学で落研に入った自分に、彼が帯をくれたことだった。自分の着ていた着物は、桃色で、当時自分が持っていた水色の帯とは合っていなかった。祖母がその写真を見て、「合う帯があったら、おじいさんにもらい、おじいさん、呉服屋の社長をやってたから」と言った。彼は昔の仕事の話をされるのが少し気まずいのか、「ええの残ってるか分からんで」と言っていたが、次会った時に、自分の着物によく合う、濃紺の帯をくれた。とても気に入った帯だったし、締める時は不思議な気合が入った。他人に言えない自分の生まれを、言葉に出さずとも身に纏って話しているようだった。
思えば彼について知らないことも多い。下の名前も一度くらいは聞いたことはある気もするが思い出せない。思い出すのは、人となりと、「田中」と呼ばれているのを聞いた時の、あのばつの悪さだ。彼がくれた帯も、彼がどこにしまっていたのか分からない。少なくとも祖母と彼が暮らしていたマンションには、彼の私物をしまうスペースはほとんどなかったはずだった。彼は、祖母のマンション以外にも一応自分の部屋を借りていたらしいが、ほとんど帰っていなかったし、何を残して、何を捨ててきたのか、いつから祖母と暮らし始めたのかも、本当のところはよく分からなかった。
「二日前くらいから入院してもう危ないとは聞いてたんやけどな、おばあちゃんが病院行かはったんやけど、内縁の妻、言うんかな、死んでも詳しくは教えてくれへんのやて。ほら、おじいちゃんて、"田中"さんやんか、息子と娘さんがお葬式とかお通夜しはるから、心の中で弔ってあげてな」
母は冷静に話すようにつとめているようだったが、その話し振りは、まだ状況が飲み込めない子どものようでもあった。
母にとって、彼がどんな存在だったのか分からない。少なくとも、幼少期ともに過ごし、自分の血の繋がった親である祖母と暮らし続けていた「彼」のお葬式にもお通夜にも出れないことは、やはりショックな出来事であり、何を悲しんでいいのか、すぐには整理がつかないようだった。
きっと、親である祖母が離婚して、その後すぐ彼が家に来て、そこからずっと母は、同じように色んなことを飲み込めないまま生きてきたのだと思った。
もう高齢で、ボケかけの祖母は、すぐには状況が完全に理解できなかったらしく、母からLINEが入っていた。
母は気持ちの整理がつかないのか、若干文章ががおかしかったが、「やはり 悲しいことと思います。」と書かれていた。
彼が死んだら、お葬式にもお通夜にも、自分はおろか、「田中」以外の人間が出ないことは、ずっと前から、僕が生まれるよりも前から分かっていたことだった。
別に祖母がそのことをどうにかしようとする素振りもなかった。祖母と彼はただ一緒に暮らして、おそらく楽しい思い出をつくり、何かを片付けることもないまま、彼は死んだ。
残された人はみんな、この悲しみをどう受け止めていいかも、怒っていいのかも、誰に話していいのかも、どう弔えばいいのかも、分からないままだ。
祖父のような人が、昨日死んだ。このことを上手く話せる日が、いつか僕に来るだろうか。
うちの職場にはプライベートで一緒に旅行に行くほど仲のいいアラフォー独身女、アラフォー既婚子無し男、アラフォーバツイチ子無し男の3人組が職場にいる。
頻繁に3人でスポーツしたり、職場の若者を引き連れて飲みに行っている。職場の他のアラフォーの人は家庭を持って子育てをしているため、青春を楽しむ子供のように見えてしまう。
仲良しなのは結構なことだが困ったことに仲良しさを仕事に持ち出している。必要な業務上の情報共有はしないし、仕事中にチャットで業務外の話をしている。さらに困ったことに上司達はそういった行動を指摘せずに見逃している。仲良し3人組は仕事ができるため、上司は何も言えないのだと思う。自分が平成生まれの20代のため昭和生まれの考えや文化の理解ができていないだけかもしれないが、出会った時からものすごく痛いおじさんおばさんだと思ってしまっている。
仕事でなにかあっても自分が責任を負う立場ではないため、これまで通り好きにしててもいいとは思うが仲良し3人組が自分の上司になるのは絶対に嫌だ。そうなる前に転職しようと思っているが、どこの職場でも拗らせてしまった大人ってみんなこんな感じになってしまうのだろうか。老後のことを考えて結婚したり子供を作ったりしないのが不思議でたまらない。
※この記事の趣旨は決して「昔こんないじめに遭った、ひどい」ではありません(世の中にはもっともっと凄絶で深刻ないじめが蔓延しているのだから、大昔のこの程度のことを訴えるために書いたのでは当然ない)。
しいて要約すれば「男性の優しさを厳しく見極めようとしてしまう変な癖がついてしまった人生」の話です。
私はアラサーになった今でも「子どもの頃スポーツが得意だった」「明るくて優しい」男性のことを一切信用できない。それゆえ、好意を打ち明けてくる男性がいると必ず変な尋問にかけてしまう。
小学生の頃、一日だけいじめにあったことがある。原因は私にもほかの誰にも、おそらくいじめてきた男子本人にすらわからない。ただある日突然、クラスのひとりの男子がこう宣言したのだ。「俺は今すごくイライラしているから、今日一日だけ、誰か一人をターゲットにしていじめる」と。その標的になったのが私だった。その男子は普段いじめっ子ではないし、また私も普段いじめられっ子ではなかった。たしか「だれにしようかな」とかでランダムに選ばれたのが私だったけど、その男子は足が速くて、私はめちゃくちゃ足が遅かったので、小学校でありがちな強者と弱者の構図にぴたりとはまっていた。
それで何をされたかというと、かなり記憶が薄れてはいるが、覚えているのは体育館でひたすら一対一でドッジボールか何かの硬いボールを繰り返し投げつけられて私が逃げまわるという光景だ。あれが体育の時間だったのか休み時間だったのか、私がそこに行かない/そこから逃げ出すという選択肢はなかったのか、同級生や先生たちはそのとき何をしていたのか、その場面に至るまでの状況は残念ながらもうまったく思い出せない。
普段問題児でもない子が、普段からいじめに悩んでいるわけでもない子に、一回限りだと宣言してやったことだから、周りの人たちもまあ反応に困っただろう。ボール遊びをしていて(同時に罵倒もされていたが)私が一方的にボールを当てられてしまうのは、単にその子の運動神経がよくて私がどんくさいから、とも言えるかもしれなかった。
このほかにも、たぶん私がトロいせいで、小学生男子の有り余るエネルギーを暴力として喰らってしまったことはある。掃除の時間に床の雑巾掛けをしていたら男子がいきなり頭の上に座ってきて、床に顔面を強打したことがあった。どうもその男の子は、雑巾掛けをしている子たちの上に次から次へのしかかろうとして、雑巾係はその股の下を潜って避けたらセーフみたいな遊びになっていたらしかった。でも私はトロいから避けられなかった。床にぶつかった衝撃で鼻の付け根がツンとして涙がぽろぽろ出たが、目の辺りを打った生理的反応だと思われたのだろう(実際そうではある)、周りの子たちに「目、大丈夫⁈」と聞かれたのに対して咄嗟に「うん大丈夫だよ」と答えてしまったらそれ以上はなんの騒ぎにもならなかった。
上記の男子の二人とも、もし小学生の頃の様子を友だちとか親とかに語らせれば、「スポーツが得意で明るくて優しい男の子でした」という具合になるんだろうと思う(知らんけど)。でも、私はそうじゃないことを知っている。だから私はいまだに信用できないでいる。「子どもの頃スポーツが得意だった」「明るくて優しい」男性のことを。
私は男性に好意を打ち明けられると真っ先にする質問がある。「小学生の頃、女の子にボールをぶつけたことはある?」だ。平成生まれのわれわれの多くはドッジボールというきわめて暴力的かつ非人道的な競技を強いられていたはずだから、「ない」と即答されるとむしろ変だなとか思ったりしつつ、まあその後もいろんな質問をしてみる。これはべつに答えだけのドボンクイズじゃなくて、表情とか言葉の選び方から私は相手が「件の男子」からどれだけ遠いかを必死に見定めようとする。そんなことは不可能で無謀だとも思うし、「本当の優しさとは何なのか」なんて私にもわからないけれど、どうしても探らずにはいられないのだ。
(ないと思うけどもし万が一この尋問に覚えのある人がこの記事を読んでいたら、どうか私の身元はバラさないでそっとしておいてください。)
大人になった今考えると、当時のそういった男子たちは有り余るエネルギーだけではなくて中学受験勉強のストレスなんかも抱えていたのかもしれない。私が通った公立小学校の学区域は地価の高いエリアが含まれていて、ハイレベルな中学受験をする子が非常に多かった。エネルギーにせよ親からのプレッシャーにせよ、それを正しく言語化できずに誤った仕方で発散してしまう子どもはきっと少なくないのだろう。
過ちという点で言えば、私だってその後の女子校時代や大学時代には、性格が弱々しいタイプでもなかったから(運動神経が悪い=弱者という動物的慣習は小学校で終わるのが世の常だ)、言動を誤って他人を傷付けてしまったことは何度もある。だから「小学校時代の」「男子の女子に対する」「身体的暴力による」いじめだけをあげつらうつもりはない。言葉による暴力がどれだけ深く他人を傷付けうるか知っているつもりだし、自分がやってしまったそれは一生後悔し続けると思う。
私がここで語りたいのはもっと軽薄なことで、ようするに、結婚式の回想ムービーだかスピーチだかで「スポーツが得意な、明るくて優しい男の子でした」とか形容されてニコニコしているけれど実際は猿から人間に進化しきれていない野蛮な小学生だった過去のある男性がそのイメージを保ったまま幸せな結婚をして平凡な家庭を築いているケースは日本全国そこらじゅうにわんさか転がっていると思っていて、ただ私だけは絶対にその類の男性にだけは引っかかりたくないし、そんな男に抱かれた日には死んでやるという気持ちで生きているということだ。
私が今のところ最も「優しい」と思えるのは、「自分の優しくなさや社会の優しくなさ(政府とか入管とか)に対して厳しく在ることのできる人」だ。いつでも穏やかにニコニコしていることとか、横にいる人の荷物を持ってあげることなんて、誰でも思いつくし誰にでもできる(下心があれば尚のこと)。「優しいは作れる」のだ。そんな小手先の優しい行為からは、その人が他者の痛みにどれだけ鋭敏で、自他の暴力性にどれだけ怒れるかなんて窺い知ることはできない。だから、私が無駄な問答を通して知ろうとしているのはおそらく、その人が自分の無意識の暴力の可能性をどれだけきちんと検討できるのか、みたいなことだと思う。