はてなキーワード: メモリとは
http://fedoraproject.org/wiki/Changes/ReplaceYumWithDNF
Fedora18の頃から試験的に入ってたdnf(Dandified Yum)だけど、
Fedora22からは本格的にyumを置き換えるものになるのか…
(去年の今頃ぐらいの記事っぽいし今更感…)
別名はyum4になっているし、
使用感も特には変わらず、
大したyumの使い方をしてなかったせいか、
自分のところでは「s/yum/dnf/」するだけで済んでる…。
yumから移行するほどのメリットがあるのか分からなかったけれど、
男が、
週末にまとめて料理しておく派。
とかキモイわ。そもそもそんなに料理しないのにまとめて作っておくってアホか。腐るわ、冷凍でも不味すぎるわ。
■最低限:お湯くらいなら沸かす。たまにチキンラーメン作る程度はしようと思ってる人。
テフロン加工の片手鍋 15cm
イラン。んなもん買うならティファールの湯沸し器でも買っておけ。
・雪平鍋 16cmくらい
内側にメモリついてるやつ便利。
なんだそれ?メモリ付いてる雪平鍋なんてあんのか?てか、イラン。普通のでいいわアホ。
これも100均で十分。1500円位のなんて100均と殆ど変わらん。100均で一緒に研ぎ機買って適当に研いだ方が1500円1年使い続けるよりよっぽど切れる。
まえに男の料理のキッチン道具について書いてた人がいたので、一人暮らし4年目くらいの自分も真似して書いてみた。
ちなみに私は社畜のため、週末にまとめて料理しておく派。料理は適当だけど、たまに凝ったものとを作りたくなるタイプ。
ちゃんと自炊しているときはしてるけど、数ヶ月しないときもあるかんじです。ご参考に。
・テフロン加工の片手鍋 15cmくらい。これもスーパーかホムセンで。1000円以下で手に入る。お湯を沸かしラーメンも作れ、フライパン代わりにもなる。
・菜箸 百均でよし。
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予算 1000~1500円くらい(鍋の値段による)
・雪平鍋 16cmくらい ダイエーやイオンとかの2Fとかで買うと安い(500円くらいからあったりする)。パスタゆでたいなら少し大きめに。内側にメモリついてるやつ便利。
・フライパン 12~16cmくらい ダイエーやイオンとかの2Fとかで買うと安い(500円くらいからあったりする)
個人的に、炒め料理が好きでなければフライパンは目玉焼き焼けるくらいのサイズでよいと思う。
・菜箸 百均でよし
・まな板 百均で狭いキッチンで小さいサイズの売ってる。色違いで肉用も買うとなおよし。汚くなったら1~2年で使い捨てるかんじ。
・ざる 百均でよし。一見いらなそうだけど、そうめんやパスタなど一人暮らしの人は麺を湯切りするのに使う。一人暮らしの人は麺率高くない?
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・計量カップ 百均でよし。なければ空のペットボトルとかで適当にはかればいいと思う。
・大さじ小さじのセット 百均でよし。
・トング 百均でよし。炒めものはこれでやると箸よりはるかに使い勝手がよい。
・キッチンスケール タニタとかの2000円未満くらいのやつでよい。
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っていうか割れた基板の修理なんてできるか。
ここ1年ほどで『2GBメモリ』と『128GB SSD』を増設・換装したマシンだったので悔しいです。
とりあえず使えそうなパーツ(メモリ、SSD、ネジ、キーボード)を取りました。
残った残骸はヤフオクでジャンク品として売る……こともできなそうだったので止む無く廃棄。
メインPCが死んだので新しいのを買いたいところですが、部屋の片隅で独りチラチラと様子を窺っているマシンがあります。
Chromebook「僕を使ってよ!」
ChromebookをメインPCに使っているのは米帝の小学生だけです。
とても実用に耐え得るとは思えません。
しかし小雨降る中、捨て置かれた雨傘の下で震える子犬のような目で私を見つめてきます。
それに新しいPCを買うのは平たく言っておカネがかかります。平たく言わなくても懐が寒くなります。安いものでも3万円。ちなみにうちの家賃も3万です。
Microsoftとともに齢を重ねてきた私としては断腸の思いです。
しかしChromebookが健在で、懐に余裕ができるまでは勝ち馬Google先生に乗っかっていくことになるでしょう。
なお、私の密林ほしい物リストはこれ( http://goo.gl/1sYWcC )です。
買ってくれてもいいんですよ?
経費削減だとか言って安物PCを購入させる上司はほとんどの場合が無能.
月1回だけ誰かが使用する何かの専用システムコンソールとかなら安物でも構わない.
まず,CPUは一番高いのを必ず選ぶ.
少し考えれば分かる.いつも開いているWordやExcelの起動が2,3秒早くなるだけで,一年を通してどれだけ作業が効率することか.
作業中のイライラが低減するだけでどれだけ会社の雰囲気がよくなることか.
コアが増えても速くはならない可能性もあるが,今後のソフトウェア進化に追従するためにも一番高いのを買っておくべき.
もちろん,普通に使っていれば使用することはないが,ディスクキャッシュとして使用すれば,やっぱりWordやExcelの起動が速くなる.
VMを使用することで作業効率を向上することも考えられるだろう.メモリが大いに越したことは無い.
ただ,容量を多くする必要はない.
大切なのは速度であって容量ではない.容量が多くなるとロストしたときのダメージがでかい.
別途NASなりクラウドストレージを用意してバックアップすることが基本.
注意するのはメーカー.怪しいメーカーのSSDはスピードが出ない場合もある.
安心のIntelを買うか,ベンチの情報をしっかりチェックする.
一般的な職種の人でも最近だとビデオ・写真の編集を行う場合がある.ただ,安物やチップ内蔵でも最近は余裕の性能がある.
ここだけは値段を確認しながら選ぶ.高すぎる物は買っても意味が無いし,消費電力が増えるだけである.
馬を乗り換えることはあっても鞍を乗り換えることはない.
その人にあったインタフェースを長く使うことでより作業が効率化する.
やあ、今日は二回目だよ。
さっき書いた奴はどちらかというと実践的すぎて、つまらなかったかも知れないよね。
前回の記事
http://anond.hatelabo.jp/20150224002209
神のOS LinuxにはWindows界では理解されないエディタについての戦争がある。
vimとEmacsが民主党と共和党みたいな感じで戦っている。
実際に戦って死人も出ているんだ。
2003年には武力闘争にまで発展し、PKOが介入することになったけれども
今はグローバル化して国境なき紛争として、様々な場所で問題を引き起こしている。
それはプログラミング。
刀なのだ。
すべてなのだ。
よって、どのエディタを使うのかはどのようなイデオロギーを持ってそしてどのように戦うか、ハッカーにとってはアイデンティティに関わる重要なこと。
さて、僕はどの立場の人間なのかということを明らかにする時が来たようだね。
僕のハッキングスタイル、コーディングスタイル、そして思想がいま明らかになる。
しかしこれはかなり実践的なデザインで、僕の攻撃スタイルにとてもあっている。
まず、コーディングシートを塗るときに素晴らしい下敷きになる。
2Bの鉛筆で力強く塗っても全く穴があかない下敷き。
かといって硬すぎずクッションのように包んでくれる。
強い武器でいて優しさにあふれている。
やばい!攻撃の途中だがコーディングが間違っていたかも知れない!!
そういう時は素早くジャポニカ学習帳を開く。
ジャポニカ学習帳【じゆうちょう】を開くとそこには真っ白い無地のページが広がっている。
そこに一心不乱に0と1を書く。
0と1を書いて、自分がコーディングシートに示していたアドレスをメモして、どの値を入れていたのかを確認し、順次立ててメモリ空間の二進数がどう変化していくのか書いていくのだ。
機械語は日本語と同じ、九九のように二進数の計算を進めていく。
IBMの研修でもらったフローチャート用定規もつかったりする。
すべてが分かった時に再びコーディングシートに移る。
すべてが終わった。
すぐパンチャーに渡すんだ!
何枚ものコーディングシートをジャポニカ学習帳に挟む!ページを間違えないようにね。
そしてそれをフリスビーのようにパンチャーに投げるんだ。
約7秒起動で11acにも対応し、重量1.1キロのChromebookが3万5000円で登場
http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/303/303366/
これ、アメリカのAmazonではメモリ2GBのバージョンが200ドルで売っている。
日本版はメモリ4GBらしいけど、1万3千円近くの差額になるほど違うのか?
最近人気のEeeBook X205TAだって、アメリカだとOffice 365付きで200ドル台前半。
日本だとKINGSOFT OFFICE付で、3万円台半ば。
せっかくなので、通信メディアの個人史を書いてみたい。自分のブログでやっても良いのだが、わざわざ誘導するのも申し訳ないので増田で書くことにする。あと、前半部分は「通信メディア」の話ではない。
ぼくが初めてパソコンに触れたのは小学校4年生のころだった。当時、既に型落ちだったNECのPC-6001を買ってもらったのだ。当時はまだ「パソコン」か「マイコン」かで名称が統一されていなかった時代でもある。記録媒体はカセットテープ。ゲームをするためにはまず、何十分もかけてロードをしなくてはならない。あとちょっとでロード完了というところでエラーが出たりすると泣きそうになった。
市販のゲームは高価だったので、ぼくは当時の多くのパソコン少年と同じく、雑誌の載っていたプログラムをよく入力していた。姉の使っていた譜面台にパソコン雑誌を乗せ、そこに掲載されたプログラムを延々と入力していく。もちろんミスが多発する。エラーが出ると雑誌とにらめっこをしながら、どこが間違えているのかを必死で探す。デバッグがすべて完了するころにはゲーム自体に飽きているということもよくあった。
当時はまだ、パソコンのメーカーがそれぞれの独自の規格でPCを開発していた時代だった。しかも、同じメーカーのパソコンであっても機種が違えば互換性がないことが多かった。だから、NECのパソコンのソフトがシャープのパソコンで動かないのは言うまでもなく、PC-6001はPC-8001よりも新機種であったにもかかわらず、後者のプログラムは前者では動かない。パソコン雑誌で他の機種用の面白そうなゲームプログラムを見ては悔しい思いをよくしていた。移植をする技術はぼくにはなかった。
その後、中学校に上がると、ぼくのパソコンはPC-8801mkII FRになった。名機と言われたPC-8801mkII SRの後継機だ。記録媒体は5インチのフロッピーディスクになり、一瞬でセーブやロードができるようになった。ただし、中学生にとってフロッピーディスクは高価な代物で、500円で10枚入りという安売りのものを愛用していた。ちなみに、安いディスクだとドライブに入ただけでシャカシャカシャカシャカ…という音がする。仲間のあいだでは「シャカシャカディスク」と呼ばれていた。
せっかくの新マシンではあったが、やはり用途はゲームだった。雑誌に掲載されるプログラムも徐々に高度になり、マシン語を使ったものも多かった。01 C3 AA 90…みたいな文字列を果てしなく入力していく作業はかなりの苦行で、エラーが起きると手に負えなくなることも多く、挫折ばかりしていた。
なお、当時はすでにパソコン通信が始まっており、PC-VANやアスキーネットなどの大手もすでにサービスを開始していた。当初は音響カプラという装置を使っていたのではないかと思うが、詳しくはわからない。ぼくにとってパソコン通信は遠い世界の話で、雑誌でたまに見る程度のものだった。
中学3年生になり、高校受験を控えたぼくは、何を思ったかパソコンで受験勉強をしようと思いついた。受験RPGなるものをN88-BASICで作ろうとしたのだ。街を歩いているとモンスターに遭遇する。そのモンスターが出してくる問題に正解すれば、プレイヤーは経験値を稼げる。最終目標は名門ナダール高校への合格という、ゲームと勉強の両立を目指したものだった。結果はまあ、書く必要もないだろう。世の中にそんな都合のいい話はないのである。
高校に入学すると、ぼくの関心はパソコンから遠ざかっていった。部活が忙しくなったほか、当時のバンドブームにのってギターなどを始めてしまったからだ。無論、このあたりはぼくの黒歴史になっている。
ちなみに、ぼくとほぼ同年代の英国人ライター、スティーブン・プールには『トリガー・ハッピー』(2001年)というテレビゲームの歴史を扱った著作がある。この本を読んでいると、高校時代にゲームから離れてバンドをやるところまでまったく同じだった。ここには国境を越えた何かがもしかするとあったのかもしれない。
しかし、大学受験を前にして、ぼくは再びパソコンに向かい始める。3年前に挫折した一大プロジェクトである受験RPGの製作にふたたび乗り出したのだ。アホだ。予備校の夏期講習を受けながら、頭のなかで構想がどんどん膨らんでいった。
技術は全く進歩していなかったが、根気だけはついていた。ゲームの目標を大学合格に切り替え、パソコンのメモリの少なさに苦労しながら様々なアイテムやイベントまで用意した。しかし、言うまでもなく受験には全く何の役にも立たなかった。大学受験が始まる数日前、ほんの気晴らしのつもりで始めたドラクエ3を受験日程がすべて終了するまでにクリアしてしまったのが悪かったのか、1年目のぼくは受験に失敗し、浪人生活に突入したのである。
1年間の辛い浪人生活を経て、ぼくは東京の私立大学になんとか滑りこむことに成功した。入学式当日、知り合いの誰もいないキャンパスを一人で歩いていると、同じく新入生とおぼしき一団が歩いていた。彼らの一人が「あいつのポケベルの番号、いくつだっけ?」と言うのを耳にしてぼくは衝撃を受ける。東京の学生はポケベルを持っている!ぼくにとってポケベルというのはサラリーマンのためのツールであって、普通の学生が持つようなものではないと思い込んでいたからだ。
入学式の時点でグループができているということは、彼らはおそらく付属校か東京の進学校の出身者のグループだったのではないかと想像する。この時点ですでに情報メディアの利用をめぐってかなりの格差が生まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、その後のぼくの生活にやはりポケベルは無縁だった。女子高生のあいだでポケベルが流行っているというのも別世界の話題だった。女子高生の妹がいる友人によると、メッセージが来るとすぐに返信しないと仲間はずれにされかねないということだったので、それはそれで大変そうだと思ったのを記憶している。
その一方で、大学に入学してから、ぼくは固定電話と大変に仲が良くなった。一人暮らしを始めたこともあって、友人とよく長電話をするようになったからだ。コードレスではなかったので、硬い床に寝転がりながら何時間も話をした。「いやー、今日はよく話したよね。ところで、いったい何を話していたんだろうね」などと会話を振り返り始めることで会話がまた長くなるという、まったく生産性のないことをよくしていた。ただ、こうした長電話はぼくに限った話ではなく、わりと一般的に行われていたのではないかと思う。一人暮らしの寂しさを紛らわせるうえで固定電話は重要なツールだったのではなかろうか。
あるとき、風呂にお湯を張っていると、たまたま当時好きだった女の子から電話がかかってきたことがあった。話しているうちに浴槽が一杯になった。コードレスではないので電話をしたままではお湯を止めにいくことができない。だが「お湯を止めてくる」と言えば、電話を切られてしまうかもしれない。そのため、浴槽からお湯が溢れるのをただ眺めながら会話を懸命に続けていたことを思い出す。
ぼくが「インターネット」という言葉を初めて聞いたのは国際政治の授業だった。大学2年生のころだったから1994年のはずだ。日本でもインターネットの商業利用は1992年にすでに始まっていたが、パソコンに関心を失っていたぼくには全く無縁の話だった。大学のパソコン室でタッチタイピングは修得したものの、授業で履修したC言語はあっさり挫折した。数学が果てしなく苦手だったぼくは、理解できない数式をパソコンに解かせるという作業について行けなかったのだ。
大学2年生の終わりごろ、ゼミの選考があった。メディア系のゼミを志望したせいか、志望者には新しいもの好きが多かった。面接の待機場所では多くの志望者が携帯電話を持ち、お互いの番号を交換していた。衝撃的な光景だった。彼らは無意味に相手を電話にかける遊びなどをしていたので、単に見せびらかしたかっただけかもしれない。
しかし、ぼくが携帯電話、というよりPHSを購入したのは大学4年生も終わりに差し掛かったころだった。1996年から1997年にかけて携帯電話・PHSの普及率は25%から46%に跳ねがっているが、こうした指標では若者が先行しがちなことを考えると平均的か、やや遅いぐらいではなかったかと思う。
当時は街のいたるところでPHSの安売りをしていた。今川焼を売っている店でさえ扱っていたぐらいだ。PHSを1年ほど使い、その後はドコモの携帯電話に切り替えた。通話が途切れやすいという難点はあったものの、PHSのほうが音質は良かったのではないかと思う。
他方で、大学3年生になると、ぼくは再びパソコンに関心を持つようになった。1995年、ウィンドウズ95が発売された年である。「インターネット」という言葉が急激に人口に膾炙していった。大学のパソコン室で友人に電子メールを送るようにもなった。当時はメールが来るだけで嬉しかったものだ。ブラウザはまだモザイクを使っていた人が多かったのではないかと思う。しかし、当時のぼくはまだブラウザという概念を理解していなかった。周囲のひとが「モザイク」という言葉を口にするたび、それはエッチな何かなのかとあらぬ妄想に浸っていたのだった。
ともあれ、エプソン製のノートパソコンを購入し、自宅からインターネットに接続するようにもなった。大学の授業でホームページを作ったという友人に刺激を受け、自分でも卒業の直前ぐらいに朝日ネットでホームページを立ち上げた。いまでもそのアドレスにはぼくのホームページが置いてあるので、もうかれこれ20年近くになる。先日、インターネット・アーカイブで自分のページを探してみたところ、16年ぐらい前まで遡ることができた。若気の至りというのは本当に恐ろしいものである。
もっとも、ぼくの目線からすると、当時のインターネットはそれほど面白いものではなかった。今ほどに情報が充実していたわけでもなく、それを探すためのスキルもなかった。ぼくにとってインターネットよりも面白かったのがパソコン通信だった。当時、すでにパソコン通信の時代は終わりつつあったはずだが、それでも見知らぬ人たちとやりとりをするのが面白くて仕方がなかった。もちろん喧嘩も多く、罵り合いをなんとか仲裁したいと思いつつ、結局はうまくいかないということばかりだった。
ぼくが参加していたのは朝日ネットのフォーラムだが、恐ろしいことにいまでもログインすれば当時のログを見ることができる。「ネット上からはとうに消え去ってしまったはずの今なき父親の情報が、パソコン通信のログに残っていることを主人公が発見する」というフィクションを考えていたのだが、興味のあるひとは使ってみてください。
その後、パソコン通信は急速に退潮し、インターネットの時代が本格的にやってきた。ネット上で怪しい情報が飛び交うサイトがあるということを最初に教えてくれたのは知人だった。言うまでもなく「2ちゃんねる」である。それ以前にも「あやしいわーるど」や「あめぞう」といった掲示板はあったはずだが、それらはぼくの全く知らない領域の話だった。
…と、ここまで書いて力尽きた。ここから先は特筆すべきこともあまりないので、唐突ではあるが、このあたりで終わろうと思う。ずいぶんと長くなったが、最後まで読んでくれたひとは果たしているのだろうか…。
たしかに、エロゲもコンシューマも毎月おもしろいゲームが出て、アニメも毎期おもしろかった。
Gガンみて泣いたりVガンみてぞっとしたりしながら天地無用のLD買ったりエルハザードのLD買ったりしてな。
同級生2も yu-no も闘神都市2も鬼畜王ランスも買ってやった。アリスの会員なったりしてなー。
PSかサターンどっち買うかで語ったり、鉄拳2派とバーチャ派がいたり、バーチャロン対戦したり
IT 系のバイトして、お金貯めてゲームかったり、バイト中にニフティー見てみんなで楽しんだり、
エヴァをリアルタイムでみてたし、漫画だと、ピンポンとかそのあたりハマってみてたり。
BBSメインだったけど、そのうちインターネットが着ても常時接続なんてできなかったから金スゲー
かかった、パソコンも高かったしメディアもメモリもなにもかも高かった、QV-10なんてあのスペック
で6万とかだっけ?
いまは金銭的な意味ではだいぶ安くいろいろ楽しめて羨ましいなって思う。
https://developer.chrome.com/extensions/event_pages
言いたい事はちゃんと全部ここに書いてあった。
{
"name": "My extension",
...
"background": {
"scripts": ["eventPage.js"],
"persistent": false
},
...
}
こうする事で裏で常時起動しなくなるのでメモリ使用を減らせますよ。という提案なのですが、これをするとsetTimeoutで回せなくなるので、chrome.alarmsを使用しましょう。という事です。
https://developer.chrome.com/apps/alarms
https://www.eisbahn.jp/yoichiro/2013/02/chrome-extension-event-page.html
原因:内蔵(オンボード)グラフィックデバイスが、占有していた。グラボを増設しているが、内蔵グラフィックデバイスも認識されてしまっている模様。
回避法:AMI (American Megatrends, Inc.) BIOS 設定 のうち Integrated Graphics Devices にある IGD Multi-Monitor を Disabled にしたら、2GB も占有されていたメモリの非利用可能領域が 1GB に減少。そして OS が利用できるメモリ量が 2GB から 3GB に増加。
PCI Express スロットへ nVidia 製のグラフィックボードを装着して拡張、BIOS の優先内蔵デバイス設定も IGD (Integrated Graphic Device の略?) ではなく PEG (PCI Express Graphic Device?)に設定していており、現にWindows OS 上でも拡張ボード側が認識されているのだが。。
リソースモニター(タスクマネージャーの「パフォーマンス」から)で「メモリ」を確認すると、「ハードウエア予約済み」の占有サイズを確認できる。物理メモリから「ハードウエア予約済み」の分がアプリケーションで使用できず、利用可能メモリ量が減るのだ。
今やプログラミングといえば、Webなどで使われるような高水準スクリプト系言語中心のアプリケーションプログラミングが主流だ。
そんなこともあり、もはや以前の低レベル言語によるシステムプログラミングの苦労など、タダの昔話である。
そこに来て、実際は齧った程度の分際で、性懲りもなくそんな昔話を書いてみる。
少なくとも10年位前に自分が手がけた(押し付けられた)仕事はそうだった。
大学で初めて触ったC言語しかもポインタ分からないで止まっているような奴に、電文の再配信プログラムを任せたのだから。
客は「遅延が絶対許されないシステムなのでJavaとかPerlとかはやめてねー」とにこやかな笑顔かつ笑ってない目で注文してきた。
このうちC++は、Java経験がある自分からしても仕様が膨大かつ複雑すぎて、とても手に負えないと感じ、必然的にCで書くことに。
勿論Cの言語仕様がKR本一冊で収まるほどコンパクトであっても、それが簡単であることを全く意味していないというのを開発早々に思い知らされたのだが。
あ、Cと言えば電文提供側の機関が受信用のスケルトンプログラムを一応は用意してくれていたが、どう見ても電文受信中に接続が切れた時のことを考慮していない内容で、全く参考にならなかった。
コード書きにおいては、例え一人屋台の俺ルールであろうが、コーディング規約のようなものは絶対に必要である。
その時のルールは「gccのオプションに"-Wall"を入れた状態で、Warningゼロになること」にしてみたが、その途端、日付変更線をまたがない限り退社できない生活が始まった。
というかオブジェクトを使えないだけでも地味に辛いのに、更にCの言語仕様はコンパクトである以上に原始的と言っていい代物で(だからWarningは基本無視できないのだ)、しかも言語仕様以外の環境依存要素が山積していると来たもんだ。
そんな言語でシステムコールだらけのコードかつ複数のファイルディスクリプタの同時監視(即ち非同期でノンブロッキング)しかもマルチプロセスでシグナルもあるよ!とか、お客さんは俺を殺す気か、そもそも完成させる気無いだろとか、今だったら思う(当時はそう思う余裕もなかった)。
仕方なく最初のKRに加えて「UNIXネットワークプログラミング」をわざわざ東京に出かけてまで買って読み漁った。
後にも先にも、古今東西の名著と呼ばれるような本を、泣きながら読んだのはこの時だけだったりする。
そこまで凄い良書なのになんで絶版になったんだか。
いかし、それでも「子供を殺しても死なない」、かなり前の処理での領域破壊のせいで突然プログラムが止まっちゃうなどなど、やればやるほど問題が出る。
シグナルを受信し、仕様のとおりに処理するのがこんなに難しいのか!と途方に暮れたこともあった。
そして途方に暮れても解決の手段になるような便利なツールもなければライブラリもない。
結局、「ある程度正しく動いたら、あとは出来た所まで」で勘弁してもらってようやく開放されたが、今でも当時の自分の仕事ぶりには全く満足していない。
無駄に頑張ったというか、頑張っただけの仕事であり、折角低レベル実装というCの本領発揮分野の案件でありながら、スレッド、malloc()、可変長引数は遂に習得できなかった。
こういうプログラムって、どうやったら正しく動かせるんだろ。
このような経験を経て、後年、Cやシステムプログラミングを指してギークな人々が
Cはとても高効率ですし、マシンのリソースもドカ食いしません。残念ながら、Cがそれだけの効率性を実現するには、あなた自身が低レベルのリソース管理(たとえばメモリ管理)を手作業でやってあげなくてはならないのです。それだけ低レベルコードがあると、複雑でバグも起こりやすいし、デバッグですさまじい時間をとられることになります。今日のマシンはずいぶん強力になっているので、これは通常は悪いトレードオフです――マシンの時間を少し非効率に使っても、あなたの時間をずっと効率的に使う言語を使うほうが賢明でしょう。
本物のプログラマはアプリケーションプログラムなど書かず、まっさらな金属板にゼロから書き込んでいく。アプリケーションプログラミングなど、システムプログラミングのできない弱虫のすることだ。
あと、あれほど苦手だったポインタについても、「ポインタが理解できないと永久にC初心者」というのを嫌でも理解した。
あれはギターのFコードやSEALsのヘルウィークみたいなもので「習得できなかった者にとってはキャリアの終わりを意味するが、習得できた者にとっては始まりですらない」ものなのだ。
・・・で、これだけで終わってしまうと本当にタダの黒歴史だが、これには少しだけ嬉しい後日談がある。
それから数年後、やはり電文転送系のシステムで、かつて自分がCのソロプレイでこなしていた規模の数万倍はあると思しき超大型案件に助っ人の「兵卒」として参加したのだが、そこはインプラとアプリでチームが分かれており、アプリ側だった自分は
「配列とポインタと構造体しか使わないで済むなんて、なんて楽な仕事なんだ!」と左うちわでのんびり過ごし、しかも高評価をいただいて帰ってこれた。