はてなキーワード: アダルトチルドレンとは
ネット上で「子供は社会で育てるべきだ」と軽々しく言う人々は、子供は誰が育てても同じだって思いがちの様に私には見える。
子供の保護者への愛着や母親の子供への執着心にあまりにも無頓着というか、無神経だなと。
で、そういう人々のプロフなんか見ると自閉症だったりアダルトチルドレンだったりして、やっぱり感覚がちょっと普通の人とズレているのが主張に現れているのかね。
育ちさえすれば子供やその親の心情はどうだっていいみたいな、人間をなんだかモノの様にとらえているような。
別にだからってそう思ってるのがいけないとは思わないんだけど。だってそういう風な考え方しか出来ないんだろうし。
でも真に受けちゃいけないよなぁと思う。
父ちゃん、母ちゃん、せっかく息子をここまで育ててくれたのに、ごめん。本当にごめん。でも、これ以上喪失の悲しみに我慢できない。最後に少しだけ、これまでの出来事を振り返らせてほしい。
端的にいうと、好きだった人に振られた。いや、実際には振られてすらいない。希望が無くなったわけでもない。ただ連絡が返ってこないというありふれた問題でここまでなってしまった。心臓が張り裂けるほど四六時中胸が痛い。今までは耐えてこられたけど、これほどの痛みはさすがに我慢できそうもない…。
本当に素敵な人だった。この人といれば、確実にもう一度青春を謳歌できると思った。もし晴れて好意を抱いてくれたなら、相手が喜ぶことであればどんなことでもする。全て投げ捨ててもいい。行動やしぐさから、少なくとも嫌われてはいないのかなと思っていた。
が、最終的に連絡が途絶えてしまった。せめて連絡手段さえあれば希望が見つかるのに、その線すら途絶えてしまった。でも、それはかつて自分が他人に対してやっていたこと。今更嘆いても、同じことをやっていたのだからもう遅い。
あとから振り返ってみれば、果たして自分が純粋に好意を抱いていたのかもわからない。恋愛感情とはいったいなんなのか?かつて経験した数少ない恋愛でも、独占欲にまみれ相手を私物化しようとしたあげく、「自分の感情がよくわからない」と言い残して旅に出てしまった。結局、後々事の重大さに気づいた時には別の相手ができており、完全に後の祭り。何度も夢に出てきた。その度に胸が痛んだ。
今、片思いしている人はとてもできた女性だったから、一緒にいるだけで本当に幸せだった。周りにいる家族の方、周囲に住んでいる人も自分を暖かく受け入れてくれた。家庭事情は表面上のことしかわからないが、しばらく過ごして「子どものことを素直に受け入れる、素晴らしい親御さんだな」とわかった。
一方うちの家族は、側から見ると普通の家庭に見える。ただしそれは年齢を重ねるとともに落ち着いてきただけであって、離婚を重ねた夫婦だけに問題は山積み。何かあるとすぐにヒステリックを起こし、努力しても認めてくれない、面倒な話は避ける、子どもの意見を親の権力で黙殺するなど、よくある話かもしれないが、自慢できるものでもなかった。
20代前半にして、やっと気づいた。自分に全く自信が持てない。その根本には、昔家族に受け入れてもらえなかった問題がある。いわゆるアダルトチルドレンというやつか。人との距離感が掴めず、自信もないから誰と会話してもぎこちなくなる。本当はめちゃめちゃ孤独を感じていて寂しいのに、人と話すたび罪悪感を感じる。嘘で顔面を塗り固めながら話している感じだ。当然周囲の人は離れていくし、自分も傷つけたくないから人と関わらなくなっていた。重い話を相談できる相手も、もちろんいない。
好きな人と会った時も、好きだけど今の自分には全く相応しくないだろうし、関わるだけで申し訳ないと思った。でも、高ぶる感情を我慢できずに関わって案の定終わってしまった。幸せな時間が多かったけど、持病のぎこちない病を発症してまともに会話できなかった。自業自得だ。
今からでも、人生を変えることはできると思う。時間をかけて自分の痛みを癒し、仲間をつくってやりがいのあることを見つければ、充実した人生が送れるかもしれない。アダルトチルドレンの本にはそのように書いてあった。
でも、その状態で生きていてなんの価値があるのか?時間が解決するっていったって、この苦しみを当分の間背負わなければいけないの?もう散々痛みを感じているのに、できるわけないでしょ…。
別のことで紛らわすという方法もあるだろうけど、そもそもこの精神状態では何に対しても興味がわかないし、生きる気力もないし、かといって下手なプライドで家に引きこもってると飛び出したくなる。というか、飛び出したくなって東京まで来たのに、むしろ辛い。
全て両親が悪いか…というと、そうでもないだろう。両親の家庭環境も悪かったそうだから、結局貧困家庭の典型的な問題を再生産しているだけ。両親も人だから、彼らなりに頑張って今の状態があるのだろうと思う。
両親を責める気はないし、好きな人も拒絶された以上は諦めるしかないだろう。というか、もう自分で自分を振り回しすぎて疲れた…こんな状態で生きていくのは無理。先も見えないし、人生ハードモード過ぎました。今の状態で精神がやられているなら、どうせこの先、生きていけないだろう。本当にごめんなさい。終始自分のことしか考えてないのに自害するとか、アホな話だな…。
決して両親が悪いわけでも、まして好きな人が悪いわけでもない。この世に生を授けてくれて、本当にありがとう。今まで内面に埋もれていた感情を気づかせてくれて、本当にありがとう。自分すら、悪くないのかもしれない。ただ、色々と運が悪かっただけ。
最後に、もし同じように辛い目にあってる方がいれば、ぜひ教えてください。少しでも、同じ悩みを持ってる方のことを知れたら嬉しいな…と思います。
15年くらい前だったかな。どこぞの大学の教授が「ゲーム脳」なる造語で、「ゲームを遊びすぎると、痴呆症に似た脳波になる」という珍妙な学説を提唱したことがあったっけ。まあ結局のところ、信憑性がないってことになってたけども。
それでこの「ゲーム脳」なんだけど、その教授の造語である以上、その学説の中身の意味しか持たないと思うわけで。
でも、どうも「ゲーム脳」という言葉がいつの間にか「ゲームをやりすぎて、日常生活をゲーム的に考える」と言った意味に変貌していて、ものすごくモヤっとする。ツイッターとか見てると、結構その使われ方をしてるし……。前述の意味を踏まえると「ゲームをやりすぎてバカになりました」という自虐ネタかと初めは思っちゃったよ。
他にいつの間にか、本来の意味で使われなくなった単語といえば「ガラケー」とかね。元々は「日本人仕様に作りすぎて、海外でサッパリ売れない日本産高性能携帯電話」くらいの意味だったはず。従来型携帯電話を指す単語ではないし、低性能な携帯電話を指す単語でもない。元の意味で考えれば日本メーカーのスマホは今でもガラケーのはず(「ガラスマ」なんて単語もあったけど、すっかり消えちゃった)。どちらにせよ、ガラケーという単語は元々蔑称だから、俺はこの言葉は嫌いだ。
あまり本来の意味で使われない単語と言えば忘れちゃいけないのが「アダルトチルドレン」。「問題ある家庭で育ったことにより、成人になってもそのことについてトラウマを抱える続けること」が正しい意味で、誤った使い方をしたら支援団体が抗議したってこともあるのに、「子供じみた性格のまま大人になった人」と誤用する人の多いこと。
パッと思いついたのはこの3つだけど、他にも何かあるかな。
結婚してだいぶたち、結婚当初も今も、子供が欲しいという気持ちがほとんど芽生えず、周囲が子持ちになっていくことに息苦しさを感じはじめています。
そもそも子供が苦手、ということに加えて、自分は精神疾患があったり(今はとりあえず寛解してる状態)、アダルトチルドレンの気がある。
復職後に病気再発を数回経験しているうえ、年齢的にも正社員としての再就職はほぼ無理。
在宅のお仕事をしつつも、生計立ててるといえるレベルじゃなくて、それはそれで自分が嫌になっている状態。
この状態で、子供を持てる自分が全く想像できないのです。むしろ恐怖心しか湧かない。
夫は、私が病んでるときにも投げ出すことなく治療に協力してくれた人。
子供がそこまで好きなわけじゃないらしく、「無理して子供持つこともないんじゃ?」と言ってくれている。
そして、「子供持つことになったら病気再発するんじゃ?」と心配している。私もそう思ってる。
「孫の顔みせて一人前」とか、「子育てしてこそ大人」とか、そんなことを言われたら、今の私は一人前じゃないんだなぁ…とまた自分が嫌になる。
特に最近は、年齢的なことを心配されてか「今産まなかったら後悔するよ」とか言われるし。
そんな安易な気持ちで子供産んで、その後の子供に私の影を落とすようなことするほうがよっぽど辛いわ。
保育園落ちた、って話を聞いてると、「子無しでも苦しい、子を持っても苦しい」って思えてくる。
希望がなくてつらい。
恋人いない歴イコール年齢を更新し続けて何年経ったかわからない。出会いがないのと他人に興味がないのと、という言い訳を繰り返していた。そんな折、友人の旦那の友人を紹介していただけるとのオファーがあった。こじらせ気味の自分は、恋人ができれば、だの結婚ができれば何か変わるんじゃないかなんて期待する。そして彼とLINEを交換した。頻度は高くなかったけどやりとりを続けてる間は楽しかった。2週間くらいして、食事に行きませんかと誘われ、私はとびつく。あまり背伸びしていない感じのレストランで閉店近くまでずっと話していた。彼の話はとてもおもしろく、仕事の話から趣味の話まで、すべてにオチがついているような感じで、ずっと私は笑っていた。とても、とても楽しかった。でもその食事の後、私に連絡をくれることはなかった。1週間くらいはもうこれを逃したら結婚できないかもしれないと焦った。ただひたすら焦った。何か、何か送らなければ。振り向いてもらわなければ、もうあとはない。もう私には彼しかいない。勇気を出して送ったLINEは既読スルーを受けている。
理由はいろいろあるかもしれない。似たような業界で働いているため、仕事上の付き合いをするかもしれなくて面倒だとか、趣味があんまりあわないだろうとか。お金の使い方もちょっと私と違うかなとか。でもデートした日の自分の中での一番の違和感は、自分のことを話せないことだった。「増田さんはどう?」みたいな感じで彼は聞いてくる。「増田さんの趣味はなんだっけ?」「本結構読んでいるんだよね?」だとか。ほとんどの時間、彼が喋ってくれたのだけど、ときたま自分に与えられる質問を、なぜかうまく答えられない。やっぱり自分のことがそんなに好きじゃないから。自分は後ろめたい存在なんだと、迷惑な存在なんだと、ずっと思って生きてきた。
私の家庭はいわゆる機能不全家庭で私の親はいわゆる毒親で私はいわゆるアダルトチルドレン。子供の頃、父親に殴られて生活していた。しつけなんだろうと言われるかもしれない。でもなんで殴られるようなことをしたのかは覚えていない。自分がしたことの何が悪いかがわからないまま、殴られた記憶しかない。殴られずに済んだこともある。それは父の機嫌をとった時だけだった。母親は母親で、頭も容姿も悪い自分をボロクソに言っていた、ボロクソに。なんの才能もないのに、容姿もよくないのに勉強すらできないとは。小学校くらいから言われていた。中学高校と部活もやらせてもらったが、部活で大学行けるわけないじゃないの、と本気で言われたこともある。当然自分のレベルなんて知っているけど。とまぁそんなわけで自己肯定感というものが私の中で育つことはなかった。
私は頭がいい方ではないので、高校も大学も彼らの望むようなレベルの学校ではなかった。就職活動も苦労したがなんとか今の会社に入社することができた。そこは両親に文句を言われるような会社名ではなかった。私の存在は会社名だけで決められている。たぶん私が会社をやめれば両親は悲しむだろう。会社を辞めたい理由なんてそんなものくらいだ。本当に辞めたい理由もなければやりたい仕事もない。
彼に振られたことで、自分のことを見つめ直したら、ここに行き着いた。今は会社の福利厚生を受けてカウンセリングを受けたり、本やインターネットで自分の問題のヒントを探している。
自分のことを気づかせてくれた彼のことはますます好きになった。けれど、連絡はない。
両親には私の今までを、私の今までを返して欲しい。
あの名著がどうしてこうなった…
アドラー心理学の観点からいかにこのドラマが酷いか書かせてもらう。
というか、題材がアドラー心理学なのだから、ドラマ作ってるうちに矛盾に気づかんのか。
・庵堂蘭子の部下への態度が酷い
部下を携帯代わり、教育を放棄し、さらに無視と問題行動のオンパレード。
挙句は「お前は刑事に向いていない」と部下の勇気をくじく有様。
その行動はアドラー心理学を持ち出すまでもなく、いわゆるアダルトチルドレンそのもの。
というかどうやったらこんな勘違いを起こせるのかすら理解できないレベル。
この主人公はアドラー心理学を生まれたときから実践しているという設定らしい。
いやいや、一番アドラー心理学を学ぶ必要があるのはこいつだろ。
いやいやいや、ちゃんとアドラー心理学教えろよ。お前も教育さぼってんじゃねえよ。
本来最も罰を避けるべきアドラー心理学の実践者が進んで、人々を罰して刑務所にぶち込むという矛盾…。
薄っぺらい勧善懲悪のストーリーならアドラー心理学なんて持ち出すなよと。
「あなたは(刑務所で)ずっと不幸に浸っていてください」なんて、
数々の重症精神患者を病院から救ったアルフレッド・アドラーが言うわけ無いだろ。爆発しろ!
ということで、ただのドラマで、ここまで突っ込みたくなるという点では大成功だな。
引き続きたくさんの突っ込みどころに期待しよう。
障害者は病院行っとけというが病院までが過酷。病院でも過酷なことがある。
精神障害やら発達障害になると心療内科に行く。この心療内科へ行くという行為は賭けの要素があり、そこで医者に恐怖を植え付けられると先がなくなるし、ここで医者も人間だとかお前が失礼したんじゃないのと周囲に言われればセカンドレイプのようになる。
診断を間違えると全く合わない薬ばかり候補になるのである。重い薬で動けなくなったり、副作用の出やすい発達障害はここで悪化する可能性さえあるのだ。
カウンセリングは保険外なのか何か知らないが1時間で七千円とか普通に飛ぶ。何かしらの療法も同じく、検査には数万円掛かるのだ。
おまけに発達障害はある程度幼いうちから行かなくてはならない。幼稚園からである。友人は小2から通ったがそれでも遅いのだ。つい最近まで不登校にでもならないと連れて行かれなかったのだ。違和感があっても親が連れて行ってくれないことも多い。大半が手遅れなのである。
この手遅れがなぜ手遅れかと言えば、発達障害はPTSDのようになりやすい。小学一年生の頃に先生に怒鳴られた記憶が二十歳を過ぎても忘れられないのだ。三十路だろうと記憶が残るのだ。ストレスにも過敏に反応するので治療という行為が難しいのだ。
親へ医師が認識させるのも重要なことで、ここで親が人並みに人様にご迷惑おかけしないようと的外れに厳しくしていけば、自己肯定感がなく常々死にたいと思っている発達障害者が増えるのである。そこからますます二次障害が増えていくのだ。
アダルトチルドレンはきっかけになった親から距離を置くのが早い話なのだが、発達障害で二次障害を引き起こし、働けない人間も事実いる。年金の一月数万円は2回か3回で消えるのだ。治療にあてられる人は実家ぐらしでもそれほど多くないだろう。テレビに出れるのはテレビ出れる程の気力がある人間のみなのだ。私の親はそこにも気づいていない。そもそも発達障害に遺伝の可能性があるなら気づかない可能性は高いのだ。おまけに親もアダルトチルドレンであった。
このことを言いたいが為に増田に登録した程伝えたい。子供達冬休みおめでとう!
と言っても年末年始でお忙しい方々多いでしょうが、子供達にお手伝いをさせてあげてますか?あくまで上手くいった上で褒めてあげるという流れの為のお手伝いです。それで怒鳴ってしまう、子供が子供らしく大人の階段登るための遊ぶ時間を削るのはいけません。いい話を作るために子供に重い米を運ばせるわけではありません。
火を使わせると危ない!包丁も!ピーラーも!持たせられない!いう奥様方も洗濯物畳みをさせるとか、歯ブラシを持って越させるとか、とにかく出来そうなことを探すのです。とにかく褒められる機会を探しましょう。
反面教師がてらアダルトチルドレンになり自己肯定感が死んだ増田の話を書きます。
我が家は父はせっかち、母は効率厨という神経質な家庭でした。なにかをしてると父が擬音をつけたり、ガラスの容器を持ち上げるとあー!危ない!とオーバーリアクションでやる事なす事びっくりさせて怖がらせるような父なのです(小さい子供ならまだしも高校になって別居まで続きます)母の注意の言葉には被せて注意はしてくる。母の迷惑になるなが説教や励ましの最後につく言葉でした。
その母というのはとんでもなく効率厨。こだわりが多いので本人の思う形にならなくてはなりません。少し時間が狂えばイライラで物に当たりだしてました。
その為家事手伝いはとても時間に余裕のある時にやらせてもらうのです。大体は私が手伝いたいと言えば、私がやった方がはやいとか、これはこうやらなきゃいけないとか。父親も何かしようとすれば怒られる。
なので手伝っている、親を助けているというより、迷惑なのにやらせてもらっているという感覚でした。迷惑にならないようにしなきゃって小学校から思ってたんですよ。
私がいない方が物事がはやく片付く、私がいない方がみんな幸せなんだろうなみたいに思ってました。同じような子を作らないであげてくださいね。
クリスマスなんかも楽しそうにしなきゃいけない失敗しちゃいけないでキリキリしてました。二十歳過ぎてもそんな気持ちです。それではよい冬休みを。
友人とは趣味が似ている。そして友人曰く情緒的にも似ているらしい。
料理上手いしお魚だってさばけちゃう。お嫁さん代表格である(旦那さんが羨ましい)
私なんかと一緒にするほど貴方は阿呆な人間じゃないんだと陰ながら思う。
よく感受性が豊かと言われる単細胞。しかしそこが似ているらしい。
アダルトチルドレンというタイプは少し違うが共通点があるのだ(友人のおかげで気づいた)
お互い寂しがりなので旦那がいない時はお互い電話して凌いでいた。
そんな繊細な友人がペットロスで酷く落ち込んでいる。
私は死が怖いのでペットを飼ったことがないし、友人のようなベストな気遣い方もろくに知らない。
相談は聞いてもらう側だったので、恐ろしく何も出来ない。
自分も遅刻魔で、他人を苦しめて自分も苦しめてきたから分かる。
私の場合だけど…考え得る原因はいくつかみつけたので紹介する。
まず私の症状は、昔からギリギリだったけどとくに大学時代は遅刻欠席常習犯だった。しかし遊びなどは間に合うことが多かった。
社会人の今は、ふたたびギリギリながらセーフを保っているタイプだ。
それから、遅刻癖が顕著なのは家から出るのだけで、出先から別の場所へ移動するときはとくに問題なかった。
●慢性的な罪悪感
他のトラバにも挙がっていたが、自己肯定感が低く、無意識下で罪悪感を感じていたい欲求を抱えている。
●愛情の試し行動
それから、低い自己肯定感ゆえに、「こんな自分でもほんとに付き合ってくれるかな?」と試し行動をしてしまう。これは何度も許してくれる友達に対してやりがち。
●怒りの試し行動
幼い頃のことをよーく思い出してみた結果、数年の長期間にわたり自分の時間を意図的に奪われ続けた経験があった。
それに対して無意識の怒りをずっと抱えて生きていて、持て余した結果、自ら遅刻をすることで他者の反応を見たがってしまっている。無意識に。
この気がある人は、最短時間で計算してしまうらしい。たしかに…
私は効率を考えてるつもりで、最短でいけば家に何時までいられるという計算で考えてるし、支度が早くできないので結局おそくなる。
既に間に合わない時間を越えるとき、それから今まさに待たせているとき、強烈な絶望感におそわれる。
こんなクズで私どうなっちゃうの?!しね!!みたいな考えを至って真面目に行ってしまう。負の感情におぼれ、自分の魂に自分で傷をつける感覚がある。
それはそれで、スリリングで、たしかに自分は生きてるんだという感覚を伴う。
たまに普通に早く行くと周囲に驚かれるのも、普段の自分の行いを攻められる気がしてしまいまたギリor遅刻に戻ってしまった。
遅刻をすれば、周囲の冷ややかな視線を浴びることになるが、そうして「やっぱり私はクズなのだ…」と再確認する作業は自分に必要なものであるきがして、もはや日課になってしまった。
とにかく、このセルフイメージを無理矢理にでもかえるしかない。
私による私のための分析に寄れば、アダルトチルドレン的な要素を持つ私は「不成功防衛」に囚われていて、遅刻癖もその一つなのだと思う。
なぜ遅刻をするのか。
遅刻をすることで、直接的間接的に何かしらのメリットが、ほんの少しでも生じているからだ。
遅刻癖は、「クズで欠陥のある私」のセルフイメージを保つのに役立つ。
たとえば親と共依存関係にあるばあい、自立しないことは大いなる貢献につながる。
そして周囲から過度な期待をかけられることもなくなり、後からがっかりさせて傷つくより先にわざと裏切っておけば、自分は傷つかないはずである。
こんな感じな考えに、実は囚われていたことにきがついた。
対処法はよくわからないが、とにかくおもいつく限りの無意識をひっぱりだして、一つ一つのエピソードに泣いたり怒ったりして向き合って、自分は世界でただ一人の生きた人間であることを自覚するということがいま一番効果があった。
何言ってるんだといわれそうだが、いままでどこか他人事で、自分はどこにもいなかったから傷つこうが傷つけようがかまわなかったのかもしれない。
俺がそうなんだけど、広汎性発達障害(アスペルガー症候群、高機能自閉症など)の可能性がある
・他人に興味がない
ここに加えて「大事な場面でも自分の思ってることをなかなか話せない、適当なことを言って済ませる」とか
「感謝や尊敬、恋愛感情とか、意味はわかるけど実体験としてはよくわからない」
「趣味が少ない。普通の人が持っているファッションや社会常識、性の知識がほとんどない」とか
そういうのがあれば、大人の発達障害に詳しい病院に行ってみて。
無理な仕事のための無理な努力をして時間を無駄にしなくて済むから。
(大人の発達障害の多くは”若い頃に気づいていれば、人生違っていた”と悔やむ)
http://anond.hatelabo.jp/20161209173308
この増田について、いつものように「マンガが攻撃されている!」と思っている奴が出てきている。
そんな奴らに向けて書く。
マンガ(に限定はしないが)は、間違いなく人生に、人格に影響を与える。
こういう話をすると「ゲーム脳か」みたいな話に持っていく奴がいるが…そういう話ではない。
簡単にいえば、「人間ははじめて知る知識、体験に影響を受ける」ということだ。
普通の人間は、マンガやアニメを見る以前に「暴力はいけません」ということを教わる。だからマンガやアニメを見ても暴力的にならない(基本的には)。しかし、マンガではじめて触れる知識、体験にたいしては、かなり無防備にそれを受け入れる。もちろん反発をしたり、自分で考える人も多い。しかしそうでない人もまた多い。
一番わかり易いのは、セックス関係の知識だろう。まぁマンガというよりはAVだが。女は激しく手マンをすれば感じる、激しく突くと気持ちいい、女は股を開いてオナニーする、潮を吹くのは感じている証拠、などだな。これらは相当のプロじゃないと気持ちよくならない。アナルなんかいきなり攻めても気持ちよくならねぇぞ。また、男性側だと、フェラだな。フェラは言うほど気持ちよくない。パイズリも同様。相当のプロがやれば気持ちいいが、彼女にやってもらっても微妙だからな。
これらは全て、「見ている分には気持ちよさそう」なものばかりだ。つまり、実体験を伴った知識がないものだ。だから勘違いする。それが正しいと思い込み、実践してしまう。
エロ漫画で言えば、女は絶頂して母乳を吹き出すなんてことはないし、イク時にアヘ顔にもトロ顔にもならない。顔に力がはいるからな。アヘ顔、トロ顔になるのは薬キメて前後不覚になってる時だけだ。AVでそういう顔をする女優さんはいるが、あれはプロの技だ。絶頂時に演技できるほどの強者だということだ。そういう女優さんがいたら尊敬しろ。
話が怪しげな方法に逸れたが、ことはAVやエロ知識にとどまらない。
件の増田の言う男女関係もそうだし、自分の選択するロールモデルにも影響する。
そしてその影響は、「自分がはじめて直面する状況」に対して最大の効果を発揮するので、「マンガを真に受けるな」「現実との区別をつけろ」なんてのは虚しい標語にすぎない。
「人生で大事なことはマンガに教わった」とか「このマンガで人生が変わった」とか、そういう話はそのへんに転がってる。ポジティブな影響があるなら、当然ネガティブな影響もある。全く何も影響しないなんてことはありえないのだ。
小学校の頃、マンガやアニメの登場人物に影響されて痛い言動をするやつとか何人かいたろ。それが「影響を与えている」っていうことだ。それがそのままそいつの黒歴史になるかもしれんし、ずっとそういう言動をし続けるかどうかは知らん。しかし確実に影響はあったということだ。「オタクあるある」な数々の言動も、それって要するに実生活に影響を与えているってことじゃねえか。ネタだとしても、そういったものと円のない人とは確実に差異があるということだ。
暴力的ゲームを、倫理教育を一切されていない子供に繰り返し遊ばせればその子は残虐な性格になるだろう。まぁそんな子供はまずいないし、いたとしても実験に使うのは倫理的に無理だ。
それに、外部からの影響を否定するならば、アダルトチルドレンなど存在しないことになる。
これらの暴力性の話と、先の増田の話は前提が全く異なる話なので、混同して馬鹿なことを言い出すなよ。
人間は、「どうしたらいいのかわからない」時に、過去の記憶、知識を総動員して事に当たる。
その時、記憶と知識がマンガによくあるパターンのものしかなかったら、それに沿った結果になるということだ。
少年マンガはだいたい「男にモテる(認められる)男」が描写されることが多いので、実際の恋愛とは全く勝手が異なる。
「生きづらさ 原因」あたりで検索してみては?
母親は島ぐらしだったせいで人への危機感や人の悪意に対して異常に無知であったし、
おまけにクリスチャン2世のアダルトチルドレン持ちだった。子供より世間様第一である。
長男・長女は育児の実験台だが、不運にも姉である私はADHDであった為、その存在はわがままそのものだった。
たびたび怒鳴られ、叩かれ、追い出され、しかし自信を持ってほしいが親の口癖だった。
私はいじめに合い、それをはっきり言っても世間様を思う母は何もしなかった。
たぶんあの母親は私が殺されてもこの子が何かしましたかと頭を下げるだろう。
神と許すことを仰いで人のことは全く見ないのだ。小さい子供であればなおさら。
「裁くな」「許せ」「隣人を愛せ」
母は昔礼拝をさぼったらとても怒られたと言われていた。
私が傷ついたこと、傷つけてくる人がいることを見ようともしなかった。
しかし私は生きているだけで罪悪を背負わされているような気持ちで生きている。
各所で暴言の数々により(支援ってなんなんだよ)家事手伝いになった。
私の実家である一軒家は親の実家から借金して建てたものだった。
その家も20年が過ぎ、所々で劣化が始まっていた。
3口コンロが1口止まってからリフォームの話でギスギスするようになった。
父と母が私をいないと思って話してた口から、働いてさえいればの声を聞いた。
私はその日泣いたし、オーバードーズもした。
普通に働けないのならと風俗案件や臓器売買のサイトを見ながら、
親の中では私が金を稼いでその金が家のリフォームに使われると思っていたようだ。
大層な金額である。若者の不況と過労による自殺は、親からも追い詰められている人もいるのだろう。
私はあれから自分の家が大嫌いだった。単身赴任で数年間使ってなかった見栄で作られた実家が嫌いだった。
母親は島ぐらしだったせいで人への危機感や人の悪意に対して異常に無知であったし、
おまけにクリスチャン2世のアダルトチルドレン持ちだった。子供より世間様第一である。
少なくともこの家には、家をリフォームするという前提がある。
親であれ、上司であれ、育ててやった。雇ってやった。
追記
編集してみました。
私は「母」がテーマになっている曲が苦手だった。
理由は世間で言われる「母」という存在に対する感情に共感できないから。
そんな私が宇多田のfantômeを聴いて、少し母と自分について書いてみたいと思った。
私の母は私が甘えることや泣くことを嫌った。
今でも「私のび太みたいなのが大嫌い」とドラえもんを見ている私に言っていたことを覚えている。
小さい頃の思い出に祖父母や父に甘えた記憶はあっても母に甘えた記憶がない。
その頃の母の記憶にはさみしくて構ってほしくて泣いている私が常にセットだ。
あと母親は私が何をしても褒めてくれなかった。
成績が良くても、何かで賞をとっても。
純粋にそれ以上のことをやってきたであろう彼女にとって褒めるべきことではなかっただけのことなのか。
それとも身近で私そのものを観ていて、表向きなそういう評価に意味を感じなかったのか。
そういう諸々のせいなのか多分母が死んでも私は泣かないんじゃないか、悲しまないんじゃないか、と考えてきた。
物語や現実の中で見かける「母が死んで悲しむ」ということが頭では理解できても感情的に理解できない。
ハンターハンターの最初のほうで「恋人と母親どっちを助ける?」みたいなクイズがあったけど、選択の余地なんてない、どう考えても恋人一択。
更に言うと、介護しなくて済むようにぽっくり逝ってくれたらありがたい、くらいに素で思っている。
かといって、私は母が嫌いなわけではない。むしろ好きだし尊敬している。
母の好きなところ、尊敬しているところを挙げればキリがない。
逆なことを書くようだけれど決して私に冷たかったわけでもなく、放任主義でどちらかと言えば甘かった。
私が選ぶことは基本的に肯定してくれるし、途中必要があれば金銭面でも助けてくれた。
今でも年に一回くらい「今度そっち行くからご飯どう?」と連絡が来て二人で食事に行くくらいの仲でもある。
ただし、「母」として私は母を感じきれていない、とでも言えばいいのか。そんな感覚。
こういうことを30を過ぎてからよく考えるようになったのは、私という人間の諸々が色々な経験を通して少しずつ見えてきたときに、
母という存在を抜きに考えることができなかったからだろうと思う。
まあ、アダルトチルドレンとかパーソナリティ障害とか私なりに調べてみて論理的に思うところは色々あるけど、ここでは省く。
そんな私が宇多田のアルバムを聴いたとき、やはり最初は彼女の歌う言葉には共感できず、サウンド面だけをとって「いいアルバムだなぁ」と思って聴いていた。
それが何度か聴いているうちに少しずつ変わってきた。
アルバムの中の母に対する愛を表現した歌詞のところで私は何とも言えない感情を持っていることに気づいた。
その感情を考えたとき、私がどうしても感じられなかった「母」という存在を少し感じられたように思えた。
それは多分、彼女の歌う「母」への愛が私にとって、純度の高い、人それぞれの「母」に対する想いの皮を捲っていった先にある「母」という存在を理解させるものだったから。
私が、母が、お互いをどう感じ考えていようが、変わらないことがあって、それを30年以上生きてきてやっと素直に受け入れられた。
そう気づいて母の姿を思い浮かべると、私が踏み込み切れない何かがあることに気づく。
多分その先が「母」なのだろう。
その「母」は母自身の快活な笑顔が壁になっていて、どうしても私には踏み込むことができそうにない。
ただ、その笑顔が消えたとき、その壁も一緒に消えて、私は「母」に会えるように思えた。
そして、そのとき私は「母」を亡くしたことを悲しんでいいのだと思った。
でも、そのとき私は私側にある壁を自ら壊せるだろうか。