はてなキーワード: 自力とは
オリンピックなんてそんなもんです。平昌の競技施設が半年後にどうなるか見ものです。東京オリンピックもたとえ一時的な経済効果があったとしても、結局電通とかゼネコンが儲けるだけ儲けて、貴重な税金を無駄に食うだけの余計なハコモノが残るだけです。今さら開催権返上もできないのかもしれませんが、大会組織委員会が自力でできる範囲で、税金と役人使わないでやってほしいです。平昌オリンピックは人並みにテレビで楽しみましたが、地方自治体や国が税金を使ってやるべきものとは思っていません。特に地元民にまっとうな生活をさせられない国や自治体はオリンピックなんかやってる場合じゃないです。
この「無能」の概念がよく使われる「個人的能力」以上の範囲に及ぶから。
例えば障碍者は無能レベルの能力であっても、助ける必要があり保護する必要があるから守られるでしょ?
あと無能だけど愛されるキャラっているじゃん。それコミュ力高いともいえるけど。
でもキモくて金のないオッサンに向けられるのは「自己責任」なの。
誰も「同情してくれない」の。
同情されないから自力で何とかするしかないけど、無能な上に金もないし、若くもないの。
ギリ健常者の能力だから一向に生活は良くならないし年収も上がらないの。
でも働き蟻として一生を過ごすしかない。
同情されたら頼んでもないのに助けてくれるの。
そこがただ無能なのと一線を引くの。
「同情されることはステータス」であるという認識が我々に圧倒的に欠けている。
だから(同情されない状態を表す言葉がない)ので(キモい)って形容になってるの。
そして無能であるから経済的・能力的評価を与える必要もなくキモいまま。
同情されたり保護されたり能力があった時点でキモい条件から逸脱して救いの道は見える。
だけどこれらの条件に当てはまった上で、金もなければ、若くもない。
金あれば金で慰められる、若ければワンチャンある。
KKOにはそれすらない。
20代後半で異業界からの転職だったので(未経験枠)歴は5年てところ。
にしてはレベルの低い話かと思うが、まあ一般人てこんなもんかと思って読んでください。
最初ついてくれたメンターが可愛い子には旅をさせよタイプというか、
端的に言って面倒見の悪い人だったため基本的な考え方を教わることなく自力でなんとか這い上がってきた。
自分も割と感覚で物事をやってしまう典型的な文系タイプなので、相性は悪くないと思ってた。
なんでも自分で調べて身に着けた。
ついでに、色々調べてると情報源が豊富になって色々な技術が目に入るので
直接的な関連性はないが関心が散漫になって広く浅く技術が身に着いた。
今思うとそこの目的意識が薄かったのも悪かったな。
他方、面倒見の良いメンターに育てられた先輩はちっきりした設計でコードかいて
新卒入社なので歳はだいぶ下だが歴はそれほど変わらないはず。彼も文系だ。
最近またその先輩が設計したライブラリを見せてもらって参考にしながらコード書いてたら
最後のコミットが一年前で、まだそこに追いついてないのかよと愕然としている。
設計が綺麗ならなんでもいいかっていうとそうじゃないこともあるだろうけど。
設計力は応用力かなと思うので、悔しいがその点負けてると感じる。
最初はあれやれこれやれ、これ関連はこう考えてここを見ろ、
っていちいち全部言ってあげた方がいいよね。
これからどうすっかなあ。
選ぶとか、贅沢って思わないの?
大学教育においては"勉強する"ことそのものは重要ではなく、"何をどのように"勉強するかが重要であるからして、選べない大学に意味はないですよ
学びたいことは特になく、勉強するのはなんでもいいから「大卒」の肩書がほしいだけなら、そりゃあ選ぶ必要はないでしょうけど。むしろそういう人物は大学へ行くべきではないですね。
選びたい大学があるような、「ここでこれを学びたい」という積極的な学びの姿勢をもつ若者こそ、公的福祉で援助をしてでも大学で学んでもらうべきでしょう。
自分はFtXで、パンセクシャル(男女トランス問わず愛せる)寄りのAセクシャル(性欲がない)と自認している。
積極的に性自認やセクシャリティについてオープンにしているわけではないが、聴かれたら答える。
隠しているわけでもない。
私が一番最初に「LGBT」について考える機会を持ったのは、外国人と言語を教えあうようなコミュニティアプリに参加していたところ、各国の性的マイノリティの方の集まるコミュニティを教えてもらったあたりだった。
元々興味深かったし、当時は曖昧だった自身の性の認識を確かにするために、英語など外国語は全く不得意ながら参加することにした。
当初私は何を指しているのかよくわからなかった。
なんで彼らは誇りを求めるのだろう。
それから数ヶ月経ち、自分の性別の違和、女性を強制されることに耐えられなくなって、制服を男性のものに変更してもらい、登校するようになった。
元々男子のクラスメイト達のグループだったし、あいつはそういうやつだ、となって、全く問題なく学校生活が送れた。
加えて、通学中にしても、わざわざ聞こえるところで悪口を言うような人もいるし、なんで女なのに?と見た目を変えてもなお女性を強制する人もいた。
体は女だが、見た目は髪型まで男に寄せている。
どちらに入ればいいんだ。
どちらに入っても通報されそうだ。
もやもやしているのは、制服まで男性に寄せた私はともかく、なんとなくオカマっぽいキャラクターの男子生徒が「オカマオカマ」と本人が否定していながら囃されることだ。私についてはそこまで執拗には言わないのに、中途半端だと茶化されるのか。
修学旅行の班決めの時は、男女別で分けたいという意見があったが、私がいたせいで基本的に混成の構造になってしまったのと、半端な性別ゆえに扱いにくいのか、これといったグループに参加していなかったのとによる「どこにいても迷惑なのでは」という考えに囚われ、少し仲のいい人にさえ声をかけられず、メンバーの希望は全く叶わなかった。
私は独りなのかもしれない、と初めて感じた。
制服を変える前に、スカートを履きたくなさすぎて不登校になっていたときにも思ったのだが、どこにいても罪悪感が付きまとってくるのである。
女性専用車両の話で「男と女」の対立構造の論を見ても、私はどちらにもいないんだな、と感じて胸が重くなった。
もしかしたらトランスやnonbinary(日本ではX)は透明人間、存在しないものとして扱われているのでは?とまで考えた。
そこでふと思い出したのが「pride」だった。
私は性別に負い目ばかり感じて、誇りが持てていない。
周囲の狭いコミュニティでさえ是とされていないと感じるものが、社会的に認められていると考えることは、若い私には難しい。
女性の地位向上のためのシステムが「男女差別」と言われるのは、彼らの目に写る男女の像が「平等」であることを指す本来好ましいことの筈なのだが、実際格闘技他のスポーツで特別に鍛えている女性でもない限り、男性の力に抗うことはできないのだから、「pride」が損なわれている状態になる。
一般的に自分の生まれもった性別に違和のない人のことをシスジェンダーと言うが、シスジェンダーの人でさえ誇りをもって「男」「女」として生きている訳でもないと思うのに、どうしてトランスが誇りを求めずにいられよう。
「ひとりの人間として」考えれば、男も女もトランスも何も変わらない。
ゲイでもレズでもバイでもヘテロ(異性愛者)でも、見た目だけではわからない。
それを何故排除しなければいけない?
そしたら周囲の理解や協力を求めるのも至極当然のことだろう。
女性専用車両の場合は話が難しいが、少なくとも性的マイノリティについてはこの理論で通せる筈だ。
ヘテロセクシャルの人が同性愛者を気持ち悪がるのは構わない。でも排除してはいけない。
あなたは偶然異性にしか魅力を感じないだけで、両性共に魅力を感じることのできる人は、普通にいるのである。
恋愛感情を持たないノンセクシャルの人だって、結婚や恋愛を強制されることなんて必要ない。
同性愛者の権利向上を唱えるのは、なにも「あなたも同性愛者になろう?」という誘いではないのだ。
貯金はどのぐらい必要かな?現状では月々の手取り27万円ぐらいで、結構次の給料日時点で10万円ぐらい余っててそのまま貯蓄用の口座に移すことが多い。たまに出費の多い月もあるので毎月確実に10万というわけにはいかないけど、この他に銀行で積み立て定期をやっていて、年間50万円ずつは確実に貯まるようにしてある。この他にボーナス時にあまりお金を使わなければ夏・冬それぞれ30万円ぐらい貯められる。家の管理費・修繕積立金や光熱費を含めた月々の生活費が、約17万ぐらいというところか。
今40代後半…というかアラフィフで50代に入ってから退職すると退職金を割り増しにしてくれるので、その恩恵にあずかりたい。が、退職して自由になると旅行に行ったりいろいろ使いたいところがあるので、今貯蓄しているより早いペースで取り崩すことになってしまいそうだ。退職金は分割払いもしてくれるらしいけど、あんまり50代のうちに使い過ぎると良いことがないような気がする。
たまに4,000万円とか5,000万円貯めていて「仕事辞めたい」とか言う人がいるけど、あれは全然遊ばずにひたすら仕事一筋に生きて貯めたんだろうか。貯蓄額としてはご立派だけど、特に遊びに行くこともなく、家と職場を往復しているうちに貯まってしまったのだとすればちょっと寂しい気がする。そしてそれだけ貯金があっても、年金を受け取れるようになるまでそれを取り崩して食いつなぐという生き方に人ごとながら不安を感じる。
決して自分の収入は低くないと思っているし、自宅マンションのローンを完済しているので、当面住むところの心配はしなくていい。ただ、私自身が老いていくとともに家も老朽化して売り物にならなくなるので、自分が自力で生活できない身体になって施設などに入るときまで持ってくれないと困る。そしてこのご時世なので退職金や年金がどのくらい出るかも心配だ。現状では自分の安定志向と自由になりたい願望の間でうろちょろしている感じ。どの程度貯金してから辞めれば悠々自適の人生が送れるのか知りたい。
正直あんまり長生きは望んでいない。50代はじめに退職したら10年から15年ぐらい自由を満喫して、後はあまり苦しまずにあの世に行ける方法があればそうしたい。が、うちの家系の女性陣は長生きで、父方の祖母が100歳、母方の祖母が90歳だ。すでに二人とも足腰を悪くして特養とか老人施設に入っている。そういうところは色々面倒を見てくれる代わりに月々の支払いもそれなりなので、介護の必要な身体になって生き延びてしまうと大変だなぁと思う。
あ~結局どうしたらいいんだ。ずるずる仕事を続けることになりそうな予感もあるけど、ただそれだけで60歳までを生きるのは悲しすぎると思う。なるべく体力のあるうちに仕事から解放されて自由になりたいのだ。面識のない親戚で似たような形で仕事を辞め、海外に飛んでしばらく向こうで働いていたけど、日本に戻ってからはろくな収入もなく実家暮らしをしていると聞くと、「やっぱり辞めない方が良いのかなぁ…」と悩む。この堂々巡り、どうにかならないだろうか。
自分は最初から攻略サイトガン見で効率良くやってたから楽だったけど
RPG初心者とかFC時代で記憶が止まってるおっさんとかが何の情報もなく自力でやったら大変そう
ハッスルダンス無いと中盤辛いのでは?
自分は不器用でクズでありどうやればこの状態を改善できるのか?を常々悶々と考えてしかし結果ほとんどが上手く行かず毎日途方に暮れてそれでもなんとかもがいて生きてきたのだけど、ふとしたきっかけで読んだ本にその答えと思わしき内容が記載されていた。大人のADHD。書いてあることはほとんど当てはまる。どう考えても自分はこれだ。物心ついてからずっと悩んでいた様々な悩みがようやく解決できるのかもしれない。しかし病院に行くことができない。理由はADHDと診断されたとして、もしくはADHDでなかったとしても、私のこの多くの悩みを解決してくれるのだろうか?と疑問に思っているからだ。私は自分の至らなさを悩みすぎた結果、10年前と5年前の2回にわたってうつ病と診断された過去を持つ。うつ病は今のところ再発はしていない。通院して薬を飲んでもうつは解決せず、自力でなんとか改善させたのだ。それゆえ心療内科を信用することができなくなってしまった。仮に自分がADHDだったとして正しく治療してくれるのだろうか?もしADHDでなかった場合に「ADHDかもしれない」と伝えてしまうとADHDではないのにADHDとしての誤った治療をされてしまうのではないか?長年悩み続けた悩みが今度こそ解決できるのだろうか?心療内科に向かうより先に発達障害支援センターで先ずは相談に乗ってもらった方がよいのでは?いや、それより先に書籍に書かれた対処法を取り入れて様子をみるべきでは?などと延々考え込んでしまっている。ADHDと診断されなくてもいい。ただただ普通の人が普通にできることを、私もできるようになりたいのだ。ただそれだけなのにどうにも改善できない。悶々と悩む暇があるならどれでもいいからチャレンジすべきだとわかってはいるものの手が出せない。そういう自分にとても腹が立つ。この迷宮から抜け出せる良い手があればぜひ教えてほしい。
頭が痒いというよりは、ストレスのはけ口としてやっているのだと思う。
傷として悪化している感じがするから本当にやめたい。皮膚科に相談したら、いい匂いのシャンプーが使えなくなるだろうから、なんとか自力で治したい…
https://anond.hatelabo.jp/20180129125711
これの続き。(間違えて消したため再投稿)
時間ができたので、また書き残しておく。
体は大きくなっていたのに、1才過ぎてもズリバイと伝い歩きばかりで、ハイハイもしない。
特に心配はしていなかったけど、児童館や公園で会うママに、「まだ歩かないの?」とか「区の育児相談いってみたら?」とか言われるようになって、ちょっと面倒に感じていた。
夏の暑さをいいわけに、児童館から遠ざかっていた1才4ヶ月のある日。
「うわ、立った!」という衝撃が抜けきらないうちに、今度はトコトコ歩きはじめた。
両手でバランスを取りながら、自分の足で歩いている子供の姿は、思っていたよりずっと大きかった。
毎日見ているから気づかなかったけど、本当に育っているんだなと実感できた瞬間だった。
子供の体重が10Kgに近づいてきた頃。突然、ベビーカー拒否がはじまった。
ベビーカーに乗せればギャーギャー泣き、どうにもならずに抱っこ紐に切り替える。
抱っこしてしまえば泣き止み、今度はじっと人の顔を見てくる。
泣きもしなければ笑いもしない。
わが子の熱烈な視線を受けつつ。ふうふう言いながら、空っぽのベビーカーを押して歩く。そんな毎日だった。
3ヶ月くらいでおさまったけれど、拒否がひどかった時期は、なんでこんなにベビーカーが嫌いなんだろうと悩んでいた。
その理由が判明したのは、2歳も半分を過ぎた頃のこと。
牛乳を買い忘れたのに気づき。近くのスーパーまで行こうと支度している途中で、ぱらぱらと雨がふってきた。
しかたない、抱っこして出かけよう。
そう決めて、ひさびさに抱っこ紐を取り出してきたら、子供が「だっこ? ねえ、だっこ?」と聞いてきた。
「そうだよ」と返事をすれば、今度はひざにかじりつき「はやく、はやく、はやく!」とせがみはじめる。
急かされるまま抱っこをすると、こちらの顔を見つめながら「ママ、だっこだね、だっこだね!」とニコニコ笑う。
それで、やっとわかった。
この子はベビーカーが嫌いなわけじゃなく、ただ抱っこが大好きだったんだ。
表情がとぼしく、しゃべりらない時期だったから、ちっとも気づかなかったけど、本当はあのときも「ママ、だっこだね」と伝えたがっていたのかもしれない。
結局、抱っこ紐でおでかけしたのは、それが最後になった。
でも、最後の最後にとろけるような笑顔を見れて、いままでの苦労がむくわれた気がした。
うちの父は、けっこうなヘビースモーカーだ。
母が妊娠してもタバコをふかしていたし、出産のタイミングで飲みにも行ったらしい。
この数十年間、母になんども蒸し返されているのに、笑うばかりであやまったりしない。いまだ昭和を引きずったまま、この21世紀を生きている。
そんな父だったが、初孫には気をつかう。
正直、タバコを吸うために換気扇の下に移動する父の姿なんて、想像したことすらなかった。
みんなが揃っている状態が大好きな初孫は、じいじがキッチンに移動するのを見れば、どうしたどうしたと迎えに行ってしまう。
なかなかタバコが吸えず、苦戦する父。
母は「禁煙したら、おじいちゃん?」と追い打ちをかける。ほかの兄弟たちも、母に同調して助けようとしない。
それでもタバコを諦めきれない父は、スキを狙って玄関から外に出た。
間もなく、じいじがいないと気づいた初孫が、大慌てで家中を探し回る。
「じいじー、じいじー」と呼ぶ孫の声にガマンができなかったんだと思う。
外に出てまでタバコを吸いに行ったはずの父は、1分もたたないうちに戻ってきて、みんなを笑わせた。
あの偏屈で頑固な父ですら、この子はかわいく思えるのかとビックリしたし、わが子をかわいいと思ってもらえてることが、照れ臭くもうれしかった。
※余談
部屋にもどってきたとき、父が「玄関まで来てくれるのはお前だけだよ……」とつぶやいたようだったけど、家族は誰も反応せず。いまも初孫だけがお迎えに行っている。
のばしのばしになっていたトイレトレーニングに取り組みはじめたのは、入園が決まってすぐのこと。
抗生剤の影響でおなかを壊してしまって、トイレトレーニングどころじゃなくなった。
旦那が出張で不在のなか、2人でトイレトレーニングをはじめた。
怖がっていたのは最初だけ。
一度成功すれば、そのあとは順調だった。
これなら入園に間に合う。
よかった、よかった……と胸をなでおろしたのも束の間。急におもらしがはじまった。
それなのになんで? なんで急にできなくなってしまったんだろう?
外での練習なんて、夢のまた夢。でも、それじゃ入園に間に合わない。
本当にどうしよう。
一人でもんもんと悩むこと数日。
おもらしに気づいて、「残念だったね」と言いながらパンツを脱がせていたとき。ソワソワした様子で「あたらしいパンツ? あたらしいパンツはく?」と聞いてきた。
その表情と、パンツを連呼している様子を見て。「もしや……」と思いながら、ありったけのパンツを持ってきて子供に見せると、すかさずその中から一枚を選び出した。
選び出したのは、おしりに大きく新幹線がプリントされているもの。
買ってきたパンツを見せたとき、真っ先に手に持った一枚だった。
新幹線パンツを履かせてみたら、それ以降、一切おもらしをしなかった。
どうやら、お気に入りのパンツが出てくるのを早めたくて、わざとおもらしをしていたらしい。
いつの間に、そんな知恵が回るようになっていたのかとあきれ。ここまで強い愛着が育っているという事実におどろいた。
愛着が生まれたということは、自力で選ぶ力がついたということだ。
選ぶ力がついたなら、この子にとって好きなものが、身の回りにもっと増えていくはずだ。
それってすごく幸せなことだな。たくさん幸せになって欲しいなと、そんな風に思った。
ひと月ほど出張に行っていたパパが、ついに帰ってくる日。
不在中「パパは?」と聞きまくっていた子供に、「パパは夜寝るくらいに帰ってくるよ」と伝えた。
大喜びする子供に満足し、かわいいなあと眺めていたけれど、すぐに後悔した。
ギリギリに伝えればよかったと思いながら、「まだよ」と言い続け。
日が暮れてからは「夜だよ! まっくらだよ!」と繰り返す子供に、「寝るにはまだ早いよ」と返し続け。
グッタリも通り越した10時過ぎに、やっとパパが帰ってきた。
「パパだー!」と叫んだ子供は、うれしそうに笑う旦那の腕に、いきおいよく飛び込んでいった。
照れくさくて、パパとなかなか目を合わせられない様子も。
抱っこから下ろされても、めげることなくバタバタ追尾していく姿も。
全部がかわいくて、思い出すだけで頬がゆるむ。
トイレトレーニングも上手くいって。長かったワンオペも終わって。ようやくひと息つけたので、長々と文章を書いている。
毎日があっという間で、かわいいこと、うれしいことをちゃんと残しておかないと、すぐ記憶の彼方にいってしまう。
もったいないから、できるかぎり残していけたらなと思っている。
※追伸
私は今年度で退職をする。
円満退職である。しかし今とてつもない不安感と罪悪感と劣等感で頭がいっぱいだ。
退職届を出す前は絶対に辞める、辞めたらやりたいことをやるんだと意気込んでいた。それがなぜなのだろうか。今では辞めなければよかったのではないかという言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
の二点だ。
①に関しては、介護職なため利用者対応に追われていた。支援は楽しいし好きな仕事だったが、同じくらい精神的にきつい仕事だった。いつかカッとした瞬間利用者に手を上げてしまうのではないかと不安になることも少なくなく、少し生きづらい環境だった。体にも少しずつ影響が出てしまい、逆流性食道炎になったこともあった。また、事務作業も過酷で一年前までは全く残業代がつかないというブラックぷり(現在改善されているがいつ元に戻るかわからないと言われた)。
②留学
イギリスにワーホリを使って留学をするのが夢だ。そのために仕事をしてきたといっても過言ではない。
他の人から見ればこんな理由で?となるかもしれないが一応動機はある。退職届を出すまでは本当にこの動機で満足していたのである。
ではなぜこんなにも気持ちが落ち込んでいるのだろうか。少し考えた
正確にはイギリスのワーホリビザを取得することができなかった。
辞めたことにより暫く収入が激減する。そのことへはかなり不安がある
イギリスのワーホリビザを取得できない場合、9月を期限に他国のワーホリに挑戦するつもりでいる。しかし、その9月までの間に何の仕事ができるのか?そもそも仕事がしたいのか?
④現実を目の当たりにした
お気付きの通り私はかなり計画性がない。辞める=自由 という方程式ばかりに目がいっていた。急に今まであまり良い印象を持っていなかった『無職、フリーター』が間近に迫って現実味が増してしまったのではないか。
おそらく他にもあるだろうが、なんとなく上記の理由がもやもやの原因と思われる。
少し気をぬくと、今辞めるべきじゃなかった…今後どうすれば…という気持ちでいっぱいになる。なにをしても面白く感じることができず、挙げ句の果てには夢であったワーホリでさえ本当に行きたかったの?と懐疑的になってしまっている。
今すぐに絶対動かなくてはいけないことがあるはずなのに、悪い考えばかりが頭を巡らしてしまう。どうしよう。ほんと、どうすりゃいいんだ。以前のがんばればどうにかなるよ私!みたいか考えを持っていた頃の自分になりたい。答えを自力で探すなんて状況に陥ることがあまりないから、ついはてなに投稿してしまったとさ…。
「あたしおかあさんだから」の歌詞の件はこの投稿を読んで初めて知りましたが、本当に今どきこれはないですよね。平成のこの時代に実際にここまでやるお母さんはいないと思うけど、ちょっと古い世代だとまぁ有りうるのかなと。
自分の母親も、家族のために自分の楽しみを犠牲にするタイプです。父とは同い年夫婦ですが、共に70歳を迎え、老後をのんびり過ごせるはずのところを、父が在宅であれば昼ごはんも晩ご飯も作り、施設に入っている姑と実母(私からすると母方の祖母ですね)のところに時々行って面倒をみています。父方の祖母と同居していたときは、足腰が利かなくなっていたのでトイレの介助をし、好き嫌いが多いので、自分たち夫婦用とは別のメニューで祖母の食事を作っていました。
もう少し祖母が元気で自力で外出できたときは、仕事が不規則な私と近場にお出かけなどしていましたが、介護生活に入ってからはそれもなくなりました。特養に入ったので大幅に手間は省けたはずですが、いつ施設や祖母たち本人から連絡が入るか分からないためか、あまり遊びに出かけてはいないようです。ときどき水泳に行ったりランニングをしたりして健康には気を遣っているようですが、極力お金がかからない遊びしかしていません。
本を読みたければ図書館で借り、映画を見るのも映画館ではなくレンタルDVDなどで済ませているようです。父が好きなように外出しているのに、母はいまだに家に縛り付けられているように見えます。私が子どもだった頃は、「夕食のおかずを何にするか」「夫が何時に帰ってくるか」「洗濯物がちゃんと乾くか」みたいなことばかり心配しているようで、「専業主婦ってつまんないの」と子ども心に思いました。
私は社会人になってからもしばらく実家に住んでいましたが、「食事が出来たと声をかけてもなかなか部屋から出てこない」「お風呂に入れといってもなかなか入らない」「髪の毛を乾かすために風呂から上がってもなかなか寝ない」という母の思い通りにならない行動にいちいちイライラされてヒステリックな声を出されてました。自分が毎日決まった時間に夕食を用意し、お風呂をぴかぴかにして、皆がすぐに入れるようにしておいても家族が思い通りに動かないのがイヤだったみたいです。なぜか父が夕食どきになると突然買いものやら何やらの用事を思い出し、いちいち外出するのも母の怒りに油を注いでいました。
父方の祖母の60代といえば旅行三昧で、家にいるときも「今日は○○の会があるから」としょっちゅう外出していましたが、母にはそういう自由がありません。私と一緒に外出できていたときも、「晩ご飯の支度に間に合う時間に帰る」のが暗黙のお約束でした。ごくまれに飲み会や食事会の予定が入っても、その分家族の夕食を用意してから出かけないと気が済まないので、特段手間が減るわけではなく、あまり楽しみにしているように見えませんでした。
そんな母に頼りまくって育った私は家事能力が低く、あまり介護の役にも立ちません。家族のために自分を犠牲にするのがイヤなので、一度結婚したけど、義理親・義理親族との付き合いに追われたり、共稼ぎなのにダンナにやたらとちゃんとした家事を要求されるのに疲れて別れました。今思えば家事をてきぱきこなせると、仕事の要領も良くなるようなので、もう少し頑張っておけばよかったかもしれませんが、子供を産んだら育児に時間とお金を奪われるのも恐ろしくて子づくりも拒否しました。それなりに稼ぎのある仕事をしているので生活には困りませんが、どういう人生が一番幸せなのかいまだに分かりません。長文で失礼しました。
今までの職場には脚立がなかった。周囲は背の高い人ばかりで、しかも「自力でやれ」の一点張り。今にして思えば「パワハラ」ではないかと思う。しかし、二度もそんな職場だと、だんだん「背を伸ばす努力をしなかった私が悪い」と思うようになる。情けないと思う日々が続いた。どうにか職場を円満退職してしばらくして別の仕事に決まった。
新たな職場で私は衝撃を受けた。なんと新たな職場には「脚立」があるのだ!!!しかも職場の人たちは手助けしてくれるときている。しかし、ずっと「1人でやれ」「頼るな」「自力でやれ」が当たり前の職場だったために私は喜ぶどころか戸惑うことしかできなかった。
帰宅後、しっかりした会社に就職が決まったことへの実感が芽生え、私はまず家族に「職場に脚立があった」ことを嬉々として報告した。しかし家族の反応は当時の私の予想を裏切るものだった。
「え?前の職場は?」
「え?なかったよ?」
家族は口を開けるばかりだった。私は家族に質問され詳細を話すと「それはパワハラではないか?」と家族全員から言われた。私は目からウロコが落ちた。脚立がないのは当たり前だと思っていた。そして自分が思春期に背を伸ばさなかった努力不足だと。
最後に
経営者の皆さんへ。どうしてもスペースが足りず、高いところに備品を置かざるを得ない時があると思います。しかし、背が低い方にとっては予想以上に不便です。ゴムゴムの実でもない限り、届かない時もあります。苦しんでいるところを「自力でやれ」なんて言ってたらバックレられても文句は言えないかもしれないです……。なので脚立があると働く方のバックレ率が減るかもしれません。