はてなキーワード: 東浩紀とは
せめて人選を3世とかで分かりにくくしてくれればいいのだが、明らかに日本語がおかしいし、ハーフとかなんだと思うと吐き気がする。
テレビに出るなら、私はス〇イで母国の虐殺に加担してます、とさわやかに言ったうえでテレビに出てほしい
【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう 3:11:00
https://youtu.be/T4HE9mY1xxc?t=11462
三浦瑠麗が安倍元総理が殺された件について聞いたところ、まっさきに統一教会について言及した福島みずほ。
開票特番の雰囲気としてはしっかりとした証拠もないのに要人の暗殺と特定団体を結びつけるのはヘイトクライムを誘う可能性もあるし、
党首がそのような言及をすること自体を問題視していた。東浩紀、石戸諭はもはや驚きを通り越して呆れていた。
三浦も驚きつつ、これはニュースになってしまう、聞いておいてなんだが自分には責任はないと思うと述べていた。
しかし一晩経ってもニュースにはなってないし、この番組における四人の反応は過剰だったように思う。
実際のところ安倍暗殺と統一教会がどのように関係があるか、次々と情報は出ているが本当のところはよくわからない。
しかしこれほどに統一教会への言及を避ける程の緊張感が発生する理由もわからない。
もちろん、根拠なしに特定の団体を叩きに走ることがヘイトクライムに繋がってしまうことを恐れているという言い方はできるのだけど、いまいちしっくりこない。
Twitterやはてブなどでは統一教会に関する言及が怒涛の如くされている気がするのだが、
やはりニュースや開票番組に出るような知識人と匿名の有象無象では温度感は異なるのだろうか。
ネットで真実を知った気でいるわけではないが、ニコ生のようなメディアでこそ突っ込んだ議論がされるべきなのではないかと思ったんだが…
統一教会についてもっと多くのメディアが報じるべきだという立場と、証拠もないのに特定団体を加害者にしてはいけないという立場。
この2つの立場は例えば裁判で被害者が加害者を訴えた時に第三者が「裁判で結果が出てないのに第三者が色々言うべきでない」と発言するのに似てて、
その発言は被害者側から「平等の立場に立とうとする加害」と避難される。だんまりするのではなくちゃんと言えよという意見だ。
しかし実際問題その場に自分が居たわけではないのだから、「加害者は悪い!」と断言することはリスクが多すぎる。
それゆえ、何も言わないことが第三者としては結局マイナスのない安定択なのだ。
これを踏まえると三浦瑠麗ら四人が福島みずほの統一教会発言を非難したのも理解はできる。
証拠もないのに特定団体の名を出して死者が出てる事件と結びつけて言及するべきではない。ましてや党首が。
しかし、それでもなお統一教会についての言及があの場でされることに対してそれほど問題には感じられないのだ。
それは無意識で自分が、加害者側に気持ちが寄り添ってしまっているからなのかもしれない。
ネットにおける情報も、統一教会に関連する様々な情報がニュースで明らかになればなるほど「ああやっぱり!」と合点がいく気になってしまう。
しかし、自分にとって都合が良い情報は、無意識に選別してインプットしてしまう傾向にあるのがわかる。
根拠のない状態で統一教会とテロを結びつけてしまう考え自体が陰謀論の沼にハマってしまっている。
石戸諭は福島瑞穂を擁護してたように見えたが三浦と東の論調に流されたのか東に賛同
三浦が安倍元首相と育児放棄熱中症死亡の赤ちゃんでは命の重さが違うみたいなことを言い出したところで山本太郎がつながったのが残念。何を言おうとしたんだ?
【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう 3:11:00
https://youtu.be/T4HE9mY1xxc?t=11462
三浦瑠麗が安倍元総理が殺された件について聞いたところ、まっさきに統一教会について言及した福島みずほ。
開票特番の雰囲気としてはしっかりとした証拠もないのに要人の暗殺と特定団体を結びつけるのはヘイトクライムを誘う可能性もあるし、
党首がそのような言及をすること自体を問題視していた。東浩紀、石戸諭はもはや驚きを通り越して呆れていた。
三浦も驚きつつ、これはニュースになってしまう、聞いておいてなんだが自分には責任はないと思うと述べていた。
しかし一晩経ってもニュースにはなってないし、この番組における四人の反応は過剰だったように思う。
実際のところ安倍暗殺と統一教会がどのように関係があるか、次々と情報は出ているが本当のところはよくわからない。
しかしこれほどに統一教会への言及を避ける程の緊張感が発生する理由もわからない。
もちろん、根拠なしに特定の団体を叩きに走ることがヘイトクライムに繋がってしまうことを恐れているという言い方はできるのだけど、いまいちしっくりこない。
Twitterやはてブなどでは統一教会に関する言及が怒涛の如くされている気がするのだが、
やはりニュースや開票番組に出るような知識人と匿名の有象無象では温度感は異なるのだろうか。
ネットで真実を知った気でいるわけではないが、ニコ生のようなメディアでこそ突っ込んだ議論がされるべきなのではないかと思ったんだが…
統一教会についてもっと多くのメディアが報じるべきだという立場と、証拠もないのに特定団体を加害者にしてはいけないという立場。
この2つの立場は例えば裁判で被害者が加害者を訴えた時に第三者が「裁判で結果が出てないのに第三者が色々言うべきでない」と発言するのに似てて、
その発言は被害者側から「平等の立場に立とうとする加害」と避難される。だんまりするのではなくちゃんと言えよという意見だ。
しかし実際問題その場に自分が居たわけではないのだから、「加害者は悪い!」と断言することはリスクが多すぎる。
それゆえ、何も言わないことが第三者としては結局マイナスのない安定択なのだ。
これを踏まえると三浦瑠麗ら四人が福島みずほの統一教会発言を非難したのも理解はできる。
証拠もないのに特定団体の名を出して死者が出てる事件と結びつけて言及するべきではない。ましてや党首が。
しかし、それでもなお統一教会についての言及があの場でされることに対してそれほど問題には感じられないのだ。
それは無意識で自分が、加害者側に気持ちが寄り添ってしまっているからなのかもしれない。
ネットにおける情報も、統一教会に関連する様々な情報がニュースで明らかになればなるほど「ああやっぱり!」と合点がいく気になってしまう。
しかし、自分にとって都合が良い情報は、無意識に選別してインプットしてしまう傾向にあるのがわかる。
根拠のない状態で統一教会とテロを結びつけてしまう考え自体が陰謀論の沼にハマってしまっている。
>呉座電話出演、シラスの姫発言は東が総会で春木にそう言ったのでゲンロン界隈ではその様な文脈があると思って自分も使った
”2022/06/10 01:25 東浩紀×辻田真佐憲-呉座勇一-古谷経衡「最近のシラスについて語る」(国威発揚チャンネル)
https://shirasu.io/t/tsujita/c/beobachter/p/2022061001
今後は綱紀を粛正する。深夜に及ぶイベントや放送は視聴者が望むからサービスでやっているのだ
優秀なエンジニアで上場企業の役員でもある方々が心意気でコミットしてくれているシラスという場があの様に乱れると彼らに迷惑がかかる
古谷を責める訳でも戦犯を探す訳でもなく、ユーザー含めて全体で気をつけていこうという趣旨の番組(辻田)
古谷電話出演、一般女性にも抱きついて君は恐らく「セックスしたい」とか暴言を吐いていたとの報告があった(東)
春木の番組で春木に3Pを持ちかけてたという報告もある(東)あれはジョークだった(古谷)そうは受け取らない視聴者もいる(辻田)
呉座電話出演、シラスの姫発言は東が総会で春木にそう言ったのでゲンロン界隈ではその様な文脈があると思って自分も使った
春木を囲む飲み会がシラサーによって企画されている事(6/15 シラサー大集合番組)をキャッチしていて、社内で「シラサーの姫」問題として認識されていた(東)
姫の何があかんねん(春木コメント)シラスに姫的な存在が居る事でシラサーに対する参入障壁を上げてしまうのでそれを容認できない(東)
東浩紀といえば20年前から「学生をこき使って学生が愛想つかす」「部下に人を人とも思わない態度とって部下が愛想つかす」「相手を目下と見ると見下しまくって相手が愛想つかす」で有名だし
かなり前に東浩紀の下にいた研究者の人とよもやま話になって「僕は東さんとケンカ別れしてない期間が一番長いんですよ」(意訳)という自慢とも自虐ともつかない話された
その時点で周囲はそういう人間だとわかってて、それでも利用価値(コネカネ)があるからと、ほどほどの距離感で付き合える人が付き合ってるのが今
お前に「そう」見えるのは勝手だけど、世間の評価としては前世紀に既に浅田彰が「自分を褒めてくれないとすぐ切れる子供」と評しているように、東浩紀は「いつも誰かに擦り寄っては喧嘩別れしてる」というのが一般的な見方なので、単にお前に見る目がないだけだな。
ゲンロン・シラス問題(呉座チャンネルキャンセル問題)について最も良く議論されているのが5ちゃんねるだという状況は嘆かわしい。とにかくシラスにはイエスマンしかいない(批判すると即BANされるから)からまともな議論が成立していない。
この問題は結論としては東浩紀の失言に対して春木チャンネルで苦言を呈され、それに呉座さんが相槌を打ったことに対して東浩紀がキレた以上の事実はない。女性差別だなんだとかいう話はあるが、ちゃんと動画を見た人間(まあゲンロン社によって動画のアーカイブが消されているので確認できる術はないのだが)、ちゃんと議論できる頭を持っている人間だったら芯を食った全うな批判だったと判断するはずだ。
問題の発端については以下の増田が詳しいので是非ご参照されたい。
https://megalodon.jp/2022-0615-2127-40/https://anond.hatelabo.jp:443/20220615175101
こんな状況でゲンロン社内で議論が尽くされていると思えるはずがない。結果としてゲンロン社は呉座さんを「上げて落とす」会社としても団体としても最悪の決断をしている。こんな状態で公共性の議論なんてできるはずがない。
https://www.moneypost.jp/230962
落合陽一、ハラリは「夢想的で危険」東浩紀が斬る“シンギュラリティ”論に潜む“選民思想”
https://bunshun.jp/articles/-/53514
主著「デジタルネイチャー」でエリートとベーシックインカム+AIで幸福を与えられた一般市民は分かれるべきと主張
落合陽一さん「社会学者という肩書きの『クソ大学院生』にディスられる事態が発生」とブチギレ
https://togetter.com/li/1649414
落合陽一といえばカレー飲んでる、風呂入ってない、寝てない、ずっと会議・研究してるアピールなどの「俺は手を動かしているアピール」で有名だが、つまるところ
彼自身が選民(エリート)たる根拠を常にSNS上で発信し続けていることに他ならない。
「この問題って何か名前がついているのだろうか?」と言っているけど、結局何が問題に思っているのだ?
「旧ボディ側の視点では死の恐怖を免れてないよなぁ」が問題なのか?旧ボディが死の恐怖を抱かなければOKなのか?
だとすれば、こういのはどうだ?死んでいく(ことにする)旧ボディに向かって「お前の意識は薄れていくが、次に目が覚めたときはお前の意識は新ボディに移っている。お前は新しい命を得る」と言い、それを信じ込ませられる、とするのである。
この方法に対して違和感を持つとすると、それは死んでいく旧ボディの不安を取り除くだけであって、旧ボディが死んでしまうことに変わりはない、という感じだろうか。
しかし、ここでむしろ、「死とは何か?」という疑問を持ってもらいたい、と思う。旧ボディと新ボディなんて持ち出さなくても、次のように考えてみることはできるのではなかろうか?
寝て起きる前の自分と起きた後の自分は同じだろうか?眠る、というのは意識を失うということであり、寝る瞬間にそのときまでの自分死に、起きた時に新しい自分が生まれているのである、と。
もっというと眠る前と後でなくてもいい。午前の自分と午後の自分は同じだろうか?さらにいうと5秒前の自分は既に死んでいて、今いるのは記憶をもっているだけの新しい自分ではないのか?
自分が毎日死んでしまうかもしれないのにもかかわらず安心して眠ってしまうのは、単に次の日を同じ自分として迎えられる、という信念を持っているからだけではないか?
このように考えてくると、死とは何か、ということを考えようとすると、自分の同一性とは何か?ということを考えたくなってないだろうか(こなかったらすまん)?
筆者も専門家じゃないし、哲学科にすらいったことはないけど、同一性ということについて近年(デリダあたりから)は次のように考えているような気がする。
自分の同一性、というものは個々の瞬間の自分をつなぎとめる「自分の規定」というものがあって、それによって担保されている、と考えられてきたが、実はそうではない、差延という考えがあって、すべての個々の瞬間の自分をつなぎとめる規定なんてものをどれだけ作ったところで、常に瞬間瞬間の自分はそこから微妙にずれていってしまう、という考え方である。この自分がどんどんずれていってしまうことを郵便的というモデルを使って東浩紀は表現したし、郡司ペギオ幸夫は「規定」と「個々の瞬間の自分」以外に第三項があるのだ、それがずれを生んでしまうが同時になるべくつなぎとめているのだ、ということを理論化してそこから生まれる創造性を説いた。
まあだからなんだ、ということかもしれんけど、しゃべりたくなったので書いた。以上。
東浩紀の以下の連投について自分として明確にNOと示さなければ収まらないと思いつらつら書き散らす
https://twitter.com/hazuma/status/1513977232557219841?s=20&t=64eiys3xHqslprM6Vb_90Q
この発言がロシア宥和だと批判されていますが、ぼくはそもそも開戦初期あるいはそれ以前にNATOが参戦の意思を示しロシアを抑え込むべきだったという考えです。しかし西欧はそれはできない。世論があるから。同じように今後は逆に戦争拡大を制御できないかもしれない。その可能性を考えろということ。 https://t.co/cA7Ft2PjDf— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) April 12, 2022
そもそも安全保障の抑止なるものはみな合理的なプレイヤーであることを前提にしています。今回プーチンだけが非合理なプレイヤーということになってますが、欧米諸国だってどこまで合理的かわからない。なぜなら民主主義国家は基本的に世論で動くからです。民主主義は戦時にはとても怖いものなのです。— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) April 12, 2022
権威主義国家は独裁者が狂うと非合理な判断をする。同じように民主主義国家も世論が狂うと非合理な判断をする。それを前提にしないといけません。しかもいまはSNSという「狂気の増幅装置」がある。戦時には残念ながら「熟議」による抑制は機能しません。熟議する時間はないからです。— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) April 12, 2022
現在進行形で独裁者による非合理で不条理な暴力になすすべがないことを見せつけられしんどくなっている中で民主主義の危険性を訴えておりうーんと頭が痛くなるような言説をツイートしてらしてげんなりとさせられる。
明確にしなければならないのはウクライナで現在起きている戦争はロシアの独裁政権による不合理な判断がすべての原因であるということ、民主主義国家による瑕疵ではないということである。
現実の戦時でとても恐ろしく愚かな判断を下しているのはロシア、独裁者のプーチンであり、またそういったことは私たちの国でも前世紀の戦争で経験したことを忘れてはならない。
現状民主主義国家は連帯して自体にエスカレートしないように理性的に対処しており、日本は淡々とウクライナへの支援とロシアの非難を行っている。
さらに核攻撃をちらつかせているのはロシアである。西側諸国のどの国も核攻撃を示唆はしていない、おぞましい例えではあるが、ロシアが先制核攻撃をした場合、すべての責任はロシアにある、ウクライナにも西側諸国にも責任はない。
ロシアが不合理な判断をしていいる以上我々は核攻撃の危険に常にさらされているがその中でウクライナを支援することやロシアを非難することが全面核戦争までエスカレートさせる可能性があるのでやめようといった言説には全く賛成
できない。東浩紀のツイートでは全面核戦争を回避するか、ウクライナへの支援とロシアの非難を続けるかの二択しかないように簡略化しているが、現実の世情はそんな二択ではない、我々は冷静にウクライナへの支援やロシアへの制裁を続けつつも停戦への努力を続けながら、全面核戦争への抑止もできる。私は東浩紀のツイートには全く同意できない。
以下の東浩紀の連投について思ったとこを書き散らす。
これからことあるごとに言っていきたいのだけど、民主主義の最大のリスク(のひとつ)は世論が沸騰し合理的な判断ができなくなること。ゼレンスキーはその点で西欧諸国にきわめて効果的なハイブリッド戦争を仕掛けている。ロシアに、ではなく西欧諸国に。ロシアに対しては機能しないから。1/2— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) April 12, 2022
このままでは多くの国が巻き込まれかねない。核戦争もありうる。この状況においては、言論人や専門家の役割は、世論の沸騰を制御し、指導者が合理的な判断をできるようにすることにあると考えます。それはプーチンが悪かどうかと関係ありません。とりあえず落ち着け、と言い続けることですね。2/2— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) April 12, 2022
ウクライナが今回の戦争に西欧諸国やを巻き込みたいのは当然の考えでなぜならウクライナの国力のみでは
ロシアとの戦争に勝てるわけがなく、西欧の支援を引き出したいからウクライナが同情を引くようなプロパガンダや宣伝をするのは当然のことだろう。
また宣伝やプロパガンダ以前にこの戦争でウクライナ国内ではロシア軍によって多くの一般市民が暴力の犠牲となっているがロシア国内の国民は
ウクライナや西欧諸国からの制裁の影響は出ているものの外国からの暴力にさらされているわけではないといった事実は記しておきたい。
この連投の書き方だとまるでロシアは世界各国に向けてプロパガンダ戦を仕掛けてないような書きぶりだが、現実はロシアも世界各国のフェイクニュースの勢力をつかい
巧みに情報戦やサイバー戦を仕掛けている。日本でも反ワクチンなどの発信を行っていた陰謀論を垂れ流す勢力がロシアのプロパガンダを垂れ流しているという指摘もある。
▼開戦以降のロシアのプロパガンダのニュースやサイバー攻撃の例
トヨタも被害、サイバー戦争激化! 国際ハッカー集団から露へのハッキング
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2203/01/news175.html
ロシア情報戦に「Qアノン・反ワクチン」が接近…人が自らフェイクを求める理由とは?社会への不信の行き先
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ace954403d39b36588ad92520a9f457b3ec2cff
東浩紀はウクライナの情報に流されず民衆を落ち着かせ全面核戦争を回避し停戦を望むとまるでウクライナが停戦を拒否し
世界中を巻き込む全面核戦争を望んでいるかのような語りっぷりではあるが実際は違う、ウクライナはロシアとの停戦協議を何度も行っているし
何度も和平に向けた提案を行っている。この手の人達はロシア側の提案をのみ一刻も早く停戦しろとと言わんばかりで甚だ現実的ではない
言説も見受けられるが、なぜロシアにウクライナ側の停戦案を飲めと言わないのだろうか?全く不思議である。
日本はこれからも早期終結を望みつつも西欧諸国との協調し、日本は淡々とロシアの国際法の違反指摘やウクライナへの支援、難民の受け入れを続けていく国際協調路線をとるべきだろう。
最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。
歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。
すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。
さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石の思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石の意図」に接近しようとした。
これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。
聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である。
これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者のあなたが「八百屋さんの隣にあるポストに手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供が八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。
これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァの世界で公式に起きたこと」にアニメや劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダムの関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀「データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
聖書や漱石の研究など、ソシュール以前は「世界が言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンルの議論で酷使されすぎだと思う)。
それに対して、「言葉が世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回」である。ソシュールが言ったのはあくまで言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまりに革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義は1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてからの文学理論の最近半世紀である。
それまでの哲学(世界観と言ってもよい)においては、言語の研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたま」のものをいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?
よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題は一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも「日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学の講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。
これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しかし言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかしソシュールいわく言語と対象の結びつきは「たまたま」である。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語が言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。
冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。
もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。
二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野や富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズ、エラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者が調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。
しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野や富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ「作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたしの感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。
上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこの言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作とアニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観をいかに正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。
しかしそうした努力にもかかわらず、論理学や数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデルの不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。
かくして文学研究者らはそうした論理的数学的理論を縦横無尽闊達自在に引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。
しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日の文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに、自分の場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。
だから、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情=想像力こそ、人間が発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから。
最後に
これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探しています。Pythonとかほんの少しできます。よろしくお願いいたします。
世界にはいろんなひとがいる。いいやつも悪いやつもいる。愛も暴力もある。それを知るのが文学を読むとか映画を見るとかいう経験で、それが人文知なるものの原点だと思っていたぼくからすれば、世界を善悪で分けることに忙しい最近の人文学はもはやまったく人文的に見えません。
https://twitter.com/hazuma/status/1491313061130817539
なるほどお。東浩紀さんがかつて「しおちゃんレイプ寸前w」などというツイートをなぜしたのか、これで腑に落ちましたよ。
娘の貞操を守ろうとする父でもなく、また娘を性的とりひきの材料とする父でもなく、ただ善悪を越えて、年端もゆかぬ自分の娘が知り合いの成人男性から股を広げられているさまを、敢えて「レイプ寸前w」と笑ってみせることで、古典的パターナリズムから脱した新たな父親像を示そうとされたわけですね。
「しおちゃんレイプ寸前w」ツイートは当時かなり炎上し、東さんもやむを得ず消してしまいましたが、今こそ評価されるべきものだと思います。
善悪を越え、わが娘の「痴態」さえも笑って見せ、なおかつ世界に発信する――これこそが人文学の精神なのでしょう。ゲンロンの未来は明るい。
左からは「ネトウヨ」、「冷笑系」と揶揄され、右からは「西さん」、「ブタミマン」と揶揄されてきた東浩紀がこれまで彼等に対して削除請求も訴訟も起こしてこなかったことは批評家、言論人として偉い
彼ほど右からも左からも大量に誹謗中傷されてきた批評家って平成を通して今日に至るまで類を見ない
東浩紀と言う名前を挙げることに二の足を踏む人はまずいないだろう
批評や言論を生業とする人が、他人が自身の名前を挙げて言葉を紡ぐことに二の足を踏ませる様なリスクを付与したら、それは批評家、言論人としては終わりだ
それはただの言いっ放しの無敵の人だ
いやいや、まず共有されるべきは白饅頭界隈のアンチフェミ言説(男性の苦境を個々の女性の責任にしてバッシングする議論)に対する怒りであって、そこはほとんど無関心でスルーしているのに、オープンレターの不備や瑕疵にはやたらに噛み付くようなことをやっていたら、「こいつはフェミやリベラルを叩きたいだけなんだな」と思われても当然でしょうよ。「ダブルスタンダード」というのも、「あくまでお前の基準ではな」としか言いようがない。
東浩紀も20年前は人文左派の憧れだったのに、いまは三浦瑠麗とべったりで、「コロナただの風邪」論をまきちらして、本当に地に堕ちた。
(追記)
ちなみにオープンレターには個人的には、よほど親しい信頼できる人から頼まれない限り署名はしないと思う。これが「呉座氏を学術界から永久に追放する」という効果をもたないわけがない、と考えるからだ。「学術界からの永久追放」を事実上是認しているのに、その自覚がほとんどないということに危険性を感じる。
そもそも元々の呉座氏の言説も「女性差別」「ミソジニー」と単純に切り捨てられるもではなく、呉座氏ほどの実績のある研究者でもテニュアではないことへのルサンチマンという社会的な背景を無視するべきではなく、その点でオープンレター呼びかけ人の人たちとは思想を異にする。
トップエントリの平弁護士や東浩紀氏が述べているとおり、発起人側が運営責任を果たしていないことだけは大多数の合意がとれているので、一旦はその範囲で言及すればいいんじゃない。
それ以上は誰も信じられない。
https://mobile.twitter.com/hazuma/status/1454693885511233536?t=iQJMHOyTHZobNIB6kdd1Jg&s=19
東浩紀「呉座氏の知人や擁護側というだけで他の学術機関にも「おまえのところのなんちゃらは問題あるから見解出せ」と文書を出しており」
https://mobile.twitter.com/BlauerSeelowe/status/1484211335151820800?t=PfnjRNhTMP8JsQI2pdWMKg&s=19
青識亜論「私も某氏からぶっこまれましたけど、弁護士通して文書送り付けて黙らせようとするムーブ」
https://twitter.com/terrakei07/status/1484166570087948292?t=gMBvZGE2uCCvQQ_ex4I8Wg&s=19