はてなキーワード: 中毒とは
ん?
>やめるのが正解だ
という文章は「攻撃的・非理性的」に該当しないと言いたいのかな?
えええ
それが「攻撃的・非理性的」なんですかー?
うーん…
お酒を全く飲むなとは言いませんが習慣化はデメリットが大きいのです。
晩酌と言うのは1人でダラダラと酒量を増やしていく、そのままダラダラと寝付く、
という行動パターンのトリガーになるので健康やQOLに気を使う人にとっていいことがありません。
(甚だしくはアル中、アル中はほぼ必ず晩酌習慣から始まります)
…というはっきりした根拠に基づいて「いいことのない習慣」と述べましたが
あなたが、飲酒のデメリットを述べられて攻撃的になったのであって、
特に元増田はランニング・筋トレと健康やQOLに投資する人なので、
全く「いいことのない習慣」であり、やめようという決心は正解です。
>酒の美味さを知らん奴はこれだから
が「攻撃的・非理性的」なのに?
「お前はお酒の上手さを知らないんだ!」は
突然怒り出しているという以上にそもそも話がかみ合ってません。
(たとえば「お酒は血行が良くなるんだ!」なら噛み合ってはいます。言説自体は迷信の範疇ですが)
嗜好品が気持ちいいのは当たり前であって
「だって気持ちがいいんだよ!」
は理性的な反論ではなく
中毒者の絶叫です。
も?w
噛み合わない反論をする、
今現に非常に攻撃的に絡んできている。
こういう反応になる人がとても多いですね。
理性の判断より前のところで脳が求めるようになるので
とマジレス
まず何故自分が盛んに芝をはやしているのが疑うべきです。
やめたい
本当にやめたい。・・・のだがやめられない。
もういい加減に怖くなってきた。まさかここまで酷いものだとは思わなかった。
こんなにも『渇き』とゆうか『渇望』とゆうか、抗えないほどの欲求が襲ってくるなどとは思いもしなかった。
本当に怖くなってっきた。
最近、いや数年前から肺に違和感とゆうか呼吸が苦しくなる事があり、
「これはそろそろやめるべきなのではないか」
などと漠然と思ってきてはいたのだが、今年に入ってから咳が止まらなくなったり呼吸困難な状況に陥ったりもした。
それでもやめないのだ。いや、やめられないのだ。
呼吸がつらい日は流石に吸わなかったりもする。いや・・すこし楽になるとすぐ吸ってしまう
吸っても旨くもないのに、だ。
臭いと思う事さえある。
最近はタバコを自分でも嫌っているのだ。 嫌々吸っているような感じでもあるのだ。
なんなのだこれは。
これではいけないと、あえて買わずにいて手元にタバコが無いようにしておく。
わざわざ、結構遠くにあるコンビニやスーパーにまで歩いていくのだ。なんなのだろうこの行動させてしまう力は。
ここまで書いた文を振り返って見てみても、自分はおかしいのではないかと思う。
吸っていない人からすれば我慢ができない、だらしのない人間にみえるのだろう・・・
わかっている。自分でもわかっているのだ。
ただここまで禁断症状とゆうかタバコへの欲求とゆうか、依存性が高いものだとは思はなかった。
この渇きは一体何なのだ。この胸の奥底から沸き上がって消えない渇望はなんなのだ。
昔はまわりで友人などが吸っていても何も感じなかったのだが、最近はタバコが臭い。くさく感じてしまう。
残り香や部屋や服についてしまった匂いなどが、とても臭く感じられるのだ。
・・・こんなにもタバコは嫌な匂いがするものだったろうか。 自分が子供の頃は大人が近くで吸っていたとしても、不快に感じる匂いではなかったような気がするのだが。
事実、自分は成人してしばらくしてから吸い始めたのだが、まだ自分が喫煙者になっていない時、まわりの友人達が喫煙所で歓談しているところに参加しても嫌な気分にはならなかった。 タバコの匂いも嫌いではなかった。
なぜなのだろう。ここ最近でタバコの成分が変わったのであろうか・・・
自分が小さい頃(30年近く前になるだろうか)社会はタバコの臭いについて過敏だったであろうか。
やはり、喫煙者が少数派になった為に浮き彫りになり顕著になっただけであろうか。
自分が小さいころはタバコの香りも良いもののように感じられた事もあったのだが・・・
などど・・もはやそんな事はどうでもいいのだ。
息苦しいし、体が重いのだ。確実に体調が悪いのだ。だるいのだ。健康面においてもタバコはやめるべきはずなのだ。
それなのに・・・それなのに
やめたいのにやめれない
この依存性が怖いのだ。
きっともう自分ひとりの力ではやめることが出来ないのだろう
とにかくこの中毒性というか依存性、やめようとした時のタバコへの「飢餓感」が怖い。
本当に怖い。
あ、デトックスはこれ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ここにいる人とか多分情報中毒気味の人多いから一回試しにやってみるといいと思う。ちなみに自分も多分にもれずわりとそんな感じでウェブとかよく見たり暇があったらTwitterみたりしてた。で、とても物知りにはなって、そういうの疎い人(いわゆる普通の人、非肉抜きで)からはよくものを知ってるなー、と同時になんだかインドアで内向的な人なんだろうなー、という印象を持たれてたと思う。週に本や雑誌も数冊は読むしなんというか習慣といえば聞こえはいけどやはりものは限度を超えると中毒と呼ぶべきものになってくる。自分も人といるより一人でそういうの眺めてるのが好きなタイプだったのでそういう生活してだけど、若干鬱っぽくなったりしてたし試しにそういうのほとんど断ってみた。
●試してみたこと
ウェブとかTwitterほとんど見なくした。本もあんま読まなくなった。そういういわゆる「メディア」に触れるのを一日大体一時間とかそれ以下に制限(大体)して、それでできた時間を家事、筋トレ散歩とかスポーツ、知人との交友とかとかに使うようにした。
●感じた変化
とりあえず世の中って捨てたもんじゃないなあとなんとなく思うようになった。いや、多分はてなにいる人って完璧主義で感受性の強い人が多いと思うんだよ。いろいろ話題になってることとかそれの議論も正しいことが多いと思うし、けど、世の中やっぱりそんなに神経質には動いてなくて、とりあえずもう、よくも悪くも適当に動いてんだなあ、と思うようになって、気分はすごく楽になった。Facebookとかのふわふわした投稿とかも、よくいう苛々した感じ自分も感じることはあったかもしれないけど、そういうのも楽しく見られるようになった。LINEとかすごい楽しい。
やっぱり人間も普通に自然の動物なんであって、なんというかそれに合ったリズムなり生活があるんだなあと思うようになった。それだけ。でも自分でちょっと生活があれな感じに思う人とかは一度試してみるのはありかなあと思うかも。
http://anond.hatelabo.jp/20130922234233
の続き
今のクッキークリッカーの状態は、総生産量2京枚超で、毎秒219億枚のペース
ほとんどの実績をクリアして残りは、反物質コンデンサを後5個増やして
100個にするぐらいしか残ってません
96個目の反物質コンデンサの値段は2335兆クッキーなので、
この生産ペースでは1万秒以上、つまりざっと3時間かかることになり、
1個ごとに1.15倍で価格(クッキー)があがるので、さらに時間が
かかります。
だからこの状態になるとやることは2~3分に一度出てくるゴールデンクッキーを
クリックするが重要である、というかそれ以外にやることがありません。
けどそのボーナスも20兆クッキーぐらいなので100回以上クッキー拾わないと
ということもなく、実はCPS7倍と20分のクッキーというゴールデンクッキー
のコンボでざっと180兆クッキーをゲットできることもあります
ですから次のコンデンサ買うのにはゴールデンクッキーを少なくとも20回以上は
ゲットしなくてはならず、その出現頻度を考えるとやっぱり1時間コースですかね
その先は実績やアップグレードもなくなるので、完全にゴールデンクッキーをゲット
するか、放置だけのゲームになってしまい、現実的なプレイ時間でのクッキー獲得
結局、イベントをクリアする都度に加速感が指数的に増えていくという快感の中毒性
と思うところが、そこで終わらせないのが作者のうまいところで
この段階でリセットすると、これまでのクッキーの総生産量に応じてHeavenly Chip
というものをもらえて、クッキーの生産効率が最初から下駄をはかせて再度
最初からスタートでき、最初のフェーズの加速感が半端ないです。
400%増しぐらいでスタートするため、最初の反物質コンデンサ獲得まで1時間
かかんないんじゃないですかね。
このゲームの特徴であるイベントごとの加速感のインフレというものを、新たな
イベントを追加するだけでなく、ゲームそれ自体を単位としてその加速感を加える
ですから、「放置ゲームになってつまらん」という人は、その時点で一度リセット
することで、また新たな加速感を楽しめ、前回よりはずっと先まで放置ゲームという
ことを感じずに楽しめるわけですね
一週目でアップグレード全部揃えるのは、まあできないことはない範囲ですが、
作者の意図としてはリセットを何回か繰り返して到達してもらうのというのが
(ゴールデンクッキー7777枚獲得というチートなしではどんだけかかるか
わからない隠し実績もあるわけですし) <h3>o- **********************************</h3>
・ボーナスクッキーを現在のクッキーの10%または20分の少ない方、+13枚
が、ほぼ半々の確率で得られます。(他の低確率のボーナスについて割愛)
CPS7倍154秒というのは結局CPSの924倍のクッキーをもらえることに等しい
現在のCPSならば21兆枚
ボーナスのほうは、CPSの1200倍なのでもうちょっともらえて、26兆枚ですが、
いずれにせよ、コンデンサを買うにはその100倍は必要なわけで・・・
そこで効いてくるのがCPS7倍の継続時間が154秒というところ
ゴールデンクッキーの出現頻度は(この段階で)75秒から210秒なので、CPS7倍
状態でさらにゴールデンクッキーが出現することがあり、ここでボーナスクッキーを
ゲットできると先の7倍、つまり184兆枚もらえることになります。
(ただし現在のクッキー数がこの10倍以上、つまり1.8京枚以上残していることが
もしかしたら、今も楽しくないのにクッキークリッカーをやっている人がいるかもしれないので、
とりあえずここに書いておきます。
本家クッキークリッカーはjavascriptで動いているため、ブックマークレットで
簡単にチートが可能。
javascript:(function(){Game.Earn(1e+99);})()
をブックマークのアドレス欄に書いて、押せば、ババアとはさよなら。
派生版魔理沙とアリスのクッキークリッカー(ver1.06)はflashで動いているため、UsaMimi等の
例えば、RIMの個数が16なら、16×8=128をまず探す。
次に、RIMの個数を17にして、17×8=136をさっき探したアドレス内から見つけてみる。
きっと、該当するアドレスが1つだけ見つかるはずなので、そのデータを100×8=800
クッキークリッカーの評判の中で「基本、放置ゲームになるのでつまらん」というのをちらほらみかける。
確かに次のステップに対して「待ち」となることが多いゲームではあるのだけども、
次の手を打つ時の戦略ミスをして「待ち」「放置」になってるような感想もちらほらあるようだ。
クッキークリッカーの序盤に置いて、次のステップに向けてBuidingを買うか買わないかを、より短時間で次のステップに
到達できる条件で決定するには、以下の比較で決定することができる。
次のステップまでの時間(秒) > Buildingの投資回収時間
直感的に当たり前の式であるが、実践ではクッキーに余裕ができるとかたっぱしからBuildingを買ってしまいがちなので、
式をもう少し詳細化すると、
(T - C)/cps > A/p
p:Buildingの生産数/秒
例えば初期状態において、
cps=手動クリックのみで 5cps
カーソル(A=15、p=0.1)、おばあちゃん(A=100,p=0.5)
をどう買うべきかという判断に上記の式を適用すると、
おばあちゃんでは、(500-100)/5=80秒 <200秒
であり、どちらも農場を買うまでは手動クリックを続けたほうが実は早いことがわかる。
(疲れは別にして)
同様に工場(A=3000、p=10)について考えると、
(3000-500)/5 = 500 > 500/2
なので、さすがに農場を買ったほうが早くなることがわかる。
では、もっと農場を買うべきかどうかというと、2つめは高くなり、またcpsが農場分増えるので、
(3000-575)/(5+2)≒346 >575/2=288
3つめは、
(3000-661)/(5+2+2) = 259 < 330
となり、これは回収が間に合わなり、買ってはいけない。
そして、この農場獲得後のcps=9の条件において、今度は工場獲得までに
カーソルの場合は、(3000-100)/9=322秒 >150秒
おばあちゃんでは、(3000-15)/9=331秒 >200秒
と、今度はどちらも「買い」になることがわかります。
もちろん序盤のこのような比較判定は、全体の時間短縮に対してそれほど大きな影響はありませんが、
中盤以降のポータルやタイムマシーンの購入に関しては、意外に買わないほうが結局速い、という
戦略的な「待ち」が優位であることが多いので注意してください。
そしてこれは反物質コンデンサ購入後の各種アップグレードにも似たような評価が
特に、ゴールデンクッキーによるクッキー増量が優位になる状況では、
「次のステップ」というものの効率向上が限定的になり、よって上記の式の適用前提からひっくり返り、
「ゴールデンクッキーの定期的な増量で如何にして総量を短時間で増加させるか」
という変化です。
中学の時にオナニーを覚えて、来る日も来る日もシコシコシコシコシコシコシコシコ。
ハタチを超えてシコシコしてた時、
"このシコシコも30歳回ってケッコンしたら止めるんだろうなァ。"
と何となく思ってた俺。
ところがケッコンして10年、今年で四十路になるというのに、相変わらず
シコシコシコシコシコシコシコシコ。
嫁さんとのセックスには不満はないんだけれど、このシコシコは止められ
ないんだよなぁ。
エロ本だDVDだは買うことがないけれど、今やインターネットで自宅に居ながら
そらチンコを擦る右手も止まらず、シコシコも捗るってものですよ。
とりあえず、このままシコシコ中毒よろしく、50になっても60になっても
シコシコは続けていくとしようか。
噂のEIZO FS2333を買った。
それをメインにして、サブを今まで使っていた三菱製24.1型ディスプレイに繋ぎなおし、しばらく初のデュアルディスプレイ環境を楽しむ。
それまで、1つの画面にフォトショと資料画像を並べて窮屈な環境のなか描いていたのが劇的に改善。
メインいっぱいにフォトショを広げて、サブに資料を表示させるもよし
従来と同じくメインにフォトショと資料を並べ、空いたサブにもっと多くの資料を並べたり、動画サイトを垂れ流しにして楽しみながら描いたり、CGメイキングや講座を表示させて確認しながら描くもよし
夢が広がる!
PC買い換えて、お古の19型から24.1型のディスプレイになった時も感動したけど、今回はそれ以上の衝撃を受けた。
あとFS2333凄いね。謳われてる通り、目に優しい。三菱製モニタとは何だったのかと問いかけたくなるくらい、長時間使用での目へのダメージが違う。
色も綺麗だし、「質の良いディスプレイ」というものが一体普通のモニタとどう違うのか身をもって知った。
サブモニタにゲームプレイ動画流しながら描いてるだけで癒され感半端ないし、ついつい夜更かしして大学へ遅れることが多くなりそうだ。
いい悪いは別として、世界的に見て日本人は、文化的、社会的、そして言語においても極めて特殊だが、異常にオリンピックが好きな事も特殊。
そんなに努力したら報われる瞬間に飢えているのだとしたら、未だ社会生活、仕事で、健全で公正な環境に置かれていないということか?
実際問題どうなのだろう?
純粋に考えるとオリンピックが好きということはスポーツが好きということになる。ところがどうだ、サラリーマンの大半が休日又は
仕事の後に、スポーツに興じ汗を流しているという話は聞かない。そのような光景はあまり目にすることはない。
その代わりに目にするのは、抱えきれない日々の不満を、アルコールで解消しようとする、お腹の出た酔っ払い達だ。
その横を流行りのジョギングシューズ、ジョギングウェアーに身を包んだ健康志向の誰かが、お気に入りの曲をipodで聞きながらすり抜けていく。
俺は夢でも見てるのか?
マラソン中継を放映している国、それを飽きもせず見続ける国民。私はそんな国は日本以外知らない。世界を知らないだけなのか?
この状況を客観的に見れば、日本人はスポーツを観るのは好きだといえるが、自ら進んでスポーツをする事はあまり好きではないということになる。
中学、高校と部活等を通じてスポーツで汗を流す少年少女は多い。それが例え決められた制度であったとしても、スポーツに興じてることに変わりはない。
この期間で自らが興じるスポーツが好きになる人も多いだろう。
そして、そのスポーツに対するアクションは、”観ること” よりも "する事" の方が大きなウエイトを占めている。
それがいつの間にか逆転するのだ。
スポーツの価値観が、健康的な価値観から余暇的な価値観に置き換えられると言ってもいいだろう。
その背景に見え隠れするのは、 仕事が一番でなければいけない という強迫的なあれだ。こう感じるのは考えが飛躍し過ぎだろうか?
かくして、仕事に疲れ果て、体を動かくこともままならない日本人の、スポーツをしたい欲求を満たす為に、代わりに、スポーツ映像をメディアは垂れ流す。
自分の満たされない欲求を、映像の中の選手に投影する。選手たちは、希望どおりの働きをしたり、逆に残念な結果を出したり、ときに想像を超えた活躍し視聴者を刺激する。
そう、視聴者にはスポーツをする時間も、余力も持ち合わせていないのだ。
「もっとくれ!、もっとくれ!もっと!」「視聴者は欲しがってる、こいつはヤツらの希望を満たすドル箱だ!どんどん垂れ流せ!」そんな幻聴が聞こえてきた。
こんな話がある。
オリンピックの放映権はドル箱ビジネスで、年々高騰している。その対策としてNHKを含む民放6社がお金を出し合い、放送権を獲得することにした。
1976年のモントリオールオリンピックから今にまで続いている。オリンピック期間中、ほぼどのチャンネルを回してもオリンピック放映となるのはその為だ。
各社は特色を出すためにタレントや芸人を起用した演出を模索する。芸能人にとってもオリンピックは稼ぎどきなわけだ。
話を戻そう。映像というのは優れた面も沢山あるが、使い方次第では非常に危険な装置に成り代わる。
昔から洗脳に使われたように、無意識化の脳に直接働きかけるため、思考や行動をコントロールすることに威力を発揮し、中毒性も高い。
これは少なくてもメディアの中枢に関わる人達には常識と言えるものだろう。
だとしたら、結果的にメディアは、 仕事が一番でなくてはならない という強迫的なあれに協力、貢献し、スポーツをすることもできないぐらい疲弊し、時間もゆとりもない国民を作り出してしまった。と言い切るのは歪んだ視点なのだろうか?
しかし、そんな惨めな自分たちに気づき、これではダメだとゆとり教育を推進し、彼らが社会に出ると、ゆとり教育は失敗だった。ゆとりは使えないと大合唱し、元の詰め込み減点方式の教育に戻すのは、なんの三流喜劇なんだか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/NATROM/20130829%23p1
などで「臨床環境医」が一部の人から嘲笑と憎悪の対象となってるwww
ブコメを見てすぐ気づくけど、一部の「臨床環境医」ではなく、「臨床環境医」全般がその対象だ。
シックハウス症候群マニュアル―日常診療のガイドブック という本がある。「日本臨床環境医学会」が編集した、この8月に出たばかりの本だ。厚労省科研費の報告書が基になっているという。
学会が編集したからといって、即「学会会員一致した見解」とはならない(w)のはそうだけど、まあ現時点での臨床環境医で作る学会の代表的な見解が述べられている、とみなして良いだろ。
また、これは「シックハウス症候群」についてのマニュアルであって、「化学物質過敏症」MCSを主対象とした本ではない。しかし、症状的にきわめて似たところもあって(ww)、臨床環境医がこのマニュアルに基づいて行うシックハウス症候群の診断が、化学物質過敏症についての診断と方法・考え方で大きく異なる、と思える人はいないだろう(とくに実際に読んでみれば)。
w 実際読んでみると、シックハウス症候群を「広義」でとらえようとする者と「狭義」に限定しようという者といて、やや不整合がみられる。しかし、強調しておくべきことは、学会編のこの本のトーンは「狭義」路線が採られていることだ。
ww そもそも用語のさす範囲が人、場合によって違うようだ。たとえば、http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20130902142408605 でいう「化学物質過敏症」は「狭義のシックハウス症候群」と呼んでも差し支えなさそうに思える。
全体で79ページの薄いマニュアルであるが、たとえば、その51ページには
「除外診断を旨とすべきである。」 実際、全体の1/5の分量、「Ⅱ.診断の手順」内では半分以上にあたる16ページが「鑑別疾患」にあてられている。そのうちでもアレルギーは8ページ、中毒は非常に短いが、精神心理は4ページ、それに感染症3ページ。十分であるとはいえないかもしれないが、とりあえず「臨床環境医」が、他の疾患との区別を重視していることは明らかだろう。
このように同じ建物の居住者に集団発生することがあるため、シックハウス症候群との鑑別上、肺結核症は常に想起されるべき疾患の1つである。
だそうである。
69ページ以下がQandAであるが、そのQ10「専門医にご相談くださいという言葉をよく聞きますが、何科を受診すればよいですか」に対しては、症状部位によって、眼科、皮膚科、内科を
とはっきり書かれている。
こういうことが「臨床環境医」の学会が編集した最新の冊子に書かれている。
ちなみに60ページの「自然・天然素材」という項では、スギ・ヒノキなどのテルペン類に触れており、かつては筏で木材を流したりしてるうちに揮発した、昔と今では建物の気密性が違う、など、「天然素材だから、昔もそうだったから」という主張を批判している。
こうしてみると、冒頭のブクマのように「臨床環境医」全体をひとからげにして非難する、というのはどう考えても2013年日本の実態に沿うものとはいえない。
もちろん、いろいろと突っ込むところはあるだろう。当然だ。それは、1.この本の内容そのもの、2.実際の臨床環境医がここに書かれているような診断とかけ離れてことをしている、に二分される。ただ、2.についていえば、でたらめな診断をくだす医師は臨床環境医以外にもたくさんいるわけであり、「臨床環境医」全体を非難しようというのなら、当然それなりの定量的なエビデンスが求められるだろう。 個別の例で非難することはできるが、それがどこまで敷衍できるのか示せるのだろうか。また、患者に向かって「あなたは胃潰瘍と主治医に言われているようだけど、胃癌ですね」と(とくにネット上で)安易に言うことができないように、主治医でもない人間が安易に憶測を述べる危険もある。
ともかく、「現在の日本の臨床環境医」についてが中心に論じられるべきなのは言うまでもない。
さて、冒頭のブックマークなどで「臨床環境医」全体を非難嘲笑している者と、「奇跡のリンゴ」という映画などでの「農薬」の扱われ方について批判していた者は、かなり重なるようだ。
「農薬」については「40年前と今は違う、日本の基準は安全だ」と言いながら、「臨床環境医」については「昔も今も、外国も日本もすべてひとからげにして非難する」wwww 空気を吸うようにダブルスタンダードを用いるニセ科学批判者の特徴がよく現れているwwww
何年か前、主婦してたハイカーさんがhagexさんのダイアリに嵌ってしまって画面前から離れられないとぼやいてた。
自分はスポンジボブが嫌いでそのアイコンが見えたのが嫌で見ることはなかった。
内容にもそんなに興味を持てなかった。
数年して、ここ2週ほどは嵌ってしまったとしか言いようもなく長時間読みふけってしまっている。
変わったんだな自分。
たぶん過去のぶんも全部読んでしまえば熱も冷めるんだろうけどいろんなことが滞ってしまってヤバい。
なんか中毒っぽくてどうしよう
結論から言うと「自分を正しく客観視できていないから」です。 (※ただし中毒や依存症は例外とする)
デブが決意してダイエットをするも成功しないで終わる理由 「自分はどのくらい太っていて、普通体型になったらどれくらい得をするか」 をわかっていないから。
今まで落ちこぼれだった受験生が決意をする も、志望校に受からないどころか三日坊主で終わってしまう理由 「自分はどれくらい勉強かできなくて、現実的に考えてどのくらいのペースで勉強すれば志望校に受かるか、また志望校に受かるのと受からないとではどれくらいの差(損得)があるのか」 をわかっていないから。 (もしそれを理解していたなら志望校に受からずとも結果はでるし今までのダメな自分よりは 「変われる」はずです)
決意をしたのに変われない人っていうのは、そ の決意が偽物だったわけでも量的に少なかったわけでもなく、ただ単に「自分を正しく客観視できていなから」ってことでどうでしょう。
先週「はだしのゲン」を巡る大きな騒動があり、ここはてな界隈でも話題となったことは記憶に新しいと思われます。
また、教育委員会自体は否定しているものの、右翼系団体からの圧力があったという話があったことも話をさらに大きくさせました。
この辺の話は極東ブログさんが事実関係及び時系列を客観的にまとめた記事があるので、そちらを読んだ方が手っ取り早いと思われます。
さて、ここでブックマークを拾いながら「はだしのゲン」を閉架処理にしてしまうことがいけない理由を見てみたいと思います。なお、これは私がチェックした時点(8月22日深夜0時)においてスターを多く集めている順に書いていることをあらかじめここに記しておきます。
まずは一番目に挙げた記事から見ていきましょう。
調べてみたら在特会が噛んでいた事案だった http://www.nicovideo.jp/watch/sm17718509
ケロイドまみれの人とかヒロポン中毒者とか、発達期の子供が読むとトラウマになる描写ばっかだからいいんじゃん。おかげで子供ながらに戦争・原爆とか絶対ダメだこれって思えたよ。
絵が嫌いで読まなかったけど、それを選ぶのは子ども自身であり、閉架扱いにしたら選択の機会が事実上殆どなくなる。閉架は隠すことと同じだろ。
わからんでもないんだけど、これって「なんか聞かれても答えられる自信がありません」っていう教育委員会の敗北ではないのかな。
不謹慎な言い方かもしれないけど「はだしのゲン」はホラー漫画であり、仁義なき戦いであり、人間の虚飾を引っぺがしつつ、人間賛歌でもあるという極上のエンターテインメントだよ。ぜひ小さいうちに読むべし!
進駐軍によるレイプシーンの事かな。私はあれでレイプの酷さを知った。小学生高学年以上なら大丈夫だと思うけど。/戦争の汚くそして酷い面を覆い隠して、何がしたいんだろう。
こうして見ると、はだしのゲンを戦争の悲惨さを刻み付けるために読ませるべきだという意見は三人ほどおり、またそれに賛同の意を示すかたが意外と多いという事実が分かります。(ちなみに、私はスターを入れていませんが、id:panamolyfumizouさんや、id:IGA-OSさんの意見に共感しました。)
二番目に挙げたブックマークでは某レイシスト集団、ひいては歴史修正主義者に対するコメントばかりなので、「はだしのゲン」という作品そのものに関するコメントは、人気ブックマークに現れていませんでした。もちろん、そういったコメントもあることにありましたが、人気のブックマークの一覧にはありませんでした。当該まとめが取り上げている事案が事案なので仕方がないでしょう。
とは言え、他の「はだしのゲン」を取り上げた記事においては、必ず一つは人気ブックマークにおいて「はだしのゲン」でトラウマが、「はだしのゲン」の描写によって戦争反対が云々、などと言及されているものがあります。また、子供の頃トラウマになった作品挙げていけなどといったしょうもないまとめ系記事でも必ず挙がり、ここでも戦争が云々などと必ず触れられます。統計的なデータは取っていませんが、ネット界隈を見渡す限り、このあたりは共通認識であると言っても構わないでしょう。まあ、統計云々以前に、少なくとも、「はだしのゲン」を読んで性的欲求を満たされただとか、積極的に首ちょんぱしたり戦争を行うべきだという思想を獲得したなどという感想はないことは言えるでしょう。
さて、長くなりましたが、ここからが本題、即ち表題に書いてることについてです。
表現規制賛成派がどういう理由でもって表現規制に賛成しているかはみなさんもよくご存知の通り、漫画やアニメにおける描写が現実の性犯罪を引き起こす恐れがあるということからです(もちろん、他にも理由はありますが、ここではこの理由に絞ります)。
つまり、例えば漫画やアニメの中で小学生あるいは中学生にしか見えない見た目の登場人物が、和姦であれ強姦であれ触手であれ蟲であれ、何らかの性的行為を行っている描写を読者が見て、現実世界でも実行しようという誘引が働くという訳です。米国で問題になったレイプレイの議論も参考になります。また、他の暴力描写が含まれる作品、例えばバトルロワイヤルなどを巡る議論も同様です。フィクションにおける描写が、現実世界においても同様の事例を発生せしめる可能性があるという科学的根拠のない意見でもって、規制をなそうという暴論がまかりとおっているのです。
ところで、上記に述べた「はだしのゲン」を小中学生に見せようという意見を見てみましょう。彼彼女らは、「はだしのゲン」を読むことによって子供達に何らかのトラウマを与えて、また戦争の悲惨さを教え、更にはレイプやシャブの非道さを教えられるというのです。
今度はポルノ表現を見てみましょう。ポルノ規制反対派は、猥褻描写が行われている漫画あるいはアニメを見ることによって、例えばレイプされても感じるのだからレイプしようだとか、現実の児童にも手を出そうとか、そんなことを読者が考えるとみなしているわけです。
この論理構造、本質的には一緒じゃないですか?即ち、何らかの視覚的表現が何らかの影響を読者に与えるというのです。私は、この点でもって、「はだしのゲン」は戦争の悲惨さを云々だという論理には危うさを覚えています。しつこく繰り返しますが、描写が凄惨な漫画を読んで反戦争を唱えると、レイプ漫画でレイプされている人が感じるということを"知って"実際にレイプするとは、本質的に同じ論理構造です。
私自身は、今回の閉架処分には反対です。理由は実に簡単で、漫画の表現なんて現実世界に何の影響も及ぼさないし、そもそも現代においては「はだしのゲン」なんか可愛く見えるくらいグロテスクな表現を使ったブツが大量にあるからです。そんな中で「はだしのゲン」だけを閉架処分にするだなんて無知きわまりないです。また、表現の自由という観点からもありえない決定です。ましてや、「はだしのゲン」が特定個人を誹謗中傷している作品ならまだしも、少なくとも史実にしたがって描かれた作品なのです。やはり、今回の松江市の決定は悪しき前例以外の何物にもならないでしょう。
なお、反戦に関しては、個人的にはたかが漫画を使うのではなく具体的なデータ及び記述でもって丁寧に教えた方がよっぽど良いと思います。情緒に反戦を訴えても意味がありません。それは、より強い思想によって塗り替えられるだけです。確固たる客観的記述を知ることの方が、歴史修正主義者たちの出す捏造された資料を読んで騙されることがなくなるためはるかに有用です。個人的に、ネトウヨがこうもうじゃうじゃいる理由はここにあると考えています。教育関係者には自省を促したいところです。
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
実際にはここまでひどいケースは稀で、インターネット中毒の人々、もちろん僕もその中の一人だが、そういう人たちの好きな過激なお話の印象を受ける。
田舎から出てきて、東大で学生をやった、上から下まで見てきたと自分では思っている、僕の思うところ。
親戚が金にルーズだというケースよりも、大学に行って感じる文化的資本の差よりも、むしろ辛いんじゃないかって思った、思っていたこと。
でも、これは一方で、散々言われてきたことだとも思うから、ショッキングさなんて無いんだろうな、って思う。
けれど、このショッキングな話に対して、当たり前のようなことを言うことが大事だと思った。
高校を出て、就職をして、恋人が居て、結婚はいつするんだ、一番上のいとこがもう二児の母だなんて、時間が経つのは早いねえ、そういった温かさに満ち溢れている。
そこには学も教養も要らない。
今だって、学と教養で人間の格みたいなものが推し量られるようなところで生きてるのに。
そんなに生活が荒れてなくたって、常にものすごい溝があるんだ。
そして、僕はその基準に自分が晒されるのが、たまらなく辛かった。
盆と正月に帰ったら、恋人はいるのか、結婚はするのか、田舎には帰ってくるのか、そういったプライベートなことを聞かれるのが辛かった。
学問で身を立てようとする自分が苦しい思いをしているのに、この人たちは全然学問なんて関係のないところで幸せそうな顔で生きている、その事実が辛かった。
一方で僕のやっている勉強とか、研究とか、そういったことが何も伝わらない、こっちは痛いほど察しているのに、彼らの価値観や生き方や人生全て全部が手に取るように分かるのに。
んで東京に帰ったら同じような苦しみなんて誰も感じてないんだ。
これも元のお話と同じ。
この自分語りに無理やりにでもオチをつけるなら、そうだな、そんなショッキングな書き方に俺は腹が立ったんだってことだ。
別に不幸せな低学歴の出身と自分を比べなくたって、常に溝はあるんだ、奴ら幸せそうなんだ、こっちの気が狂いそうなくらい。
んで、ついでに言えばこの日本でありがちなケースは、俺の体験してるほうなんだ、ってことだ。
もう終わりだと思う
大学を卒業し、職にも就かず、ニートだった俺は、2011年の震災直後から大チャンス到来だ!と思い、バイトで貯めた100万でFXを始めた
しかし現実は甘くはなく、2011年も2012年も序盤こそ儲かれど、その後大したチャンスなども無く、二年間ほとんど含み損生活を続けていた
だらだらとバイトも就職もせず、含み損で資金が動かせなかったので留学の話もキャンセルし、毎月上がる僅かな利益と資金を食いつぶしながら、なんとか実家で二年間耐えていた
だが2012年の終わりに全てが変わった
400万の利益をたった3ヶ月で手にすることになったのだ
俺のこの二年間は正しかったんだ!!
100円をうろうろしていたドル円はいまや95円台に突入する寸前、そして気づけば自分の手元には100万も残っていない
やっぱり才能は無かったんだ
動かせば動かすだけ損失を計上し続けただけだった
だが元々100万で始めたFXだ、やめるなら今だ、あてにならない直観が告げていた
差引だけでみれば、自分はまあ大きく成功はしなかったがうまく立ち回った方なんだろう
しかも、この数年間で海外旅行には6回は行ったし、美味しいものもかなり食べられた
だが人生は?
三年間という空白だけが佇んでいる
三年間最初の100万で何かに本気で打ち込んでいれば、FXでは儲からなかったかもしれないが、人生は今頃進展していたかもしれないのだ
人並みの生活、人並みの喜び
別の友達は1000万貯めたらしい
そうなのだ、過去を積み上げた人間には金など後からついてくるのだ
自分を肯定してくれた500万の金はもう残っていない
自分を肯定してくれた高学歴という過去はもう過ぎ去ってしまった
これが自分の経歴だ
FXで簡単に数万円が湧いて出てくる抗いがたいあの感覚だけが残っている
なんと惨憺たる人生だろうか
生きる希望もなく死ぬ勇気もない人間にとって人生はただの地獄である