はてなキーワード: プレッシャーとは
「そういや、閣僚会議で政治家が居並ぶ姿や、経営者が集うパーティーも男性ばかりだな」
そんなことを思っていた時、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の当時の男性会長が、女性が多い会議は時間がかかると述べたニュースがふと頭をよぎりました。「私どもの委員会の女性は、わきまえておられる」という発言も物議を醸しました。
「こわもて男性だらけの会議に出席するだけでも緊張するだろうに、『わきまえておられる』なんて言われたら、女性はさぞかし発言しづらいはず......」
それに対し、行きつけのスーパーで買い物をしている主婦のみなさんは、私を煙たがる様子などありません。店員さんたちは、私に何かを「わきまえる」よう求めることもなく、「いらっしゃいませっ」と毎日笑顔で迎え入れてくれます。
それどころか、ある日レジで会計を終えると、店員さんから声をかけられました。
「『いつも』ありがとうございます」
えっ、「いつも」来てるの知ってました? まあ、確かに目立ちますよね、私。こっぱずかしいけど、うれしいです。女性だらけの空間に、当初あれだけ感じていた心細さなどどこへやら。一気に吹き飛んでいってしまいました。
もちろん、店員さんは私が男性だから声をかけたわけではなく、何度も来店しているお客にはそう言ってるのでしょう。つまり、他のお客さんと同じように、私に対しても声をかけてくれたわけです。自分の存在を受け入れてもらっている感じがしました。
それに対し、会議で「わきまえる」ことを女性に求めてしまうお歴々の男性たるや......。しばらくのあいだ、平日昼間のスーパーで買い物してみてはいかがでしょう? 自分だけが異質な存在である空間が、如何に心細いものか肌でわかると思いますよ。
女性たちは会議室の中で、その何倍ものプレッシャーを感じてきたはずです。そして、改めて考えてみてください。果たして、本当に「わきまえる」べきは誰なのかを。(川上敬太郎)
1年前に出産した先輩の家庭に亀裂が入っている
産後すぐにもかかわらず、「生活費を家に入れろ」と言われて、自分に辛くあたるとのこと
夫婦ふたりだった頃は、家賃は夫持ち・水道光熱費食費なんかは先輩持ちという感じで、金額的にトントンになるよう折半していたそう
子供にかかる出費分は、まるっと先輩にのしかかる形になっているらしい。
夫の親にも相談して、夫を諭してくれたらしいけど、結局その後も変わらないとか
「産前と同じように」と働くことを求められることが辛い…と。
先輩の夫も、一度会ったきりだけどやっぱり仕事ができる人という印象
先輩の夫はこのご時世でもフル出社で、朝は早く夜は遅く、付き合い飲みもしばしばということで
保育園の送迎ほか、平日のこどもにかかる負担は先輩が担っている形
それはしょうがないと思っているし、どうしても女に負荷がかかる部分はあると思って
受け入れているけれど、それなら収入面は向こうがもう少し担ってくれてもいいのでは…とのこと。
先輩夫婦は、こどもができる前はすごく仲良くて愛し合っていた印象
先輩本人も実際そうだったと思っている
待望のこどもが産まれて、夫はこどもを溺愛するようになったけど
そのかわり自分につらくあたるようになった
どうしてこうなるのかわからない…とのこと
先輩の役に立ちたいと思ったけど
聞いていても本当に、どうしてそうなるのかわからない
何をしたら先輩の夫の意識や行動がかわるんだろう?
うちもこどもが少し前に産まれたけど
うちの場合は、ひとつの銀行に毎月定額の生活費をお互いプールする方針にしていたのと
自分が会社勤めなので、育休手当などがあった&自分の貯金があるから
だから、産後すぐに金銭トラブルに直面することは避けられた…けど
こどもの体調が悪くなって、しばらく仕事ができないとかあるかもしれない。
数ヶ月をやりすごすことはできるだろうけど
うちの夫はプレッシャーに弱いから、心がすさみ、家庭内が荒れてしまうかもしれないな…
先輩の夫は、そういう心境なんだろうか。
テレビアニメの売上議論で10年程度前に流行した「覇権」というキーワードがある。そのクールで売上や話題を支配した作品のことを「覇権」などと表現してたもので、今ではもう使われていない。
今回の映画化においてはさらに原作小説にはない(らしい。未読)視聴率の要素が重視されるようになった。つまり「覇権をとる」=視聴率において勝つ、という話になり、毎週同時間帯に放送される2つの作品が視聴率や話題性で競走しているように描写されていた。
ところで、実際にはこの映画に出てくる二人の監督は別に「視聴率競争に勝つ」ためにアニメを作っているわけではなかった。
視聴率を含めスケジュールやスタッフからの反発やサボタージュセクハラ、あるいは新人監督であるとかヒット監督の待望の二本目という期待であるとかという膨大なプレッシャーに対峙しながらも、納得のいく、誰かに届くに足る作品を作ろうとしている姿が描かれている。
吉岡里帆演じる斎藤監督が願うのは「売れろ」「視聴率で勝ちたい」ではなく「誰かに刺され」なのである。
私に対する告訴を検討しているという人物、ここでは仮にX氏と表記しますが、X氏及び第三者の方々に対して、以下の点について説明をします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1 私が「X氏の元・妻である」と自称したとするX氏の主張に対して
事実(1):私は、一度も「私はX氏の元・妻である」と自称していません。
まず明白な事実から述べると、私は「X氏の元・妻である」とは、最初から一言も書いていません。
これは、はてな社のログを確認できる立場の担当者ならば、直ちに確認が可能な事実であります。
したがって「私が自分のことを、X氏の元・妻であると自称した」という指摘は、明白な虚偽であります。
事実(2):私の記事には、特定の人物を想起させうるような、言外の情報は含まれていません。
或いは、X氏の側は「それでも私が書いた記事は、言葉による明記はしていないものの、X氏の元・妻であるかのように誤認されうるものであった」と主張されるかもしれません。
しかし、仮にそう言われたとしても、それは無理のある主張と言わざるを得ません。
私は、セクシャルハラスメント被害を受けた人間の立場として記事を執筆しましたが、そのセクシャルハラスメントが行われた場や年月日、関係者の個人情報(年齢・職業・居住または就業場所など)を一切記載していません。
また、元・配偶者が、私の受けたセクシャルハラスメントの被害について、理解や共感や被害回復の手助けや協力を示してくれなかったという話についても、ハラスメント被害者のパートナーや伴侶が被害者の苦痛について理解や共感をしてくれなかったり、被害回復の手助けをしてくれないという事は、多々あるハラスメント被害事例の中では(悲しいことに)ありふれた話です。
さらに、セクシャルハラスメントの加害者が、夫婦やカップルの公私に渡る知己の人物であることも、これもまた(悲しいことに)ありふれた話です。
セクシャルハラスメントの加害者が、年長者であるケースについては、指摘するまでもなく、ありふれた話です。
つまり、私のセクシャルハラスメント被害について書いた記事には、そもそも「言外の情報」と呼びうるような、特定の人物を強く示唆したり、想起させたりするような、特異な描写が含まれていません。
故に「私の執筆した記事は、言外情報によって、私をX氏の元・妻であると誤認させる内容であった」とする主張は、万が一なされたとしても、それは全くの言い掛かりに過ぎず、不合理で妥当性に欠ける主張と言わざるを得ません。
補足(1):曖昧な記述による告白や相談は、ハラスメント被害者が二次的被害を回避するための正当な防衛行為です。
私の書いた記事が特異な記述を避け、また曖昧さを有しているのは、二次的被害を回避するように心掛けた結果です。そのような曖昧な記述は、ハラスメント被害者が自身を護るための正当な行動であると私は考えています。
セクシャルハラスメントを含めた様々なハラスメントの被害は、一次的な被害そのものが非常に苦しいものであり、そうであるにも関わらず、その苦しみについての理解や共感、心理的な救いを他者に求めようとすれば、自分の顔や名前などの個人情報を知られることを伴って、二次的な被害を被る可能性も増大するというジレンマが有ります。
そのようなジレンマや二次的被害の苦痛を回避しつつ、匿名性を保ったままで被害者が自らの苦しい胸中を吐露して他者の理解や共感を得ることは、私が利用するはてな匿名ダイアリーの果たし得る貴重かつ社会的な意義のある機能であると、私は認識しております。これは、かつて、はてな匿名ダイアリーに「保育園落ちた、日本死ね」と題する匿名記事が投稿されたことによって、日本の社会全体で議論や改善の動きを促進した事例を思い出していただければ、容易に理解していただけうるものと私は信じております。
私がはてな匿名ダイアリーの機能を活用して、私自身の個人情報を推察されないように曖昧性を持たせ、匿名性を維持したまま、私自身のセクシャルハラスメント被害およびその苦しみについて告白したことは、他者から何ら非難されることではないと私は考えています。
補足(2):仮に「私の記事は、X氏の元・妻ではないと識別可能な程度の具体性を伴って執筆されるべきであった」という要求がなされたとしたら、それは不当且つ過大な要求と言わざるを得ません。
具体的記述をすることによって、私が何者であるかを私自身のハラスメント事例における加害者や私の近しい人たちに察知され、私が二次的被害を被る可能性が増大します。そのような、私の危険に繋がりかねない具体的な記述を要請されたとしたら、それは私の意志や権利に反する不当かつ過大な要求であると私は考えます。
当初は明言を避けてはいたものの、既に私は「X氏の元・妻ではない」ことを明言しております。この明言は、訴訟の可能性を示すという手法によって、X氏から精神的プレッシャーを加えられたことによって判断力が低下したために、不本意ながら行った明言です。不本意というのは、一旦このような明言を行うと、それに続いて、覗き趣味的に「お前が被害を受けた事件とは、事件Aのことか?」「それとも事件Bか?」等々と、人物特定を目的とした質問が次々と発生することを誘発しかねず、そうなると包囲網が徐々に狭められて、ついにはセクシャルハラスメント被害者としての私が誰であるのかを個人特定されて、世間の好奇の目に曝されかねないからです。
仮に、私がX氏の元・妻と第三者に誤認されたのだとしても、ハラスメント被害者に対して個人特定が可能な証言や記述を強制して、被害者の負担を増大させるようなことは避けるべきと考えます。
事実(3):「私がX氏の元・妻ではない」ということが即ち「私がセクシャルハラスメント被害者ではない」ということを意味するということはありません。
X氏は、些か奇妙な主張として「この文章を書いた人間(私)は、自分(X氏)の元・妻ではない。したがって、この人間(私)が書いている内容はデタラメである」という主旨の論理を展開しています。
既に述べたとおり、私は最初から一言も「自分はX氏の元・妻である」と言っていませんし、言外情報によって「自分はX氏の元・妻である」と示唆したり想起させることもしていません。また、私はX氏の元・妻ではないことも(明言することで不利益や危険性が増大するため不本意なのですが)明言もしています。
これも既に述べたことですが、この社会においてセクシャルなもの非セクシャルなもの問わずハラスメント被害の事例は、悲しいことに「ありふれた出来事」と言ってもいいほどに頻繁に見られ、発生件数も多大なるものです。町山智浩氏の虚言を記録したインタビューの中で語られたセクシャルハラスメントが実在しなかったと判明したからと言って、世の中に起こっている多数のセクシャルハラスメントまで実在しなくなるわけではないことは、容易に理解できるはずです。私は、この社会にごまんと存在するハラスメント被害者たちの中の一人なのです。
一つ喩え話をしますが「こいつ(私)はX氏の元・妻ではない。だからセクハラの話はデタラメだ」という論理の構成は「この動物は犬ではない。だから哺乳動物ではない」というのに似ています。しかし「犬ではない哺乳動物(ネコ、ネズミetc.)」がいくらでも存在するのと同様に「X氏の元・妻ではないが、セクシャルハラスメントの被害者である人間」はいくらでも存在することは、すぐに思い至るはずです。論理学の基本を学ばれた方ならば「P→Q」(PならばQである)を否定するのは「¬Q→¬P」(QでないならばPでない)であって、決して「¬P→¬Q」(PでないならばQでない)ではないことはご存知のとおりです。
X氏が「こいつ(私)は自分(X氏)の元・妻ではない」ということを根拠にして、私のセクシャルハラスメント被害まで虚偽であるかのように結論づけようとされていることは、かなり無理があると私は思います。
謝罪すべき点は謝罪し、しかし、それとは別に誤った理解をされているおそれが有ると思った点については、説明すべきと思い、筆を取りました。
とりあえず、この記事は以上です。
増田は優しくて真面目だなぁ
「うまいねー」「すごーい」で十分だと思うよー
「これ買ったのー」「似合うー」「どこで買ったのー?」みたいな普段のノリで十分だよ〜
あんまり喜びすぎると「みんなのために描かなくちゃ・・・!」みたいなプレッシャーになっちゃうかもしれないしね
あまり気を遣いすぎずにほどほどの距離感でだいじょうぶだと思うよー
これはね、いっぱい感想もらうとお礼もいっぱい言わないと!って思っちゃうんだよー
裏の意味なんてないよ 気にしない気にしない
頭がモヤモヤしている。
このモヤモヤは今に始まったことではなく、もう数年前から続いていて、今では当たり前のように頭に鎮座している。
まるで脳の一部であるかのようにそこにいるから、対処しようとすら思わなくなっている自分がいる。
そしてアレルギー性鼻炎による鼻の詰まりもあり、余計に頭は冴えずぼーっとしている。
まだ40歳手前の年齢にも関わらずこのような有り様だ。これからの人生どうなるのかと不安がないといえば嘘になる。
近い将来、正しい判断ができない日が訪れたらどうしようかと不安になる。
今も正しい判断ができているとは到底言えないが、今よりも判断力が弱まるなんてことを考えただけでも恐ろしい。
長年頭がモヤモヤし続けている私に、たった1度だけ頭のモヤモヤが晴れた時期があった。
それは今から10年前、仕事を辞めて「無職」になった瞬間に訪れた。
辞めたかった仕事をやめて無職になった数日後、街に出ると、妙に頭がスッキリとしていた。
頭のモヤモヤがない。
「あの不動産屋の看板こんな色してたんだ」「こんなにたくさん人が歩いてたんだ」「太陽の光がビルに反射してキレイだな」なんて、頭がモヤモヤしていた自分には見えていなかった世界が一気に飛び込んできた。
仕事のプレッシャーから解放され、頭のモヤモヤが晴れて、狭窄していた視野が開けたのか。
一瞬で晴れた頭のモヤモヤは、転職活動が終わり就職するとともに頭に戻ってきた。
しばらくは頭のモヤモヤが晴れる瞬間が訪れることはなさそうだなんて、悲しい現実を目の当たりにする。
仕事を辞める。お金に囚われない生活なんて今の時点では到底考えられない。貧すれば鈍する?貧すれば鈍するし、鈍しても貧するだろう。すでに私は頭のモヤモヤにより、鈍しているのは間違いなさそうだ。仕事に縛られて過ごす私は、世界がいつも曇って見えている。
先日、高齢の親に高額なスマホを売りつけられたというニュースを見た。その親は、数年前から認知症の症状が出始め、スマホを売りつけられる1ヶ月前にはアルツハイマー型認知症の診断を受けていたという。
お店は「高齢者に、使い放題プランと高額なバッテリーをつけないと詰められる」という状況だったようだ。
とてもではないが他人事とは思えない。これはいつか自分におとずれる未来だと予見できる。
これから先何十年も頭のモヤモヤを抱えた私は、正しい判断ができず、高額な何かを契約してしまうかもしれない。
それは現時点で頭がモヤモヤしている私だけではなく、私の親も対象になり得る。
生きるためにやってるわけだ。契約をしてお金を稼ぎ、毎日を生きるために不要な契約を押し付ける。
毎日をこんな気持ちで過ごす販売員も辛いだろう。ただどこかでこの生活はやめないといけない。
そもそも自腹切ってないし役員でもないのにどんなプレッシャーがあると思ってんだ?メンゴで終わりやぞ
あと天災でも起きない限り なんでもやる=ひとりでお仕事してる のだから自分がした通りの結果にしかならん
適切にスケジュール組んでどうぞ
あと小さなSIで営業寄りでなんでもやるは売上立てるのは自分じゃないからノルマも何もない
あくまで技術支援って立場よ。その場で出来る出来ないの即答さえしなきゃ十分だよ
物を売るのは本職の営業さんに頑張って頂きましょう、プレッシャーなんかないやろ
たぶんもう一個の方(https://anond.hatelabo.jp/20220527122309)もキミだと思うんだけど、
現実は誰でも正社員になれるし、あくまで運が良ければと条件はつくが誰でもそこそこ稼ぐことが可能や
現実に対して無駄に高いハードル設定しちゃうのは、逃げる理由を作ってるだけだと思うぞ
生活保護受けてワンチャンひと山当てる狙いした方がコスパ良いんじゃねぇかなってなる
経済的な自由があったらのんびり大学で勉強したいなぁとは思うけど
ちょっと学び直ししたところでFIRE出来そうな給与貰える気はしないですね
老後の職の確保的には有用かもだが
パワハラって具体的に何なのかわかんないけど、力関係的に逆らいにくい人にプレッシャーかけられたので多分そうなのかなと思う。
どんな感じだったかというと
2.実装していくとどうすればいいかわからない部分が出てくるので、仕様を尋ねる
3.無視される
5.後々、仕様と違うことを詰められる
という感じだった。
詰められ方は
「バグが多すぎます、ちゃんと確認やテストを行ってください」とか
「この不具合はシステムの構造上致命的です、早急に修正してください」とか
いまチャットの履歴から引っ張ってきたけど、原文はもうちょっと高圧的だと思う
普通じゃんと思うかもしれないけど
だったりするので、小さなミスでも大きなミスとして圧をかけてくるのが辛かった。「そもそもそんな仕様だったことすらこっちは知らないよ!」っていうのでも責められるし。
そしてミスはミスだからこっちが悪いので言い返せないんだよね…
未経験からエンジニアになったというか、新卒→自営の流れを汲んだ人間で初社会人だったから「世の中こんなものなのかな?」とか思ってたけど
いわく下についた人を二桁近くやめさせてきた人間らしくて外れ引いたんだなって思った
今その会社の評価星1.2とか凄まじいことになってるんだけど、
昔は良かった的なコメントがついているのでもしかしたらこの人のせいで良いエンジニアがどんどんやめていってしまったのかなとか思ったりした。
技術力も低くて尊敬できる所一つもないんだけど、こういう人に限って社内政治が得意だったりするもんだから、上の方のポジションに居るんだよね
だから指示も抽象的で「いい感じに頼む」みたいになるし、GUIで状況がわかる段階になってから「こうじゃない!」とか言い出すから困る
一つだけ良かったこととしてはありとあらゆることが適当に投げられて後よろしくされてたので、急速に技術がついたこと。
DBもよくわからなかったし、SQLも書けなかったけど、半年ぐらいでフルスタックの開発を一から任せてもらえたりしたし、実際にどうやればいいか分かれた。
---
冒頭に戻るけど、SEは
・大まかな設計
・進捗管理
など、いわゆる上流工程のこと指して使ったけど、結局こういうポストに収まる人って社内政治得意マンが多いんだろうなって思った
社内政治が得意で技術力もあるっていう人は、仮にどちらもレア度10%だとしたら掛け合わせで1%なわけで、多くは社内政治だけ得意なことが多い
つまり技術力は対してないから具体的な指示が出せなくて、曖昧なところを『いい感じ実装』する羽目になる。技術力なかったら具体的な質問に的確な回答を返せないしね。
……正直そんなSE嫌われてる論とかどうでもよくて、
大学4年の女。
焦るけど、まあ大丈夫だろうと自分では落ち着いているつもりだった。
昨日食事中に「友達が明日最終面接なんだって」と話をしたら、「皆頑張っているんだから」と父親がポツリと言った。
「私だって頑張ってるしー!」と冗談っぽく怒ったはずなのに、数秒後に視界がぐにゃりと歪み、涙がどっと溢れた。
「あれ?私そんなショックだった?割と前向きな方だったよね?」と疑問しかなく、それでも涙はずっと止まらなくて、嗚咽でまともに喋れない。
友達に就活の相談した時は別に泣くこともなく、寧ろ「ここがダメだったらまた説明会参加しなあかんのだるいなあ」と呑気だった。
自分では頑張ってるつもりだったのに、他人から頑張っているように見えなかったことが辛かったのかな。
精神的にぐらついてるってこと、意外と自分だけでは気付かないものなのかもしれない。
他にもしんどいことがあって、就職支援課の人から○○さん綺麗だから大丈夫だよ。銀行とか医療事務とかにもいそうだし。と何度か言われた。
就活はよく顔が良ければ…という話を聞くため、舞い上がるよりも先にプレッシャーの方が大きく、結局は未だ内定はないので、自分への自信もなくなった。
大きなお世話なんだよね。
1番に思うことは、働きたくないわけではない。
他の同級生の親と比べるとうちの両親の歳は上で、父親は定年を迎えている。
奨学金も借りているため、返済のために働かなければならない。
元気なうちに孫の顔も早く見せてあげたいけど、今彼氏は1年間いないし、アタックしてくれている人はいるけど恋愛どころじゃないし……
まだ卒論も手出していないし、卒業できるかも不安になってきた。
事務職志望だったがあまりに枠が少なく、やりたいことと違う職種を見ているためモチベーションも上がらない。
つらいなあ
職につく、という「やらなくちゃいけないこと」に対して逃げてるわけじゃないのに、それをやること自体が難しいってどういうことなの?
ゲイはセックス時のポジションでタチ(挿れる方)、ウケ(挿れられる方)の2種類に分かれる。
どちらのポジションもできることをリバ、挿入行為をしないことをバニラと呼んだりもする。
ほぼウケしかしてこなかった自分が、ここ1年くらいでタチができるようになって世界が広がったのでその感想を残しておこうと思う。
初めてセックスしたのは19か20の時で、それ以来、人並みにセックスをしてきた。
20代半ばになってウケの気持ちよさを覚えて、それ以来もっぱらウケだった。
たまにタチをしてもイマイチうまくいかない(中折してしまう)ことが多かった。
ちなみに自分の中でのタチが成功することの定義は「手を使うことなく挿入したまま射精までできるようになる」ということである。(もちろんゴム着けた状態でね!)
前者についてはそのままで、自分がウケとして相手をしているタチの姿や、エッチなビデオの中で見るタチの姿を見るにつけ、「そんなに気持ちよさそうなら自分もタチができるようになりたい」という気持ちが日に日に強まっていた。
後者については「性自認」に関係した問題である。自分の性自認は「男性」である。
男性として男性が好きな、シスジェンダーのゲイ男性ということになる。
「挿れられる」という男女間においては女性側が担う行為を行うことは、なんとなく自分の性自認およびそれに基づく性表現にそぐわない感覚があった。
そんな自分だったが、ここ1年くらいでタチができるようになった。
タチができるようになる過程を振り返ってみて、習得のコツ的なものが2つあった。
逆説的なんだけど、タチができるようになるためには、とりあえず1回タチを成功させることが重要だと思う。
自転車に乗るのと一緒で、1回成功するとタチとしての身体的感覚をつかむことができる。
そして何より「自分はタチが全くできないわけじゃないんだ」という安心感を得ることができる。
自分自身1回成功するまでは「今回も中折しちゃうんじゃないか」というプレッシャーがあり、プレッシャーでますますスムーズにことが進まなくなるという悪循環だった。
1回成功して以来は「少なくとも自分はタチのポテンシャルはあるんだ」という自信につながり、仮に一度中折してしまったとしても余裕を持って挽回できるようになった。
これは1回成功した後に始めた習慣なのだけれど、マスタベーションのときに手ではなくTENGA*を使うようになった。
男女のセックスにおいて男性が女性の膣内で射精まで至らない、いわゆる「膣内射精障害」の原因の1つに「強グリップ」マスタベーションがある**。
ゲイなので膣内ではないのだが、多分同じことは言えるだろうと思い、手からTENGAに切り替えた。
そうすることで、これまでグリップ力で快感を得ていたのが、TENGAのヌルヌルした摩擦によって快感を感じられるようになった。
手でやるときよりもタチをしている最中に感じる刺激と近いものを疑似体験でき、本番に備えられている感覚がある。
---
*自分が使っているのは洗って繰り返し使えるTENGA SPINNER(https://store.tenga.co.jp/product/EC-SPN-001)という商品。タチ云々より、単純に手より遥かに気持ちいいからおすすめ
**膣内射精障害の原因となるマスタベーションは他にも「足ピン」「床・壁」があるらしい。タチができるようになりたいならそれらも避けた方がいいはず
当たり前なのだけど、ウケしかできなかったときはタチを探すほかなかったのが、ウケも相手ができるようになり、乱暴に言えば楽しめる相手が2倍に増えた。
また、長らくウケをやってきたからこそ感じるタチにやってほしいこと・やってほしくないことをタチ側として実践できるようになった。
具体的には、一度挿入したらいきなり腰を振らずにウケが慣れるまでじっとしている*とか、ウケが射精した後は相手が望まない限りは挿入はしない**とか。
ゲイ向けのデートアプリではプロフィール内にタチ・リバ・ウケを記載している場合が多い。
しかしながら自分がタチをやるようになってから会ったプロフィール上でリバの人の半数以上が実際はウケであった。
「タチもやったことはあるけどほぼウケしかやらない」みたいな。
理由をくわしく聞いたことはないんだけど、なんとなくウケって後ろめたさがあるのかなと思った。
先述の男性性の話にも通じるんだけど、ウケってやっちゃいけないことをやってる感というか、ちょっとヘンタイっぽい印象がある気がする。
実際のところはわかんないし、そんなスティグマがあるならばなくなってしまえばいいと思うけど、自分自身、ウケしかやらない時期も「タチ願望」から来るささやかな抵抗としてプロフィールではリバにしていて、各人フクザツな心理が働いているのかなと推測している。
自分はウケからリバになり、最近のセックスのポジションを振り返るとなんならタチが多いくらいだけれど、タチ・ウケどちらが好きかと聞かれると答えに窮する。気持ちよさの質が異なる。
例えば「醤油ラーメンととんこつラーメンどっちが好き?」と聞かれたら「醤油ラーメン」と答えられるけれど、「ラーメンとスパゲッティどっちが好き?」と聞かれると「その日の気分による」としか答えられない感じ。
自分の中でタチ・ウケは完全なアップルトゥアップルな比較になっていない。
ただ確実に言えるのは、タチの方が楽である。
ウケをするときは事前の準備もさることながら、やはり挿れられることによる身体的負担が大きい。
タチも腰を振るという運動量はあるが、そのエネルギーを受け止めるウケの方がどっと体力を使う感覚がある。
自分の場合「タチをやりたい」ではなく「ウケをやるのがめんどうだから」というモチベーションでその日はタチをやったりすることもある。
---