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はてなキーワード: クラシック音楽とは

2022-12-28

anond:20221227033946

マジレスすると、クラシック音楽ピアノの発表会なんかでは割とちゃんとしたドレスを着る人が多い。(そう決まっているわけではないけれど)

聞くところによると、フォーマルっぽいドレスを着る晴れ舞台に出たかたかピアノを始めたと言う話はちょくちょく聞く。まあ、ピアノじゃなくてもヴァイオリンでもフルートでもなんでもいいんだろうけど。

2022-12-26

女性団体のパパこと共産党委員長志位和夫の正体

代々のエリート軍人家系生まれる。

当時としては珍しい東大にまで行かせてもらえる実家の太さ。

まれ教育環境プロ級のピアノのうまさにも表れており、クラシック音楽にも造詣が深い。

バラ趣味であり、自分の豪邸に飾るバラ写真をアップしてはバラ品種についてツイートしている。

まさに上流階級の男。

女受け全振り男。

それが志位和夫である

2022-12-19

ポップミュージックよりクラシック音楽のほうが「優れている」とは思わない。

変態的に編曲に凝ったポップミュージックリズムパート面白すぎるポップミュージックもあり、

庶民に広く知られており、差別化できないから」という理由ポップスを見下すのは文化を愛していないとしか思えない。

見下すために文化を語るのはブランド依存症みたいだ。風俗嬢ホストハイブランドにハマるのと同じ現象だ。

庶民排除すること」で価値ギリギリ保たせている「高尚な文化」は醜悪に見える。

その文化自体に魅力があれば、「庶民排除すること」を重視する必要性は無くなる。結果的にそうなることはあるかもしれないが。

2022-12-17

ウナギ絶滅危惧種なので食べない」と言う人達矛盾

絶滅危惧種のお世話にならないというのなら、まず手元のスマホを回収業者に渡してもらおうか。スマホに使うレアメタル採掘を通じて、ローランドゴリラというワシントン条約付属書Ⅰ(絶滅の恐れが極めて高いリスト)を駆逐しているからな。ガラケー?それもダメだ。理由は同じ。

それと音楽聴くな。市販ギターの大半にワシントン条約付属書Ⅱ(付属書Ⅰよりは緩いが絶滅の恐れあり)に該当する木材が使われてるし、クラシック音楽に欠かせない弦楽器の弓やクラリネットなどの木管楽器絶滅危惧種木材が使われている。

スマホガラケーも持ってないし音楽も聞かないし演奏することもないのなら、ウナギを食べないという環境保護活動をやってもいいだろう。

2022-11-10

anond:20221109210400

でもいま名曲だっつって単体で演奏され鑑賞されているクラシック音楽

もとをたどればオペラ劇の伴奏曲、踊りの伴奏曲、なんなら王様が飯くうときだけの伴奏曲とかだぜ

モーツァルトなんかおならの曲とか書いてるじゃん

どういう思い入れを持ってくれてもいいけど曲は他者感情移入できるための単なるプロトコルでもあるんだよ

2022-11-03

店とか広場Adoような歌謡曲を流すな

自分Adoが大嫌いだ。汚い言葉連呼する「歌」ばかりというのが非常に腹立たしい。言葉を使って表現する人間がそれへの丁寧さを欠くのは、もはや言葉に対する冒とくである

そして汚い言葉だらけの「歌」が人気を博する現状というのは、本邦における知性の劣化と連動しているように思える。

知識人Adoの「歌」を無邪気に肯定するのを見たときは、腹が立つというレベルすら通り越して虚無感しか感じなかった。

自分ワンピースには全く興味がない(グランドライン云々って結局今どうなっているの?って認識)が、もしワンピースファンだったら映画Adoごり押し絶望の淵に叩き落されるだろう。

 

言葉に対し誠実であること、汚い言葉ではなく聴き手の立場に立った言葉を使うこと、そういったことを唾棄する人々が趨勢を占める現状は嘆かわしい。

ただ、それは自分感覚である自分感覚他人と共有できないし、ましてやそれを押し付けることは思想信条自由観点から見ても問題が大きい。

聴きたい人からAdoの「歌」を取り上げることはあってはならないのだ。

(※本邦においては思想信条自由があまりに軽視されすぎていると思うが、それは本題ではないので略)

ただ、それと同様にAdoに対し嫌悪感を抱いている自分に対しても、Adoの「歌」を押し付けるのはやめてほしい。

近所のスーパー街角に設置されたスピーカーからAdo罵詈雑言構成された「歌」が流れてくることもある。そのたびに自分は指で耳の穴をふさぎ、早く終わってくれと心の中で叫んでいる。

音というのは残念ながら自分の力では防ぐことがほぼ不可能だ。図画のように目を背けて終わりということは不可能である

結局有無を言わさずAdoの「歌」を押し付けられているのだ。

 

このように、歌謡曲というのは好き嫌いがはっきり分かれるものである。せめて店や街頭では歌謡曲を流さないぐらいはしてほしいもである

もっというなら公共の場所で意味もなくBGMを鳴らすことも考え物だと思うのだが、まあ流さなければならない事情はあるのだろう。

流すなら歌なしの、例えばクラシック音楽とかイージーリスニングあたりを流してほしいものだ。

2022-10-27

世界ビジネスエリートが身につける、教養としての「教養としての」

Amazonで「教養としての」で検索、結果

教養としての決済

教養としてのダンテ新曲

教養としての紅茶

教養としての投資

教養としてのワイン

教養としての着物

教養としての日本酒

教養としてのウイスキー

教養としてのゴルフ

教養としてのダンディズム

教養としての茶道

教養としての意識

教養としてのローマ

教養としてのフランス史

教養としての世界史

教養としての西洋美術史

教養としての神道

教養としての仏教

教養としての中国古典

教養としてのラテン語

教養としてのデータサイエンス

教養としてのコンピューターサイエンス

教養としてのAI

教養としての地政学

教養としての地理

教養としてのニーチェ

教養としての落語

教養としてのクラシック音楽

教養としての俳句

教養としてのグローバル経済

教養としてのラーメン

教養としてのビール

教養としての半導体

教養としてのギリシャローマ

教養としてのギリシャ神話

教養としての数学

教養としての心理学

教養としての能楽

教養としての能・狂言

教養としての食べ方

教養としての気象と天気

教養としての太平洋戦争

教養としての日本皇室

教養としての日本

教養としての映像動画

教養としての平成お笑い

教養としてのゲーム

教養としての宇宙生命

教養としてのプロレス

教養としての認知科学

教養としての化学入門

教養としてのアメリカ短篇小説

教養としてのお金アート

好きなのを選ぼう

2022-10-01

10億人と話せる言語の特異性

英語って確か、大昔のゲルマン系言語ベースラテン系単語も取り入れ、輸入先のブリテン島で大いに訛ってしまった言語なんでしょ?

結果、発音が他のヨーロッパ系の言語と思いっきり異なるという。

具体的にはAをエイ、Eをイー、Iをアイ、Oをオウ、Uをユーと読むとか、他のヨーロッパ系の言語と違いすぎるから

筆者はクラシック音楽ポピュラー音楽の両方が趣味なので、音楽の話で「エー」と言われると一瞬AとEのどっちを指すのか戸惑う。

それにしても、なんでこんな訛り方をしたのか理解に苦しむ。

日本語同音異義語だらけなのは中国語から輸入された単語から日本人発音しにくいイントネーションがことごとく廃れ同化した結果だと思うのでまだわかるが。

(漢字で書き分ければいいじゃんという、ある意味合理的志向でもある)

2022-09-06

anond:20220906133717

そうとも限らんよ。NHKFMクラシック音楽番組が充実しているし、NHK第二朗読時間だの教養番組が充実している。YouTubeオランダバッハ協会その他の素晴らしいチャンネル目白押しだ。

Twitterだって自分のTLは自分が誰をフォローするか次第なので、それなりに知的話題で溢れさせる事もできるさ。科学者芸術家学者フォローすればいい。

2022-08-29

上手くない歌が好き

アイドルグループとか、声優たちの歌とか、お笑い芸人たちの歌とかで、一人や二人がずっこけるような下手な歌唱してるの、好き。

最もわかりやすい例だと、Re:Japan(吉本芸人たち)の『明日があるさ』みたいな。

というか、ずっこけるまでいかなくても、上手じゃない歌って大好き。アーティスト系の歌より何倍も好き。

ただ、48Gとか46G(簡単に言うとAKBとか乃木坂みたいな秋元系列)に多いオールユニゾン、すなわちソロパートがろくにないのはそんなに好きじゃない。

メンバー全員のソロパートがあって、一人ひとりが堂々と歌ってて、でも、上手い人も居るし下手な人も居るってのが至高。

個性大事に思ってるからかな?まあもちろん自分アイドル声優お笑い芸人推してるからってのはあるんだけど。

ちなみに、15年くらいクラシック音楽やってたから、厳格に楽譜再現するっていう考え方も自分の中に存在しているのだが、ポップ音楽だとそういう下手さが最高だよねってなる。

そしてこの嗜好、海外だとわかってもらいにくい気がする。日本ならでは感。

2022-08-27

今思うとなんでピアノ続けてなかったのかなと思う

物心ついたときからピアノ引いてて

小学生の頃はピアノコンクール出てたら、もれなく全部トップだった

順番決めるものだと間違いなく一番じゃなかったことない

けどどっかやらされてる感あったし、周り見てもピアノ女子がやるもんなんじゃないかって思って

周りの反対押し切って辞めて、それから全然才能のないサッカーやってた

子供の頃に覚えたものから大人になった今でも余裕で出来るから

YouTubeに出てる上手いとかすごいとかされてるものが、ゲボ吐きそうなほどに下手くそキモすぎるんよ

もちろん、身の程はわきまえてる

クラシック音楽世界自分がどうにかなれたとは思ってない

けど、なんかもったいないことしたといまだに思ってる

なんだかなって感じだ

2022-06-01

anond:20220530001213

「75年に東京に着くと」

https://web.archive.org/web/20120502171605/http://www.ayuo.net/novels.php?id=18

1975年ロックはまだ日本ではメジャーな物ではなかった。どうしても歌謡曲だった。ファウストセールスが100枚。ヘンリー・カウは56枚。このような数字だった。つまり赤字カンはあまりにも売れないという理由レコード会社が出すのを止めてしまった。

クラシック音楽どころかポピュラー音楽理解できない日本人。

2022-05-23

クラシック音楽はわからないけど、何か自分のことに気がついたか

NHKクラシック音楽(以下クラシック)の番組放送されていたので、食事をしながらぼんやりと見ていた。私はクラシックをたまに聞くことはあるが、好みの曲はあるけどそれ以外の曲は皆同じに聞こえる、程度の浅さで楽しんでいる。つまりよくわかっていない。

NHK放送されていたクラシック番組は『クラシック音楽館「次世代挑戦者たち」』で、次世代を担うであろう才能のある若手を特集していた。クラシック音痴の私は、若手が上手に演奏していてすごいのだろうなあとぼんやり見ていた。流れていた曲の良し悪しとか難易度とかはよくわからないけど、聞いていて不快ではないので食事をしたり薬を飲みながらなんとなく楽しんでいた。

ある若手ピアニストを紹介していたときだった。高校2年生のときコンクール挫折したが、その後大学自分らしい表現を追求する楽しさを発見。翌年のコンクールで優勝した上で観客賞も受賞したという。

優勝したとき演奏ダイジェスト放送されたのだが、そのピアニストはノリノリで実に楽しそうに演奏していた。そのさまは終盤には顔にはっきりとした笑顔という形であらわれる。そして曲を終えた直後の満面の笑み。観衆が大喝采するなかで、礼をしながらやりきったという表情を浮かべるさま。

これはいい、とその時私は感じた。具体的に何がいいと感じたのかは、まだ言語化できないけれど。私にとって好ましく感じる何かが、今のこのシーンにありそうな気がする、と感じた。

それはもしかすると、自分らしさを追求して楽しくやり遂げることかもしれない。それはもしかすると、自分らしさを楽しく追求しながらどこかに向かっている人をサポートして一緒に喜びを分かち合いたいのかもしれない。それはもしかすると……なんだろうね。

ともかく、今回の気づき迷宮に迷い込んでいる今の自分にとって、一筋の光になるのではないか、と思っている。まあ、脳が雰囲気に流されて勘違いをしただけかもしれないけれども。

5月29日23時ごろ追記

トラバはてブで色々なコメントありがとう

うれしいです。

該当のシーンを見直してみたけど、やっぱりいいね

紹介してくれたものを参考にしながら、なんとなく同じような感覚の再来を探しつつ、一歩ずつ手探りで進んでみようと思う。無理のない程度で。

2022-05-20

anond:20220520111803

そもそもクラシック音楽作曲者演者に金と出演機会を用意するパトロンを通じて発展してきた歴史があるからパトロン云々を否定することは業界として難しいと思うよ

そこが炎上どころになりそう、という指摘はその通りかも知れない

2022-05-16

演奏不可能作品

演奏不可能作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏不可能、あるいは困難な音楽作品のことである

概説

クラシック音楽世界では、演奏不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易無視できない存在となっている。巨大編成の作品演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。

現代ポピュラー音楽場合には、作曲家作詞家編曲家といった独立した職能存在するものの、作品演奏との一体性が強く、コンサートライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品コンサートライブにおいて生演奏する際には、自動演奏テープなどを用いてレコーディングされた作品再現するか、生演奏可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。

歴史

バロックから古典

歴史は長く、J.S.バッハの諸作品モーツァルトオペラフィガロの結婚魔笛ベートーヴェンピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。

ロマン派

ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルト魔王交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏不可能と宣告されたブルックナー交響曲第2番、ブラームスピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品マーラー交響曲ラフマニノフピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。

近代

近代ではストラヴィンスキー春の祭典シェーンベルクピアノ協奏曲ヴァイオリン協奏曲モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的作曲された例としてアイヴズの歌曲義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオ演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオ演奏する者もいる。ラフマニノフピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージ身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストテクニック不自由したピアニスト左手の音をずらして演奏することが慣例化している。

現代音楽

演奏不可能作品という概念現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能概念は、今日例えばパソコンシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から人間演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食強要していると言う点で事実上演奏不可能作品である

今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモスアルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例であるクセナキス自身テレビインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。

しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単作品人間演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である

ポピュラー音楽

前述の通りポピュラー音楽クラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。

特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞作曲 桑田佳祐アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏事実上不可能となっている。ソフトウェアマスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である

演奏史上で演奏困難とみなされた曲

作曲家演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさら作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのもの今日では演奏レコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。

ベートーヴェンピアノソナタ第29番(ハンマークラヴィアのための大ソナタ)

指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽大家作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストベートーヴェン交響曲ピアノの為に編曲したもの存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタ比較的易しい。

パガニーニ24の奇想曲

超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニ作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。

リスト超絶技巧練習曲第2版

タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲であるピアノパガニーニを目指したリスト代表曲である一般演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リスト超絶技巧極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーレスリーハワードが録音を残している。

チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲

演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品しか現在では、早熟ヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。

ドヴォルザークチェロ協奏曲

第一楽章オクターヴの速い動きで事実上演奏不可能作品である解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。

プロコフィエフピアノ協奏曲第4番(左手のための)

パウルヴィトゲンシュタイン委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフ最高傑作だ」と称え、ピアノ吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。

シェーンベルクヴァイオリン協奏曲 Op.36

十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイスクラスナー独奏ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲自身生演奏を聴いていないとされる。

フォルカー・ハインの「フェッロ・カント

1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエ作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会一般公開され、色々な同僚作曲家意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。

ケージフリーマンエチュード

チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキー意見対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。

関連項目

2022-03-22

恋愛したいけど、誰かを本気で好きになれる自信がない

表題のとおり。

恋愛したいけど、自分が好きになれる人とどうやって知り合えばいいかからない。

スペック

女、今年26歳、職業SE過去彼氏が二人できるもどちらも深い関係にはなれず

見た目→顔はフクロウとかベッキーとか言われる。普通だと思いたい、普通体型、運動不足

性格→熱しにくく冷めにくい(好きな映画は何年経っても大好き)、友達少ない、友達には表面上はポジティブだけど中身はネガティブだと言われる、すぐ顔に出るとも

趣味洋画漫画アニメ(偏りあり。戦争映画とか手塚治虫好き)、世界史の本を読む、美術鑑賞、クラシック音楽鑑賞、フィギュアスケートテレビ観戦

これまでの遍歴

中高まで恋愛の気配なし。恋愛してるやつは馬鹿だとか、恋愛なんて時間無駄だと思ってた。

大学生の頃、人生経験必要かと思って彼氏を作ろうと決意。1年生の夏に告白されて、流れで初彼氏しかし、段々と「なんかこの人つまらないな」と思ってしまう。「どうして他の誰かと似たような意見言うのかな」とか「そんなに私に好かれてどうしたいのかな」とか「私に愚痴なんか言って、慰めてほしいのかな。つまんねーやつ」と思ってしまった。しまいには「この人と会うためにおしゃれして遠出するなんて時間と金無駄疲れた」と思うようになり、連絡を取らなくなってしまった。

二人目は大学3年の冬、ゼミの同期の紹介。告白されて、今度こそちゃんと好きになろうと思った。ボディタッチしたり、自分なりに頑張った。なにかしてくれたら「格好いい」とか「優しい」と言うようになった。本当は思ってもいなかったけど、言葉にすれば現実になって本気で好きになれると思った。でも、段々一人目の人と似たようなことを考えてしまった。「女は皆イルミネーション好きだと思ってるのかな?つまんねーやつ」「ネットで皆が言うようなこと言ってんじゃねーよ、つまんねーの」と思ってしまった。本当は自分が一番つまらなくてしょうもないやつだと分かってたけど、やっぱり相手に本気になれなかった。また連絡をしなくなり別れた。

別れたあと、本当に反省した。相手自分を好きになって勇気を出して思いを伝えてくれたのに、自分は“飽きた”とか“つまらない”とかで裏切って誠意になれなかった。次からは本気で好きになってから付き合おうと思った。

それから色んな人とデートした。5回以上デートした人もたくさんいた。みんな何となくしかったけど、でもなんとなくつまんなかったのは同じだった。多分、デートしてくれた人も私と話して楽しいとは思ってくれてはいたんだろうけど、私がなんとなく冷めてるのは分かってたんだと思う。告白されることもなくなった。

顔が好きだなと思った人もいた。勇気を出してデートに誘ってもみた。でも話してて、やっぱりしっくりこなかった。この人とこのままデートを重ねても、相手も薄々私が冷めてることを察するだろうし、途中で自分が飽きて放り投げるんじゃないかと怖くなった。

最近コロナ禍もあってデートしてない。一人暮らしも長くなり、人と接する機会が減った。加えて、もうすぐ自分が26歳になるのにまともな恋愛経験もないことに、寂しさを感じた。結婚できなくてもいいから、20代のうちに本気で恋愛したいと思った。でもどうすればいいのか分からない。本気で好きになれる人とどうやって会えるのか知りたい。だからここに投稿した。なにか意見があればしてほしい。

理想デートは……、映画一緒に見て語り合ったり、色んな美術館とか博物館に行って知的好奇心深めたい。サイゼリヤとかでもいいからずーっとおしゃべりするデートに憧れる。自分馬鹿から知識豊富な人に憧れるんだけど、高学歴マウントとか傷つくし楽しくないからそういう人は嫌だ。

顔は昭和俳優とか香港スターとか濃いめのタイプが好き。でも話してて楽しいのが優先。

2022-02-25

anond:20220211232649

若いクラシック音楽ファン結構いるんだけどな。大きな大学にはたいてい学生オーケストラがあるし、クラシック楽器をやってる人は若い人が多いし。俺も小学校高学年くらいかクラシックが好きになって中学高校楽器に没頭して大学ではオーケストラに入っていたよ。

2022-02-21

anond:20220221210823

クラシック音楽でのトロンボーンって、オーケストラの色つけのための楽器というイメージしかないわぁ。(無知でごめん!)   

トロンボーン面白い演奏っていうとジャズイメージが強いなぁ... (俺、一応クラシックファンなんだけど...)

anond:20220221185159

本来クラシック音楽ってヨーロッパ伝統音楽の発展形というか洗練された形だからクラシック作曲家も奏者も伝統音楽に親しんでいる人が多いよ。ヴィヴァルディバッハテレマンベートーベンショパンブラームススメタナドヴォルザークサラサーテハチャトリアンも、、、(キリがない!)

例えば、バッハ組曲ほとんどがジーグで終わるし、ポロネーズマズルカなしのショパンは考えられないし、ベートーベン蛍の光とかの民族音楽をいっぱい編曲しているし。

anond:20220220153320

本筋とは関係ないけど、

クラシック音楽に触れている人間

自分達の音楽世界共通

民族楽器なんて語るに値しない」

というスタンスがよく見えて良かった。

あ、悪いとは言ってません。権威ってそういうもんだと思います

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