はてなキーワード: クラシック音楽とは
絶滅危惧種のお世話にならないというのなら、まず手元のスマホを回収業者に渡してもらおうか。スマホに使うレアメタル採掘を通じて、ローランドゴリラというワシントン条約付属書Ⅰ(絶滅の恐れが極めて高いリスト)を駆逐しているからな。ガラケー?それもダメだ。理由は同じ。
それと音楽を聴くな。市販のギターの大半にワシントン条約付属書Ⅱ(付属書Ⅰよりは緩いが絶滅の恐れあり)に該当する木材が使われてるし、クラシック音楽に欠かせない弦楽器の弓やクラリネットなどの木管楽器も絶滅危惧種の木材が使われている。
スマホもガラケーも持ってないし音楽も聞かないし演奏することもないのなら、ウナギを食べないという環境保護活動をやってもいいだろう。
自分はAdoが大嫌いだ。汚い言葉を連呼する「歌」ばかりというのが非常に腹立たしい。言葉を使って表現する人間がそれへの丁寧さを欠くのは、もはや言葉に対する冒とくである。
そして汚い言葉だらけの「歌」が人気を博する現状というのは、本邦における知性の劣化と連動しているように思える。
知識人がAdoの「歌」を無邪気に肯定するのを見たときは、腹が立つというレベルすら通り越して虚無感しか感じなかった。
自分はワンピースには全く興味がない(グランドライン云々って結局今どうなっているの?って認識)が、もしワンピースのファンだったら映画のAdoごり押しで絶望の淵に叩き落されるだろう。
言葉に対し誠実であること、汚い言葉ではなく聴き手の立場に立った言葉を使うこと、そういったことを唾棄する人々が趨勢を占める現状は嘆かわしい。
ただ、それは自分の感覚である。自分の感覚は他人と共有できないし、ましてやそれを押し付けることは思想信条の自由の観点から見ても問題が大きい。
聴きたい人からAdoの「歌」を取り上げることはあってはならないのだ。
(※本邦においては思想信条の自由があまりに軽視されすぎていると思うが、それは本題ではないので略)
ただ、それと同様にAdoに対し嫌悪感を抱いている自分に対しても、Adoの「歌」を押し付けるのはやめてほしい。
近所のスーパーや街角に設置されたスピーカーからAdoの罵詈雑言で構成された「歌」が流れてくることもある。そのたびに自分は指で耳の穴をふさぎ、早く終わってくれと心の中で叫んでいる。
音というのは残念ながら自分の力では防ぐことがほぼ不可能だ。図画のように目を背けて終わりということは不可能である。
このように、歌謡曲というのは好き嫌いがはっきり分かれるものである。せめて店や街頭では歌謡曲を流さないぐらいはしてほしいものである。
もっというなら公共の場所で意味もなくBGMを鳴らすことも考え物だと思うのだが、まあ流さなければならない事情はあるのだろう。
英語って確か、大昔のゲルマン系の言語をベースにラテン系の単語も取り入れ、輸入先のブリテン島で大いに訛ってしまった言語なんでしょ?
結果、発音が他のヨーロッパ系の言語と思いっきり異なるという。
具体的にはAをエイ、Eをイー、Iをアイ、Oをオウ、Uをユーと読むとか、他のヨーロッパ系の言語と違いすぎるから!
筆者はクラシック音楽とポピュラー音楽の両方が趣味なので、音楽の話で「エー」と言われると一瞬AとEのどっちを指すのか戸惑う。
それにしても、なんでこんな訛り方をしたのか理解に苦しむ。
日本語が同音異義語だらけなのは中国語から輸入された単語から、日本人に発音しにくいイントネーションがことごとく廃れ同化した結果だと思うのでまだわかるが。
アイドルグループとか、声優たちの歌とか、お笑い芸人たちの歌とかで、一人や二人がずっこけるような下手な歌唱してるの、好き。
最もわかりやすい例だと、Re:Japan(吉本芸人たち)の『明日があるさ』みたいな。
というか、ずっこけるまでいかなくても、上手じゃない歌って大好き。アーティスト系の歌より何倍も好き。
ただ、48Gとか46G(簡単に言うとAKBとか乃木坂みたいな秋元系列)に多いオールユニゾン、すなわちソロパートがろくにないのはそんなに好きじゃない。
メンバー全員のソロパートがあって、一人ひとりが堂々と歌ってて、でも、上手い人も居るし下手な人も居るってのが至高。
個性を大事に思ってるからかな?まあもちろん自分がアイドル・声優・お笑い芸人を推してるからってのはあるんだけど。
ちなみに、15年くらいクラシック音楽やってたから、厳格に楽譜を再現するっていう考え方も自分の中に存在しているのだが、ポップ音楽だとそういう下手さが最高だよねってなる。
NHKでクラシック音楽(以下クラシック)の番組が放送されていたので、食事をしながらぼんやりと見ていた。私はクラシックをたまに聞くことはあるが、好みの曲はあるけどそれ以外の曲は皆同じに聞こえる、程度の浅さで楽しんでいる。つまりよくわかっていない。
NHKで放送されていたクラシックの番組は『クラシック音楽館「次世代の挑戦者たち」』で、次世代を担うであろう才能のある若手を特集していた。クラシック音痴の私は、若手が上手に演奏していてすごいのだろうなあとぼんやり見ていた。流れていた曲の良し悪しとか難易度とかはよくわからないけど、聞いていて不快ではないので食事をしたり薬を飲みながらなんとなく楽しんでいた。
ある若手ピアニストを紹介していたときだった。高校2年生のときにコンクールで挫折したが、その後大学で自分らしい表現を追求する楽しさを発見。翌年のコンクールで優勝した上で観客賞も受賞したという。
優勝したときの演奏のダイジェストが放送されたのだが、そのピアニストはノリノリで実に楽しそうに演奏していた。そのさまは終盤には顔にはっきりとした笑顔という形であらわれる。そして曲を終えた直後の満面の笑み。観衆が大喝采するなかで、礼をしながらやりきったという表情を浮かべるさま。
これはいい、とその時私は感じた。具体的に何がいいと感じたのかは、まだ言語化できないけれど。私にとって好ましく感じる何かが、今のこのシーンにありそうな気がする、と感じた。
それはもしかすると、自分らしさを追求して楽しくやり遂げることかもしれない。それはもしかすると、自分らしさを楽しく追求しながらどこかに向かっている人をサポートして一緒に喜びを分かち合いたいのかもしれない。それはもしかすると……なんだろうね。
ともかく、今回の気づきは迷宮に迷い込んでいる今の自分にとって、一筋の光になるのではないか、と思っている。まあ、脳が雰囲気に流されて勘違いをしただけかもしれないけれども。
うれしいです。
紹介してくれたものを参考にしながら、なんとなく同じような感覚の再来を探しつつ、一歩ずつ手探りで進んでみようと思う。無理のない程度で。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
表題のとおり。
恋愛したいけど、自分が好きになれる人とどうやって知り合えばいいか分からない。
女、今年26歳、職業SE、過去に彼氏が二人できるもどちらも深い関係にはなれず
見た目→顔はフクロウとかベッキーとか言われる。普通だと思いたい、普通体型、運動不足
性格→熱しにくく冷めにくい(好きな映画は何年経っても大好き)、友達少ない、友達には表面上はポジティブだけど中身はネガティブだと言われる、すぐ顔に出るとも
趣味→洋画•漫画•アニメ(偏りあり。戦争映画とか手塚治虫好き)、世界史の本を読む、美術鑑賞、クラシック音楽鑑賞、フィギュアスケートテレビ観戦
これまでの遍歴
中高まで恋愛の気配なし。恋愛してるやつは馬鹿だとか、恋愛なんて時間の無駄だと思ってた。
大学生の頃、人生経験に必要かと思って彼氏を作ろうと決意。1年生の夏に告白されて、流れで初彼氏。しかし、段々と「なんかこの人つまらないな」と思ってしまう。「どうして他の誰かと似たような意見言うのかな」とか「そんなに私に好かれてどうしたいのかな」とか「私に愚痴なんか言って、慰めてほしいのかな。つまんねーやつ」と思ってしまった。しまいには「この人と会うためにおしゃれして遠出するなんて時間と金の無駄。疲れた」と思うようになり、連絡を取らなくなってしまった。
二人目は大学3年の冬、ゼミの同期の紹介。告白されて、今度こそちゃんと好きになろうと思った。ボディタッチしたり、自分なりに頑張った。なにかしてくれたら「格好いい」とか「優しい」と言うようになった。本当は思ってもいなかったけど、言葉にすれば現実になって本気で好きになれると思った。でも、段々一人目の人と似たようなことを考えてしまった。「女は皆イルミネーション好きだと思ってるのかな?つまんねーやつ」「ネットで皆が言うようなこと言ってんじゃねーよ、つまんねーの」と思ってしまった。本当は自分が一番つまらなくてしょうもないやつだと分かってたけど、やっぱり相手に本気になれなかった。また連絡をしなくなり別れた。
別れたあと、本当に反省した。相手は自分を好きになって勇気を出して思いを伝えてくれたのに、自分は“飽きた”とか“つまらない”とかで裏切って誠意になれなかった。次からは本気で好きになってから付き合おうと思った。
それから色んな人とデートした。5回以上デートした人もたくさんいた。みんな何となく楽しかったけど、でもなんとなくつまんなかったのは同じだった。多分、デートしてくれた人も私と話して楽しいとは思ってくれてはいたんだろうけど、私がなんとなく冷めてるのは分かってたんだと思う。告白されることもなくなった。
顔が好きだなと思った人もいた。勇気を出してデートに誘ってもみた。でも話してて、やっぱりしっくりこなかった。この人とこのままデートを重ねても、相手も薄々私が冷めてることを察するだろうし、途中で自分が飽きて放り投げるんじゃないかと怖くなった。
最近はコロナ禍もあってデートしてない。一人暮らしも長くなり、人と接する機会が減った。加えて、もうすぐ自分が26歳になるのにまともな恋愛経験もないことに、寂しさを感じた。結婚できなくてもいいから、20代のうちに本気で恋愛したいと思った。でもどうすればいいのか分からない。本気で好きになれる人とどうやって会えるのか知りたい。だからここに投稿した。なにか意見があればしてほしい。
理想のデートは……、映画一緒に見て語り合ったり、色んな美術館とか博物館に行って知的好奇心深めたい。サイゼリヤとかでもいいからずーっとおしゃべりするデートに憧れる。自分馬鹿だから知識豊富な人に憧れるんだけど、高学歴マウントとか傷つくし楽しくないからそういう人は嫌だ。