はてなキーワード: 等価とは
1行目の譲歩の幅が、自分のアイデンティティをゆがめるレベルで要求され、
2行目のように相手を変えようとも、みな同じレベルの要求をする。
これが非モテを取り巻く状況で、非モテこそ、アイデンティティをゆがめられてる。
プライド高すぎるよね。増田のアイデンティティが大事なのは、増田にとってだけだよ。相手にも当然アイデンティティがあるんだ。
今、非モテのアイデンティティだけが下等とみなされ、セックスから排除されているという現実がある。
本来、非モテのアイデンティティもそうじゃない人のアイデンティティも等価なのに、それが考慮されていない。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
どういうことかってのは、私が言うまでもないだろう。
いずれにしろ、大人しく自宅のシェルターにこもって、去るのを待つのみだ。
私は傭兵時代にPTSDを患ったときも、女性関係でPTSDを患ったときも、そうやって克服してきた。
今でも、あれを越える最強最悪な女……いや、人類に出会ったことはない。
他に考えられるとすれば、人名の方が親しみやすくて覚えやすいからとか、じゃないか。
ちなみに、近年では男性名も女性名も均等に使われているようだ。
答えはNOだ。
かといって、別に何が嫌いかを語る方が尊いってわけでもないぞ。
要は何かを好きであることも、何かを嫌いであることも等価だって意味だ。
この世は何かを好きな人間と、何かを嫌いな人間が一つの社会で生きている。
批評において何が好きであるかが大事なら、何が嫌いであるかも同じくらい重要だろう。
美味しいものしか食べない人間は、その美味しいものの中から不味いものを選別する。
他人の好きを否定する人間と、その人間の嫌いを否定することに大した違いはない。
あると思っているのなら、それは君のポジショニングトークか、表現方法を選り好みしているからだ。
もちろん、それを選り好みすることは自由であるべきだが、他人の“自由”まで選り好みしてはいけない。
しかし、何らかの好き嫌いを表明することは、被害者であると同時に加害者にもなりうる。
『トイ・ストーリー3』が嫌いな人間だっているが、それでイコール自分の好きを否定されたと被害者ぶって、相手の人格攻撃を始めてはいけない。
おっと、「何かを好きである時点で誠実」、「何かを嫌いな時点で不誠実」だと思っているのなら、まずそこから降りたほうがいい。
先ほどもいった通り、それらは表裏一体だ。
どちらの態度を取るにしろ、片方を享受するならば、もう片方は甘受することが必然だ。
では“誠実さ”とは何か。
漠然としすぎているな。
まあ一例を挙げるなら、借りてきた言葉で表明した気になったり、それに乗っかって他人の好き嫌いを否定することは誠実といいにくいだろうな。
もしかすると、君のことかもしれないな。
学ぶべき教訓は、「他人の言葉じゃなく、自分の言葉で好き嫌いを語れよ」といったところだ。
仮にそうだとしても、私はそれを自分の言葉として昇華しているので極めて誠実だ。
そこ、ズルいとか言わない。
オタクは自分の好き嫌いに対してズルくなってしまう生き物なのだよ。
もちろん、私はオタクじゃないが。
元世界王者のジョージ・ヤオは5台のアイパッドを使い、シャワーのときすらビニールをかけてプレイしていたそうだ。
他にはスポーツチームの選手たちが夢中になりすぎて連敗し、監督が激怒しているってニュースもあったな。
あと出会い厨とか、親の金を大量に課金に使っていた小学生とか、一通りのことは起きているな。
もちろん、この話は『クラッシュ・オブ・クラン』関連、かつ国外での話であるから気にする必要はない。
こういうのにやたらと法を作りたがる者がいるが、ルールというのはそれがないと社会が回らないから必要なだけだ。
逆に言えば、なくても成立するならルールなんて必要ないってことになる。
日本の課金ゲーは運営も誠実で、ゲーマーも自己管理が出来ていて健全だ。
ユーザーたちも聡明で、万が一なにかあっても自己責任だと得心できる人たちばかりだから大丈夫だろう。
……いや、さすがにちょっと言い過ぎた。
自分もそういったゲームを多少はかじっているから、何とか取り繕いたかったんだ。
君に嘘はつけても、自分に嘘はつけないらしい。
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。
増田の批判が、研修の評価と等価ではないに、勝手に擁護とかって言わないでね。
「研修や研修合宿が不要」ってのも「この増田が受けた研修」ということは一言も書いてないよ。
増田自身が「No More 研修合宿。」って書いてるので、何の研修かは別にして「研修合宿」は問答無用でもう要らないってことでしょ?ってことだけじゃん?
意味のある研修もあれば、ここまでヒドイ研修でなくて業務命令であれば、振休なり残業代が全額でているのであれば、受けるコト自体は致し方ないってのは宮仕えの基本でしょ?
(会社法上は残業は禁止されていないんだから、振休なり代休と休日出勤手当が出るならば、労働契約上、僕ら社員立場は受けざるを得ないし)
それを、そこそこの課金で、チームメンバーと楽しめないか、少しでも有利に進められないかと
知恵を絞るのが楽しかった。
外交策で強いところに属し、それなり課金の割には安定してゲームを進められるような状況まで来た。
次はどこにも属さない弱小チームを自分たちのチームに引き入れようと行動した。
弱小チームに移籍し、メンバーの話をまとめ、自チームと連絡を繋げ、さらに上のチームに意見を通し…
体制が安定したことをメンバーが喜んでくれると嬉しかったし、自分の仕事を誇らしく思った。
何か疲れてしまった。
ログインするのがなんとなく面倒な気持ちになっている、チームメンバーを大事に思う反面。
ここしばらくの課金額を振り返り、冷めるような気持ちになった。何やってるんだろう、と。
こんな課金ゲームの数値ステータスに何千円も課金して。バカみたいだ、と。
そしてゲームのイベントに引っ張られ、一日中不機嫌にスマホをチェックしている。
本当にバカみたいだと思う。
チームは強いところに引き渡す段取りつけて。
もらえないから止めようって話でもなく、メーカーの戦略に乗るなって話でもない。
もらった後の倍返しを求められる面倒臭さ。
同じくらいのものを用意した後に、なぜかボロクソに言われてしまうのが嫌なので止めようやと思う事が多い。
倍返しに関しては、なんで倍返しなんだよって話。等価で返すことがそんなに悪いのかと。
手作りアピールする人もいるが、じゃあ俺が手作りでクッキーでも作ったらあかんのかと。
女性の手作りアピールは、女性にとって数万円を超える価値があるらしい。
当日から女性陣が集まって「あいつは同じくらいのものでしか返してこない」と噂になった。(同僚が教えてくれた)
なんだそりゃって話。別に付き合ってもいないのに、なぜ会社の仲間に倍返しを行わなければならんのだと。
もらわないともらわないで文句を言われ、返したら返したで陰口を言われる。
バレンタインなんて勝手なイベントでチョコを用意しておいて、ホワイトデーで倍返しを要求するというのは
世の中の女性に言いたいのは、あげたら倍返し以上になるのは恋人か嫁さんくらいだと思ったほうが良いという事。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180131155044
もちろん、人間と動物は違うし、白人と黒人は違うし、男と女は違うし、わたしとあなたは別人です。では、わたしはあなたを差別してもいいのでしょうか? もちろんよくないですね。違っていることは差別の理由にはなりません……という話です。
1)他でもいっているが人間中心主義的なフェミニズムは十分にありえる 2)倫理的ヴィーガニズムは、「苦しみを感じる能力」を基盤とした能力差別主義といいえる 3)利己的遺伝子論の取扱 あたりをどう考えるか
「人間中心的なフェミニズムはありえない」って誰も言ってなくないです? 「人間には動物を支配し搾取する権利がある、なぜなら人間と動物は違うからだ」と「男には女を支配し搾取する権利がある、なぜなら男と女は違うからだ」って論理的にまるっきり同じですよね? その理屈を無邪気に肯定していいんですか? っていうのが大元の問いでは。
人間も動物も同じであるというのは「生物学的正しさ」ではあるが「政治的正しさ」ではないだろう。この2つの正しさを直結するのは危険な気がする。
「生物学的に男女は同種だけど女は政治に向かないから選挙権は男だけでいいよね」っていうのが政治的正しさだった時代もあったんですよ……
権利を持つべき存在が日々虐待され殺され店に並び、多くの人が喜びながらそれを消費し、彼らの権利を守ろうとする主張が反差別運動をやっている人からも冷笑・嘲笑される状況って、そりゃ実際の性暴力・性差別被害とは比べ物にならないとは思いますが、「混ぜっ返し」といわれるほど軽いものじゃないと思いますよ。それを軽いといわれたら、性暴力被害とは縁遠いけど性暴力被害者の話を聞いてなんて酷いんだって憤ってる人の義憤には立つ瀬がないです。
「僕は人種差別に反対だから黒人奴隷は使わないけど、君が黒人奴隷を使ってる分には構わないよ」なんてニコニコしながら言う「寛容な」人がいたら頭おかしいと思うでしょ? 「おれが肉を食うのは自由だろ?」って言われた時のヴィーガンの気持ちがそれだと思うんですよ。
その理屈だと重度の知的障害者は差別してもいいってことになっちゃうのでは……? あと、「アフリカ人の奴隷は何考えてるかわからん」って言ってる南部人たくさんいましたよね。
面白いし似たようなことを考えてもいた。でもね、どんな崇高な思想であっても、他人との差異を認められない人や思想を他人に押し付ける人が主張してるかぎりはどうでもいいもんなんですよ。
「黒人は奴隷にしていい」「女は好きに犯していい」という思想って、考え方の違いで認められるんですか? 「僕は女性に性暴力をふるうのは反対だけど、君がふるうのを尊重するよ。個人の自由だからね。僕の思想を押し付けることはしない」って言ってるやつかなりサイコパスみがありません? 賛同しろって言ってるんじゃなくて、ヴィーガンにとってはそれくらい切実な問題だって理解したらどうだ、って話です。
どうしてそうすぐに正しいだの敵だの言い切ってしまうのだろう。グレーでいいじゃないの、心に留めて無言でいてもいいじゃないの、日和見主義でいいじゃないの。
こんなのヴィーガニズムへの最大の侮辱ですよ。奴隷にされている黒人と奴隷主のあいだに立って、戦闘的奴隷解放論者は極端だなあ、日和見主義でいいじゃない、なんて言うのは奴隷制の肯定にほかならないでしょう。ヴィーガンの問題意識をちょっとでも想像したらこんな無神経なこと言えないですよ。正々堂々と、あなたたちはわれわれの敵だ、と言明するべきなんですよ。
その理屈に乗ると男性優位社会の信奉者が女性を差別するのもOKって話なわけで、まあ事実その主張って根絶できないわけだが、ええんかいなではある。
せめて「おれは男性優位主義者であり女は男と対等ではないと信じているので確信を持って女性を差別する。この差別は正しい」と堂々といえよっていう話ですね。そっちのほうが、別に差別じゃないしwwwwwとか苦しい言い訳をして差別とそれによる敵対を隠蔽しようとするより遥かに誠実な態度でしょう。
権利は社会を形作るもので、その社会という人間が無法から身を守るツールと、その外と内をどう分けるのかが、等価に思えてしまう人がこんなに多いのはなんでだろうか。そんなに引っかかることか?
その「人間社会」の内外をどう区分するか、って、自明じゃないですよね。アボリジニは人間以下だから追い散らしてハンティングしてやるぜ! アフリカ人は貨物だから船に詰め込むし伝染病が流行りそうになったら生きたまま海に放り込むぜ! っていう時代があって、その頃は「人間=キリスト教徒の白人」だったわけで、そういう時代には「あいつら『人間』じゃないから差別して搾取してよくね?」っていうのが「社会」を維持することだったんですよ。「社会の構成員」の権利を守るためにアボリジニを虐殺しインディアンを強制移住させアフリカ人を誘拐してきた歴史があるわけですよ。で、「ホモ・サピエンスのみに権利を与え、他の種は差別・搾取の対象としてもよい」というのはあくまで現在の社会におけるコンセンサスであって、自明でも自然でもないですよね? 未来にはその内外の線引きが動く可能性があって、ヴィーガンはそれを積極的に外に動かそうとしてるわけです。……これ、そんな引っかかることですかね。わたしには極めて明瞭な論理だと思うんですが。
http://www.shunya-hitomi.com/entry/2018/01/10/113310
人間の死を、愚弄するつもりはない。思いを否定するつもりはない。
要するに、死に直面した恐怖の中で、社会の愛に接し、自分を愛し、家族を愛し、社会を愛することが、幸せな終焉である、と。
正論、正論、正論。きっと、論理的に、正しいし、なんだか心が洗われる、なんて、そんなんだろう。
今、私は、死に直面し、恐怖している。死ぬのが怖い。生きていたい。
でも、なぜ、死ぬのが怖いのか、生きていたいのか、理由が真逆だ。
もう一度だけ、誕生日を迎えたい、もう一度だけ、お正月を迎えたい。そういうものではない。
あいつの不正を、叫びたい。社会の不正を、糺したい。私を否定する正論を、破壊したい。
受容とは愛である。死に際の彼女の信仰は、受容こそが正しく、不快なものに拘るのは、無意味であると。
私を否定し、排除する機構を、破壊することで、私と同じ苦しみを味わうものを、救いたい。
いや、違う。破壊することで、救われる者がいることは、無関係だ。単純に、憤りの対象を、破壊したい。
私はすでに、まさに死に体で、憤りの対象を、破壊することが、叶わない。
社会は、あなたは、私の思想を許容しないだろうし、論理で否定するだろう。
私のような愚者が、不快感を表明し、社会からそれを除去するためには、
私のような愚者が、徒党を組み、賢者が論理で守る彼らの機構を、暴力によって破壊する必要がある。
社会は機構の集まりで、ある機構は、すべての者にとって、完璧ではない。
賢者にとっての善の機構が、愚者にとっての悪の機構であるとは、限らないが、
賢者にとっての善の機構が、愚者にとって悪であるなら、それを暴力によって破壊することは、
価値観を持つ存在を仮定しなければ同意を考慮することは不可能ではありませんか?
無が最上であればすぐに死ぬこと、周りにも死ぬよう働きかけることが理想的ではありませんか?
今すぐ死ねば子供を生む心配はありませんし、自分が死ねば人が子供を生むことを知覚する心配もありません。
人生は最悪だけど死ぬのは怖いからできるだけ楽しく生きます。自分の子供には苦痛を与えたくないので私は子供をつくりません。
自分のエゴで「子供を作らない」ということを選択しただけです。
その二つは等価です。
ですが、子供を作ること自体が罪なので人類は絶滅すべき、と言うのは、反論できない生まれてくる子供の価値観を同意を得ずに規定していることになります。
それは今まさに禁止したことではありませんか?無だからそれは良いですか?無だから別に良いのなら勝手に生んでも別に良いのでは?
論破しようとかそういうのではなく本当に疑問なだけなので、お付き合いいただければ幸いです。