http://www.shunya-hitomi.com/entry/2018/01/10/113310
人間の死を、愚弄するつもりはない。思いを否定するつもりはない。
要するに、死に直面した恐怖の中で、社会の愛に接し、自分を愛し、家族を愛し、社会を愛することが、幸せな終焉である、と。
正論、正論、正論。きっと、論理的に、正しいし、なんだか心が洗われる、なんて、そんなんだろう。
今、私は、死に直面し、恐怖している。死ぬのが怖い。生きていたい。
でも、なぜ、死ぬのが怖いのか、生きていたいのか、理由が真逆だ。
もう一度だけ、誕生日を迎えたい、もう一度だけ、お正月を迎えたい。そういうものではない。
あいつの不正を、叫びたい。社会の不正を、糺したい。私を否定する正論を、破壊したい。
受容とは愛である。死に際の彼女の信仰は、受容こそが正しく、不快なものに拘るのは、無意味であると。
私を否定し、排除する機構を、破壊することで、私と同じ苦しみを味わうものを、救いたい。
いや、違う。破壊することで、救われる者がいることは、無関係だ。単純に、憤りの対象を、破壊したい。
私はすでに、まさに死に体で、憤りの対象を、破壊することが、叶わない。
社会は、あなたは、私の思想を許容しないだろうし、論理で否定するだろう。
私のような愚者が、不快感を表明し、社会からそれを除去するためには、
私のような愚者が、徒党を組み、賢者が論理で守る彼らの機構を、暴力によって破壊する必要がある。
社会は機構の集まりで、ある機構は、すべての者にとって、完璧ではない。
賢者にとっての善の機構が、愚者にとっての悪の機構であるとは、限らないが、
賢者にとっての善の機構が、愚者にとって悪であるなら、それを暴力によって破壊することは、
「社会の愛に接し、自分を愛し、家族を愛し、社会を愛することが、幸せである。」 それは嘘だ。 「愛とは。赦すことである。」 それは嘘だ。 「不快なものにこだわるのは、無意味で...
こいつまだ生きてんのかな