2018-01-14

定期的なダイイングメッセージ

http://www.shunya-hitomi.com/entry/2018/01/10/113310

人間の死を、愚弄するつもりはない。思いを否定するつもりはない。

ダイイングメッセージは、いつも同じだ。

要するに、死に直面した恐怖の中で、社会の愛に接し、自分を愛し、家族を愛し、社会を愛することが、幸せ終焉である、と。

正論正論正論。きっと、論理的に、正しいし、なんだか心が洗われる、なんて、そんなんだろう。

今、私は、死に直面し、恐怖している。死ぬのが怖い。生きていたい。

でも、なぜ、死ぬのが怖いのか、生きていたいのか、理由真逆だ。

もう一度だけ、誕生日を迎えたい、もう一度だけ、お正月を迎えたい。そういうものではない。

あいつの不正を、叫びたい。社会不正を、糺したい。私を否定する正論を、破壊したい。

受容とは愛である。死に際の彼女信仰は、受容こそが正しく、不快ものに拘るのは、無意味であると。

私はそうは思わない。破壊創造等価だと思う。

私を否定し、排除する機構を、破壊することで、私と同じ苦しみを味わうものを、救いたい。

いや、違う。破壊することで、救われる者がいることは、無関係だ。単純に、憤りの対象を、破壊したい。

私はすでに、まさに死に体で、憤りの対象を、破壊することが、叶わない。

社会は、あなたは、私の思想を許容しないだろうし、論理否定するだろう。

私は思う。論理賢者武器である

私のような愚者が、不快感を表明し、社会からそれを除去するためには、

私のような愚者が、徒党を組み、賢者論理で守る彼らの機構を、暴力によって破壊する必要がある。

暴力は、悪ではない。暴力は、愚者権利である

社会機構の集まりで、ある機構は、すべての者にとって、完璧ではない。

かにとって、善であり、誰かにとって、悪である

賢者にとっての善の機構が、愚者にとっての悪の機構であるとは、限らないが、

賢者にとっての善の機構が、愚者にとって悪であるなら、それを暴力によって破壊することは、

愚者の当然の権利である

私は、恵まれ環境の、彼女冥福を祈る。そして、賢者機構に殺される、愚者冥福を祈る。

私は、暴力によって、愚者に不利な機構破壊されることを祈りながら、自身の無力を呪いながら、死んでいこう。

  • 「社会の愛に接し、自分を愛し、家族を愛し、社会を愛することが、幸せである。」 それは嘘だ。 「愛とは。赦すことである。」 それは嘘だ。 「不快なものにこだわるのは、無意味で...

  • こいつまだ生きてんのかな

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