真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
どういうことかってのは、私が言うまでもないだろう。
いずれにしろ、大人しく自宅のシェルターにこもって、去るのを待つのみだ。
私は傭兵時代にPTSDを患ったときも、女性関係でPTSDを患ったときも、そうやって克服してきた。
今でも、あれを越える最強最悪な女……いや、人類に出会ったことはない。
他に考えられるとすれば、人名の方が親しみやすくて覚えやすいからとか、じゃないか。
ちなみに、近年では男性名も女性名も均等に使われているようだ。
答えはNOだ。
かといって、別に何が嫌いかを語る方が尊いってわけでもないぞ。
要は何かを好きであることも、何かを嫌いであることも等価だって意味だ。
この世は何かを好きな人間と、何かを嫌いな人間が一つの社会で生きている。
批評において何が好きであるかが大事なら、何が嫌いであるかも同じくらい重要だろう。
美味しいものしか食べない人間は、その美味しいものの中から不味いものを選別する。
他人の好きを否定する人間と、その人間の嫌いを否定することに大した違いはない。
あると思っているのなら、それは君のポジショニングトークか、表現方法を選り好みしているからだ。
もちろん、それを選り好みすることは自由であるべきだが、他人の“自由”まで選り好みしてはいけない。
しかし、何らかの好き嫌いを表明することは、被害者であると同時に加害者にもなりうる。
『トイ・ストーリー3』が嫌いな人間だっているが、それでイコール自分の好きを否定されたと被害者ぶって、相手の人格攻撃を始めてはいけない。
おっと、「何かを好きである時点で誠実」、「何かを嫌いな時点で不誠実」だと思っているのなら、まずそこから降りたほうがいい。
先ほどもいった通り、それらは表裏一体だ。
どちらの態度を取るにしろ、片方を享受するならば、もう片方は甘受することが必然だ。
では“誠実さ”とは何か。
漠然としすぎているな。
まあ一例を挙げるなら、借りてきた言葉で表明した気になったり、それに乗っかって他人の好き嫌いを否定することは誠実といいにくいだろうな。
もしかすると、君のことかもしれないな。
学ぶべき教訓は、「他人の言葉じゃなく、自分の言葉で好き嫌いを語れよ」といったところだ。
仮にそうだとしても、私はそれを自分の言葉として昇華しているので極めて誠実だ。
そこ、ズルいとか言わない。
オタクは自分の好き嫌いに対してズルくなってしまう生き物なのだよ。
もちろん、私はオタクじゃないが。
元世界王者のジョージ・ヤオは5台のアイパッドを使い、シャワーのときすらビニールをかけてプレイしていたそうだ。
他にはスポーツチームの選手たちが夢中になりすぎて連敗し、監督が激怒しているってニュースもあったな。
あと出会い厨とか、親の金を大量に課金に使っていた小学生とか、一通りのことは起きているな。
もちろん、この話は『クラッシュ・オブ・クラン』関連、かつ国外での話であるから気にする必要はない。
こういうのにやたらと法を作りたがる者がいるが、ルールというのはそれがないと社会が回らないから必要なだけだ。
逆に言えば、なくても成立するならルールなんて必要ないってことになる。
日本の課金ゲーは運営も誠実で、ゲーマーも自己管理が出来ていて健全だ。
ユーザーたちも聡明で、万が一なにかあっても自己責任だと得心できる人たちばかりだから大丈夫だろう。
……いや、さすがにちょっと言い過ぎた。
自分もそういったゲームを多少はかじっているから、何とか取り繕いたかったんだ。
君に嘘はつけても、自分に嘘はつけないらしい。