はてなキーワード: 日常とは
"神"みたいな、まあまあ使い所があるやつより、
近年でてきた概念で、日常的に使い道がないが一般に浸透しているほど芸術点が高いものとします。
先攻オレ。
テレポテーション
はい優勝。
チャールズ・フォートが1931年に「テレポテーション」を初めて使用した後、この概念は特にSFやファンタジーのジャンルで広く知られるようになり、人気を博しました。様々なメディアで取り上げられ、現在では一般的なSF用語として定着しています。
半袖パーカーとか裾にレースのついたチュニックとか。逆にそれどこで買ってるの?今の時代によく売ってるね。それとも昔買った服を着ているの?
半袖パフスリーブのデニムジャケットにラグランTシャツ合わせているのも即売会くらいでしか見たことない。そもそもパフスリーブのデニムジャケットを日常で15年くらいは見ていない。本当にどこで買ってるの?
半袖パーカーしかりデニムジャケットしかり重ね着が好きなのか?
世に流通するまでにトレンドを調べたり色々な方のチェックが入ったりしているはずなので、ダサい服というのはこの世に存在しないと思う。
ただ流行は変わっていくし、好みの範疇でも年相応の服装というものは存在するので、たまに物凄いファッションのオタクを見て気になってしまう。
服装に興味がないならシンプルな装いになると思うので、当人たちにはそれなりのこだわりや好みがあって、その上でその服を着ているのだと思うと余計に気になる。
その手の話が盛り上がってるところ悪いんだけど、モテとか非モテとか実生活で誰も興味ないと思うんだよ。
俺もどちからと言われれば明らかに非モテだよ?恋愛経験ゼロだし、30代半ばなのに童貞だよ。中学高校と男子校だった生粋の非モテだよ。
会社に行って、女性を見て、恋愛を想起することってある?ないでしょ?
電車乗って、女性見て、恋愛したいな〜とか思う?思わないでしょ?
いい年して恋愛したいとか思う場面ってめちゃくちゃ限定的だと思うんだよ。
クリスマスの日の帰り道とか、道ゆくカップルや街のイルミネーション見て、「寂しいな…」とは思うよ?
でも逆に言えばそういう日以外には別段寂しくないし何なら一人の方が気楽じゃんみたいなノリで生きてるんだよ。
というか、俺くらいの歳になると結婚してるやつはもう子供の1人や2人育ててて、育児の大変さみたいな話題が日常的に交わされてるわけじゃん。
たまに早く帰宅する日に高校生や大学生の集団見ても「子供だな」以上の感情がわかない歳になってるわけじゃん。
まじで教えて欲しい。非モテ云々で盛り上がってるお前らは何歳なの?10代なの?20代なの?違うだろ?
ってなんでそんなウソつくんだろうね
だって、恋愛工学とかホストとか持ち出すまでもなく、モラハラ気質のクソ男に恋人いるとか日常じゃん
「女性に人として接する」ってモテと無関係とまでは言わないけど、数ある要素のひとつに過ぎないのは明らかなので、「それでモテます」は、ウソでしかないじゃん
なんでなんだろ、を考えてみた
思うに、この人たちって、
「顔とかオッパイじゃなく人格を評価する“正しい”男は恋愛において報われる」
もちろん、現実はシンプルでも公正でもないから、リアル女はアナとカネしか評価しないクズ男にも普通に沼ってて、彼らだってこのことを知らないわけじゃない
でも、彼らはこの現実を認められない
だって、そのメルヘンな脳内世界に止まる限り、「モテない」男性イコール“正しくない”存在なわけだから、思う存分、叩いたりマウント取ったりしてよいので、こんなお手軽快感供給マシーンを手放すわけにはいかない
どころか、「女性に人として接してる非モテ」に対して、「モテないのは人として接してないから〜(決めつけ)」とか暴力を振るってた側に反転しかねない
だから、この嘘を見つけたら、彼らは群がらざるを得ない
数しかないのだ
科学的な根拠がないだけでなく、多くの人の感覚にも反する嘘を突き通すには、数しかないのである
彼らには、「相手と人として接しないのはモテじゃない」、と反論する道も残ってはいる
これは理の通った対応に見えて、その実「私は相談に対し独自基準のモテを定義し自語り始めた役立たずです」と自ら開陳しているに等しい
しかし、それでも彼らにはその道は残っている
なぜなら無能であることは彼らにとってさしたる痛みではないから
彼らは、自分が
「君がモテないのは女性に人として接してないからだよ」などという嘘を前提に、非モテを悪/格下/劣等に位置づけ、叩いたりマウントをとって快感を搾取していること
まず結論を書いておく。
「電話で社外の人と合意を取り付けたら、合意内容を、関係者をccに入れて相手にメールしろ」
言いたいのは、それだけだ。(当然だと思った人もいるだろう)
以下、具体的な状況を見ていく。
ドラマ「セクシー田中さん」の製作過程で問題が生じた大きな原因が、原作者が求めた条件「(ドラマオリジナルとなる終盤では)原作者があらすじからセリフまで用意する」「用意したものは原則変更しない」「場合によっては、原作者が脚本を執筆する可能性もある」が十分に履行されなかったことなのは、衆目の一致するところだろう。
日テレ報告書では、この条件について、「許諾の条件として伝えられていたとの事実は確認できなかった」としている。つまり、「言った言わない」論争が発生している。
この"条件"を主導したのが、小学館の社員B氏である(小学館報告書での呼称。以下同じ)。B氏は、映像化関連の部署に所属している。この部署が長いのか、日テレX氏(担当者Y氏の上司)とも8年程度の面識があった。
そこで4月25日、社員Bは、小学館社内で芦原氏に面談し、ドラマオリジナル部分についてはできるだけセリフを多く入れたロングプロットを書いてそれを脚本家に脚本化してもらうこと、それでもうまく脚本にできない場合はご自分で書く場合もあるが良いかと尋ね、その覚悟があることを確認した。社員Bが、できるだけキャラクターのセリフを多めに書くことで、脚本家が芦原氏のつくるキャラクターのセリフを替えることができなくなると説明したところ、同氏はすぐに理解した。
そして、B氏は、日テレX氏にこれを伝える。
社員Bは(6月)9日、日本テレビ社員X氏に電話で改めて、ドラマのオリジナル部分は芦原氏が詳細プロットを書き、これを受けて脚本家が起こした脚本を了承しない場合は脚本を自ら書く方法を提案し、脚本家に失礼にならないよう了承を取ることを求めた。
これに対して日本テレビ社員 X 氏は、芦原氏に書いてもらうことはありがたいと賛同し、脚本家にもうまく話しておくと回答した。
なお日本テレビ社員 X 氏は、「もし脚本が芦原先生の意図を十分汲まず、芦原先生の承諾を得られないときは、芦原先生に脚本も書いてもらうこともある」と言われた記憶はないと否定している
おそらく、日テレ側は「脚本」「詳細プロット」という言葉を、提供されるフォーマットについての言葉として理解しており、原作者やB氏の意図する「原則変更しない」という意図では捉えていない。
実際、この後の日テレ担当Y氏のメールでは「具体的に頂けるほうが良いと思います」と言っており、「詳細プロットや脚本=具体的な表現方法での提示」として捉えている。さらに続けて、「こちらからもそのご提案を受けて、案だしもさせて頂ければと思います」と「原則変更しない」を認識していない発言を続けている。
(なお、このメールを受けた小学館の担当者A氏も、「案だし」を咎めず、また、自分のメールでも「脚本もしくは詳細プロットの体裁でご提案」とフォーマットとして書いているので、同じ捉え方をしていた可能性がある)
ここから伺えるのは、小学館B氏が日テレX氏に電話で伝えた意図が日テレ側に正しく伝わらなかったこと(もしかすると、小学館A氏にも伝わっていない)。
そして、その連絡が、2人の電話でしかないため、2人の記憶違いが生じたら、どうしようもなくなることである。
もし、B氏が電話で合意した(と認識していた)内容を、A氏をCCに入れて日テレ側にメールしていれば、「原則変更しない」という点についての双方の認識の齟齬にもっと早く気づけ、悲劇は防げたのではないだろうか。
もちろん、他にも多くの問題点はあったし、日テレ側にも問題もあった。しかし、一番の問題点として感じたのは、肝心の所で、「言った言わない」が生じていることであり、その原因となったのはB氏の仕事の仕方である。
なお、社員Bが電話ですべてを終わらせていた問題については、小学館の報告書にも書かれている。
しかし、同報告書は「日本テレビ側が原作者の意向を代弁した小学館の依頼を素直に受け入れなかったことが第一の問題」と主張するために書かれており、小学館側のコミュニケーションの問題とはしていないことから、論点をずらしている。
社員Bは大抵、日本テレビ社員X氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。本委員会において認定根拠としえたのは、社員AへのLINEメッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。 しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
しかし、小学館の社員A氏(芦原氏の担当編集者)の立場からすると、他部門の管理職(と思われる)B氏が、頭越しに漫画家に進め方を提案し、テレビ局とも勝手に交渉し、口頭でしか共有してくれない…なんて、たまったもんじゃないよな…。
・誰も手伝ってくれない
とか思ってる人、多いと思うんだよね。
自分もそうだったんだ。
ゴミが落ちてるのにどうして誰も拾わないのとか、あんたのために食事を作ったのにすぐテレビつけて感想もないとか、疲れている時に洗濯物を畳んでいるけど家族がだれも手伝ってくれないとか、一回一回はそうでもないけど、ずっとそれが続くと、つらいよね。やるせないよね。
その結果、イライラがつのったり、孤独感が大きくなったり、なんのために頑張っているんだろうとよくわからなくなったりして、苦しいんだよね。
一部の人にしか参考にならないかもだけど、こんな風にしたら改善しつつあるよって個人的な体験を、ダラダラ書いてみるよ。
これまでにただの一度も手伝わなかった家族ってあんまりいないと思うんですよ。子どもやパートナーが手伝ってくれた時に、きちんと感謝を伝えるのをテキトーにしていると、だんだんと手伝う気を削いでいくね。言葉で「ありがとう」って言うときに、スマホ見てない?相手を見てる?「感謝の言葉テンプレート」に沿った機械的な感謝になっている場合は、意味が無いどころか逆効果だよ。あと、手伝ってくれた人に対して「いつもこんな風にやってくれるなら助かるのにね」とか「こんなのやってくれて当たり前だから」なんて感謝と真逆の嫌味を言ったことはない?該当するものがあったら、そりゃあ誰も手伝いたくなくなるよ。
思い通りにならないときに、わざと物音を大きくたてるとか、大きなため息をつくとか、独り言に見せかけた愚痴を垂れ流すとか、そういうことをする人からは他の人は離れていくよ。当たり前だよね、近寄りたくないんだもの。ニコニコ笑ってろとは言わないよ。けど、あからさまに「こんなに態度に出しているんだから気付いて何かしなさいよ」っていう意図で不機嫌な雰囲気を利用していないか、振り返ってみようね。みんな気付いてるよ。気付いているけど言葉になっていないから、何をしていいかわからないんだ。
前の項目と近いんだけど、相手にこうしてほしいなと思うことがあったら、まず最低限言葉で伝えよう。「それくらい察してよ」は絶対NG。だって考えてもごらんよ。何をしてほしいかわからないけど不機嫌な相手にさ「もしかしてこれかな?」と仮説を立てて実行したら「全然違う!」ってもっと不機嫌になったり、罵倒されるようなことがあったら、本当にこうしてほしいと思うことにたどり着くのに、相手はどれくらい頭を使って精神を疲弊させることになるだろう?想像できる?察してほしいが通用するのは乳幼児までだよ。
まるで勝ち負けを決めるかのように強い言葉を使うことってあるよね。それ絶対やめた方がいい。強い言葉って大体の場合は怒りと共に発していると思うんだけど、そもそも怒りってのは自分が自分のストレスを発散させるためのものだから。依頼や、ネガティブなことを伝える、指摘や叱りってのは、むしろ冷静に行うべきものだよ。もちろん、そんなことを言ったって怒ることもあると思うんだけど、だけどそれって自分自身のためだけに、自分が選択している行動だってことは思い出そうね。怒る人は怒ることを自分で選択しているんだよ。怒る人は発散して少しクールダウンするかもしれない。だけど、怒られた方の人は、意味が分からないことも多いはずだよ。「どうしてそこまで言われないといけないんだろう」って。たまには怒りをぶつけることが良い関係に繋がることもあるかもしれない。だけど、もし日常的に怒ってるような人はね、相手や家族に対して、あなたの想像する数十倍ものストレスをかけているってこと、忘れないでね。ちなみに、子どもに対してこれを続けると取り返しのつかないことになるよ。
「それしないと死んじゃう!」っていうくらい重大なものって世の中にはあるよね。だけど、そうじゃないものだってさらにたくさん世の中にはあるよ。「まあ、これくらいは、いいか!」って割り切っちゃえば消えるストレスもあるよ。
これ10割、100%嘘なんだ。そう思って他人と接している人は自分のためにこの言い訳を使っているだけだよ。「この人のために出来ることはなんだろう?どんな選択肢があるだろう?どんな方法があるだろう?」ってまず最初に考える人はね、あなたのために怒ってる、なんて言葉は使わないんだよ。8割とか9割かもしれないって思うでしょう。だけどね、この考え方にとらわれている人たちはね、自分は残りの1割とか2割の方だって、すぐに逃げちゃうんだよ。だから言い切ったよ。10割嘘だよこんな言葉。
本当にダラダラ書いちゃったよね。傾向としてはさ、冒頭に書いたことで苦しんでいる人は、実は自分の振る舞いで人を遠ざけていることがあるんだよってこと。
きっと、そうじゃない理由の人もたくさんいると思う。これはチラシの裏の落書きだからさ、そこは勘弁してね。
ただね、他人を自分の思うように変えることはできないからさ、できることって自分の表情や言葉、振る舞いや考え方を変えることくらいしかできないから。
俺も「人として接する」が分からなくて20年以上悩んだのでよく分かる。
人として接してるつもりなのに「なんかキモい」って言われるんだよな。
いろいろ対処法を試したけど、まず相手の話をよく聞くようにしたら良くなった気がする。
「キモい」には色々要素があるんだけど、一番大きな要因は「聞かれてもいない話をする」なんだと思う。
どんな正論や正しい情報でも、相手の状況を考えずに話せば聞いてもらえない。
まずは相手の話を最後まで聞いて、単語じゃなくて文脈がわかったらそれに同調する話をすれば良い。
同調できない場合は無理に会話に入らなくていい。嘘は吐かなくてもいいから適当にごまかすといい。
日常会話の目的は「敵じゃないかの確認」であって「事実関係の確認」じゃない。
「人として接しろ」みたいな曖昧な言葉で説明した気になってることからも分かるように
ほとんどの人間は単語の深い意味とか相手がどう感じるかとか考慮してない。
ほとんど感覚だけで会話してるし、会話の7割はどうでもいいしすぐ忘れる。
そこで急に「事実関係を確かめる」「特に仲良くもないのにアドバイスをする」「いきなり相手を否定する」
みたいなガチの議論をしようとすると「空気読めない」「キモい」となる。
というか普通の人はそう感じるんだが、俺を含む一部の人間はその感覚が薄いのでキモがられる。
小学館含む原作者側がどれだけ振り回され、心労を負ったか、という点にフォーカスしているのか日テレ版で言うところのラリーの詳細が多い。
漫画家の芦原妃名子先生がご逝去されたことについて、改めて、先生の多大な功績に敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
重箱隅つつきなのはわかりつつ。報告書冒頭にはまずこれがあるべきですよね。
(日テレ版は報告書本体のリンク元であるプレスリリースには同様の記載があるが、肝心の報告書冒頭には記載していない)
日テレの2人目の対応者って上司やったんかよ!!!いやそんな気はしてたけどさ!!!
そもそも小学館側はきちんと担当部署だけでなく、各社員と上司を明示していてこの時点で日テレ版より分かりやすさが違う。
特に問題はないという意見を示しつつ、気になる点として、第 2 話脚本中に若い男女のメッセージのやり取りをメールでさせていることについて、今どきは LINE が普通ではないかと指摘したり
「今時のJKは短大よりも専門学校だ」という議論をできるドラマスタッフが、今時の男女のメッセージやり取り事情に精通していないなんて…。
また併せて飼っていたハムスターの逃走範囲に関するセリフについて、原作漫画の 100M 以内との吹き出しの記載を 200M 以内に変更した点にも疑問が呈された
(略)
ヒンズー教徒が多いインドでベリーダンスをするという点に疑問を呈した
(略)
またダンスの動画についても、初心者に過ぎない田中さんのダンスが動画で評判になるほどのものではあり得ないこと等の理由を詳細に説明して、日本テレビの補足説明中の提案を認めなかった。
日テレ版では省略されていた「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」の具体的な例をきちんと書いてくれてますね。
「めっちゃ打ち合わせして議論してより面白くなるよう頑張ったんすよ」アピールしてた日テレさん、これも全て改変の意図がきちんと伝わらなかったの一言で済ますの?
社員 A は、上記の 10 月 2 日の日本テレビ社員 Y 氏あてメールで、本件脚本家に関して次のように問いかけている。
「確認なのですが、芦原さんが描き下ろした 8~10 話は基本的に変更無しで使用してほしい、という話は●●さん(本件脚本家。原文は実名)に伝わっていますか?●●(社員 B。原文は実名)から●●さん(日本テレビ社員 X 氏。原文は実名)にもお電話差し上げたのですが、そのお話しは●●さん(日本テレビ社員 Y 氏。原文は実名)に伝わっていますでしょうか?」
以後のメールで日本テレビ社員 Y 氏がこの点について回答した形跡はない。また本件脚本家によると、同氏は一切聞かされていないとのことである(本委員会質問に対する回答)
都合の悪いメールは読まなかったことにして無視、切羽詰まるとよくあるよね~(あるなよ)
10 月 5 日 16 時 45 分、芦原氏は社員 A に第 3 話脚本のシーン 50 で演じられるダンスが「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」ことになっているが、これを「普通のドラムソロ」に変更するように日本テレビ社員 Y 氏に急ぎ伝えるよう要請した。
芦原氏が問題としていたのは、同シーンでベリーダンスを田中さんがステージで踊る際、演出では「ハリージ衣装でドラムソロを踊る」こととされていた点であり、芦原氏は、社員 A に対して、ハリージ衣装でドラムソロを踊ることは、ベリーダンスの歴史的、文化的背景としてあり得ないので日本テレビ社員 Y 氏に確認してほしいと求めたのである。芦原氏の求めを受けた社員 A が同日 19 時 50 分ショートメールで、日本テレビ社員 Y 氏に対し、芦原氏からの依頼として、「ハリージ+ドラムソロ」はダンスの監修者が OK しているとは思えないので確認してほしいとの依頼があったことを伝えた。
これに対して日本テレビ社員 Y 氏は社員 A に対して直ちに、ダンス監修者には「OK 頂いている」という認識であるが、改めて確認すると返し、同日 23 時 35 分にダンス監修者から OK の確認が取れたと連絡してきた。
しかしこの時、実際にダンス監修者が OK と言っていたかという点には疑問が残る。
(略)
ところが、後日、芦原氏は、「ハリージ衣装でドラムソロ」はあり得ないことを認識した。芦原氏は、日本テレビ社員 Y 氏(なお、撮影は 10 月 10日を予定していたが、日本テレビ社員 Y 氏は社員 A からの 10 月 5 日の問い合わせに撮影済みであると虚偽の発言をしていた。このことでも芦原氏は不信感を募らせていた)の対応に不信を募らせ、間違った有りようのダンスが公に放映されることを看過できず、ダンスの監修者の名誉のためにも撮り直しをするか、それができないなら番組 HP や DVD への釈明文掲載等を日本テレビに要求するように社員 A に依頼した。
3話リテイクの経緯詳細。
日テレ版では、
2023 年 10 月上旬、ドラマ撮影時に撮影シーンを巡って本件原作者が A 氏に対して不信感を抱く事案があった。A 氏は、C 氏より送付された本件原作者の意向に従って当該撮影内容としたつもりであったが、本件原作者はそのような趣旨では依頼していない認識であったため、C 氏に確認を依頼した。
C 氏を通じた本件原作者の撮影シーンに関する問い合わせに対し、A 氏は既に当該シーンは撮影済みである旨回答を行ったが、実際の撮影は 5 日後に予定されており、そのまま予定通り撮影が行われた。
その後、これらの経緯を本件原作者が知ることになった。A 氏によると、まだ撮影していない旨を回答すると本件原作者から撮影変更を求められるのは確実であると思ったが、A 氏は当該撮影シーンは客観的にも問題ないものだと思っていたこと、及び当該シーンの撮影のために 2 か月にわたってキャスト・スタッフが入念に準備を重ねていたため、撮影変更はキャストを含め撮影現場に多大な迷惑をかけるので避けたいと思って咄嗟に事実と異なる回答をしてしまった。このことは反省しているということであった。
と、「撮影前を撮影済みと嘘ついちゃいました、てへぺろ☆」なことしか書かれてないけど、その前に「ダンス監修者の了承が本当にあったのか?」という日テレ担当者の信頼度をさらに下げる一幕があったんじゃねーか!!!!
まさか「今から変更したらみんなに迷惑かけちゃう…」という我が身可愛さで嘘付く人でも「ダンス監修者の了承はきちんと取っていたに違いない」と信じてるの?
そしてどういうつもりで削ったの?(一応、読み落としたかと思って日テレ版を「ダンス監修」で検索してみたが見当たらない)
この間、社員 J が 7 月 27 日に日本テレビに送信した契約書案に対して同社から 9 月 26 日に修正案が戻された。
その中では、改変についての原作者の承諾に関し、小学館提示の原案では小学館と原作者双方の同意が必要としたものを、日本テレビは、日本テレビとして合意を得るべき相手を小学館に限定する修正依頼があった。
原作者の承諾は不可欠であるため、小学館を介して原作者の承諾を得ることに修正し、社員 J は部内の承諾を得たうえ、10 月 23 日に日本テレビに送った。
うーんこの。日テレが原作者をどう思ってるか本音ダダ漏れなの草でしょ。
社員 A のメールは貴重な記録であるが、社員 B は大抵、日本テレビ社員 X 氏と電話で交渉したようであり、文章になった資料の提出はなかった。
本委員会において認定根拠としえたのは、社員 A への LINE メッセージである。日本テレビ社員 X 氏との電話交渉についてもより詳細な記録があれば事実経過の理解に役立ったと思われる。また、膨大な業務をこなしながら、日常行うのは大変かもしれない。
しかし交渉過程の記録はビジネスの鉄則である。記録がなければ、万一担当者に事故があればその成果は継承されない恐れがある。
多くの会社では、日報・日誌等で経過を報告し、上司・同僚と共有するのが普通である。そこから問題点の指摘を受けることもある。
ガルパンあたりはまだお気楽いいけどシリアス寄りのウマ娘アニメとかレビュースタァライトとかユーフォニアム辺りの登場人物がストイックすぎてピリピリしてるやつなんか可哀想に見えて見てらんなくなる
美少女はあずまんが大王、らき⭐︎すた、けいおん!、ゆゆ式、キルミーベイベーみたいに一生ダラダラした日常を送ってほしいわ。
言われてみたらそうだわ
軍靴の足音っていう表現が出てきたら枕詞みたいに「あなたたちの大切な子供が、孫が戦場に向かうことになるのです」っていうもんだからセットで考えてしまってた
衛生観念じゃないぞ
日常の中で見える部分同士かどうかだと思う
見えない部分は存在するとかしないとかじゃなくて何も意識してない
こいつは絶対現時点で俺の事を男として意識してないって女だけど普通に仲が良いって関係性くらいいくらでもある
そして大概そういう関係性の女は仕事や学校で近い位置に所属の周辺の人間関係も被ってる面倒事がとにかく面倒な方向に転がりやすい食わない方が良い女だ
それ以外の、別に日常的に関わらない女でぬいペニどうこうが発生してるみたいなんは無駄な想定というか、正直ぬいぐるみにもなっていないただの無理な男ってだけなのではって感じ
以前ここに書いたのと同じ内容なんだけど今もっかい言っておきたくなったからもう一度書くね
「人間扱いしていない」 だぞ?
人間扱いしていないっていうのは、ためらいや罪悪感を持たずに人をぶっ殺すとか、人身売買とか、完全な無視(存在の否定)とかそういうのだろ
人間扱いとは
だの
だの
若い女性に初対面で「おっぱいおっきいね。何カップ?」とか「彼氏いるの?」とか聞いちゃうキモいおっさんだって相手をセックスの対象としてみてるんだからこの上なく人間扱いしてるだろ。
逆に、電信柱とかカクレクマノミに対してナンパしたりセックスしたがるやついるか?
なんで性欲向けたら人間扱いしてないことになるんだ?
初対面のおばあちゃんと話すとき、そのおばあちゃんがどこからどうみても一般庶民おばあちゃんだったときと英国の女王だったときで対応変えないやついるか?
変えないやついたらそっちの方がやばいだろ。
相手の属性で振る舞い変えるなんて日常のあらゆる場面で誰でもやってるし、それは「人間扱いしてない」ことにはならない。当たり前の話。
美人(イケメン)と不細工で態度変えないやつはいても、そいつが常に相手の属性で態度を変えないわけじゃないってこと。
いや大抵の場合、相手の人格を無視してようが軽視してようが否定してようが、人間としては扱ってるだろ
人格を無視してたとしても、相手を目覚まし時計やオムライスのように扱ってるわけじゃないんだから
相手の人格の存在そのものを認めていなければ、人間扱いしてないと言えるかもね
ここまで読んで「ごちゃごちゃ屁理屈こねんな。そういうことじゃないんだよ」って思ったやつ。
もう一回よく考えてみて
なんでこんな攻撃力高い言葉を自分の都合で勝手にハイコンテクストな定義をつけて、あまつさえそれを他者に向かって投げつけてんの?
そっちの方がよっぽど醜悪だろ。
「性欲を向けない」でも「属性で態度変えない」でも「人格を尊重」でもいいけどその定義はどこでコンセンサス取ったの?
いいか?
「若い女性というだけで性欲の対象として見る」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「性別や年齢や国籍、美醜など、相手の属性で態度を変える」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「相手の人格を尊重しない」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「相手を人間扱いしてない」 って言葉の意味は 「相手を人間扱いしてない」 ってことなんだよ
わかった?
以前ここに書いたのと同じ内容なんだけど今もっかい言っておきたくなったからもう一度書くね
「人間扱いしていない」 だぞ?
人間扱いしていないっていうのは、ためらいや罪悪感を持たずに人をぶっ殺すとか、人身売買とか、完全な無視(存在の否定)とかそういうのだろ
人間扱いとは
だの
だの
若い女性に初対面で「おっぱいおっきいね。何カップ?」とか「彼氏いるの?」とか聞いちゃうキモいおっさんだって相手をセックスの対象としてみてるんだからこの上なく人間扱いしてるだろ。
逆に、電信柱とかカクレクマノミに対してナンパしたりセックスしたがるやついるか?
なんで性欲向けたら人間扱いしてないことになるんだ?
初対面のおばあちゃんと話すとき、そのおばあちゃんがどこからどうみても一般庶民おばあちゃんだったときと英国の女王だったときで対応変えないやついるか?
変えないやついたらそっちの方がやばいだろ。
相手の属性で振る舞い変えるなんて日常のあらゆる場面で誰でもやってるし、それは「人間扱いしてない」ことにはならない。当たり前の話。
美人(イケメン)と不細工で態度変えないやつはいても、そいつが常に相手の属性で態度を変えないわけじゃないってこと。
いや大抵の場合、相手の人格を無視してようが軽視してようが否定してようが、人間としては扱ってるだろ
人格を無視してたとしても、相手を目覚まし時計やオムライスのように扱ってるわけじゃないんだから
相手の人格の存在そのものを認めていなければ、人間扱いしてないと言えるかもね
ここまで読んで「ごちゃごちゃ屁理屈こねんな。そういうことじゃないんだよ」って思ったやつ。
もう一回よく考えてみて
なんでこんな攻撃力高い言葉を自分の都合で勝手にハイコンテクストな定義をつけて、あまつさえそれを他者に向かって投げつけてんの?
そっちの方がよっぽど醜悪だろ。
「性欲を向けない」でも「属性で態度変えない」でも「人格を尊重」でもいいけどその定義はどこでコンセンサス取ったの?
いいか?
「若い女性というだけで性欲の対象として見る」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「性別や年齢や国籍、美醜など、相手の属性で態度を変える」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「相手の人格を尊重しない」 ことは 「相手を人間扱いしてない」 ことではない
「相手を人間扱いしてない」 って言葉の意味は 「相手を人間扱いしてない」 ってことなんだよ
わかった?
大学時代の友人に会った。
大学時代はお互い貧乏で、たまり場と言えばドリンクバー付きのファミレスか、学内食堂だった。
お金がないお金がないと言いながら、ノートを広げてテスト勉強しているのが常だった。
給与はおよそ2倍差があった。ボーナスもなく、残業代で生活費を稼ぐわけにもいかないらしい。
それはそれで彼女は満足そうに暮らしていたから、私は特に何も思っていなかった。
ただ、この前一緒に遊んで、思った。
金銭感覚が違いすぎる。
彼女はランチにドリンクをつけるかつけないかで5分以上悩み結局ドリンクをつけないし、歩き疲れているのにカフェの値段に文句を言う。
都内のカフェなら安いお店の方が少ないというのに、ひたすらにドトール推しをする。
ドトールが悪いと言っているわけではない。ただ、ドトールは日ごろから行けるものだ。
1年ぶりに会う友人と談笑するために行くお店にしては、非日常感がないし、たばこのにおいは感じるし、いささか心がときめく場所ではない。
彼女は都内に出てくるまでの交通費と時間も惜しむのだ。コーヒー一杯、10円単位でも、妥協したくないのだ。
それが1年ぶりに会う友人との時間であったとしても。
ファッションビルで少し値段の張った服を見たいと思った。でも言えなかった。
結局ユニクロに行った。
ただ「ユニクロしか選択肢がない」遊びのなさに、私は失望した。
たまの休み、非日常的な空間でおいしいものを食べて、心がときめくような服や雑貨を見ることはそんなに悪いことだろうか。
そんなに贅沢なのだろうか。
「高くてコンビニなんて絶対行けない」と言い張り、たまの友達との時間ですら、「お金がないお金がない」と言い続けている。
この人とはもう「遊ぶ」ことはできないな、と思った。
住む世界が変わったのだ。
生活に遊びがないと生きていけない、キリギリスのような私と、貧しさを受け入れて地道に生きているアリのような彼女。
この二人で価値観をすり合わせて「遊ぶ」ことは、学生時代はともかく、今ではもうできないのだ。
「また遊ぼう」というLINEに「遊ぼう」と返信して、「じゃあ何で遊ぶの?」と疑問がこみ上げた。
私がカフェを提案しても、ショッピングを提案しても、カラオケや映画やディズニーを提案しても「お金がない」で終わる。
もう一緒に遊ぶことはないだろうと思った。
子どもが欲しいかもしれない状況なんだけど、自分の中でほんとに子どもを生んでも良いものか、みたいな整合性?が取れなくて、
実際に産んだ人はどのように考えて子どもを産もう!育てよう!となったのかが知りたいです。
私は記憶を遡れば保育園の頃すでに見た目のことでからかわれ、学生時代は常に容姿をきっかけにいじりやいじめを受けてきました。たしかに客観的に見てブスと言われるポジションです。
自分の容姿に自信がなく、自分の容姿によって辛い思いばかりしてきたので、この容姿を引き継がせてしまう可能性が高いことが申し訳なさすぎて子どもを産むという選択を取れずにいます。
もちろん絶対に私に似るとは限らないですし、自分の容姿を受け入れて楽しく過ごしてくれるかもしれません。でもそれは「かもしれない」の話です。
そういう微々たる可能性に賭けて私の「子どもが欲しい」欲を満たすのはあまりにも子どもに申し訳がないです。
結婚の次のステップとか、私が充実した人生を歩むために子供の命や人生を利用しているのでは?と思ってしまいます。
夫はどうしても子ども欲しいわけでもないし、何より私の健康やキャリアにも影響することなので私が納得するならどちらでも良いと言ってくれています。
自分が納得していないもの(私の場合は容姿や容姿を嘲笑する社会のあり様)を、自分にとって大切な存在となる子どもに押し付けてしまう、ということが自分の中でどうしても許せず、この気持ちを抱えたまま子どもを産むのは絶対に良くない、仮に産むのであれば客観的に見て整合性のとれる理由が必要だと感じています。
子どもを生んだ人の中にはさすがに私までと言わなくても見た目に自信のない方や、生活する上で苦労する身体的特徴や体質を持っている方もいると思いますが、そうしたものを子どもに受け継がせてしまうかもしれないことをどう自分の中で整理して出産に至ったのかが知りたいです。
ちなみにブスなのになんで結婚できてるんだ?と聞かれるかもしれないので話しておきますと、夫とは趣味を通じて知り合い、趣味を通じて仲良くなり、友人関係が5年以上続いた後、付き合い始め結婚となりました。
夫と仲良くなれたことも付き合えたことも本当に奇跡だと思っています。
分かりやすく私のブス度合いを言うと、振り返って二度見される、通りすがりの人と偶然目が合ったときにギョッとした顔をされる、は日常茶飯事です。